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上杉謙信も庇護した妻女山(斎場山)の祭神、会津比売命について。古代科野国とは(妻女山里山通信)

2012-02-01 | 歴史・地理・雑学
 上杉謙信の布陣した山として妻女山(旧赤坂山、旧妻女山は斎場山のこと)を訪れる人は多いのですが、薬師山トンネルの陰にひっそりと佇む会津比売神社を訪れる人は稀です。里俗伝によると、古来は山上(斎場山西の御陵願平か)にあったが川中島合戦の折に上杉謙信が庇護していたため、武田信玄によって焼かれてしまい、武田滅亡の跡に現在の山陰にひっそりと再建された、ということです。

 この会津比売神社の祭神、会津比売命(會津比賣命)ですが、このところ貞観地震で有名になってしまった『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)の記述に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と出てきます。官位のない会津比売命に従四位下の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。

 その理由なんですが、会津比売は、諏訪大社の祭神、建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)の子、出速雄命(いずはやおのみこと・伊豆早雄)の子といわれているからなのです。しかも、神武天皇の子、神八井耳命(かむやいみみのみこと)の子孫といわれる、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。

■科野国造 武五百建命と妻 会津比売命の家系図(諸説あり)
神武天皇--神八井耳命--武宇都彦命--武速前命--敷桁彦命--武五百建命--健稲背
          大国主命--建御名方富命--出速雄命--会津比売命(出速姫神)


 つまり、出雲系の出速雄命一族は、娘の会津比売命が、天皇系(大和系)の科野国造 武五百建命と結婚したことにより、官位を授与され、諏訪に戻って大祝(おおほうり)家となったわけです。貞観年間に、無位となっていた出速雄命、会津比売命の官位授与を申請したのは、当時の埴科郡の大領であった金刺舎人正長といわれています。金刺氏は諏訪系統の流れで、貞観4年(862)に、埴科郡大領外従7位金刺舎人正長とあります。『日本三代実録』[信濃史料]
 無位にあった自分の先祖の復権をすべく申請したということでしょう。古代科野国は、大和系と出雲系が結ばれてできたともいえるのです。いすれも古代の中国から渡ってきた人々です。縄文人と融合し新たな日本民族が生まれたわけです。現在の日本人には縄文系の血は14%しか流れていないということも最近の研究で分かりました。ダイナミックな流入と文化の混交があったと考えられます。春秋戦国時代に破れて相次いで渡来したという呉と越。秦の始皇帝を騙して渡来したという除福初め3000人の人々は、ユダヤ系ともいわれています。白狐に跨る烏天狗の飯綱権現が正にそれであるという説もあります。飯縄権現は高尾山の祭神でもあります。徐福伝説は全国各地にあります。秦の始皇帝の反撃を恐れて全国に散らばったのかも知れません。

 会津比売神社はいわゆる式外社(しきげしゃ・『延喜式』神名帳に記載の無い神社)ですが、「国史現在社」です。「国史現在社」とは、式外社ですが、『六国史』にその名前が見られる神社のことを、特に国史現在社(国史見在社とも)と呼びます(広義には式内社であるものも含む)。『六国史』とは、『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』。

 『延喜式』神名帳の選定には政治色が強く反映されているそうですが、『延喜式』が平安中期に編纂されるずっと前に無位だったということは、それ以前に国府の埴科からの移動や仏教伝来による神格の低下、諏訪系統の勢力が衰えたなどの理由があったのかもしれません。
 『松代町史』には、出速雄命の女會津比賣命、ふたりは埴科郡の産土神と書かれていますが、女という記述は誤解を招く記述で、御子、あるいは子と書くべきだったでしょう。御女ならば妃ということになりますが、そうではないようです。

 会津比売は、斎場山(旧妻女山)古墳(円墳)や、同じ斎場山脈にある土口将軍塚古墳(前方後円墳)とも深い関係がありそうです。また、会津比売命は、大物主(倭大物主櫛甕魂命)の子供・会地比古命の娘、会知速比売ともいわれています。大物主は、『出雲国造神賀詞』では大物主櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるということですから同一人物。ま、これも諸説あるようです。

 会津比売命こと出速姫命を伊自波夜比命とし、天村雲命の妻とする説もありますが、『日本三代実録』には、「貞観14年 (872年)伊良比(いらひめ)に従五位下を授く 」とあるので、会津比売命と伊自波夜比命は、別人と考えた方がよさそうです。天村雲命は、阿俾良依姫命を妻としたという記述もあるそうです。[旧事紀]

 上杉謙信が、会津比売神社を庇護したのは、土豪の清野氏が産土神として手厚く祀っていたからでしょう。『會津比賣神社御由緒』には、土口将軍塚古墳が会津比売命の墳墓と書かれていますが、森将軍塚古墳が夫の武五百建命の墳墓とすれば、そこに埋葬されたと考えるのが妥当ではないでしょうか。森将軍塚古墳には、本来の大きな石室以外に数多くの埋葬がされています。土口将軍塚古墳は、倉科将軍塚古墳などと同様に、代々の科野国の王の墓と考えた方が合理的であるように思えます。むしろ、斎場山山頂にある斎場山古墳がだれのものか気になるところです。時代的には、5世紀といわれていますが、土口将軍塚古墳(前方後円墳)より高い所にあること、更に高い天城山にも清野古墳や坂山古墳があることなどを考えると、科野国造の最後の墓かもしれません。

 尚、この斎場山古墳の西には大小七つの俗に旗塚といわれる古塚があるのですが、発掘では古墳ではないそうです。私は大化の改新の薄葬令以降の県司、郡司の墳墓ではないかと見ているのですが、どうも考古学者の研究対象にはなっていないようです。7世紀頃なら、埴科郡大領金刺舎人正長一族の墳墓である可能性もあるのではないでしょうか。同じものは斎場山南の天城山北尾根や茶臼山南峯、森将軍塚南の有明山や久保峰にも見られます。

 真ん中の写真の「40年前に泉があった場所」の上部には、積石塚古墳が三基あったと叔父から聞いています。戦前か戦中でしょうか、学校で見学に来たことがあるそうです。現在は壊されて原形をとどめませんが、その石と思われるものが散乱しています。この谷の上にある陣場平には積石塚古墳が一基あり、その西の堂平というところには、積石塚古墳群があります。おそらく大室の古墳群の様に、妻女山山系にも渡来人の古墳群があったと思われるのです。ただ、養蚕のための桑畑の開墾で、ほとんどが消滅してしまいました。5-6世紀のものといわれています。会津比売命の夫である武五百建命の森将軍塚古墳が4世紀中頃から末のものといわれていますから、それより後です。百済から来た渡来人が、故郷を偲んで北向きの谷や尾根の台地に積石塚古墳を作ったのでしょうか。学者の中には、積石塚古墳は高句麗様式であるという人がいます。ツングース系の騎馬民族です。4世紀中頃からこの辺りの古墳からは馬具が出てきます。多くの騎馬民族が渡来したのかもしれません。積石塚古墳は全国的には1%ですが、この信州では25%にもなるそうです。牧のつく地名が多いのも関係があるやもしれません。

 会津比売命と福島県の会津の関係ですが、『日本書紀』では、崇神天皇10年9月9条で、『大彦命を北陸道へ、子の武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海へ、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道へ、丹波道主命(たんばにおみちぬしのみこと)を丹波へ派遣したとしされています。いわゆる四道将軍のひとりです。
『古事記』には、崇神天皇が伯父の大彦命を北陸道(越国・高志国)へ、その子武淳川別命を東海道へ遣わせたとあります。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れ、二人の出会った所を相津(会津)というとあります。 その後、社伝によると、大彦命は五明の布制神社後背(西)の瀬原田の長者窪に居を構えそこで薨去(こうきょ)した(亡くなった)といいます。その功績を讃えて、出速雄命が娘に会津比売と名付けたとは考えられないでしょうか。また、茶臼山の東西南北にある布施神社の祭神は大彦命ですが、布施氏は望月氏の後裔で(滋野系図)、望月氏の祖先は大彦命であるという言い伝えもあるようです。滋野氏、望月氏、海野氏、禰津氏(以上で滋野御三家)、真田氏、布施氏、平林氏、小田切氏などは縁戚関係がある信濃の豪族集団です。

 この貞観地震があった『日本三代実録』の記述を見ると、官位授与の記述に混じって「地震」の文字がたくさんあることに驚かされます。とても平安な時代ではなかったようです。東日本大震災の平成も然り。全く平穏でない両時代共に、平安、平成と平の文字がつくのは、奇妙な偶然です。

 会津へは、後年秀吉の国替えにより上杉景勝の家臣だった川中島の土豪が家族家来を連れて会津に移住しました。その後、江戸時代には伊那の高遠藩の保科正之が徳川家光の腹違いの弟と判明し、会津に転封されています。その際には我が一族の祖先も家来として同行し、後に豪商となった林正光は会津藩を支えたということです。会津は信州人が作った街ともいえるのです。皮肉なことに戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲で破壊したのは、松代藩でした。現在の横浜の元を作ったのも松代藩です。

■歴史は繰り返す:864年:富士山噴火/868年:播磨国地震(阪神)/869年:貞観地震M9・貞観津波(東北)/871年:鳥海山噴火/874年:開聞岳噴火/878年:相模武蔵地震(関東)M 7.4/887年:仁和地震(東海南海地震)M9(M=推定)

斎場山古墳巡りフォトルポ

■貞観地震と仁和地震と会津比売神社
•貞観元年(859年)河内・和泉両国の陶窯用の薪山争い起こる。饒益神宝を鋳造する。
貞観2年(860年)出速雄神に従五位下〔延喜元年(901年)の日本三代実録〕
•貞観3年(861年)4月7日、直方隕石が落下。落下の目撃がある世界最古の隕石。
貞観4年(862)埴科郡大領外従七位金刺舎人正長。廿日戊子 信濃國埴科郡大領-外從七位上-金刺舍人-正長(日本三代実録)
貞観5年(863)信濃国諏訪郡の人右近衛将監正六位上金刺舎人貞長、姓を大朝臣と賜わる。これ神八井耳命の苗裔(びょうえい)也。
•貞観6年(864年)富士山噴火(貞観大噴火)
•貞観8年(866年)閏3月10日、内裏朝堂院の正門・応天門が放火によって炎上、これを巧みに利用して伴氏・源氏の追い落としに成功した藤原良房は、同年8月19日、天皇の外祖父であることを理由に人臣初の摂政に任命された。応天門の変。
貞観8年(866年)に會津比売神に従四位下
•貞観10年(868年)7月8日、播磨国で地震。日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく頽倒の記述。前年から引き続き、毎月のように地震があったことも見受けられる。
•貞観11年(869年)格12巻が完成。貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生。貞観の韓寇。
•貞観12年(870年)貞観永宝が鋳造される。
•貞観13年(871年)式20巻が完成。貞観格式の完成。鳥海山噴火。
★貞観14年(872年)出速雄神に従五位上
•貞観16年(874年)開聞岳噴火。
•元慶2年(878年)相模・武蔵地震(現在の関東地方における地震)伊勢原断層の活動によるM 7.4の大地震
元慶2年(878年)出速雄神に正五位下
•仁和3年(887年)8月22日(8月26日)に仁和地震(南海地震、M 8.0~8.5。東海・東南海との連動説も有り)。
 八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造った。天狗岳と硫黄岳の東側斜面が大きく崩れた跡が今でも見られる。
•仁和4年(888年)決壊し、善光寺平までその被害は及んだ。
•寛弘8年8月3日(1011年9月3日)に再決壊。下流域に再び災厄を撒き散らして完全に消滅した。
 長さ3kmに達した「小海」は、古地図等からその後600年以上、江戸時代初期まで残っていたことが確認できるが、いつどうやって消滅したのか判っていない。江戸後期の戌の満水で消滅した可能性もある。
•延喜元年(901年)の日本三代実録。会津比売神社は式外社となる。

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