ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

父のその後

2015-10-29 16:46:33 | 介護
弟が父に会いに来て、父がとても元気になったと書いたが、それから父はますます元気になっている。

今週も父に会いに高齢者住宅へ行ってきた。

父は私が会いに行くすこし前に入浴させてもらって、行った時にはベッドに横になっていた。

「ベッドに横たわっている」というのは相変わらずで、午前は車椅子でデイサービスの方々と一緒に過ごしているが、午後は起きていられず、ほとんどを横になって過ごしている。

父の寝ているベッドのそばに行くと、父はぱっちりと目を開け「おっ来たのか?」と言って片手を上げた。

入浴したばかりのせいか、父の顔はほんのりと赤みが差し、とても顔色が良く見えた。

持っていった桃のゼリーを見せると「食べる」と言うので、ベッドから起き上がらせようとしたら「いいんだ、このままで」と起き上がることを頑固に拒んだ。

「起き上がらないと食べられないでしょ」と言っても「いや、いいんだ」と言うので、仕方なく電動ベッドの背をすこし上げて、私がゼリーをスプーンですくって食べさせてあげた。

相変わらず父の食欲は旺盛で、ゼリーをあっという間にたいらげ、それから甘酒とグレープフルーツのジュースを飲んだ。

さらに飲み食いをしつつ、父は話もたくさんしてくれた。

「最近、自分ですこし歩いているんだ。でも歩こうとすると、職員が車椅子を持って飛んでくる。転んで怪我でもしたらどうするんですかって言ってね」

そう言って父はなんだか不満そうだった。

それを聞いた私は「それはそうだわ、お父さん。ずっと寝てばかりで、足がすっかり弱っているのだから、一人で歩くのはまだ無理じゃない?」と言うと、父は「そうだな」と納得してくれた。

しかし、そんな会話をしていながら、父は突然ベッドから起き上がり「ちょっとトイレに行って来る」と言って立ち上がろうとした。

「ちょ、ちょっと待って。今、車椅子持って来るから」

慌てて車椅子を持ってきて父を座らせ、トイレに連れて行こうとしていたら、職員さんが来て父をトイレに連れて行ってくださった。

トイレから戻ってきた父は、もう弱々しく無言でベッドに横たわっていた父ではなかった。
まるで1年くらい前の元気な父になっていた。

先週、弟が来てくれた事はもちろん覚えているし、日常生活のことも自ら話をしてくれた。

「ここは年寄りばかりで、嫌になるよ」
な~んて、自分も立派な年寄りなのに、そんなことを言う。

思えば、今年の春に「もうだめだ・・・」と言ったのを最後に、どんどん弱っていった父だったはず。

そして主治医の先生にも「あっという間に症状が進みましたね」と言われるほど、誰が見ても、もう父に残された時間はそれほど多くはないかもしれないと思うほどだった。

なのに、この元気さは何!?

思わず、父に言ってしまった。

「この間までのお父さんは、ハアハアとつらそうな息をしてぐったりとしていたよね。
あれを見た時には、お父さんはもうコレまでかと思って覚悟したよ」

すると父はにやりと笑って言った。
「大丈夫だ、まだまだ死なない」。。。

元気な頃の父は、やや毒舌なところがあったが、ここ数ヶ月間の父は毒舌どころか話をすることもままならない状態だった。

ところが、今日の父は毒舌も復活して絶好調だった。

レビー小体型認知症は日によって調子の良い時と悪い時の波があるそうだが、それにしてもずいぶん元気になったと思う。

これもデイサービスを毎日利用し、周囲にいつも人が居て、父に声かけをして刺激を与えてくれるお陰かと思う。

また弟(息子)が会いに来てくれたのも、良かったのだと思う。

それにしても、これだけでここまで良くなるとは信じ難い。

・・・ということで、父の飲んでいる薬を調べてみたら、ちょうど9月になるすこし前から、新たな薬が加わっていた。

今まで飲んでいたアリセプトという認知症の薬は変わりなかったが、それ以外にパーキンソン病で使われる薬を飲み始めていた。

それは筋肉のこわばりを改善する薬で、レビー小体型はパーキンソン病と同じように身体の動きが悪くなってくるために、その薬が出されたのだと思う。

もしかして、これが効いてるのだろうか。

身体の動きが悪くなると、声帯も動きが悪くなって声が出しにくくなるのかもしれないが、薬でそれが改善されたのかもしれない。

だからたくさん話すし、気持ちも前向きになってきたのかな?

認知症外来の診察が今のところ無いため、それが確かかどうかは分からないが、それにしても父が元気になってきたことは嬉しいことだ。

医学の進歩はめざましい。

認知症を治せる時代も、将来きっと来るような気がする。

私が老人になる頃には、認知症というものが過去の病いになっていてくれたらいいな~なんて夢みている。





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もみじ狩り

2015-10-23 15:55:40 | 日記
今日は朝からすっきりとした秋晴れ。

私の風邪もずいぶん良くなってきた。

ふと窓の外を眺めると、綺麗だった山の紅葉もそろそろ終わりになっていた。

こんな気持ちの良い日は自然の中へ行きたくなる。

「今日は紅葉を見に行こう」と思った。

朝食後、急いで家事を済ませ出かける準備をしながら「そうだ、お姑さんも誘おう」と思った。

二世帯住宅で一緒に暮らす88歳のお姑さんも「山育ち」というだけあって、山歩きが好きな人だった。

「紅葉を見に行く?」と聞いたら「ホントにいいのかい?仕事は無いのかい?」と遠慮がちにお姑さんが言う。

「いいの、今日は大丈夫ですから」と答えると、お姑さんは嬉しそうに出かける準備を始めた。

そういえば、もうしばらくお姑さんと二人で出かけることをしていなかった。

仕事や父のことなどで忙しかったのもあるが、正直なところ、最近はお姑さんと出かけることが億劫になっていた。

おじいちゃんが生きていた頃、おじいちゃんと口げんかをしてストレスが溜まっている様子のお姑さんを気晴らしの為に、ときどき外に連れ出していた。

二人で買い物や山歩き、そしておいしいお蕎麦屋さんなどにも行った。

そんなお姑さんとの外出は楽しかったが、一方でとても疲れるものでもあった。

何度聞いたか分からないお姑さんの昔話に耳をかたむけることは私のストレスになったが、それ以上にお姑さんと外出する時にはピンと気持ちを張り詰めていなければならないことが何よりも疲れた。

買い物に行くと「欲しい」と思ったものは何でもカゴに入れてしまう。

それも一個だけではなく、同じものを何個も買おうとするので、まずそれを一つだけにするように説得し、さらに家にも同じものが無かったかを思い出して、あると分かれば買うのを止めさせなければならなかった。

お姑さんは年の割りに足が早く、ちょっと目を離すと別の売り場に移動して商品をカゴに入れているので油断ができなかった。

だからお姑さんと二人で買い物に行く時は、自分の買い物はあきらめて、お姑さんの付き添いに徹すると覚悟を決めなければいけない。

そして山へ行けば、老人にしては「危険な行動」をするので、目を光らせていなければならなかった。

高い崖の端に立つ(落ちたら怪我するのは間違いない!)

流れの速い川を覗き込む(足を滑らせそうで怖い)

木に登る(信じられないが、木の実を採るのに木に登った)

大人なのだから好きにさせておけば・・・と言う人もいたが、息子である夫も言っていたが、お姑さんの場合、何をするかわからないので、常に神経を使って見守っていなければいけなかった。

たぶん、こういった行動は認知症の影響もあるのかもしれない。

そんなことで、おじいちゃんが亡くなってから徐々に二人だけで外出をすることが少なくなっていった。

だから今朝は久しぶりに私が誘ったので、お姑さんの「ホントにいいのかい?」発言につながったのだと思う。

以前は山へ入るのに徒歩で行ったのだが、さすがに今はお姑さんも88歳という高齢になり、急斜面を下りたりするのは無理なので、途中まで車で行くことにした。



途中で車を止めて見た紅葉の風景に、お姑さんは「わぁ~綺麗だねぇ」と歓声をあげた。

それから山道に車を止めて、ふたりで散歩をした。

山道をゆっくりと散策して、すれ違った山歩きの方に「こんにちは!」と挨拶をしたり、途中の家で飼われているヤギに「メェ~」と挨拶をしたり、お姑さんはとても楽しんでいるようだった。



気になるものを見つけたのか、草花を摘むお姑さん。
(写真中央付近に屈んだ姿勢の人がお姑さんです~)

もう紅葉は終わりで、葉っぱはずいぶん枯れ落ちていたが、お姑さんが赤く色づいた綺麗なもみじの木を見つけた。

お姑さんは、それを2~3枝を折り「おじいちゃんへのお土産ができた」と喜んだ。

今、お姑さんの採ったもみじの枝がお仏壇に供えられてある。

「今日はありがとうございました」

そう丁寧にお姑さんにお礼を言われたが、今日は私もお姑さんと一緒に心から楽しんだという気持ちがしている。

今までのようなストレスを感じなかったのは、お姑さんの足が弱くなってお姑さんがあまり危険な行動をしなくなったから?

同じ話を繰り返すのは、父も同じであり、老人になると少なからずそうなっていく。

以前は同じ話でも初めて聞いたかのように真剣に聞いていたから、ストレスが溜まったのだと思う。

なので、今はかる~く聞き流すようにしている。

これが自分のストレスをためないコツだとやっと分かった今日この頃・・・

またお姑さんを誘って出かけようと思う。









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味噌作り

2015-10-21 20:49:54 | グルメ
何年も風邪をひいたことが無かったのに、ついに風邪をひいてしまった。

たぶん家族の風邪がうつったのだと思う。

頭が重たく、のどがイガイガしていた状態がしばらく続き、症状はそれ以上進行しなかった。

もしかしてこのまま治っちゃうかも・・・と淡い期待を抱いたが、そうはいかなかった。

しだいに咳が出るようになり、今は咳込みマックス状態。

咳が出過ぎて寝不足気味なのと、胸とお腹(咳で腹筋使いすぎて?)が痛い。

ヘルパーの仕事があったのだが、利用者さんに風邪をうつしては大変なので休ませてもらうことにした。

ところで小樽まで生麹と大豆を買いに行って、張り切っていた「味噌作り」だが、ついに味噌を仕込みました。

本当は風邪ではない絶好調の時に作りたかったのだが、まさかここまで風邪がひどくなるとは思いもよらなかったので大豆を水に浸してしまったのだ。

大豆ちゃんはボウルの中で水を吸って溢れんばかりになっている・・・

これ以上、水に漬けておくのはまずいのではないか、もう作るしかないっしょ!

ところで味噌作りについて色々と調べると、味噌作りをする前日は納豆を食べてはいけないと書いてあった。

余計な菌が紛れ込んでしまうのを防ぐ為だろうか。

そんなデリケートなものを作るのに、私の風邪菌が入ってしまったらどーするの!?

というわけで顔にはマスク、手をしっかり洗いアルコール消毒をした。

さらにビニール手袋も装着して、味噌作りに取り掛かった。

麹と豆を売っている小樽のお店の親切な女将さんに、味噌作りのレシピをもらい、そして作り方を教えて頂いてきた。

「きっとおいしい味噌ができますよ。大丈夫ですって、きっとおいしく作れます。
作ったら、わたし味見したいわ~」

笑顔の素敵な明るい女将さんにそう言われた。

その気になった私は「じゃあ、できたら持ってきます。味見してくださいね」と答えたので、これはなんとしても成功して、おいしい味噌を作らなければならない・・・

一応、分量はメモしてあるのだが、作業の手順がいまひとつ覚えていなかったので、インターネットを見ながらの作業になった。



これが買ってきた生麹と大豆。

ネット情報によると、手作り味噌のおいしさは大豆や塩も大切だが、麹の旨さにかかっているという・・・

女将さんのお話では、この麹で作ると本当においしい味噌ができるのだとか。
(北海道せたな町の村岡商店が販売しているものでした)

他のお客さんもそう言っているそうで、この生麹を使えばどんな初心者でもおいしい味噌が作れたりするのかもしれない。
そうならいいなぁ。

さて細かい手順は、ネットなどに書いてあるとおりなのだが、まず大豆を柔らかく茹でる。

私は一キロの大豆を使ったが、かなり量が増えるので家の中で一番大きな鍋を使った。

この時の注意は焦がさないこと。

大豆が柔らかくなるまで4時間くらい煮続けているので、途中で水を足さないと水が無くなって焦がしてしまう恐れあり。(焦がしました・・・泣)

茹で上がった大豆をかるく冷ましてから、大きくて丈夫なビニール袋に入れて足で踏む。

ある大豆が程度つぶれたら、そこに塩きりした麹(塩と麹をよく混ぜたもの)を加えて、袋を揺すったり踏んだりしながら、よく混ぜ合わせる。

ここで硬さを調節するために大豆のゆで汁をほんの少々加える。

あまり水分が多いとカビの原因になるそうで、私は80mlくらいしか入れなかった。

水を加えるのはボール状の塊にするためです。



力を込めて握ったので、かなり固い大豆ボールができました。

このボールを焼酎で消毒したポリ容器の中をめがけて、おもいきり投げ入れる。

実は味噌作りで一番やってみたかったのが、この作業なのよ。

女将さんも「おもいっきり投げつけてください!こんな感じで・・・」といいつつ、鬼のような形相でボールを投げるポーズをして下さった。

力いっぱい投げつけると、コントロールが狂って容器を外れて場外へのファウルになるとまずいので、そこは慎重にストライクを目指す。

そして、空気が入らないようにしっかりと手でならす。



取り分けておいた塩でカビ防止をし、焼酎を振りかけてラップをして重石をした。

あとは、このまま比較的寒い場所でお眠り頂く・・・

途中で天地返しという「混ぜる」作業をするらしいが、空気に触れるとかえってカビが生えやすくなるという意見もあり、天地返しをすべきか、しないべきかで思案中。

とりあえず風邪のせいなのか、頭がぼ~っとするので、それはまた様子を見ながら考えるとしよう・・・

では、寝ます。

そうそう、自分の覚書のために分量を書いておく。

大豆1キロ・生麹1キロ・塩480グラム

これはまた自分なりに変えていこうと思っている。

どんな味噌ができるでしょうか・・・楽しみです。











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父、元気になる!

2015-10-19 15:37:28 | 介護
関東に住む弟が父に会うために帰ってきた。

弟は駅からまっすぐに父の所に来るということだったので、私と妹の家族は高齢者住宅で弟と落ち合うことにしていた。

弟には今年に入ってから急激に弱ってきた父の様子を知らせてあった。

「前回会った時よりもかなり弱ったよ。もうあまり食べなくなったし、話せなくなったし、すこし起きていても、すぐに苦しそうな息遣いになって横になるしね・・・」

そう弟には話していた。

さて施設に弟が到着したので、みんなで父のいつも居る部屋に行った。

ちょうど今まで横になっていた父をヘルパーさんが車椅子に座らせてトイレに連れて行ってくれるところだった。

「おとうさん」と皆で声をかけたが、父はうつむいたままでほとんど反応を示さない。

「おとうさん、○○(弟の名)が来てくれたよ」

そう声をかけても反応がない。

寝起きもあって話を理解できていないのだろうか。

しかしちょうど父の前に大きな鏡があり、父がふと顔を上げた時、後ろにいた私たちや弟の姿が映った。

すると、なんと父の目が一瞬大きく見開き、口元に笑みがこぼれ、そして「おぉ」と片手を上げたではないの。

弟が来ていることを父が認識した瞬間だった。

父はレビー小体型認知症だが家族の顔は忘れないようだ。

「来たのか?来たのか?」と何度も嬉しそうに父が弟に言った。

それからの父は嘘のように元気になった。

目に力が入り、前かがみだった背中もまっすぐ伸びた。

父を囲んで皆で座ると、最初はなかなか言葉が出てこなかった父だったが時間が経つにつれて、色々なことを自ら話すようになった。

ずっと昔のことから昨年くらいのことまでを記憶していて会話をしている。

まだこんなに話すことができたなんて信じられなかった。

とはいえ、同じ話を繰り返したり、間違った記憶を話したりするのだが、それでも今まで弱々しくベッドに横たわっていた、いつもの父ではなかった。

しかも驚いたことに、食欲が旺盛なのだ。

それは職員さんからも「最近、よく食べられますよ」と聞いていたのだが、父の食べる量がすごい。

大きな柿を二つ、甘酒の缶を二本、ソーダーの缶を一本、大きなおせんべいを二枚。

これらをぱくぱくとすごい速さで食べる。

まだまだ食べられそうな勢いだったが、途中でもう止めさせないとダメかも・・・と思うほど父は食べ、そして最後にそれらを吐いてしまった・・・

最初は妹と「お父さん、食欲が出てきて良かったね」と話していたのだが、途中から「これは認知症の症状かもしれない」と思った。

「最近、食事がおいしいんだ」

そう父は話していたが、おいしいだけであれほどの量を、すごい速さで食べるというのは、元気な頃の父ではあり得なかったと思う。

しかし、それ以外は久しぶりに弟に会えた父は終始きげんがよかった。

食べ物を吐いてしまったが、一時間あまりの長い時間を父は一度も疲れた様子を見せることなくおしゃべりをして過ごした。

それにしても久しぶりに会った息子の力は凄い。

娘二人(私と妹)では、こんな風に父を元気にすることはできない。

私たちはいつも顔を見に行っているので、もう私と妹では父に甘えや慣れが出てしまって、しゃっきりとなれないのかもしれないが。

「またお父さんに顔を見せて、刺激を与えてやってね」と弟にお願いしたら「わかった、もっと頻繁に来るようにするよ」と弟も言ってくれた。

夕食は弟を囲んで、みんなで楽しく食事をした。

こうしてきょうだいが集まって食事ができるというのは、やはり父のお陰だと思う。

もしも父がいなくなってしまったら、弟もなかなか帰って来れないだろうし、きょうだいと言っても疎遠になっていくのかもしれない。

父にはまだまだ頑張ってもらいたい!と思う。










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金魚

2015-10-17 11:41:22 | 日記
明け方に目を覚ました。

まだ日が昇っておらず部屋の中は薄暗い。

もう一度寝ようと目をつぶった時だった。

突然、耳の中でブーンという音が聴こえてきた。

あぁ、この音は前にも何度か聴いたことがあった。

10代の多感な時期から20代の頃、金縛りに遭った時に何度か聴いたことがある。

当時は、このブーンと言う音が聴こえ始めると本当に怖かった。

ただでさえ金縛りは怖いのに、この音が聴こえ始めると必ず何か得体の知れない物がそばに寄って来た。

必死で身体を動かそうとしながら、知っている限りの念仏を唱えたりしていたが、そんなことで身体が自由になるようなことはなく、得体の知れない何かが去るのをじっと耐えて待っていたものだった。

その当時のことをちらりと思い出しながら、今の私には恐怖感はまったくなかった。

これは、今や50歳を過ぎた図々しい(?)おばさんになったということもあるが、それ以上にずっと続けている先祖供養と神棚で神様をお祀りしているお陰だと思う。

私はけっして一人ではないことを知っている。
もちろん家族は居るが、家族が居ないときであっても私は一人ではない。

多くのご先祖やご縁のある方々に守られている。

そして、何より神様がいつも一緒におられる。

だから何も怖くない。

これは家族がいない、天涯孤独と思っている人も同じで、誰もがけっして一人ではない。

本当は多くのご先祖や縁者に見守られているし、神様も一緒にいらっしゃるはず。

金縛りは脳が目覚めていて体が眠っている時に起こりやすいと言われているが、確かにそうかもしれないと思う。

・・・が、中にはやはり霊的な金縛りもあると思う。

そして、そんな時に世にも恐ろしい体験をしてしまうのは、その時の自分の心境がかかわっているのだと思う。

自分の心境と同じ存在が寄って来るのだ。

多感な10代から20代の頃の私は恐ろしい体験しかしなかったが、当時は自分のことでたくさんの悩みがあった時期だったと思う。

簡単に言うならば、他人のことを思いやる気持ちはなく、ひたすら自分の事ばかりだった。

こんな状況になっているのは、私が悪いのではなく全部周囲のせいだと思っていた。

まったく今考えると恥かしいことだが、やはりそういう存在しか寄ってこなかった。

さて、ブーンという音が聴こえ始めた時のことに話を戻すが、音が鳴り出すと同時に身体が振動し始めた。

まるで音と身体の震動が同調しているかのようだ。

「もしかしたら身体を抜け出せるのかもしれない」

そんな興味を抱いた私は、ゆっくりと上半身を起こしてみた。
(実際の私の身体は横たわっている)

以外と簡単に起き上がれたのだが、下半身の方が身体とぴったりくっついて、重たくて仕方がない。

それでも抜けようとしたら抜けられたような気はするが、それ以上は無理に抜けようとすることはせず、再び横たわっている自分の身体に重なるように寝た。

それにしても重たかった下半身に比べて、起き上がった上半身はとても軽かった。

肉体をすべて脱ぎ捨てた時には、こんな風に軽くなるのだなぁ。

そんなことを考えながら動かない身体のまま天井を向いていたら、突然「映像」が見え始めた。

何かが動いているように見える。

最初はぼんやりしていたものが、みるみるはっきりとした映像になった。

それはなんとたくさんの「金魚」だった。

南国の海にいるような熱帯魚ではなくて、まさしくそれは日本の金魚。

赤や黒、黄色、オレンジ色の色とりどりの金魚がたくさん泳いでいる。

私は天井近くを泳いでいる金魚たちを寝た状態で下から見ていた。

例えて言うならば、自分が金魚鉢の底に横たわって、泳いでいる金魚を見ている感じ。

縁日の金魚みたいなのやら、尾がひらひらした金魚たちが優雅に泳いでいる姿は本当に綺麗だった。

すると、その金魚たちの中にいる一匹の赤い金魚が気になった。

その赤い金魚の尾っぽに赤い糸が結ばれている。

どこに繋がれているのかは分からなかったが、繋がれていない金魚たちに比べると自由が利かず、可哀想で私は糸を外してあげたいと思った。

そう思いながら泳いでいる金魚たちを眺めていたら、今度は黄色の金魚が曲線を描きながら横たわっている私の横に降りて来た。

それも最初は縁日の金魚くらいの大きさだったのが、降りてくる間に錦鯉くらいの大きさになった。

1メートル近くありそうな丸々と太った大きな鯉。

それはオレンジ色の混ざった薄い黄色をしていて、大きな丸い目をして、まあるい口を開けていた。

すこしの間、鯉と見つめあっていたのだが、突然映像がぼやけ始め、「あ、見えなくなる」と思ったのもつかの間、金魚の姿は消えてしまい、私は薄暗い寝室のベッドに横たわっていた。

もちろん先ほどまで聴こえていたブーンと言う音も聴こえない。

身体の振動も止まっていた。

ちょうどその時、横に寝ていた夫が目を覚ました。

今までの出来事に興奮していた私は「今、天井を金魚が泳いでいてね、それがとっても綺麗だったの!大きな黄色の鯉が私の横に泳いで来てくれて。そうそうブーンという音がして・・・」

ねぼけたまま私の話を聞いていた夫は「いいね。いろんなものが見れて。俺は一回もないわ。ところで今の話は誰にもするなよ」とそう言い、また眠ってしまった。

そうね、こんな話は誰にもできないよね。

それにしても、あの赤い金魚はなぜ尾っぽを赤い糸で結ばれていたのだろう。

私が下半身が重たくて身体を抜け出せなかったことと関係があるのだろうか?

よく分からないが、まあ綺麗だったのでいいか・・・

でもとても綺麗だったから、忘れないようにブログに書いておきましょ。

こんなブログを書いている事を夫は知らない・・・









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緑のソファ

2015-10-15 15:40:49 | 日記
近郊の峠では雪が降ったとのこと。どおりで冷えるハズだわ・・・

今年は寒くなるのが早いのかなぁ。

夫は早々に車を冬タイヤに交換してきたので、私も庭の冬支度を始めることにした。

今日は薔薇たちに肥料をたっぷりとあげて、外で越冬ができないローズマリーを鉢に上げた。

そろそろ外に出していた植物の鉢を家の中に入れなければいけない。

「家の中をジャングルにしないでくれ~」と夫に言われているので、なるべく植物は増やさないように気をつけている。

しかし元気が無くなった植物を見捨てることができず挿し木にして蘇らせるのだが、挿し木がたくさんできてしまって、結局また鉢が増えてしまう。

冬になると家の中はジャングル・・・いや植物園くらいにはなっているかもしれない。

そうそう、先日買ったソファがやっと届いた。

4年間つかってきた合皮のソファは、表面にひび割れができ、それが徐々に広がってしまい、なんともみすぼらしくなっていた。

それでも布製カバーをかけてなんとか使っていたのだが、ぽろぽろと表面の合皮が床に落ちるので、ついに新しいものを買うことにした。

家具を傷める一番の原因は直射日光だそうで、日に長く当たる場所に置くとお肌と一緒で家具も老化が早まるのだとか。

日本はリビングを南側に取ることが多いが、欧州では家具が傷むという事で北側にするということを聞いたことがある。

うちのリビングは南東にあり、午前中はずっと日が射し込んでいるので痛むのも早いのかもしれない。

新しく買ったソファの色は緑。ソファでは初めて買う色だ。

今までずっとベージュ系のソファにしていたのだが、一緒にソファを見に行った家族がすわり心地の良さをとても気に入ったので、たまには緑もいいかもしれないと言う事で決めた。

今度は老化を遅らせるのに紫外線防止の家具用日焼け止めを塗っておく。

緑色のソファを部屋に置いてみたら、周囲に植物がたくさんあるせいか以外と部屋に馴染んだ。

ソファを緑にしたので、クッションカバーは赤いものに変えてみる。

壁にかけている手拭い額も、中の手拭いをグリーンの葉と赤い実の描かれた絵柄に変える。

お~ぉ、ちょっと早いけどクリスマ~ス!

いつもなら「模様替えしたでしょ?」と真っ先に気付いた次女ピーチがそう言ってくれるのだが、ピーチは今は遥か群馬県の空の下にいる。

そして、他の家族はだれひとりとして気付かない・・というのか興味がないのかも。

なんという張り合いの無さ。。。

しかし、いいのだ。
自分が楽しんでいるのだから。

こうして日常生活に、自分だけのささやかな楽しみを見つける幸せ。

こんな平安が長く続きますように。

ときどき部屋が揺れるような感覚を覚える。

「地震きた」

そう思って周囲を見回すことが増えた。

軽いものならいいのだけれど、大きいのはやめて欲しいなぁ。







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小樽 金融資料館

2015-10-13 15:37:25 | 旅行
8月に小樽へ行った時、たまたま通りがかったお店に入って、おいしそうな乾燥豆を買ったことがあったが、その時にお店の奥さんから「味噌作りを教えてあげますよ」と言われていた。

味噌作りに必要な生麹が入荷するのが秋ということだったので、「そろそろ入ったかな?」と楽しみにしていたのだが、10月に入ってすぐに確認の電話をしたところ「入荷しましたよ」とのことだった。

「じゃあ、行きますから~」

そう言って電話を切り、三連休の初日にさっそく小樽へ行って来た。

朝早くに家を出たので、早い時間に小樽に着いてしまった。

そのままお店に行ってもよかったのだが、はたと気付いた。

「そういえば生の麹だから、お店では冷凍庫で保管していたはず。持ち歩くのだったらクーラーボックスを持って来るんだった」

・・・ということで、買ってからすぐに帰宅できるように、小樽市内で観光を済ませたあとに、お店には最後に行くことにした。

さて、今回小樽で行った場所はこちらです↓
              
日本銀行旧小樽支店。

現在は金融資料館として無料解放されている。





赤レンガで有名な東京駅を設計した辰野金吾氏らが設計した建物で、1912年(明治45年)7月に完成したが、2002年まで日本銀行小樽支店として銀行業務が行われていたのだとか。

外観はルネッサンス様式を取り入れたとてもモダンな建物で、外壁はレンガを積んだ表面にモルタルが塗ってある。

そして、モダンなのは外観だけではない。



窓口として使われていた「営業場カウンター」をはじめロビーには岐阜県赤坂産大理石が使われている。

床から約10・5メートルもある高い天井のロビーは柱が一本も無い広々とした大きな吹き抜けになっている。



こちらは2階回廊の壁に飾られているシマフクロウのモニュメント。

シマフクロウはアイヌ民族の守神であり、内壁に12体、外壁に18体いるシマフクロウたちが、職員がいない夜に支店を見張っていたそうだ。

他にもイギリスから取り寄せた螺旋階段を使ったりと、こだわった装飾がなされていて、当時の総工費は約40万円で、これは日銀本店と日銀大阪支店につぐ高額な建設費だったそうだ。

なぜ北国の小さな町の銀行に、これほど力を注いだのか・・・

実は、小樽はかつて「北のウオール街」と呼ばれるほどの経済都市で、最盛期には19あまりの主要銀行の支店が軒をつらねていたとか。

これは新橋~横浜間、神戸~大阪間についで3番目に札幌~小樽間の鉄道が1880年に敷かれたこと、そしてそれまで北海道経済の中心だったニシンから石炭にシフトしたことから、小樽が物流の拠点となり、それまで北海道の中心地だった札幌を一気に抜いて小樽が北海道経済の中心地となったそうだ。

現在、再び北海道の中心地になった札幌は多くの人が住んで大都市を形成している。

そして、今の小樽はのどかな田舎の風情を残している町に見えるが、かつては札幌の人口よりも小樽の方が多かったとは意外だった。

さて現在は金融資料館となっているので、普段はめったに見ることのできないこんな場所も見ることができます。



2002年まで実際に使われていた金庫。

小樽支店には2つの金庫があり、内部はこのようになっています↓



右側に積まれているのが一万円札の束(これは、ただの紙だそうですが・・・)で左側のプラスチックケースには硬貨を入れているそうです。

な~んとこれで総額3000億円!(もちろん本物ではないですよ)

現在も本当の銀行ではこのように積まれているとか、いないとか・・・

説明してくださったガイドさんによると、金庫室の壁はどこにも穴の無い一枚壁になっていて、当たり前だが、今まで一度も破られたことはないそうだ。

さらにかつて広島に原爆が落とされた時、これと同じ金庫だけが中は無傷で焼け残ったそうだ。

「じゃあ、行員さんたちも金庫に入っていれば助かったかもしれないですね」

そう言ったら「そうですね、みんな外に出てしまったようですから・・・金庫に入って、中に空気が残っていれば助かったかもしれないですね」とガイドさんが言った。

さすが日本銀行の金庫は原爆でも壊れない・・・

そんなこんなで、普段は見ることのできない金庫の中も見せて頂いたりと楽しく過ごせた。

親切なガイドさんがいらっしゃって丁寧に色々と教えてくれるので、とても楽しめる資料館です。
お近くにお寄りの際はどうぞ。

・・・というわけで、このあと味噌作りを聞きに行くのだが、その話はまた後日ということで。





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慣れ親しんだ味

2015-10-08 14:02:01 | 日記
今年イギリスに留学した姪の近況を聞いた。

姪は大学の寮で自炊生活をしているのだが、最近、食費を節約するために仲良くなった他の国からの学生と一緒にご飯を食べるようになったそうだ。

料理をみんなで作って食べたほうが安く済むとのことで、毎日の夕食は日替わり当番で作っているそうだ。

イタリア人の学生はパスタ料理をよく作り、中国人の学生は中華料理を作ることが多いのだとか。

そして「韓国人の学生は、何にでもコチュジャンとトウガラシをかけて食べる」と言って姪は笑った。
そういう姪は、何にでも醤油をかけて食べているそうだが・・・

生まれ育った味というのは、そう簡単には変えられないのかもしれない。

最近、高齢になって認知症になる人が多いが、海外で暮らす人が認知症になってしまうと色々と大変だと聞く。

30年以上もフランスで暮らしていた方が認知症になったそうだ。

すると、それまで流暢に話せていたフランス語が話せなくなり、日本語しか話せなくなったそうだ。

さらに食事も日本食しか受け付けなくなってしまい、今は現地で付き合いのあった日本人たちに助けられて食事の世話などをしてもらっているのだとか。

国際結婚をした友人が「認知症になると、生まれ育った国の言葉しか話せなくなるらしいから、うちは両方が認知症になったら言葉が通じなくなるわ」と笑っていたが、やはりこれは本当のことかもしれない。

「日本の食品を送って~!」

日本食が恋しくなった姪から母である妹に電話がかかってくるそうだ。

「いくら海外では日本の食品が高いと言っても、送料を考えたら現地で買ってくれたほうが安くすむのに・・・」

そう言って妹はぼやきながらも、娘に送るための食品をダンボール箱にせっせと詰めている。






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がんばれ!新人さん

2015-10-05 16:40:45 | 日記
古くなった家庭用消火器の処分をお願いするために消防署へ行った。

消火器の処分は、中身をすべて出し切ってから町内の不燃ごみの日に出すことができるのだが、うちの消火器は使用期限が大幅に過ぎてしまっているせいか、中身を出そうにも消火剤が全く出なくなっていた。

そのような中身の入っている消火器は消防署で処分してくれるそうだ。

消火器は使用期限が切れると使い物にならなくなる可能性があるのですね。学びました。

万が一の時に備えて、消火器は使用期限を守って使ったほうが良さそうです。。。

というわけで、中身が出ないほど古くなったうちの消火器を持って消防署へ行ったのだが、ちょうど消防署の前で5~6名の消防士さんたちが訓練か何かをされていた。

「あの、すみません」

ちょうど目が合った30代くらいの消防士さんに声をかけると「どうしましたか?」と言って来てくれたのだったが、それと同時に周囲にいた他の消防士さんたちが一斉にこちらへ向かって駆けて来て、あっという間に私は彼らに囲まれてしまった。

あとから駆け寄ってこられた消防士さんたちの顔を見ると、まだ幼い・・・と言っては失礼かもしれないが、今年高校を卒業して消防士さんになったばかりなのかなと思われるような初々しくも若い少年のような消防士さんたちだった。

「どうしましたか?」「どうしましたか?」「どうしましたか?」

口々に初々しい消防士さんたちに声をかけられ、消火器の処分だなんて、こんなことでお忙しい中お呼び立てしてしまって恐縮ですという気持ちになってしまった。

取り囲まれた輪の中で、申し訳なさに身を縮めつつ「これ中身が出ないのですが、こちらで処分していただけますか」と言うと、今度は口々に「わかりました。処分ですね!」「わかりました」「わかりました」の「わかりましたコール」が沸き起こった。

持って行った消火器を一人の方に手渡し、初々しい消防士さんたちの輪の中から小走りで出てきたのだったが、なんともこちらも清々しい気持ちになるような消防士さんたちの清々しい応対だった。

今春、消防士さんになったばかりなのか、夢と希望に満ち溢れ「これから市民の為に働きたい」という一生懸命さがひしひしと伝わってくるようだった。

さて消防署のあと、もうひとつ用事を済ませようと、今度は区役所へ行った。

長女チェリーの障害者用交通カードをもらうためだった。

交通カードは1回にもらえる枚数が決まっているのだが、使い切ったカードを新しいカードと交換してもらうことができる。

窓口へ行くと、最初に年配の女性が来たのだったが、すぐに若い男性職員を呼んで「これをやって下さい」と告げた。

若い男性職員は、こちらも今年入ったばかりと思われる方だった。

横に立った女性職員に教えてもらいながら、書類を出してきて手続きを始めて下さったのだが、最後に「では新しいカードを差し上げてください」と女性職員に言われた時、彼はなぜか慌てふためいた。

「す、すみません。古いカードと新しいカードを一緒にしてしまいましたぁ」

彼の手には、いつも貰っているよりも、ずいぶんとぶ厚いカードの束が握られていた。

「早く古いカードと新しいカードを分けてっ!」

そう女性職員さんに促されて、彼は「申し訳ございません」と何度も謝りながら、やっと新しいカードだけを渡してくださった。

私は別に急いでいるわけではなかったので「いいんですよ。大丈夫ですから」とカードを受け取り、新人さんの彼に「頑張ってね!」と心の中で応援したい気持ちで一杯になっていた。

新人さん・・・春から半年も過ぎたが、まだまだ仕事を覚えている最中なのですね。

新人さんではないが、ここ数ヶ月うちの長女チェリーも仕事を覚える事に奮闘していた。

高等養護学校を卒業して3年目、同じ作業所で仕事をしているのだが、作業所内で色々な部署に回される。

それは一般就労に向けて色々な仕事を経験するということなのだが、春から入った職場が食堂だった。

以前、喫茶で働いたことがあるので、接客はずいぶん慣れたのではないかと思っていたのだが、どうも喫茶と食堂ではやることが違うらしかった。

チェリーはうちへ帰ってきては、職員さんに注意されたことをメモ書きしたりしていたが、徐々に作業所へ行くのを嫌がるようになってしまった。

時間を計って作業すること、お金の計算、接客の仕方など、なかなかできないことが多いようだった。

「これができるようになったら、きっとどこでも働けるって!」

そう言って励ましていたのだが、時には目に涙をためて家を出て行くチェリーを見ていたら、そこまでして頑張って苦手なことをしなくてもいいんじゃないか・・・という思いが出てきた。

ただ、一方で乗り越えてほしいという思いもあった。

もう無理かな?と思ってチェリーを送り出した日。

思いがけずチェリーが明るく帰ってきた。

「明日から、他の職場に移ることになったよ!」と嬉しそうに教えてくれた。

チェリーの様子を見ていた職員さんが、もう無理だといって職場を変更してくれたそうだ。

先週末に職場が変わってから、チェリーはもう嫌がることなく毎朝、元気に出勤していく。

そこは同じ作業所だが、やる仕事は初めてのものだそうだ。

がんばれ!新人さん!

もう年数的には新人ではないけど、新しい仕事を覚える事に頑張っているチェリーにそう言いたくなった。












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