モリモリキッズ

信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

冬枯れの陣場平へ。謙信の陣城跡で貴重な貝母の群生地。栽培椎茸で中華の角煮炊き込みご飯。妻女山展望台。金属探知機(妻女山里山通信)

2021-12-11 | アウトドア・ネイチャーフォト
 日曜日は温泉へ行く前に妻女山へ。新しく記事を起こすほどでもないので、前回の記事の上に載せます。

 妻女山展望台から北の飯縄山と戸隠連峰の眺め。積雪が少ないですね。飯縄山のスキー場には雪がまったくありません。菅平のスキー場もやっと一部が滑れる様になったそうです。なぜか年末なのに上雪(かみゆき:千曲川の上流部で降る雪)で湯の丸スキー場は賑わっているそうです。

 西の北アルプス。仁科三山は、爺ヶ岳は見えますが、右の鹿島槍ヶ岳は雪雲の中。さらに右の白馬三山は完全に雪雲の中です。完全に冬山ですが積雪量は少ないと思います。この善光寺平でも、早い年だと11月上旬には雪が舞い、下旬には一面真っ白になるぐらいの積雪があります。あの2014年の大豪雪の冬と似ていて、嫌な予感しかありません。

 今回妻女山に寄ったのは、金属探知機で戊辰戦争当時の鉄砲の弾を探すためでした。これは友人のフランス人が持っているフランス軍も使っている高価で超高性能のものに比べるとおもちゃですが、わりとちゃんと探せるのです。残念ながら今回は、埋まったワイヤーぐらいしか発見できませんでしたが、またやります。右上は、亡き父が掘り起こした銃弾です。松代藩が射撃練習に使ったもので、よく見ると複数の種類の銃が使われているのが分かります。アメリカの南北戦争の銃なども使われたのです。弾は発見できませんでしたが、バカでかい椎茸を見つけました。生乾して冷凍保存します。
********************************************
 晴れたので妻女山へ。今回は山仕事の道具や重い望遠レンズや三脚も持たないので、久しぶりに徒歩で登りました。折り畳みノコギリを持って落枝や邪魔な枝を切りながら登りました。誰にも遭わないだろうなと思ったら、数年前に急逝した友人で山仲間の偲ぶ会に同席した年配の方が車で下りてきました。ログハウスでしみじみしながら休憩した様です。時は容赦なく過ぎて行きます。

 妻女山里山デザイン・プロジェクトで保護活動をしている貝母(編笠百合)の群生地がある陣場平の入り口。陣場平の名称は、川中島の戦いの際に、ここが上杉謙信の陣城だったと伝わっているからです。

 菱形基線測点(りょうけいきせんそくてん)越しに見る陣場平。落葉して広く見えます。わずかに見える緑は、ロゼットで冬越しする植物です。シナノガキは甘い干し柿になっていて、落ちてくるのをタヌキが待っています。冬に来るアトリの群れはまだ観られません。ヒヨドリの甲高い鳴き声やシジュウカラなどの鳴き声が聞こえます。
 今年はメンバーと貝母の球根の移植をたくさんしたので、来春の開花が楽しみです。奈良時代に入ったと伝わる咳止めの薬草(毒草)ですが、里山でこれだけの群生地は、日本でここだけだと思います。貴重です。
◉「時々の 花は咲けども 何すれぞ 母とふ花の 咲き出来ずけむ」丈部(はせつかべ・はせべ)真麻呂(万葉集)
 これが貝母のことであるという説があります。薬用に持ち込まれたのが江戸時代なのでしょうか。丈部真麻呂は、遠江国山名郡(現在の静岡県袋井市)で徴兵され九州に派遣され国境警備にあたった兵士・防人(さきもり)でした。
 意味は、季節ごとに花は咲くのに、どうして母という花は咲かないのだろうか(咲くのだったら摘み取って共に行くのに)。防人というのは、21歳から60歳までの健康な男子が徴兵されました。任期は三年で、延長もされたそうです。食料・武器は自弁で帰郷は一人で帰るため、途中で野垂れ死ぬ者も少なくなかったとか。人民には重い負担になったようです。

『甲陽軍鑑』の編者と言われる小幡景憲彩色の川中島合戦絵図。陣場平に陣小屋が七棟建てられた図が描かれています。かなり大雑把な絵ですが、それでも大体の地名は当てはめることができます。上杉軍は赤で、武田軍は白で描かれています。上杉謙信は、短い布陣でも必ず陣城を構築したといわれています。築城前には、「乱取り」といって麓の寺社や家屋を壊して建築材料や食料を得ていました。合戦後50年位に描かれた絵ですから、正確な描写は無理としても、大雑把な内容はかなり信憑性が高いかも知れません。小幡景憲の祖父虎盛と叔父光盛は、海津城で春日虎綱の副将を務めました。そういう経緯から景憲は『甲陽軍鑑』原本を入手しやすい立場にいたということでもあり、実際に合戦当時の話を聞いていたのではないかと思われます。この絵図は、東北大学狩野文庫に所蔵されているもので、以前に掲載の許可を得ているものです。

 以前仲間が伐採した太い山桜に生える苔と地衣類(ウメノキゴケ)。この中でも生存競争が起きているのです。近くには、木材腐朽菌のキノコも生えています。それが栄養を吸い付くすと、やがてこの朽木は土へと還って行きます。

 長坂峠(東風越)からの斎場山(旧妻女山)も落葉で全貌が見えるようになりました。山頂は川中島の戦いの際に上杉謙信が最初に本陣としたと伝わる場所ですが、古代科野国の古墳(円墳)です。

 その長坂峠から南方の眺め。中央は陣場平手前の檜林。右奥に霞むのは天城山(てしろやま)。そこから左へたどると清野氏の鞍骨城跡がある鞍骨山。少し前に記事にしています。ここから1時間ほどです。

 長坂峠の少し下から北の眺め。左に戸隠富士の異名をもつ高妻山。右に長野市民の山、飯縄山。眼下に善光寺平と千曲川。クリスマス寒波が来ると真っ白になるでしょう。

 緑鮮やかなリョウメンシダ。冬のニホンカモシカの大事な食料のひとつです。他にヤブソテツやミツバアケビなどの緑の葉も食べます。

 もう少し下って樹間から見えるのは陣場平山。市街地は篠ノ井。信州でも旧埴科郡と更級郡でした食べられない古代食、ねずみ大根などの辛味大根の絞り汁に信州味噌を溶いていただく「おしぼりうどん」が名物です。辛いだけでなく「あまもっくら」と言われる甘みが病みつきになる食べ方です。坂城や戸倉上山田温泉や篠ノ井、松代には、その名店があります。うどん通を名乗るならば、香川のうどんより遥かに古い絶対に食べなければいけない郷土料理です。

 妻女山デザイン・プロジェクトで原木栽培している椎茸。12月なのに何本か出ていました。冷凍して保存します。先日、新しいホダ木を伐採して記事にしました。来春に駒打ちします。手前に紫の実が。

 コムラサキ(小紫)の実です。鳥でしょうか、ついばんだ跡が見られます。でも美味しくないと止めたのでしょうか。人が食べても美味しくないです。

 その椎茸と、以前作った干し椎茸で出汁をとって豚の角煮の中華風炊き込みご飯を作りました。中華出汁に五香粉(ウーシャンフェン)と牡蠣ソースが決め手。馬鹿旨です。

 『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせか、メッセージからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 氷雨の日に、黒大豆で作った... | トップ | 古代科野のクニの大王の前方... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

アウトドア・ネイチャーフォト」カテゴリの最新記事