北信濃寺社彫刻と宮彫師

―天賦の才でケヤキに命を吹き込んだ名人がいた―

■01A 犀川神社(小西組)の神楽屋台 (長野市安茂里)

2016年08月11日 | 01 山崎儀作

明治28年、山嵜儀作(山﨑儀作)、ヒノキ材

長野県は平地が少ないため、大きなお祭り舞台(山車、舞台、長野では屋台といいます)は限られた地区にしか作られませんでした。代わりに神楽屋台といって約1.2m高の一間社流れ造り形式のものが作られ、後部には太鼓をとりつけて獅子舞(神楽)を神社に奉納しました。神楽屋台は現在はリヤカーに付けられていますが、以前は長押しに載せて人力で担いで移動していました。神楽屋台には寺社彫刻のミニチュア版の彫物が沢山つけられました。明治期に地域の人々のプライドをかけて宮彫師に依頼し、宮彫師は腕を競って立派な神楽屋台を作りました。長野市周辺には彫刻が多く施された神楽屋台が存在しており、まだ全てを把握できておりません。

安茂里の旧久保寺村は四地区(西河原、小路、大門、差出)あり、西河原と小路地区で小西組を作って犀川(さいがわ)神社へ獅子舞を奉納しています(長野市指定無形文化財)。小西組の神楽は明治28年に山嵜儀作が作りました。ミニチュア版ですが妥協はなく、まさに「明治の超絶技巧」といっていいと思います。他の地区の差出組は北村喜代松が明治6年頃に製作し、大門組は作風から喜代松の息子の北村直次郎(後の大理石彫刻の第一人者になる北村四海)のものと推定しています。(いずれ紹介させて頂きます。)

今回は小西組の神楽屋台を紹介します。

 

小西組神楽屋台全景。神楽の上部には「一万度大祓大麻」と書かれています。他の地区の神楽では「一万度」と約されていたりします。長押しに載った神楽屋台をさらにリヤカーに載せていますが、以前は人力でしたので、その名残で長押しに担ぎ棒が挿入されています。神楽屋台本体は約120㎝高さです。ヒノキ製。

 

神楽屋台前部。前の柱2本には龍が巻いています。左が『のぼり龍』、右が『くだり龍』です。階段の下にも『波に玄武』があります。

 

神楽屋台前部の拡大。『素戔嗚尊(すさのおのみこと)の八岐大蛇(やまたのおろち)退治』。木鼻は獅子と獏(ばく)。奥の正面扉の上部は『松に鶴』。

 

前の右柱に巻付いた『くだり龍』。

 

左柱にまきついた『のぼり龍』。

 

神楽屋台の左側面全景。上部の懸魚(げぎょ)には『松に鷹』。妻には『力神(一説には力士)』。その下に『虎を従えた仙人』。さらに下には十二支『申(申)と酉(とり)』『亥(いのしし)と戌(いぬ)』。下部には『七福神(福禄寿、毘沙門天、布袋、寿老人)』。左の福禄寿は明治28年とかかれた反物をかかげています。縁の欄干には『龍』が巻付き、縁下には『獅子の親子』『波に千鳥』『獅子の木鼻』があります。

 

神楽屋台左側面の拡大(七福神部)、人物の眼の表現は儀作の特徴になり、作風の比較に使用しています。

 

神楽屋台の右側面全景。海老虹梁は『龍』。懸魚の『鷹』は対側と陰陽の関係で飛んでいる鷹になっています。

 

右側面の妻部には『力神』。下には『龍を従えた仙人』。

 

上部の欄間には十二支『辰(たつ)、巳(み)』と『寅(とら)、卯(う)』、その下には七福神『弁財天、大黒天、恵比寿』。

 

 

右脇障子『虎』。 神楽屋台の後面は紹介しませんでしたが、同じように彫物があります。

 

神楽屋台下面には明治28年の山嵜儀作の銘が刻まれています。

 

山嵜家の文書で左に「同郡安茂里村小西組「とあり。右に「金85円也」「但し16円也の金メッキ金具附一式、内金10円也 明治28年11月22日~」とあり、神楽屋台の請負証の下書きが残されています。同年に仕事した桜枝町の大きな祭り屋台は426円12銭2厘8分で請負っています。(参考までに、明治30年頃の 米10キロ 1円12銭、ビール大瓶19銭、教員初任給8円)

細かい部分もいれると他にも彫物がまだあるのですが、このブログではここまでにさせて頂きます。技量は当然ですが、宮彫師の製作にかかわる精神力に驚かされます。小西組の神楽屋台はヒノキ製ですが、他にケヤキ製の儀作の神楽屋台(西長野地区)があります。

この屋台は、現役で今も使用されており9月21日の犀川神社の秋季例大祭には神楽屋台が奉納されます。さらにそのお祭りの際には神社境内で1時間ほど地元の方の製作の花火が奉納され、非常に見ごたえのあるお祭りです。

 

 


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