こんなことがあったのね。RT @tosa_suigei: ドイツの脱原発をスエーデンの電力会社がISD条項を行使して国際投資紛争解決センターに訴えた。それを電気事業連合会が伝えているところが面白い。彼らにとってはグッド・ニュースだった。fepc.or.jp/library/kaigai…
私は最近ナショナリストだと言っていいと思っているが、「国家主義者」ではなくて「国民主義者」。「国家」を「国民」が守るのではなく、「国家」が「国民」を守る。その国家は国民がコントロ―ルするのだから、国民が自らを守る。われわれは「国民国家」の中で、守られて生きている。
一挙にグローバルな世界市民とか、世界国家の国民にはなれない。日本というこの「国民国家」のなかで生きている。そこで守られている。これは、大事なこと。自由すぎる経済のなかにさらされることが幸福であるなどということは絶対にないのだろうと思う。
私たちは、(広い意味での)生活に必要なサービスを社会に供給して、生活の糧を得ているが、(食糧など)生存に必要なものは何一つ生産していないことも事実。何一つ自給していない。貨幣経済にどっぷりと浸かっている。お金が回らないことには、生活を持続できない。
だからと言って、貨幣経済とか市場経済を100パーセント支持していいわけではない、のだろう。それを脱皮する契機を持たなければならないのだろう。
経済は成長しなければならないという思い込み。ここしばらくは実際成長していなかった。なんか、株価が上がることと実体経済が良くなるということは別のことなんだろうけど。実体経済というのもどれほど実際なのかという問題がある。
耕作地からの自然の贈与によって、限界はあるが、繰り返し、長期的な収穫がもたらされる。これを潰して、他の短期的に効率の良い工場や、流動性のある宅地に変えられ、消費される。それで、GDPは増加するかもしれないが、自然の贈与は無に帰するわけだ。
投資というのは、本来は、ある事業家が起業するのに、その事業の将来性に賭けるという行為、人材に対して先行投資するという行為のはずだ。抽象的な株券などというものは、それこそ実体のないもの。出資が、顔の見えない証券となるというところに大きなマジックがある。
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