聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

エレミヤ書1章 エレミヤの召命 その3

2009年07月09日 | 旧約聖書日記
つづき


『第二の単元(九~十節)では、象徴的行為を伴う預言者への任命が行われ、その職務の内容が明らかにされる。
神はエレミヤに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだね、諸国民、諸王国の運命について、抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植える権能を与えるという。
その権能の執行は、神の言葉による。
諸国民の運命を究極的に支配しているのは神の言葉である。
預言者は、その神の言葉を授けられて、それを語らねばならない。
エレミヤにとって「主の言葉」は、心の中で火のように燃え上がる力であって、押さえることのできない働きをするものであった。
エレミヤの権威は、このように神の言葉が持つ力による。
エレミヤの時代に、文字通り、諸国民、諸王国が、抜き、壊し、滅ぼし、破壊しという運命に直面したのである。
これらの言葉をエレミヤは、しばしば、預言の中で使っている。
(エレミヤ18・7、9、24・6、31・28、42・10、45・4)

第三の単元(十一~十六節)は、エレミヤが召命のときに見た幻とその意味を記している。
もともとは、十一節から十五節の二行目までであったろう。
十五節の三行目から六行目までは、「北からの災い」をバビロンと解するための付加であり、十六節は申命記学派的な加筆である。
エレミヤが見た第一の幻は、アーモンドである。
ヘブライ語でシャーケードというが、この言葉の発音は「見張っている」というヘブライ語ショーケードと似ている。
神は、「わたしの言葉を成し遂げようと見張っている」と言われる。
世界史の転換は、人間の混乱の結果と見ることもできるが、それを越えて、神はその意志を実行しようとして「見張っている」というのである。
この言葉も、エレミヤの預言の要所に使われている。
(エレミヤ5・6、31・28、44・27)5・6はは比喩的に「豹が町々をねらい」という句に使われている。31・28には二度使われているが、破壊も再建も神の業であるとしている。
次の幻は、煮えたぎる鍋であり、それが北からエレミヤの方に傾いている。
この幻は、「北から災いが襲いかかる」ことを意味している。
「北からの災い」は、当時の世界を深刻な不安に陥れた騎馬民族のスキタイ人を指しているであろう。

エレミヤが託される「神の言葉」は、諸国民、諸王国を抜き、壊し、建て、植える力を持つ。
この力は、本来いわば自動的に人間の介入無しに定められたことを実現しうるものであろう。
しかし、神が言葉を預言者にゆだねた以上、預言者と預言者の言葉を聞く者は、語られた言葉に、主体的に責任を持って対応しなければならない。
そこには、当然大きな抵抗が待ち構えている。
神はエレミヤに命じる。
「あなたは腰に帯を締め
立って、彼らに語れ
わたしが命じることをすべて。
彼らの前におののくな
わたし自身があなたを
彼らの前でおののかせることがないように」(17節)
厳しい命令である。
「腰に帯する」は、通常、武装を意味する。
神の言葉によってのみ立ち上がって、諸国民、諸王国のあらゆる権力に、何一つ武器を持つことなく対峙しなければならない。
この無防備の若者を神は、この国の全土に対して「堅固な町」、「鉄の柱」、「青銅の城壁」として立ち向かわせると、約束する。
結びの言葉(19節)は、勝利と救助の約束である。
第一の単元の結びの言葉が、最後に繰り返されて、全体を締めくくっている。』


お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
『神の言葉は、本来いわば自動的に人間の介入無しに定められたことを実現しうるものであろう。
しかし、神が言葉を預言者にゆだねた以上、預言者と預言者の言葉を聞く者は、語られた言葉に、主体的に責任を持って対応しなければならない。
そこには、当然大きな抵抗が待ち構えている。』
わたしたちは、神の言葉を聞く者として、責任をもって対応することが望まれています。
どうか、聞くだけで終わる者でなく、神の言葉を語り、そして神の言葉を実行できる者でありますように。
神は助け救う力を持っておられます。
わたしたちを助け救ってくださることに望みをおき、神の言葉を行えますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン