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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

信玄も見たか!茶臼山から白馬三山の絶景(妻女山里山通信)

2009-04-18 | 歴史・地理・雑学
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 江戸後期、文化7年(1810)以降に書かれ、作者は不詳の戦記物語『甲越信戦録』に書かれ、同じく江戸後期の榎田良長彩色による『川中島信玄陣捕之圖』に描かれているように、第四次川中島合戦の際、妻女山(斎場山)に陣取った謙信に対峙して、信玄は茶臼山に陣取ったと語られています。史実かは別として、江戸時代の人はこの物語を信じ楽しんだのです。

 その茶臼山とは、標高730mの現在の茶臼山ではなく、その3~400mほど南にある有旅茶臼山といわれているのですが、その山は現在ありません。なぜなら地滑りによって山頂がなくなってしまったからです。その始まりは、1847年(弘化4年)の善光寺地震によって地下に割れ目が生じたことが原因と考えられており、1884年(明治17年)に南峰頂上に地割れが生じ、その後山体の東側が徐々に沈みはじめ、1965年(昭和40年)から始まった大規模な地滑り対策により治まるまで崩れ続け、信玄が布陣したといわれる南峰は、消滅してしまったのです。つまり、茶臼山は双耳峰だったのです。現在もその痕跡は川中島や妻女山(赤坂山)から見ると分かります。その僅かに残った南峰の小山に信玄由来の旗塚があります。

 近年、地元の有志や市によってハイキングコースが整備され。迷わず歩けるようになりました。地すべりを起こした地層は第三紀の砂岩泥岩層(論地層)で、下位の裾花凝灰岩との間にある亜炭層が滑ったといわれています。第三紀の地層なので、貝などの化石が出ます。小学生の頃に自転車に乗って友達と化石を掘りに来ました。現在、市の恐竜公園になっており、子供達が遊んでいます。

 今回は、中尾山からのハイキングコースを歩いてみました。写真は、一本松峠と茶臼山の間にある展望台からの眺めです。桜咲く山布施の集落の向こうに北アルプスの白馬三山がドーンと見えます。茶臼山山頂自体は森の中で眺望はまったくありません。できれば妻女山(赤坂山)や斎場山(本来の妻女山)が見られると歴史マニアにはたまらない山になるのですが…。やはり、贅沢な希望というものでしょうか。

 もし、信玄の布陣が本当だとすると、信玄もここから北アルプスの絶景を眺めたのでしょうか。当時は北アルプスなんて名称はないわけですから、飛騨山脈といったのでしょうか。いずれにしても、こんな美しい風景の中で血みどろの戦をしたなんて、と思わずにはいられません。

★武田別働隊のルートを訪ねて三滝山(戸神山?)から鏡台山、鏡台山から戸神山脈を妻女山まで辿ったトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】をご覧ください。

★妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」をぜひご覧ください。武田別働隊の経路図、きつつき戦法の検証、上杉謙信斎場山布陣図などもご覧いただけます。

★このトレッキングは、後日フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】に掲載します。
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