一燈照隅

日本が好きな日本人です

相手の嫌がることはしない、では困る。

2007年11月23日 | 時事問題
東シナ海 ガス田試掘先送り 首相、対中関係を重視
2007.11.23 01:19 sankeiweb

 共同開発の対象海域などをめぐり日中の主張が対立する東シナ海のガス田開発で、試掘の前提となる漁業関係者との漁業補償交渉にただちに入ることにしていた安倍内閣の方針が福田内閣の発足に伴って先送りされていたことが22日、分かった。首相官邸の意向で方針が転換されたという。安倍内閣は今秋までに日中協議に進展がなかった場合、補償交渉に入ることを決めていた。

 関係省庁は補償交渉の準備を進めていたが、方針転換は、対中関係を重視する福田康夫首相の外交方針を改めて浮き彫りにしたといえる。

 ガス田の共同開発をめぐっては、安倍晋三前首相と中国の温家宝首相が4月の会談で、今年秋までに具体的方策を示すことで合意している。しかし、日中中間線付近での共同開発を求める日本側と、「係争海域は中間線と(中国が主張する境界線である)沖縄トラフの間だ」と主張する中国側の隔たりは埋まらず、ガス田開発を話し合う局長級協議も進展していない。

 このため安倍内閣は、今秋までに中国側に歩み寄りがみられない場合には、長崎県や沖縄県の漁業・水産業者など、試掘を開始した場合に影響を受ける関係者との「迷惑料」交渉を開始すると決定。試掘に向けた具体的な手順を踏むことで、日本側の強い意志を示し、対中交渉のテコとする考えだった。

 これに対して、福田内閣が、当面は補償交渉に入るべきではないと判断したのは参院選の自民党大敗で衆参「ねじれ国会」となったことで、新テロ対策特別措置法案の成否に見通しが立たないなど、国内政治に専念せざるを得なくなったことが背景にある。政府内からは「とても外交問題までは対応できず、中国とことを構える余裕はないのだろう」との指摘も出ている。

 また、中国側は局長級協議で日本が試掘した場合は「そうなれば(中国海軍は)軍艦を出す」と複数回発言していることも影を落としているとみられる。

 東シナ海では平成16年5月、中国がガス採掘施設「白樺」の建設を始めたことが発覚し、以後も中国は、中間線付近に計4つの試掘施設を建設している。これに対し、日本側は17年4月、中川昭一経済産業相(当時)が、中間線の東側海域に鉱業権を申請していた帝国石油に試掘権を付与。ところが、後任の二階俊博経産相(現自民党総務会長)が「私は試掘の道をとらない」とストップをかけ、その後動きが止まった経緯がある。


福田首相は就任早々「相手のいやがることはやらない」と発言しました。
外交は常に仲よく行くとは限りません。対立するときも多々あります。
特に隣国であれば尚のことです。
その時に、相手が嫌がるからと言って妥協していては、我が国の国益が損なわれていきます。
竹島が良い例でしょう。日本が手出ししないうちに韓国軍に不法占拠されています。
ここで又福田首相が何もしないで先延ばしにするようなことになれば、東シナ海ガス田や尖閣諸島は支那に乗っ取られるでしょう。
この事は支那だけの問題でなく、日本は強く出れば自国領も譲る国だと世界に舐められる事になります。
オランダや欧州議会で所謂従軍慰安婦が問題になっているのが良い例です。
我が国の首相が“のび太康夫”と言われていること自体舐められています。


新嘗祭(勤労感謝の日)

2007年11月23日 | 今日は何の日
今日は新嘗祭(勤労感謝の日)です。
農耕民族の日本人にとって、新穀を祝う日は重要な日ですね。


「宮中歳時記」入江相政著より。
新嘗祭

新嘗祭前一日鎮魂の儀
鎮魂祭は、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下の御魂を鎮め奉り、ご寿命のご安泰と長久とを祈願する祭儀である。十一月二十二日、賢所構内の綾綺殿において行なわれる。天皇陛下の出御はない。

鎮魂祭の起源については、『古語拾遺』に「凡そ鎮魂之儀者、天鈿女命之遺跡」とあり、天岩戸の故事を起源とする。その後、大宝令に「仲冬下ノ卯大嘗祭寅ノ日鎮魂祭」とあり、それから永久の制度と定められた。この日は、新嘗祭(当時は大嘗、新嘗について区別はなかった)前一日にあたる。このように連綿として行なわれたが、中世戦乱の時代に中絶し、ようやく光格天皇の寛政九年(一七九七)に再興され、新嘗祭の前夜、白川神祇伯家において行なわれた。
明治二年には束京神祇官において、同五年からは宮内省または宮殿等で行なわれてきたが、同二十九年からは新造された綾綺殿において行なうと定められて現在にいたっている。

新嘗祭
新嘗祭は、天皇陛下が神嘉殿において、その年に収穫された新穀のお初穂を天照大神をはじめ八百万の神々にお供えになり、また自らも召しあがる行事で、最も古くまた最も大事にされてきた祭儀である。皇太子殿下も神嘉殿にご出席になりご拝礼になる。この祭儀を新嘗祭神嘉殿の儀と称する。

また伊勢神宮にも勅使を差し遣わされ、内宮、外宮に幣物をお供えになる。これを神宮新嘗祭奉幣の儀と称する。また当日午後二時、宮中三殿に神饒、幣物を奉り、天皇陛下のご代拝がある。これを新嘗祭賢所、皇霊殿、神殿の儀と称する。

新嘗祭神嘉殿の儀は、夜中のご祭典であって、「タの儀」(午後六時から八時まで)と「暁の儀」(午後十一時から午前一時まで)からなり、同様な儀式が二回行なわれる。
陛下は、お告文を奏上される。五穀の豊饒を神々に感謝され、国家の繁栄と国民の福祉をご祈願になるのである。お告文が終わると、神々にお供えしたものとまったく同じ米のご飯、粟のご飯、白酒、黒酒などを陛下自らも神々と向かい合って召しあがる。いわゆる「御直会」である。この問、皇太子殿下は南庇の間の中央の拝座に着いてご拝礼になる。庭上の幄舎におつきになっていた各皇族はじめ参列者は、神嘉殿正面木階下に参進し拝礼する。この間神楽歌は絶え問なく演奏され、庭煉は赤々と焚かれている。

この新嘗の祭儀は後土御門天皇が文正元年(一四六六)にご即位の大嘗会を行なわれてから長い間止されていたが、桜町天皇の元文五年(一七四〇)に新嘗祭の旧儀が再興された。光格天皇の寛政三年(一七九一)には神嘉殿を再建され、古代そのままの新嘗祭の祭儀が行なわれ、それ以来毎年の例とされた。明治元年の新嘗祭には、とくに布告してその趣旨を一般に周知せしめられ、同四年十一月十七日には皇屠吹上御苑内に悠紀、主基のご殿を建て、御代一度の大嘗会を行なわれた。この祭儀は古来、十一月下旬の卯の日に行なわれる例であったが、改暦ののちは明治六年に行なわれた新嘗祭の日、十一月二十三日をもって今後の祭日と定められた。宮中の祭儀のうち、神代から続いているもののなかで新嘗祭は最も古いものであり、古来のしきたりが今によく維持されている。


11月23日は「新嘗祭」