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モーツァルトCDの風景11:ウィーンの生活と死

2012年01月03日 | モーツァルト
1781年 3月、25歳のモーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレドの命でミュンヘンからウィーンへ移るが、 5月9日、司教コロレドと衝突し、解雇され、ザルツブルクを出てそのままウィーンに定住を決意する。翌年には「シュテファン大聖堂」でコンスタンツェ・ヴェーバーと挙式。モーツァルトはウィーン市内の住居を転々とした。ウィーンの生活は1791年(35歳)12月に35歳で亡くなるまでの10年間だった。

<グラーベン通り>
ウィーンに定住していたモーツァルトは1781年8月の末、ウェーバー家の下宿を出てこの街区の新居に移った。
このグラーベンの家では「後宮からの誘拐」のほか、「管楽器のためのセレナードK.375」「2台のピアノのためのソナタK.448」などの名作が書かれた。


当時の絵画:グラーベン通り

<モーツァルト:弦楽五重奏曲No.5 K.593・No.6 K.614 ターリッヒ四重奏団 (CALLIOPE CAL9233)>
「弦楽五重奏曲 No.5」は終楽章の第一主題が、後の人による改ざんと判明され、新全集で訂正されている。第二楽章が特にすばらしい。
「弦楽五重奏曲 No.6」はハイドンの弦楽四重奏曲<鳥>の引用が出て来る。小鳥のさえずりのような、人間臭の少ない音楽。


現在のグラーベン通り

<旧ウィーン大学>


当時の絵画:旧ウィーン大学

<モーツァルト:ピアノ協奏曲No,14・No.23・No.24 ビルソン(P)、ガーディナー指揮/イングリッシュ・バロック・ソロイスツ (ARCHIV 447 295-2)>
「ピアノ協奏曲 第14番」は自作品目録に記録された最初の曲。長調と短調の間をたゆとう第二楽章が特に愛らしい。
「ピアノ協奏曲 第23番」は全体に流麗極まりなく、嬰ヘ短調で書かれた第二楽章の美しさはたとえようがない。
「ピアノ協奏曲 第24番」はこの分野の頂点に立つ名作。当時の聴衆の理解を越える表現の深さがある。この曲は現代のピアノと大編成のオーケストラがふさわしい。


現在はオーストリア科学アカデミー(旧ウィーン大学講堂)


<カール教会>
 モーツァルトも1762年11月4日に訪れている


当時の絵画:カール教会

<モーツァルト:クラリネッド重奏曲K.581・クラリネット、ヴィオラとピアノのための三重奏曲<ケーゲルシュタット・トリオ> ラルキブデッリ (SONY SK 53 366 輸入盤)>
「クラリネット五重奏曲」は私の愛してやまない曲。バセット・クラリネットなど当時の楽器を使ったこの演奏の美しさは、たとえようがない。
「クラリネット、ヴィオラとピアノのための三重奏曲<ケーゲルシュタット・トリオ>」は九柱戯というボーリングをやりながら書いたという曲。クラリネット、ヴィオラ、クラヴィーアの組み合わせによる音色と曲想が味わい深い。


現在のカール教会


<シュテファン大聖堂>
1791年12月5日午前零時55分、コンスタンツェとその妹ゾフィーに見守られ、モーツァルトはその生涯を終えた。モーツァルトの葬儀は12月6日火曜日午後3時に行われたという。モーツァルトの家から聖シュテファン大聖堂へと棺が運ばれ、大聖堂内陣の十字架礼拝堂に安置され、最後の祝福も行われたと伝えている。


ショルティ指揮モーツァルトのレクイエム(ウィーンのシュテファン大聖堂にて)
1991年12月5日。モーツァルト没後200年記念の典礼ミサを伴った演奏会。

<モーツァルト:レクイエム ニ短調K.626 オジェー(S),バルトリ(MS) ショルティ指揮/ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (LONDON POCL-1192)>
「レクイエム ニ短調」はラクリモーザの8小節目で絶筆となった。ジェスマイヤーおよびアイブラーの補作がある。

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