今日は朝からすっきりとした秋晴れ。
私の風邪もずいぶん良くなってきた。
ふと窓の外を眺めると、綺麗だった山の紅葉もそろそろ終わりになっていた。
こんな気持ちの良い日は自然の中へ行きたくなる。
「今日は紅葉を見に行こう」と思った。
朝食後、急いで家事を済ませ出かける準備をしながら「そうだ、お姑さんも誘おう」と思った。
二世帯住宅で一緒に暮らす88歳のお姑さんも「山育ち」というだけあって、山歩きが好きな人だった。
「紅葉を見に行く?」と聞いたら「ホントにいいのかい?仕事は無いのかい?」と遠慮がちにお姑さんが言う。
「いいの、今日は大丈夫ですから」と答えると、お姑さんは嬉しそうに出かける準備を始めた。
そういえば、もうしばらくお姑さんと二人で出かけることをしていなかった。
仕事や父のことなどで忙しかったのもあるが、正直なところ、最近はお姑さんと出かけることが億劫になっていた。
おじいちゃんが生きていた頃、おじいちゃんと口げんかをしてストレスが溜まっている様子のお姑さんを気晴らしの為に、ときどき外に連れ出していた。
二人で買い物や山歩き、そしておいしいお蕎麦屋さんなどにも行った。
そんなお姑さんとの外出は楽しかったが、一方でとても疲れるものでもあった。
何度聞いたか分からないお姑さんの昔話に耳をかたむけることは私のストレスになったが、それ以上にお姑さんと外出する時にはピンと気持ちを張り詰めていなければならないことが何よりも疲れた。
買い物に行くと「欲しい」と思ったものは何でもカゴに入れてしまう。
それも一個だけではなく、同じものを何個も買おうとするので、まずそれを一つだけにするように説得し、さらに家にも同じものが無かったかを思い出して、あると分かれば買うのを止めさせなければならなかった。
お姑さんは年の割りに足が早く、ちょっと目を離すと別の売り場に移動して商品をカゴに入れているので油断ができなかった。
だからお姑さんと二人で買い物に行く時は、自分の買い物はあきらめて、お姑さんの付き添いに徹すると覚悟を決めなければいけない。
そして山へ行けば、老人にしては「危険な行動」をするので、目を光らせていなければならなかった。
高い崖の端に立つ(落ちたら怪我するのは間違いない!)
流れの速い川を覗き込む(足を滑らせそうで怖い)
木に登る(信じられないが、木の実を採るのに木に登った)
大人なのだから好きにさせておけば・・・と言う人もいたが、息子である夫も言っていたが、お姑さんの場合、何をするかわからないので、常に神経を使って見守っていなければいけなかった。
たぶん、こういった行動は認知症の影響もあるのかもしれない。
そんなことで、おじいちゃんが亡くなってから徐々に二人だけで外出をすることが少なくなっていった。
だから今朝は久しぶりに私が誘ったので、お姑さんの「ホントにいいのかい?」発言につながったのだと思う。
以前は山へ入るのに徒歩で行ったのだが、さすがに今はお姑さんも88歳という高齢になり、急斜面を下りたりするのは無理なので、途中まで車で行くことにした。
途中で車を止めて見た紅葉の風景に、お姑さんは「わぁ~綺麗だねぇ」と歓声をあげた。
それから山道に車を止めて、ふたりで散歩をした。
山道をゆっくりと散策して、すれ違った山歩きの方に「こんにちは!」と挨拶をしたり、途中の家で飼われているヤギに「メェ~」と挨拶をしたり、お姑さんはとても楽しんでいるようだった。
気になるものを見つけたのか、草花を摘むお姑さん。
(写真中央付近に屈んだ姿勢の人がお姑さんです~)
もう紅葉は終わりで、葉っぱはずいぶん枯れ落ちていたが、お姑さんが赤く色づいた綺麗なもみじの木を見つけた。
お姑さんは、それを2~3枝を折り「おじいちゃんへのお土産ができた」と喜んだ。
今、お姑さんの採ったもみじの枝がお仏壇に供えられてある。
「今日はありがとうございました」
そう丁寧にお姑さんにお礼を言われたが、今日は私もお姑さんと一緒に心から楽しんだという気持ちがしている。
今までのようなストレスを感じなかったのは、お姑さんの足が弱くなってお姑さんがあまり危険な行動をしなくなったから?
同じ話を繰り返すのは、父も同じであり、老人になると少なからずそうなっていく。
以前は同じ話でも初めて聞いたかのように真剣に聞いていたから、ストレスが溜まったのだと思う。
なので、今はかる~く聞き流すようにしている。
これが自分のストレスをためないコツだとやっと分かった今日この頃・・・
またお姑さんを誘って出かけようと思う。
私の風邪もずいぶん良くなってきた。
ふと窓の外を眺めると、綺麗だった山の紅葉もそろそろ終わりになっていた。
こんな気持ちの良い日は自然の中へ行きたくなる。
「今日は紅葉を見に行こう」と思った。
朝食後、急いで家事を済ませ出かける準備をしながら「そうだ、お姑さんも誘おう」と思った。
二世帯住宅で一緒に暮らす88歳のお姑さんも「山育ち」というだけあって、山歩きが好きな人だった。
「紅葉を見に行く?」と聞いたら「ホントにいいのかい?仕事は無いのかい?」と遠慮がちにお姑さんが言う。
「いいの、今日は大丈夫ですから」と答えると、お姑さんは嬉しそうに出かける準備を始めた。
そういえば、もうしばらくお姑さんと二人で出かけることをしていなかった。
仕事や父のことなどで忙しかったのもあるが、正直なところ、最近はお姑さんと出かけることが億劫になっていた。
おじいちゃんが生きていた頃、おじいちゃんと口げんかをしてストレスが溜まっている様子のお姑さんを気晴らしの為に、ときどき外に連れ出していた。
二人で買い物や山歩き、そしておいしいお蕎麦屋さんなどにも行った。
そんなお姑さんとの外出は楽しかったが、一方でとても疲れるものでもあった。
何度聞いたか分からないお姑さんの昔話に耳をかたむけることは私のストレスになったが、それ以上にお姑さんと外出する時にはピンと気持ちを張り詰めていなければならないことが何よりも疲れた。
買い物に行くと「欲しい」と思ったものは何でもカゴに入れてしまう。
それも一個だけではなく、同じものを何個も買おうとするので、まずそれを一つだけにするように説得し、さらに家にも同じものが無かったかを思い出して、あると分かれば買うのを止めさせなければならなかった。
お姑さんは年の割りに足が早く、ちょっと目を離すと別の売り場に移動して商品をカゴに入れているので油断ができなかった。
だからお姑さんと二人で買い物に行く時は、自分の買い物はあきらめて、お姑さんの付き添いに徹すると覚悟を決めなければいけない。
そして山へ行けば、老人にしては「危険な行動」をするので、目を光らせていなければならなかった。
高い崖の端に立つ(落ちたら怪我するのは間違いない!)
流れの速い川を覗き込む(足を滑らせそうで怖い)
木に登る(信じられないが、木の実を採るのに木に登った)
大人なのだから好きにさせておけば・・・と言う人もいたが、息子である夫も言っていたが、お姑さんの場合、何をするかわからないので、常に神経を使って見守っていなければいけなかった。
たぶん、こういった行動は認知症の影響もあるのかもしれない。
そんなことで、おじいちゃんが亡くなってから徐々に二人だけで外出をすることが少なくなっていった。
だから今朝は久しぶりに私が誘ったので、お姑さんの「ホントにいいのかい?」発言につながったのだと思う。
以前は山へ入るのに徒歩で行ったのだが、さすがに今はお姑さんも88歳という高齢になり、急斜面を下りたりするのは無理なので、途中まで車で行くことにした。
途中で車を止めて見た紅葉の風景に、お姑さんは「わぁ~綺麗だねぇ」と歓声をあげた。
それから山道に車を止めて、ふたりで散歩をした。
山道をゆっくりと散策して、すれ違った山歩きの方に「こんにちは!」と挨拶をしたり、途中の家で飼われているヤギに「メェ~」と挨拶をしたり、お姑さんはとても楽しんでいるようだった。
気になるものを見つけたのか、草花を摘むお姑さん。
(写真中央付近に屈んだ姿勢の人がお姑さんです~)
もう紅葉は終わりで、葉っぱはずいぶん枯れ落ちていたが、お姑さんが赤く色づいた綺麗なもみじの木を見つけた。
お姑さんは、それを2~3枝を折り「おじいちゃんへのお土産ができた」と喜んだ。
今、お姑さんの採ったもみじの枝がお仏壇に供えられてある。
「今日はありがとうございました」
そう丁寧にお姑さんにお礼を言われたが、今日は私もお姑さんと一緒に心から楽しんだという気持ちがしている。
今までのようなストレスを感じなかったのは、お姑さんの足が弱くなってお姑さんがあまり危険な行動をしなくなったから?
同じ話を繰り返すのは、父も同じであり、老人になると少なからずそうなっていく。
以前は同じ話でも初めて聞いたかのように真剣に聞いていたから、ストレスが溜まったのだと思う。
なので、今はかる~く聞き流すようにしている。
これが自分のストレスをためないコツだとやっと分かった今日この頃・・・
またお姑さんを誘って出かけようと思う。