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モモちゃんへ
日々の出来事を亡きモモに教えます。
 



4月5日 震災前の事です。

 

 ブログは、自分の顔が見えない(と、思っている) から平気で古希だ70歳だと書いた。 でも紙に記入するのは(チェックイン)初めてで違和感がありました。 

翌朝、朝食で・・・・ 居合わせた全員 寅さんの言う 【労働者諸君】でした。

10年ぶり 今回の旅の目的地 八代市東陽町 肥後の石工生誕の地です。 石匠館・・・・石橋の博物館です。

 

10年前、還暦の3月でした。 入手困難な石橋本を求めて最後の手段で 電車とタクシーで石匠館行きました。 ねばって・・・上塚館長さんがご自分の予備を譲ってくださった・・

本はすっかり古くなり 今年改訂版(流失や除去など)が出るということで予約してきました。・・・・・・・ 

 

石匠館の周囲には種山石工の石橋がいくつか残っています。 種山は今の東陽町です。

 

まず鍛冶屋下橋です。 私は写真は写すけど写らない主義?なんですが今回は なんだか車を入れたり 影を入れたり・・・ ホント言っていつまでこんなことできるかな~ってしみじみ思ったんです。

 

石工 藤原林七 1804(文化元)年頃  分かりますか? 上の写真の私の影もアーチの半分の中です。 

写真はわかりにくいから 私の宝物 にたくさんUPしています。 ご覧いただけるとうれしいです。 この写真でもアーチ見えてるんですけどね。

 

それから鍛冶屋自然石橋が・・・・・流失していました・ 10年前の写真です。。 橋本勘五郎晩年の名作って書いてあるのに・・・

 

 

肥後の石工の家系図  熊本国府高校 のHP です。。 石橋の案内はniemonさんのHPをみますが まだniemonさんを知らないとき

橋からじゃなく石工から入ったため私はこのHPをみていました。 素晴らしい高校生です。

今回の熊本・大分地震でテレビに出ました。 パイプ椅子で SOS カミ パン 水 と書いたのをヘリコプタ-から撮っていましたね。

 

少し上ると 鍛冶屋中橋が見えます。 上流側です。

 

下流側です。

 

 

この石橋も 石工 藤原林七です。

 

石工の名前については 上にご紹介したリンク先 国府高校HP に 種山石工家系図があります。。

 

 

石匠館から歩ける距離です。 次は 鍛冶屋上橋です。  鹿が来るから この扉を開閉るように書いてありました。 紐を外したら倒れてそれをよけて入りました。

 

鍛冶屋上橋 石工 藤原林七 1804年架設です。 

 

大窪自然石橋にも行きたかったけど 道路からちょっと引っこんでるんです。今回は一人  10年前の写真 その時はタクシードライバーについてきて貰いました。

石工は橋本勘五郎です。。 明治28年の作です。  

 

帰ってきた日に 読みかけの本を読んだら 美里町の大窪橋や 石匠館 が出てきたのには因縁を感じました。 内田康夫著 黄金の石橋 です。

舞台は鹿児島 石工のルーツを調べる件で出てきました。

今回の地震で大きな被害が出た地域です。  心からお見舞い申し上げます。 



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