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今日の道徳はベキベキ折れるネバネバ人間を作るだけ。洗脳から抜け出しましょう!

2013年12月05日 | 心に安らぎを

今日の道徳はベキベキ折れるネバネバ人間を作るだけ。洗脳から抜け出しましょう!

 今に通用する親鸞の“道徳”否定の教え(真宗大谷派が現在の道徳を批判)を10日前に記事にしました。その一部分を再掲します。
(同朋新聞・仏教の「ぶ」から始める入門講座vol.25よりの抜粋)
 私たちは「ああするべきである」「こうすべきでない」「せねばならない」「してはならない」と、決められた方向に近付くよう規制されたり促進されたりします。その設定された正解以外には認められず、そこから外れると、否定され、矯正され…ます。現代でも学校教育の中で「道徳」として国や教育審議会等が、人間とその関係あるべき姿を設定して、それに向けて善悪や正邪を押し付けてくるのは、時代状況の要請に都合の良い人間に育てようと、つまり人間を国家の材料として考えてのことでしょう。 (了)

 このことについては、類似したことを、心学研究家(宗教家ではありません)の小林正観さん(故人)がその著書の中で、学校教育に関していろいろおっしゃっておられますので、それらを紹介しましょう。

(著「こころの遊歩道」より)
 良い子悪い子
 …「良い子」というのは、先生の言うことや親の言うことを、全て聞き入れてきた子供です。ですから、親に「こうしなさい」と言われたことには、素直に従ってきたのですが、親がいなくなってしまったら、はたして自分の考えで生きていけるだろうか、と思ったとき、親は不安になるかもしれません。
 つまり、「悪い子」の方が、親としては本当に安心して死んでいける、ということに気がつきます。もちろん、ここで言う「悪い子」とは、人に迷惑をかけるとか、…強盗を働くというような意味での「悪い子」ではありません。「先生や親の言うことを聞かない子」をそのように定義しているわけで、…「悪い子」…というのは、自分の考え方や自分の価値観で生きてきた子供だからです。…
 …日本は、…非常にレベルの高い生産工場を作るため、高学歴で優秀な人材をたくさん作ることを目指しました。たしかに、その結果としては成功したのですが、個性的で自分の考えを自分の中に確立する子供、というのを作らないようにしてきたように思います。
 そのため、親は、その「没個性的」なものが正しく、「個性的」なものは間違いである、というように信じ込んできたのではないでしょうか。
 人類の文化、文明は、「良い子」が作ってきたのではなく、「悪い子」が常に作ってきたのです。「悪い子」というのは、今の文化、文明の中に「もっと改善の余地があるのではないだろうか、これが究極のもの・完結したものだとは言えない」と思い、いつも分析をし、そして自分なりのよりよい物を考え、提案している、そういう人間だと思います。
 逆に「良い子」というのは、良い学校を出て、一流企業や官庁に入り、「その社会の中」でずっと良い待遇を受けていく、ということになるのでしょう。…
 「教育の本質」というのは、たぶん「平均的」な「一般的」な子を作ることではなく、「自分の価値観で生きていく」子を作ること…ではないでしょうか。 (了)

(著「究極の損得勘定」より)
 夢も希望もない暮らし
 …
夢や希望を持つべきだ、持たねばならないと、私たちは言われ続けてきましたが、こういう人生というのは、常に今の自分を好きになれず、「まだまだもっともっと」と、死ぬまで言い続ける、満たされないものになるのではないでしょうか。
 …学校教育においても、そういう「夢や希望に満ちあふれた」人間をどんどん作っていって疲れさせて、ということになるかもしれません。 (了)

(引き続き、このことに関連して、著「宇宙が味方の見方道」より)
 学校教育で見失ってきたもの
 私たちは、小・中・高校と学校でも家庭でも社会でも「ヨーイドンって鳴ったら、必ず1位、2位へ飛び込め」って、そういう教育しか受けてきてないですよね。わけがわからず、ただゴールに飛び込むことしか考えないでずっと走ってきました。
 人より抜きん出ること、人よりもたくさんの努力をしてその努力の結果が幸せになることの証であると信じ込まされてきました。それしか価値がない、それが当たり前だと思って生きてきたんですよね。…
 …私の人生の前半は「戦いなさい、努力しなさい、人より抜きん出なさい」という…競争社会の価値観に操られてきた人間です。…
(その後、知恵遅れの身体障害者の子を持ち、その子に教えられて見方が変わり)…達成目標も夢や希望も…「持ってはいけない」と言っているんではなく、それに執着してしまうと、とてもつらいものになるということです。
 夢や希望というものは「どうしても叶えたい」というよりも「叶わなくても、それはそれでよし」と思う方が楽に生きられますよ、ということなんです。
 それに、人がどんなときに目標達成を持つかというと「今の自分じゃいけない」「このままじゃダメだ」「さらにもっと」って感じているときではないでしょうか。
 それは、いつも今の自分を否定していることになりませんか。
 人間は、何のために生まれてきたのでしょう。それは、幸せを感じるためなんです。幸せを感じるために、高い達成目標が必要なんでしょうか? (了) 

 ここで、がらりと視点を変えて、戦前の日本の学校教育を外から見たものがありますのでそれを紹介しましょう。
 米国の文化人類学者ルース・ベネディクトが戦前において米国移民日本人との交流の中で調査研究し、1946年に著した「菊と刀ー日本文化の型ー」に次の記述があります。

 …日本人は従来常に何かしら巧妙な方法を工夫して、極力直接的競争を避けるようにしてきた。日本の小学校では競争の機会を、アメリカ人にはとうてい考えられないほど、最小限にとどめている。日本の教師たちは、児童はめいめい自分の成績をよくするように教えねばならない、自分をほかの児童と比較する機会を与えてはならない、という指示を受けている。日本の小学校では、生徒を落第させてもとの学年をもう一度やらせるということはしない。一緒に入学した児童は、小学校教育の全課程を一緒に受け、一緒に卒業してゆく。成績通知表に示されている児童生徒の成績順位は操行(品行、行い)点を基準とするものであって、学業成績によるものでない。…(こうしたこともあって)中学校の入学試験の場合のように、どうしても本当の競争状態が避けられないときには、子供たちの緊張ぶりは無論非常なものである。どの教師も不合格になったことを知って自殺を企てる少年の話を知っている。 (了)

 これは同著第8章「汚名をすすぐ」の中で書かれている内容でして、日本の文化を「恥の文化」、欧米の文化を「罪の文化」と際立たせて比較対照していることによるものではありますが、欧米から見ると、日本においては競争に負けた場合に「恥をかく」ことを避けるために、競争を避ける様々な工夫がなされている、と感じ取られたのでしょう。
 一方、内から見た場合、小生のおふくろがそうですが、国語・算数・理科・社会・体育、どの科目も5段階評価がなされ、けっこう競争させられていたと感じ取っています。
 外から見た場合と内から見た場合とでは感じ方が違うのは当然ですが、義務教育で落第させない点などは現在に通じるもので、なるほどと納得させられます。そして、「比較する機会を与えてはならない」ということに関しては、今の教育より優れたものがあったと言えるでしょうし、今日ほどには競争させられてはいなかったのではないでしょうか。

 再び小林正観さんの著書に戻ります。
(著「ただしい人からたのしい人へーもう一歩奥の人格論ー」より)
 勝つこと、競うこと、比べること、人よりも抜きん出ること、それだけを価値観として教わってきた人間にとっては、競わない、比べない、争わない、そして全ての人に対して優しいだけの存在である障害児というのは大変ショックな(良い意味での)存在なのでした。…
 …「幸せ」というものを追い続けていった結果、私の中でわかったことがあります。それは、全ての人が指をさして「これが幸せだ」と言える事物や現象は…存在しない、ということでした。「幸せ」というのは、その人が「幸せだ」と思ったら、その人にのみ帰属して存在する、というのが私が到達した…結論なのです。…
 では、「幸せ」は「感じるもの」であるならば、なぜ皆がそれを感じることができないのでしょうか。「幸せ」の構造は大変簡単であるにもかかわらず、多くの人が「幸せ」を手に入れているとは思えません。なぜか。
 それは、「競うこと」「比べること」「争うこと」を前提として生きることを教え込まれてしまったからです。人と競うこと、比べること、争うことで人より抜きん出て、初めて「えらい」とか「立派だ」とか「素晴らしい」という評価をされる、という価値観で生きる日々を送ってきました。
 もともと学校教育というものがそうでした。「相対評価」というもので…ランク付けの競い合いの中で人材を育成するという教育方法を日本の教育界はとってきたわけです。…
 その20世紀的な価値観から、そろそろ抜け出してよい時期に来ているのではないでしょうか。…競うことではなく、自分が楽しいと思えるような(この瞬間だけでなく、未来にわたって継続できるような、楽しい)生き方をするということにほかなりません。 (了)

 それは、具体的にどういう生き方か、ということになりますが、冒頭で取り上げました真宗大谷派の仏教の「ぶ」から始める入門講座vol.25では、次のように書かれています。

 自分に与えられた環境条件のもとで自分にできることを惜しまず(周りの人々に)尽くしていく行き方が、そこに開かれてくるのでしょう。 (了)

 これは、親鸞聖人の教えであるとともに、釈迦の教えでもあるようです。(両人とも厳しい修行から逃げ出してしまった堕落した者として、当時は軽蔑されたようです。)
 釈迦の最初の悟りと言われる「縁起」については様々な解釈がなされていますが、再び小林正観さんの著書から、それを紹介しましょう。
(著「宇宙が味方の見方道」より)
 縁起の法則というものは、「人は自分の人生を自分の想いや自分の力でつくれると思っているがゆえに、悩み苦しむ。人生は自分の思いでできあがっているのではなくて、自分の思い以外の神仏や周りの人々のお陰で全部が成り立っている」と釈迦は言った。釈迦はそれに気がついた。…
 
私(小林正観)の人生をつくっているのは私じゃない。自分の人生には1%も関わっていない。0%だ。
 では、私以外の神仏、友人、知人、家族というものが私の人生を成り立たせてくださっているとしたら、私の想いで私の人生をつくっているんじゃないとしたら、私にできることは、私の人生を成り立たせてくださっている神、仏、友人、知人、家族に対して、ただひたすら感謝をするしかない、ということになります。
 で、現実問題として、周囲を取り巻くすべてのものに対して「ありがとう」って言える「私」になったら、…(感謝の言葉を投げかけられた)方たちだって、さらにやる気になって応援してくれますよね。自分一人で頑張ってるときとは全然違うようになります。
 <縁起の法則>が、本当かどうかわからなくても、これには、ものすごいプラス効果があるみたいですね。
 私たちが感謝すればするほど、周りの人たちは、もり立ててくれるから、実際にとても楽に生きられるようになりますし、これまで以上に、支えてくれることは事実のようです。 (了)

 いかがでしょうか。最後は宗教の世界に入って行ってしまったように思われるかもしれませんが、釈迦にしろ親鸞にしろ、「信ずれば救われる」と言っているのではありません。
 2人とも人の生き方を説いている思想家であって、大まかなガイドラインを示すだけであり、「自分自身で自分なりの生き方を考えなさい」と言っています。小生は、そのように理解しているのですが、
小林正観さんにしてもそのように思われます。
 思想家としての釈迦、親鸞、小林正観さんがおっしゃっている、人の生き方に関する大まかなガイドラインというものを、もう少し紹介せねば、皆さんに十分お分かりいただけないでしょうが、それは機会を見て少しずつこのブログで取り上げてみようかと思っています。でも、それがいつになることか、とてもお約束できませんので、ここは、ご自身でお調べになり、勉強なさってはいかがでしょうか。

 表題にしました「今日の道徳はベキベキ折れるネバネバ人間を作るだけ」について、十分には説明できませんでしたが、今日「これが正しい道徳」だとして我々が信じ込まされているもの、強く批判的に申せば“洗脳されているもの”を、今一度問い直してみようではありませんか。


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3 コメント

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確かに良い子ではなかった (風間幻太郎)
2013-12-06 10:45:23
≪「悪い子」というのは、今の文化、文明の中に「もっと改善の余地があるのではないだろうか、これが究極のもの・完結したものだとは言えない」と思い、いつも分析をし、そして自分なりのよりよい物を考え、提案している、そういう人間だと思います。逆に「良い子」というのは、良い学校を出て、一流企業や官庁に入り、「その社会の中」でずっと良い待遇を受けていく、ということになるのでしょう。≫
――こういう見方もあるんですね。「良い子」とは話が合わない自分は、「悪い子」なのだと初めて知りました。たぶん、永築さん(と呼ばせてもらいます)も同じなんでしょうね。
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いつまでも悪い子 (永築當果)
2013-12-06 11:56:24
はい、小生、女房に「変人」と言われて久しい「悪い子」です。
小・中・高校と先生に時々たてついていた「悪い子」だったのですが、その当時、めぐり合った先生の中にけっこう「悪い子」がいて助かりました。
どうやら、それ以来ずっと「悪い子」で通してきたようです。
そんなことどもが頭に浮かびつつ、この記事を書いたところです。
小生の別立てブログもご覧いただき、有り難うございます。
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変人! (風間幻太郎)
2013-12-06 18:21:54
世間常識と違うこと、自分には理解できないこと、高尚なこと、哲学的なこと……などを聞かされると、相手の肩書が立派であれば、さすがは先生だ、さすが偉い人は違う、などと思う人が多いようだ。が、相手が身近な人間、親や子、夫や妻などであれば「変人」だという。負けを認めたくない、それを隠したい、という思いであろう。
私の場合、母親に「お前は変わっている」「お前は変人だ」とずっと言われ続けてきました。だから、高校時代は進学校にもかかわらず、地元の国立大学には絶対に受からないように勉学を拒否し、一浪のあと東京の私大に進みました。
そんなわけで、ふつう自分の母親に似た人と結婚するマザコンが多いなかにあって、まったく正反対の女性と結婚し、幸せに暮らしています(笑)。
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