『28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」』
新約聖書略解をまとめて
『四節で天使が降りた時の番兵の様子は、先行の62~66節につながり、さらに11節以下に受け継がれている。
これはマタイの挿入文と見なし得る。
番兵を置く話は、墓が空っぽであったというマタイの主張の根拠となっている。
婦人たちが墓へ行くのは、マルコの記述と違い、はっきりした目的がない。マタイでは、彼女らは天使の出現と空っぽの墓を確認するため墓へ行く。
マタイにとって、イエスの復活を語るには空っぽの墓が重要な論拠となっていることが分かる。
それはユダヤ教徒に対する弁証のために必要な論法であった。
五節~七節の天使の言葉にはいくつか注目すべき点がある。
第一に、イエスの復活を告げる動詞(六節「復活なさった」、七節「復活された」)は受動態であるので、
直訳すると「よみがえらされた」である。
すなわち復活は神の力による出来事であり、こうして神はイエスの最期の問いかけ(27・46)に答えたのであった。
イエスが自分の力で復活したと解するなら、それは27・40の皮肉な嘲りの言葉「自分を救ってみろ」に近い考え方となる。
第二に、イエスがガリラヤへ行くことが予告されるが(七、十節)、これは16節で実現される。
ここでのガリラヤは単にイエスとの再会の地ではなく、本書の構成から見て、
4・15~16「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見」と関連している。
ガリラヤでのイエスの活動はイザヤ8・23の預言の成就であるが、この地は今や復活によって展開される新しい伝道の出発点となった。
それは「異邦人」(4・15)へ向かい「すべての民」(28・19)に伝えられる福音の出発点である。
第三に、「恐れることはない」(五節)は、イエスの同じ言葉(十節)につながり、これによって彼女らは喜び励まされる。
十節でイエスの言う「わたしの兄弟たち」は、七節の天使の言葉と合わせると、
イエスの肉親のことでなく、弟子たちを指す。
復活したイエスは、逃亡した弟子たちを「兄弟」と呼ぶのである。』
お祈りします。
恵み深い天の父なる神さま
神は、イエスさまを、よみがえらされました。
わたしたちの罪のために、十字架で死なれたイエスさまを、
復活させられ、わたしたちに罪の赦しをくださいました。
神の恵みに感謝します。
また、神によって復活させられた主イエス様が、わたしたちの初穂となられました。
わたしたちは、イエスさまによって、希望を頂きました。
神から与えられた愛と恵みによって、生きていくことができることを、感謝します。
また、イエスさまは、逃げてしまった弟子たちを、愛を持って「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。
すべてを赦し、愛をもって受け入れてくださる、主イエスさまを思います。
いつもイエスさまの方へ向かっていけるように、導いてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。
「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。
『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」』
新約聖書略解をまとめて
『四節で天使が降りた時の番兵の様子は、先行の62~66節につながり、さらに11節以下に受け継がれている。
これはマタイの挿入文と見なし得る。
番兵を置く話は、墓が空っぽであったというマタイの主張の根拠となっている。
婦人たちが墓へ行くのは、マルコの記述と違い、はっきりした目的がない。マタイでは、彼女らは天使の出現と空っぽの墓を確認するため墓へ行く。
マタイにとって、イエスの復活を語るには空っぽの墓が重要な論拠となっていることが分かる。
それはユダヤ教徒に対する弁証のために必要な論法であった。
五節~七節の天使の言葉にはいくつか注目すべき点がある。
第一に、イエスの復活を告げる動詞(六節「復活なさった」、七節「復活された」)は受動態であるので、
直訳すると「よみがえらされた」である。
すなわち復活は神の力による出来事であり、こうして神はイエスの最期の問いかけ(27・46)に答えたのであった。
イエスが自分の力で復活したと解するなら、それは27・40の皮肉な嘲りの言葉「自分を救ってみろ」に近い考え方となる。
第二に、イエスがガリラヤへ行くことが予告されるが(七、十節)、これは16節で実現される。
ここでのガリラヤは単にイエスとの再会の地ではなく、本書の構成から見て、
4・15~16「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見」と関連している。
ガリラヤでのイエスの活動はイザヤ8・23の預言の成就であるが、この地は今や復活によって展開される新しい伝道の出発点となった。
それは「異邦人」(4・15)へ向かい「すべての民」(28・19)に伝えられる福音の出発点である。
第三に、「恐れることはない」(五節)は、イエスの同じ言葉(十節)につながり、これによって彼女らは喜び励まされる。
十節でイエスの言う「わたしの兄弟たち」は、七節の天使の言葉と合わせると、
イエスの肉親のことでなく、弟子たちを指す。
復活したイエスは、逃亡した弟子たちを「兄弟」と呼ぶのである。』
お祈りします。
恵み深い天の父なる神さま
神は、イエスさまを、よみがえらされました。
わたしたちの罪のために、十字架で死なれたイエスさまを、
復活させられ、わたしたちに罪の赦しをくださいました。
神の恵みに感謝します。
また、神によって復活させられた主イエス様が、わたしたちの初穂となられました。
わたしたちは、イエスさまによって、希望を頂きました。
神から与えられた愛と恵みによって、生きていくことができることを、感謝します。
また、イエスさまは、逃げてしまった弟子たちを、愛を持って「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。
すべてを赦し、愛をもって受け入れてくださる、主イエスさまを思います。
いつもイエスさまの方へ向かっていけるように、導いてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって、お祈りします。
アーメン