聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

ローマの信徒への手紙3章 正しい者は一人もいない その2

2011年09月03日 | 新約聖書日記

つづき。


新約聖書注解Ⅱ 日本基督教団出版局 を、まとめて。
『1節で提起されたユダヤ人の優位性に関する問いの答えが、2節と9節では正反対になっている。
神の真実はユダヤ人の優位性を放棄しないが、それはユダヤ人の中に優位性を主張し得る何かがあるからではない。
そんなものは「全く」無いのである。
「罪の下に」全人類が立っている。ユダヤ人とて例外ではない。
このことが旧約聖書からの引用によって確証される。
1・18以下でさまざまに暴かれた諸悪行は、ここで「罪」(ハルマティア)という語で総括的に表現される。
この語は、パウロが神に対する人間の基本的な姿を表現する重要な鍵言葉である。
7・7以下で展開されるように、この「罪」は、この世界を支配する力であり、神はその怒りにおいてこの世界をこの力に引き渡すのである。
「罪」は全人類を例外なしに覆うと共に、個々人はその現実を代表する。
10~18節は旧約聖書のギリシア語訳からの複数の、また解釈や組み合わせによるかなり自由な引用である。
旧約聖書が全体として神の民のこのような罪性を語っているわけではない。
ここでは神の民の背信を暴くことに注意が向けられている。
「彼らの目には神への畏れがない」という締めくくりは、その前に語られている具体的な罪の根にあるものを総括している。
神に対するこの不遜さは13節以降のほとんど呪いにも似た調子からもうかがえるように、ユダヤ人に対する強い断罪である。
しかしこれは、ユダヤ人という一民族に向けられているというよりは、神に近いと自負する人間一般の不遜さをも含むと解すべきである。
神の言葉が委託されているユダヤ人が神の怒りの下に立つとすれば、もはや誰一人神の前に立ちえる者はいないからである。
「律法の下にいる人々」、ユダヤ人が立ち得ないとすれば、「すべての人」の誇りが粉砕され、「全世界が神の裁きに服」さざるを得ない。
神の言葉を委託されている神の民が、神が命じるところを実行するという仕方で神の前に正しい者とされないとすれば、全世界は黙して神の裁きに服さなければならない。
律法の言葉に聞き、律法遵守に向かう者は、その努力と部分的成果を己が功績として誇るゆえに、神の義に達することができないからである。
律法のわざによって自分の義を立てようとすることこそが、神の義を立てることに逆行する。
律法の戒めを満たすことによって人間は救いへと至ることはできない。
パウロは律法の本質をこの不可能性に見る。
このような律法観はユダヤ人には思いも及ばないものである。
しかし彼は、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」と結論するのである。』




お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
罪の下にいるわたしをお赦しください。
ただ神の恵みによるイエスさまの犠牲によってのみ、救われることを感謝します。
心から感謝します。
イエスさまを知らない人たちにも、イエスさまを受け入れない人たちにも、
すべての人にイエスさまの犠牲の恵みが与えられていますことを、
神さまが愛であることを心から信じます。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン