ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

桜の季節

2021-04-27 17:37:46 | 日記

前の記事で積丹の話を書いたら、ちょうど新聞に積丹のことが載っていた。

町の耕作放棄地を使って、新しい取り組みを始めているという話題だった。

昨年5月から洋酒ジンの製造を始めた農業法人積丹スピリット(積丹町)が、低コストで耕作放棄地を農地によみがえらせて、ジンの香り付けに使う植物成分(ボタニカル)を育てる試みを始めたそうだ。

耕作放棄地を、ジンに使うボタニカルの栽培の農地にするなんて、なんと良いアイデアを思いついたのだろうと、ドライブ中に見た放置されて荒れ果てた農地を思い出した。

積丹の気候は、海に囲まれて強風が吹く英国スコットランド最北部の気候とよく似ているそうだ。

スコットランドと言えば、質の良いジンが世界的にも有名で、気候がよく似た積丹でも、スコットランドで育つジュニパーベリーの近種ミヤマビャクシンが自生することから、ジンに欠かせない樹木やハーブの栽培を始めることにしたのだとか。

今、各地で地域性豊かな「クラフトジン」が世界的に人気を集めているそうだ。

そのクラフトジンを積丹町でも造ろうと、積丹独自のボタニカルを育てて地域の特色あるジン造りを始め、お酒を飲まないので知らなかったが、もうすでに積丹で育てられたボタニカルを使ったジン「火の帆」(ほのほ)が発売されている。

今後は積丹発のジンを、ジンの本場の欧州への輸出に乗り出すとのことで、ぜひとも成功して欲しいものだと、あの閑散とした積丹町を思い出しながら祈りたくなってしまった。

ところで祈りと言えば、久しぶりに北海道神宮へ参拝に行ってきた。

鳥居横の桜は満開だったが、全体的には4~5分咲きといった感じ。

でも梅と桜が一緒に咲いているのは見応えがある。

いつも神社での参拝は感謝のみなのだけど、今回は思うところあって北海道のことを祈ってきた。

札幌市内中心部に立つ高層ビルが中国の資本だと聞くと、いち主婦であっても危機感がつのる。

というわけでやっと来た桜の季節!桜を見に出かけよう・・・

 


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積丹

2021-04-22 16:25:37 | 旅行

前回、余市へ行ったことを書いたが、その日はさらに積丹町まで足を伸ばして日帰り温泉に入って来た。

「岬の湯しゃこたん」

ここは露天風呂からのロケーションがとてもいい。

お湯に浸かりながら眼下に広がる雄大な日本海と、積丹岬、神威岬を見ることができる。

ここに来たのは3度目で、まだ一度も見たことは無いが、たぶん夕日が沈む時に入ったら最高の眺めじゃないかと思う。

ところが、残念なことに2022年1月で閉鎖することが決まっている。

2002年の開業当初から経営赤字が続き、施設の老朽化と入館者の減少で収支の改善が見込めず、町による施設の維持が困難となり、2019年(令和元年)3月から民間譲渡を図っていた。
ところが施設の買い手が見つからず、老朽化した施設の改修には約1億円以上の経費が必要となることから、施設の運営を断念し閉鎖する方針を固めた、、、とのこと。

20年近く経っているとは言え、まだまだきれいだし、何より良い温泉施設がまた一つ消えると思うとさみしい。

とは言え、開業当初から赤字だったとは知らなかった。

写真で少し伝わるかもしれないが、行った日も広い駐車場に停まっている車は数台のみだった。

入館者が増えなかったのは、(シロウトの考えですが)人口が多い札幌から離れているのが原因のひとつではないだろうかと思う。

この温泉がロケーションも含めて札幌近郊にあれば、けっこう人は入っていたのではないかと思う。

積丹は札幌から高速道路を使わずに車で行くと、片道2時間半くらいかかる。

往復で5時間もかかるとなると、そうそう頻繁には行けない。ましてや冬に行くのは難しい。

周囲に小さな集落はあるが、そこだけでは黒字になるほどの集客は見込めないだろうし、、、

良い温泉が、無くなるのはとても残念だけど、来年1月の閉館まで時間があるので、また行こうと思っている。

ところで、ここへ来るまでの道すがら、外の景色を見ていたら、ずいぶん空き家が多いことに気づいた。

跡を継ぐ人が居なくて離農したのか、雑草が生い茂って荒れ果てた牛舎や畑が、やはり朽ち果てた家と共に残っていた。

かつては、ここに汗を流して働く人たちがいて、多くの生活があったのだと思ったら、なんだか切なくなった。

そして今、人が居なくなって手入れがされないままの家や畑を、たくましく成長する雑草が飲み込もうとしているのを見ると、また開拓前の原始林だった頃に戻って行くのだなと思った。

果たしてそれが良いことなのか、良くないことなのか、、、

人間側から見れば、人が居なくなることはさびしいことだけど、自然にとっては良いことなのかもしれない。

というわけで、「岬の湯しゃこたん」に入浴できるのもあとわずかです。

ぜひ露天風呂からの絶景を眺めにいらして下さい。

 


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余市へ

2021-04-19 14:28:00 | 旅行

余市町へ行って来た。

お目当てはこれ↓

溢れんばかりに海鮮がのったちらし寿司。「まんぷくちらし」と言い、お値段は税抜き880円。

具材だけではなく、ご飯の量も多めなので、女性はご飯少なめでと頼む人もいる(私も)、ボリューム満点の一品。

隣の汁物は、煮物かと思うような厚切りの大根やニンジン、鮭のあらが入ったあら汁で、お値段は税抜きで100円。

安くて美味しいので、お店はいつも混んでいる。

余市は小樽に隣接する小さな町で、今は観光客もほとんど見かけず、町中を歩く人の姿もまばらなのだが、平日の午前11時過ぎにはすでに満席で、入りきれない人の行列までできているという混みようだった。

一体、どこにこんなに人がいたんだと思う。

ファミリーすしガーデンハウスさんは、まんぷくちらしをはじめとしたランチのお寿司が人気だそうだが、メニューは他にもたくさんあって、小樽特産のシャコや八角なども食べられるようだ。(次回は食べてみよう)

ところで余市といえば、海産物のほかに果物の栽培も有名で、特にりんごは特産品になっている。

しかし余市町がりんごで有名になったのは、「りんご侍」と呼ばれた人たちの働きがあったというのは、あまり知られていないかもしれない。

「りんご侍」とは戊辰戦争で敗れて、逆賊の烙印を押されて北海道に渡ってきた会津藩の藩士と家族らのことを言う。

1869年、明治2年に第一陣として北海道に渡った約200戸の藩士とその家族は、2年後に余市に入植した。

「天皇の御恩に報い規則に従って、仕事に励み、怠ればきつく戒めていただきたい」

当時、開拓使に提出した血判書には、そのような言葉が書かれ、侍としての誇りが読み取れる。

余市でりんごの栽培を始めたのは、200戸のうち、わずか10戸の会津藩士だったが、すぐにりんごが実ることは無く、初めてりんごが実ったのは、入植して8年が過ぎた時だったそうだ。

りんごが実ったのは、畑の片隅に植えた苗のうち2本で、このりんごは「緋の衣」と名前がつけられた。

ちなみに「緋の衣」という名前の由来は、会津藩主、松平容保が孝明天皇からもらった「緋の御衣」にちなんだという説と、会津藩降伏の調印式で、真っ赤な緋色の敷物の上で敵軍にひれ伏した無念を忘れないためという説があるそうだ。

「緋の衣」は当時としては実が甘くて、第二次世界大戦前までは全国に特産品種として知られ、ロシアに輸出するなどしていたそうだが、現在、余市では100年を越える原木が一本残っているだけで、「緋の衣」を入手するのは困難になっている。

ところでりんごの栽培に力を注いだのは会津藩士だけではない。

「緋の衣」が初めて実ることになる年の春(1879年)に、秋田亀田藩の旧藩士らが余市に入植してりんごの栽培を始めている。

秋田の一団は農民が多く、最初から鎌や鍬を持って入植したため、開墾に勢いがあり、農業技術もあったそうだ。

会津からは、りんご栽培の指導者が多く出て、秋田には農業技術あった・・・ということで会津と秋田の関係を分かりやすく言うと、りんごは会津が実らせ、秋田が広めたと言われている。

その後、徳島県など他県からも入植者が入り、りんごの栽培規模はどんどん大きくなっていったのだそうだ。

現在は、りんごの他にもさくらんぼやぶどうなど様々な果物が栽培されていて、道内では「フルーツのまち」として、果物狩りなどで賑わっている。

というわけで、コロナが衰えたらぜひ余市へ、北海道へお越しください。おいしいものがたくさんありますので。ぜひぜひ、、、

 


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読書

2021-04-14 21:44:21 | 日記

枝ばかりで茶色一色だった森に、柔らかな緑色がちらほら見え始めた。

やっと春が来た~!

春になると、どこか遠くへ行きたくなる。

実は昨年コロナで中止したお伊勢参りに、今月こそは出かける計画をしていた。

ところが、今回も中止することに、、、

コロナが再び増加傾向にあるとのことで、夫がやめようかと言い出して迷っていたのだが、いつもは元気な夫が珍しく体調不良になってしまったことで中止は決定的になった。

飛行機に乗れば、あっという間に行けそうだが、なかなか簡単には行けないものだ、、、

旅行が中止になって暇な時間が増えたので、好きな読書をしている。

最近読んで面白かったのが、内館牧子さんの「十二単衣を着た悪魔」

平安時代の源氏物語の世界へタイムスリップしてしまった若者が、戸惑いながらも弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の個人的な陰陽師になって、平安時代の世で暮らし始めるという物語。

難しくてほとんど源氏物語の内容を知らなくても、この小説を読むとなんとなく源氏物語がわかってくるというのがいい。

思わず古典の源氏物語に挑戦してみようかなという気にもなってくる。

ところで源氏物語といえば光源氏だが、この小説では源氏物語の中で数えるほどしか登場しない弘徽殿女御という高貴な女性にスポットライトが当てられている。

なんでも著者の内館牧子さんが、源氏物語の中で一番好きなキャラクターなんだとか。

弘徽殿女御というのは桐壺帝の正妻で、最も格の高い弘徽殿に住み権勢を誇った女性となっている。

しかし、愛する夫の桐壺帝は桐壺更衣ばかりを寵愛し、弘徽殿女御の所にはほとんど来ることは無かった。

そんなわけで女としては寂しい人生だったが、その屈辱感や悔しさをバネに桐壺帝との間にできた我が子を帝にすることに命をかけた。

そして我が子の地位を脅やかすかもしれない桐壺更衣の産んだ子、光源氏を激しく憎んでいた、、、というので、源氏物語では弘徽殿女御は底意地が悪い女性となっているそうだ。

しかし「十二単衣を着た悪魔」の弘徽殿女御は、確かに平安時代では生きにくそうだが、現代に生まれていれば良かったと思うような男前の性格で、男に媚びることなく、したたかに強く逞しく生きていく女性として好意的に描かれている。(内館さんが好きだとおっしゃるだけのことはある)

他にも光源氏と六条御息所や藤壺などの女性たちとの関係や感情が面白かったが、つくづく1000年経っても人間は変わらないものだと思いつつ読んでいた。

そして物語の後半、平安の世で夫婦になった妻と子を亡くした主人公の感情の動きに心を打たれた。大切な人を失った切なさがひしひしと伝わってきて涙が止まらなかった。

というわけで、クスッと笑う場面あり涙する場面ありで、読み終えた今はちょっとした喪失感がある。あーもう読み終わってしまった、、、という感じがしている。

それにしても旅行は行けなかったが、おもしろい本に出会ったので良いとしよう。

さて次は何を読もうかな。。。

 


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2021-04-09 15:04:23 | 日記

手作りした一年物の味噌を食べきってしまったので、昨年の10月に仕込んでいた味噌の樽を開けてしまった。

手作り味噌のサイトを見ると、よく「仕込んでからせめて半年くらいは寝かせましょう。食べごろは10か月後くらい」と書いてあるので、もう少し寝かせておきたかったのだが、味噌を食べきってしまったので仕方がない。

すこし早いが開けて食べてみることにした。

まだ発酵が足りないのか色合いが白味噌っぽかったが、味はちゃんと味噌になっていた。でもまだ風味が物足りない。

味噌を自分で作ると、時間の経過と共に色や味が変わってくるのがわかる。麹を使った味噌は生きているようだ。

最初は白っぽかった色がだんだん茶色くなって、それがどんどん濃くなっていく。

また塩辛いだけだった味が、徐々に甘さが加わってきて、香りも味噌らしい発酵臭がしてくる。

いつも作ってから一年くらいで食べきってしまうので、まだ経験したことは無いが、二年もたつと黒っぽい色になって、乳酸発酵によって酸味のある味噌になるらしい。

個性の強い味噌になるので好みが分かれるそうだが、一度食べてみたいものだと思う。

とはいえ二年も置くほどの量を作っていないので、いつも濃い茶色に変色してきたところで食べきってしまう。

というわけで今年は味噌が間に合わず、半年を待たずに開けてしまったので、また新たに味噌を仕込んだ。

お味噌作りを初めて早6年。年に二回仕込んでいるが、毎回大豆と麹の配分や塩と麹の種類などを変えている。

どれが美味しいか、食べ比べてみるのが楽しいのだが、やはりお味噌の美味しさは麹によるところが大きいのではないかと思う。

そこで最近は、ずっと麹の専門店で買ってきたものを使っていた。

専門店のものはスーパーに置いてある麹より値段が高いが、やはりおいしいと思う。

ただ値段が高いものが美味しいのかというと、そうとも言い切れない。

いろいろな土地でいろいろな麹が作られているが、出かけた先で麹を見つけて試しに購入してみると、安くても美味しい麹がある。

こんな時は、まるで掘り出し物を探し当てたようにうれしくなる。

というわけで、今回もたまたま出かけた所で売っていた麹を買って味噌作りに使ってみた。

レトロな袋に惹かれて、思わず200g入りを7袋買った。

さっそく昨日から大豆を水に浸し、夕食は納豆断ちをして、今日は朝から味噌作りをしていた。

作っている途中で妹から電話があり、一時間ほど世間話をしている間に茹で上がった大豆がすっかり冷めてしまったが、なんとか味噌の仕込みが終った。

さてさて、どんな味の味噌ができるのか楽しみだ。食べごろは来年の1月か2月頃かな~

でも、またその前に食べてしまいそう・・・

 


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一通の手紙

2021-04-05 15:04:14 | 日記

第二次世界大戦の時、硫黄島の戦いで亡くなった市丸中将の軍服のポケットから、一通の手紙が見つかったことをご存知でしょうか。

私は初めて知りました。

この手紙「ルーズベルトニ与フル書」は、いまも米国アナポリスの海軍兵学校の博物館に展示されているそうです。

ルーズベルトに与うる書(口語訳)

日本海軍、市丸海軍少将が、フランクリン・ルーズベルト君に、この手紙を送ります。

私はいま、この硫黄島での戦いを終わらせるにあたり、一言あなたに告げたいのです。

日本がペリー提督の下田入港を機として、世界と広く国交を結ぶようになって約百年、この間、日本国の歩みとは難儀を極め、自ら望んでいるわけでもないのに、日清、日露、第一次世界大戦、満州事変、支那事変を経て、不幸なことに貴国と交戦するに至りました。

これについてあなたがたは、日本人は好戦的であるとか、これは黄色人種の禍いである、あるいは日本の軍閥の専断等としています。

けれどそれは、思いもかけない的外れなものといわざるをえません。

あなたは、真珠湾の不意打ちを対日戦争開戦の唯一つの宣伝材料としていますが、日本が自滅から逃れるため、このような戦争を始めるところまで追い詰められた事情は、あなた自身が最もよく知っているところです。

おそれ多くも日本の天皇は、皇祖皇宗建国の大詔に明らかなように、養正(正義)、重暉(明智)、積慶(仁慈)を三綱とする八紘一宇という言葉で表現される国家統治計画に基づき、地球上のあらゆる人々はその自らの分に従って、それぞれの郷土でむつまじく暮らし、恒久的な世界平和の確立を唯一の念願とされているに他なりません。

このことはかつて、

四方の海 皆はらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐなむ

(四方の海にある国々は皆、兄弟姉妹だと思うのに、なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

という明治天皇の御製(日露戦争中御製)が、あなたの叔父であるセオドア・ルーズベルト閣下の感嘆を招いたことで、あなたもまた良く知っていることです。

わたしたち日本人にはいろいろな階級の人がいます。

けれどわたしたち日本人は、さまざまな職業につきながら、この天業を助けるために生きています。

わたしたち軍人もまた、干戈(かんか)をもって、この天業を広く推し進める助けをさせて頂いています。

わたしたちはいま、豊富な物量をたのみとした貴下の空軍の爆撃や、艦砲射撃のもと、外形的には圧倒されていますが、精神的には充実し、心地はますます明朗で歓喜に溢れています。

なぜならそれは、天業を助ける信念に燃える日本国民の共通の心理だからです。

けれどその心理は、あなたやチャーチル殿には理解できないかもしれません。

わたしたちは、そんなあなた方の心の弱さを悲しく思い、一言したいのです。

あなた方のすることは、白人、とくにアングロサクソンによって世界の利益を独り占めしようとし、有色人種をもって、その野望の前に奴隷としようとするものに他なりません。

そのためにあなた方は、奸策をもって有色人種を騙し、いわゆる「悪意ある善政」によって彼らから考える力を奪い、無力にしようとしてきました。

近世になって、日本があなた方の野望に抵抗して、有色人種、ことに東洋民族をして、あなた方の束縛から解放しようとすると、あなた方は日本の真意を少しも理解しようとはせず、ひたすら日本を有害な存在であるとして、かつては友邦であったはずの日本人を野蛮人として、公然と日本人種の絶滅を口にするようになりました。

それは、あなたがたの神の意向に叶うものなのですか?

大東亜戦争によって、いわゆる大東亜共栄圏が成立すれば、それぞれの民族が善政を謳歌します。

あなた方がこれを破壊さえしなければ、全世界が、恒久的平和を招くことができる。

それは決して遠い未来のことではないのです。

あなた方白人はすでに充分な繁栄を遂げているではありませんか。

数百年来あなた方の搾取から逃れようとしてきた哀れな人類の希望の芽を、どうしてあなたがたは若葉のうちに摘み取ってしまおうとするのでしょうか。

ただ東洋のものを東洋に返すということに過ぎないではありませんか。

あなたはどうして、そうも貪欲で狭量なのでしょうか。

大東亜共栄圏の存在は、いささかもあなた方の存在を否定しません。

むしろ、世界平和の一翼として、世界人類の安寧幸福を保障するものなのです。

日本天皇の神意は、その外にはない。

たったそれだけのことを、あなたに理解する雅量を示してもらいたいと、わたしたちは希望しているにすぎないのです。

ひるがえって欧州の情勢をみても、相互の無理解による人類の闘争が、どれだけ悲惨なものか、痛嘆せざるを得ません。

今ここでヒトラー総統の行動についての是非を云々することは慎しみますが、彼が第二次世界大戦を引き起こした原因は、一次大戦終結に際して、その開戦の責任一切を敗戦国であるドイツ一国に被せ、極端な圧迫をするあなた方の戦後処理に対する反動であることは看過することのできない事実です。

あなたがたが善戦してヒトラーを倒したとしても、その後、どうやってスターリンを首領とするソビエトと協調するおつもりなのですか?

およそ世界が強者の独占するものであるならば、その闘争は永遠に繰り返され、いつまでたっても世界の人類に安寧幸福の日はくることはありません。

あなた方は今、世界制覇の野望を一応は実現しようとしています。

あなた方はきっと、得意になっていることでしょう。

けれど、あなたの先輩であるウィルソン大統領は、そういった得意の絶頂の時に失脚したのです。

願わくば、私の言外の意を汲んでいただき、その轍を踏むことがないようにしていただきたいと願います。  市丸海軍少将

思わず涙してしまうような手紙だった。

戦争をした理由については色々なことが言われているが、少なくともこの方(市丸海軍少将)は、このような想いで指揮をとっていたのかということがわかる。

ところで、この手紙の中に出てくる「八紘一宇」

この言葉については、第二次世界大戦中、日本によるアジアの侵略行為を正当化するスローガンとして使われたことで、現在でもあまり良い意味に取られないことが多い。

かく言う私も以前はそうだった。どうしても軍国主義を連想してしまって良い感じがしなかった。

しかし、よく調べてみると、もともとの意味はそうではなかったということがわかった。

「八紘一宇」とは、日本書紀において、初代神武天皇が即位の祈りに「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや」とおっしゃったことに由来する言葉である。

キリスト紀元前660年前の二月十一日に、神武天皇が我が国の建国宣言の理念を、「人類が一家族のように睦み合っていける世界を創造しよう」という意味をもつ、この「八紘一宇」に込められたということだそうだ。

また一宇、つまり一家の秩序は一番強い家族が弱い家族から搾取するのではなく、一番強いものが弱いもののために働くという意味であると知った時には、八紘一宇のイメージががらりと変わった。

実際に我が国の家長である天皇は、国民から搾取する王ではなく、国民の為に日々祈って下さっていると聞く。まさに八紘一宇・・・

ところで第二次世界大戦後、日本は経済的には繁栄したが、脈々と受け継がれてきた大切な精神性を失ってしまった。

しかし日本人の資質は変わっていない。

私も日本に生まれることができた者として、八紘一宇で生きることができれば・・・と思う。

 


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五月人形

2021-04-03 15:45:28 | 日記

そういえば五月人形、もう何年も出していなかったなぁ・・・

ふと押し入れの中に何年も仕舞いっぱなしにしていた五月人形を思い出して、端午の節句にはちょっと早いが久しぶりに出してみることにした。

これは今から29年前、長男の初節句に私の父が買ってくれたものだが、当時の私は、端午の節句には兜(かぶと)の飾りがほしいと思っていた。

だから、突然父から「買ったから届けに行くぞ」と電話があり、持ってきた人形を見てがっかりした。

一応「ありがとう」とお礼は言ったものの、せめて事前にどういうものがいいかと聞いてくれるとか、一緒に買いに行こうとか言ってくれたらよかったのにと、ちょっとうらめしい気持ちになった。

でも思い立ったが吉日で、すぐに行動する父らしい。

きっと初孫の初節句だと思い出して、その場ですぐに買いに行ったのだろう。

しかし、もらったものの息子が小さい頃まで何回か飾ったが、それからは出すのが億劫だと自分に言い訳をして飾らなくなってしまった。

五月人形は、箱からガラスケースごと出すだけ。本当はぜんぜん大変じゃなかったのに、出さなかったのは、やはり自分の好きな飾りでは無かったからかもしれない。

父にもお人形にも悪いことをしたなぁと思う。

何年も仕舞いっぱなしにしていた五月人形は、ガラスの部分が汚れて曇りガラスのようになっていた。

幸い中の人形はきれいだったが、人形の周囲には埃が落ちていて、いかに仕舞いこんでいた年数が長かったかを物語っている。

そこでガラスを拭いて埃を取り、ガラスケースの扉を開けて中に風を通した。

時間が過ぎて、そろそろ扉を閉めようと思って人形を見たら、あらら、なんとお人形が笑っていた!?

いや、実際はそんなわけはないのだけど、私にはまるでお人形が嬉しそうに笑っているかのように見えた。

暗い押し入れの中で何年も放って置かれたが、今やっと日の当たる場所に出してもらえて喜んでいるのだろうか。

お人形の持ち主である長男は、もうすっかり大きくなって家を出てしまったが、ここまで元気で無事に長男が育ったお礼と共に、これからは毎年出すからねと心の中で五月人形に伝えた。

こうしてみると、五月人形もなかなかいいじゃないの~なんて思うのは、私も年をとったからなのかもしれない。

今、あの時に買ってくれた父と同じ年齢になってしまった・・・

 


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