聖書通読日記 2

2001年ペンテコステに受洗、プロテスタントのキリスト者

ローマの信徒への手紙 1章 挨拶 その3

2009年06月21日 | 新約聖書日記
その2からの、つづき

『「福音」の原義は「良い知らせ」、「朗報」であるが、当時一般的に「知らせ」というほどの意味で用いられていた。
しかし教会では、キリストによって神が人類に与えられた救いという特別な出来事を指し、さらにパウロはこの語を特別な仕方で絶対的な意味に用いている。
その意味を解説することはそのままパウロ書簡の内容を語ることである。
ただ、彼の福音理解が独特な深さを持っているということは、彼以前の教会の福音理解と無関係であるというわけではない。
パウロはその福音理解を示すために、2~4節に長い挿入句を導入している。
その中心核は初代教会の伝承である。

まず、福音とは、新しいけれども未知のものではない。「神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」なのである。
「聖書」は旧約聖書のこと。旧い契約・約束と解するのはキリスト教の側の解釈。
キリスト教徒はその約束がキリストの出来事において成就したと考え、その出来事を記した書を新約聖書と呼び、区別する必要があるからそう呼んだ。
いずれにせよ、初代教会の人々にとって聖書はただ一つ「旧約」聖書があったのであり、福音はそれを通して知られるのである。
「預言者」は単に未来を言い当てる者ではなく、神の言を預かってそれを語る者で、ここでは旧約の重要な一部をなす預言書を指す。
福音の内容は「御子」という一点に集中している。子なるキリストは福音を語る主体ではなく、その内容なのである。
「神の子」は元来イスラエルそのものを指し、即位する王を指した。しかしここでは「キリスト賛歌」と同様に、神と等しい存在を意味する。
3~4節でパウロは初代教会の礼拝式文の一部を導入している。
「肉と霊」の対比はパウロの思考の枠であるから彼が盛り込んだ可能性を考える者もいる。
「肉による」と「聖なる霊による」は、後の教会の教義で重要な、キリストの「人性」と「神性」を対句的に語っているととるよりは、イエスの歩みを地上と天上の二段階に分けて述べていると考えるべきであろう。
旧約以来メシアはイスラエルの理想の王「ダビデの子孫」として生まれると信じられてきた。
しかしイエスは単なる政治的メシアではなく、復活と高挙によって神の子として即位したと主張される。
パウロはこの神の子イエスを「主イエス・キリスト」と言い換える。
「主」称号は「キュリオス・イエスース」(イエスは主なり)という、ギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒の間で極めて早い時期に形成された信仰告白に由来し、
教会の主を、全宇宙の諸力の主と対立させ、それを越えて統治するものとして告白するものであり、
また異邦人の教会においては密儀宗教の神々の上に立つ支配者としてのキリスト告白として確立したものである。

この主、この福音にパウロは自己紹介をつなげる。福音とそれを伝える者とは不可分だからである。
「御名を広め」は御子を内容とする福音宣教のこと。
「信仰による従順」は、倫理的意味は持たず、福音の出現以来、最後の不信の攻撃に立ち向かうキリスト教徒の基本的態度を示す。
「異邦人」の原義は「もろもろの民」で、神の民イスラエル以外の諸民族の総称。
「恵みを受けて使徒とされ」の原文は「恵みと使徒の務めを授かった」であり、このことはパウロにとって恵みと使徒の職務が一つの事柄として受け取られていることを意味する。
6節からローマの集会の主たる構成員が異邦人キリスト教徒であったことを読み取ることができる。
7節に受信人の記述と挨拶が来る。
「神に愛され」、「召されて聖なる者となった」者たちとは、ともに「神に選ばれた者」の意で、ここではキリスト教の信徒を指す。
「聖なる」は元来道徳的ではなく祭儀的意味を持つが、いずれにせよ、神の前に立つことが許された状態、神にふさわしい事態を意味する。
「父である神」と「主イエス・キリスト」の平行はそのキリスト教化を意味し、パウロが教会においてつねに祝福の言葉として語ったものに由来するのであろう。』



お祈りしますm(_ _)m
恵み深い天の父なる神さま
異邦人の中にありながら、イエス・キリストのものとなるように召された者となったことに、感謝します。
神に愛され聖なる者となることができたことに、感謝します。
主イエス・キリストの御名によってお祈りします。
アーメン