ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

相馬神社へ行きました

2013-08-28 15:23:47 | 日記
昨日のお天気はすごかった。

近くでダンプカーがぶつかったのかと思ったほどの大きな雷とゲリラ豪雨。

私は神社へ参拝に行った帰りで、ちょうど大型スーパーにいたのだが、雷が鳴った瞬間、店内にどよめきが起こり、その後、一瞬電気が消えた。

また、出先から家に戻ろうと自転車に乗っていた長男パインは、空に稲妻が走ったかと思ったら、下を飛んでいたアオサギが落ちていったのを見たと言った。(たぶん雷に打たれたのだろう)

とにかく市内の広い範囲で、あのすごい雷が聞こえたらしく、その後も雷が鳴り止まなかった。

それまでは晴れたよい天気だったのに、急に雷が鳴り出し豪雨になるというのは、最近よくおきることだ。

本当に変な天気。

だから朝起きて、天気が良いからと言っても、洗濯物を外へ干したままぜったいに外出はできない。

さて、そんなわけで洗濯物はしっかり室内に干し、仕事へ行った帰り道、「今日は絶対に行こう」と決めていた場所があった。

それは「相馬神社

相馬神社は以前にも書いたことがあるが、→(ちょっと遅い初詣)雰囲気がとても好きな神社なので、自分の神棚にも、夫の神棚にも、この相馬神社の御札がお祭りしてある。

今年1月に行ったきりなので、そろそろ参拝に行きたいと思っていたのだが、うちからは遠いので、行く時は必ず運転手付き(夫ですが・・・)で行くことにしていた。

ところが夫の都合がつかなかったり、天候が悪かったりして、なかなか行くことができなかった。

え~い!こうなりゃ、自分で運転して行こう!

数日前から行くことを決めていたのだが、やはり天候が悪かったり用事ができたりして行くことができなかったが、昨日の午前中は、とても良い天気になった。

相馬神社へ行こうと決めたら楽しみで仕方なく、午前中に入っていた仕事もうきうきしながらやったせいか、いつもより早めに終わらせることができた

さて、いよいよ出発。

思っていたより道路が空いていて順調に相馬神社へ辿り着くことができた。

駐車場に車を停めて上り坂が続く参道を見上げる。



今は前回と違って雪がないので、滑ることなく登って行けた。

坂道の参道を登りきると見えてくるのが、ご神木の栗の木。

いつも思うのだが、今にも動き出しそうに見える。



そして、ご神木の前を通り過ぎると小さな本殿がある。

そういえば相馬神社というのは、もともとは福島県の神社なのだそうだ。

明治35年に北海道の開拓と地域の発展を願って、福島県の相馬太田神社の御分霊をこの地に祭ったとある。

福島と言えば未だに収束していない原発事故。

それどころか、毎日何トンという汚水が海に流れ出しているという。

毎日、毎日、海が汚染され続けていることは、考えただけで胸が苦しくなってくる。

一刻も早く汚染水を止めて欲しいことはもちろんだが、やはり原発というものは一旦事故が起こると、本当に恐ろしいことになるのだとあらためて感じる。

9月からは電気料金が値上げされるそうだが、原発を動かさない結果、値上げになるのならそれも致し方ないと思う。

原発を動かさないという事は、そういうことなのだろう。

しかし、原発の替わりの火力発電も温暖化の原因になったりと、けっして地球環境に適切なものではない。

それにしても一時期、国中で騒いでいた「節電」は、一体どうなっているのだろうか。

最近、ほとんど節電という言葉が聞かれなくなったような気がする。

もちろん家庭でできる節電はしているけど、都会のネオンはギラギラのまま、自動販売機もそこら中に置いてあるし、今までとどこか変わったのだろうか。

それでも、私たちを生かし続けてくれる大いなる地球と大自然に感謝しなければいけない。

そんなことを思いながら、感謝の参拝の後、相馬神社の裏手にある小高い天神山緑地から、市内を眺めていた。



この後、すごい悪天候になるのだが、よく見ると厚い雲が何重にもあったのね。

この時は気づかずでした・・・












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天下御免の向こう傷

2013-08-26 13:54:18 | 日記
実は我が家のペット、おかめいんこのP太郎が怪我をしていた。

それは夏休みの道内旅行へ行く数日前の夜のことだった。

夫が深夜眠れずに、P太郎のかごが置いてあるリビングへ行って椅子に座っていたところ、耳元で蚊の羽音がした為、蚊取り線香を焚こうと思ったらしい。

ところが、その蚊取り線香のある場所が分からず、眠っていた私を起しに来た。

私は眠気でぼーっとしながら、P太郎のかごの横を通って蚊取り線香を出しに行った時のことだった。

突然、かごの中でP太郎がバタバタと暴れだした。

「オカメパニックだ」と思い、慌てて部屋の灯かりをつけてかごを覆っていた布を取った。

かごの中では気が狂ったように暴れているP太郎がいた。

懸命にP太郎の名前を呼び落ち着かせようと思ったが、ぜんぜんダメだった。

あちこちにぶつかってP太郎の羽からは血が滲んでいる。

それから、P太郎が最もなついている次女ピーチも起きてきて、P太郎を落ち着かせようとしたがやはりだめ。

なんとかかごの中からP太郎を出したときには、片方の羽の毛が抜けて、怪我をしたところから血がたくさん出ていた。

幸い骨折はしていなかったので、そのまま様子を見ることにしたが、しばらく膨らんでかごの中でじっとしていたので、きっと痛かったのだろうと思う。

ところでP太郎のオカメパニックは、夜、何かに驚いたときに起こる。

この時は、横を通った私の影に驚いたのだと思う。

野生では、おかめいんこなどの小鳥は大型の鳥に捕食されることも多いのだろう。

ふわっとした黒い影を捕食者だと思い逃げようとするのは本能なのだと思う。

さて、オカメパニックを起して怪我をしてしまったP太郎を置いて旅行に出かけるのは心配だったが、すでに決まっていた旅行だったので出発しなければいけなかった。

いつも旅行の時には同居するお姑さんにP太郎を預けて行くのだが、今回は怪我をしていて普段よりおびえている様子があったので、いつもかごを置いてある場所から移動させず、そのままにして行くことにした。

ところが・・・

2泊3日の旅行を終えて帰宅して驚いた。

もちろんP太郎は生きていて、ずっと家人がいなくて寂しかったのか、帰ってきたと分かるやいなや、叫び声に近いような喜びの声をあげて迎えてくれた。

しかし、P太郎の姿は悲惨だった。

体のあちこちに血をつけ、周囲の壁や床には飛び散った血がたくさん付いていた。

血は固まっていたので、きっと私達に旅行に行った日に、また何かに驚いてパニックを起したのだろう。

数日間留守にすると思ってたくさん補充しておいた餌は、ほとんど食べた様子はなかった。

それにしても、これだけ出血をして、よく生きていてくれたと思った。

すぐに水を与えると、よほどのどが乾いていたのかごくごくと飲んだ。

それから餌を手から与えるとパクパクと食べてくれた。

私達が帰宅してよほど嬉しかったのか、安心したように自分で餌を食べてくれるようになったが、しばらくは人の姿が見えないと不安そうに呼ぶことが続いた。

ところで同じオカメインコでもパニックを起さない固体もいるようで、まさに実家の父が飼っていたオカメインコは、まったくオカメパニックを起さないそうだ。

そういえば先代のオカメインコもほとんど起さなかった。

そういう意味では個性というものが大きいのだろうか。

P太郎はオカメインコの中でも繊細で臆病な鳥なのかもしれない。

・・・で心配したP太郎の怪我だが、最近やっとすこし良くなってきて、毛のつやもよくなってきた。



とはいえ羽のキズが痛々しい。。。

そして眉間の血は、羽の血が付いたものだと思われる。

最近、P太郎に新しい呼び名がついた。

夫がつけたそのNEWネームは「早乙女もんどのすけ」

「天下御免の向こう傷、ぱっ!拙者 早乙女もんどのすけ~~」

夜、P太郎のかごの横を通る時には、抜き足差し足でそ~っと通る日が続いている。











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

執着を手放して

2013-08-23 16:55:39 | 介護
今朝早い時間に電話が鳴ったので、父に何かあったのではないかと急いで電話を取ると、電話の相手はまさにその父からだった。

実は、父が昨日転んで大腿骨付近の肌の色が変わっていると妹から知らされていたので、よもや骨折でもしていないかと心配していた。

妹によると「多分骨折はしていない」とのことだったが、心配なので今日は様子を見に父の所へ行ってこようと思っていた。

その父からの電話だったので、内心、父が直接電話できたのなら大丈夫かとちょっぴり安心しながら「足はどう?」と聞くと、「あぁ大したことはない。みんな(職員さんたちのこと)大げさに騒ぎすぎるんだ」とのことだった。

きっと職員さんたちは、骨折でもしていたら大変だと心配して下さったのだろう。

とりあえずヨカッタと思ったが、やはり今日は行ってみようと思って、父に「今日行くからね」と言うと、父は妹から今日私が来ると聞いていたようで、今朝の電話の用件は私に持ってきてほしいものの注文だった。

「●●●という風邪薬を買ってきて欲しいんだ。30錠入ったのを2箱頼む」

父にそう言われ、私は返事をしぶった。

「お父さん、風邪薬は飲んじゃあいけないってお医者さんが言ってたでしょ。風邪の時はお医者さんに言えばお薬出してくれるんだから・・・」

そう言って父になんとか市販の薬を諦めさせようと思ったが、父は「いやいいんだ。大丈夫だ。頼む、買ってきてくれ」の一点張り。

こういう症状があるのかどうか知らないが、父はまさに「風邪薬中毒」だ。

ただしどんな風邪薬でもいいと言うわけではなく、決まった銘柄のものに固執している。

父によると、風邪の時にその風邪薬を飲むと、すぐに良くなるのだそうだ。

思うに、そもそも父が思っている症状は「風邪」ではない。

誰だって風邪じゃなくてもくしゃみが出ることはあるし、くしゃみをしたら鼻水が出ることもあるだろう。

父はそれら全てを風邪のせいだと思い込み、その度ごとに風邪薬を飲むものだから、風邪薬の無くなる早さと言ったら尋常ではない。

多分、箱に書かれた規定量以上の数を飲んでいる。

医師からも「風邪薬はあまり飲みすぎるとと害がありますからね。腎臓にも悪いですから飲まないで下さい」と言われている。

確かに父の腎臓の検査数値は良くないそうだ。

ダメだ、買えないとなんど言っても「頼む、頼む」と懇願された。

ついに根負けして「わかった。じゃあこれが最後だからね」と言うと、嬉しそうに「2箱あれば一年持つから大丈夫だ」と言う。

一年なんて持つわけない。

持って一ヶ月だろう・・・

そう思ったが、父の言うとおりに風邪薬を買って持っていった。

それを父は本当に嬉しそうに受け取ってくれた。

妹も父からずいぶん風邪薬を頼まれたようで、あとから妹に「頼まれて2箱持って行っちゃったよ~」と電話をすると「うん、それでいいんじゃない」とのことだった。

妹とも意見が一致したのだが、たとえ身体に悪くても父が懇願するほど飲みたがっている薬なら飲ませてあげてもいいんじゃないかという事。

風邪薬を飲むことによって他人に迷惑をかけるのでなければ、それで父の気持ちが納得するのなら、風邪薬を持って行ってやろうということになった。

これも父の執着なんだなぁ。

でも風邪薬に執着するってのも面白い。

思えば父の風邪薬に対する執着は、昔からだったかもしれない。

子供の頃、少しでも鼻をぐずぐずさせていると、父はすかさず風邪薬を飲ませてくれた。

だから「お父さんは薬屋さんのようだ」と思っていた。

ところで、同じく認知症の義父の介護をしている友人がこんなことを言っていた。

「認知症になると、その人が執着していたものがずっと強く現れるらしいよ」と・・・

ちなみに友人の義父の場合、それは「お金」だったそうだ。

もともと資産家でお金持ちだった友人の義父は認知症がひどくなるにつれて、お金に対する執着がますます強くなったそうだ。

「誰かに盗られたのではないか」などといつも言うの・・・と友人が疲れた顔で話していたことを思い出した。

私もこれから老人になって、そんな笑い話にもならないものに執着して生きるのは絶対に嫌だ。

余分なものは手放して、身も心も軽やかに生きたいものだと思う。











  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨーグルトケーキを作る

2013-08-22 15:40:51 | グルメ
今日は、夏休みで帰省している長男パインの要望でひさしぶりにお菓子を作った。

ふだんパインは甘いものをほとんど食べないのだが、家で作ったお菓子は甘さひかえめのせいか食べてくれる。

思えばパインがまだ小さかった頃は、今よりずっと張り切ってお菓子を作っていたなぁ。

ずっと待ち望んでいた初めての子どもだったので、張り切っていた私はパインには市販のお菓子は食べさせず、おやつはほとんど手作りしていた。

その頃はこどもがひとりだったので、おやつを作る時間があったというのもある。

その証拠に子どもが2人、3人と増えていくごとに、買ってきたお菓子を与えることが増えていった。

そんなわけでパインには買ったお菓子はあまり食べさせていなかったのだが、私自身は買ってきたお菓子を食べていた。

特にチョコレートは私の必須おやつ・・・

疲れた時のひとかけらはこたえられん。

毎日の育児で疲れていた私は、いつも自分用のチョコを台所の戸棚に隠して、パインに見つからないようにコソコソと食べていたのだが、ある日いつものように一人でこっそりチョコレートを食べていると、突然パインがやってきて慌てたことがあった。

「おかーさん、それなーに?」とパインに聞かれ、慌ててチョコレートを口に押し込みながら「これはね、お薬よ。とっても苦いお薬!」と口をもごもごさせながら答えた。

すると、意外にもパインはすんなりそれを信じ「ふ~ん」と言って居なくなってしまった。

周囲には甘い香りがぷんぷん漂っていたにもかかわらず・・・

このようにチョコレートを食べさせなかったからかどうかは分からないが、パインは今でもチョコレートを食べない

嫌いではないと思うのだけど、パインにとっては別に無くてもいい食べ物みたい。

・・・で、パインが一番好きなのがヨーグルトケーキ。

ヨーグルトケーキは火も使わず、混ぜて固めるだけなので超簡単。

お安い御用と作りました。



材料はヨーグルト(450グラム)1箱と生クリーム(200CC)1箱、お砂糖(お好みで)、ゼラチン(大さじ2杯強を3倍の水で湿らせておいたもの)を全部混ぜるだけ。

但しゼラチンはそのままでは混ざらないので、レンジでチンして溶かしてから入れます。

底の抜けるケーキ型に薄く切ったカステラ、または砕いたクッキーをバターで練ったものなどを敷き、上からヨーグルトケーキの混ぜたタネを流しいれて冷蔵庫で固まるまで冷やします。

あぁ、いつまで子供たちに「お菓子作って」とリクエストしてもらえるのだろう。

あと数年したらそれぞれ巣立って行き、こうしておやつを作ってあげたこともなつかしい思い出になっているのかもしれない。

お姑のばあばがよく言ってる。

「子供たちにご飯を作って食べさせていた頃が、忙しかったけど一番いい時代だった」

私も近頃それが分かるような年代になった。

とかなんとか、巣立っていなかったらどうしようなんて・・・

チェリーちゃん、頼みますっ!









  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道内旅行

2013-08-19 21:18:39 | 旅行
16日から道内を旅行してきた。

なんと出発日の16日に大雨注意報が出てしまったが、どうやらタイミングよく、まだ雨が降っていない地域を歩いていたようで雨にあたることなく旅ができた。

さて、まず向かったのは北竜町。

北竜町は、国内最大級のひまわり畑として有名な町。

23.13ヘクタールの畑に130万本のひまわりが植えられているそうで、遥か遠くまでひまわり、ひまわり、ひまわりだらけ!

まるで黄色の絨毯を敷き詰めたような美しい風景。



畑の中は歩いてまわる事もできるが、トラクターにひかれた遊覧車に乗って見ることもできる。

たくさんの美しいひまわりを愛でたあと、次に向かったのは「層雲峡温泉」。

層雲峡温泉は、3万年前の大雪山の噴火によってできた大きな台地を石狩川が浸食してできた深い渓谷にある温泉街だ。

高く切り立った崖が温泉街を囲むようにそびえ立っている。

川の浸食だけで、このような深い渓谷ができたとは驚きだった。

層雲峡温泉は今まで何度も訪れているが、今回は特に大自然の凄さをあらためて感じさせられた。

道内を旅すると、自然の景色の美しさもさることながら、大自然に対する畏敬の念が湧いてくる。

地球が誕生して46億年、そして人類の誕生はわずか400~500万年くらい。

そんな新参者の人類が自然を自分の都合のいいように変えようとしてきたことも、今の自然災害が多発することと関係があるのだろうなぁ・・・などと考えていた。

さて、層雲峡で一泊したあとに向かったのは弟子屈町。

阿寒国立公園にもなっているこの地では、30数万年前に起こった火山の大噴火によって出来た摩周湖や、その後の噴火でできた屈斜路湖、また今も白煙を上げる硫黄山などを見ることができる。

そして、ここでは是非ともやりたかったことがあった。

それはカヌー

屈斜路湖から出発して釧路川を下るツアーに申し込んでいた。



手前のカヌーが私達のカヌーで、ライフジャケットを着た先発隊が奥にあるもう一艘のカヌーで今まさに出航しようとしているところです。

カヌーというと川の中でひっくり返ったらどうしようと思っていたが、これがぜんぜん大丈夫だった。

非常に安定感があり、ガイドさんのお話によると赤ちゃんでもお年寄りでも乗ることができるそうだ。

そして、カヌーから見た釧路川の素晴らしいことと言ったらなかった!



釧路川はほとんど人の手が入っていない自然のままの川で、カヌー愛好者の間では「聖地」とも呼ばれているそうだ。

とにかく水が澄んでいて美しい。

川の中に湧き水が上がってくる場所があり、水草が水の中でたくさんの泡を作って揺れていた。

実はこの泡は酸素なのだそうで、まさに出来立てほやほやの酸素も吸い込める。

それから川底を泳ぐ魚やザリガニを見ることができる。

運がよければ川岸にいるミンクや鹿などを見ることもできるそうだ。

ちょっとディズニーランドのジャングルクルーズを思い出したが、ディズニーランドのそれより数百倍いい!と思う。

これはぜったいオススメ!!

今回は本当に楽しい旅、そして大自然と火山に感謝をする旅になった。













  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お墓へ行かなくても

2013-08-13 10:47:51 | 日記
帰省した長男パインが「お墓参りに行かないの?」と聞いてきた。

「もう行ったよ。お父さんの方もお母さんの方も両方行ってきた」

そう言うと、パインはがっかりしたように「え~、もう行ったのか」と言った。

そこで「行きたかったの?」と聞くと「お盆なのに自分も行かないとまずいっしょ」と言う。

先祖供養については、長男に「やりなさい」と強要するようなことは言ってきたことはない。

しかし、まいにち私や夫やお姑さんが先祖供養をする姿を見て、自分でそのように思ってくれたのなら、こんな嬉しいことはない。

「別に無理してお墓に行かなくてもいいんだよ。あばあちゃんの部屋の仏壇でお参りしてもいいし、お母さんがお参りしている短冊でやってもいいよ」

そう言うと「わかった」と言ってくれた。

先祖供養は、今では私にとってライフワークと言ってもいいくらいのものになっている。

これは私が死ぬまでやり続けたいことだ。

顔も知らない大勢のご先祖さま、それからご縁のあった方々も、そうではない通りすがりの方にもひと時安らいでほしいと思って、毎日お線香をあげて手を合わせる。

それをいつか子供達が自発的にやってくれたら嬉しい。

さて先日、久しぶりに街の中心部へ出た折にお線香を買ってきた。

いつもお線香を買うお店だ。

お線香やロウソクなど種類も多く取り揃えたお店で、利き酒ならぬ利き線香で、色々なお線香の香りを嗅いでゆっくり買い物をすることができる。

今回は2箱買ってきた。



松栄堂ののきばと香樹林。もうひとつのひば線香は通販で購入したもの。

ひば線香はどうしてもひばの香りのお線香が欲しくて買った。

かすかなひばの香りがして落ち着く。

のきばと香樹林は、今まで何度もリピートしているお線香で、どちらも白檀系の香り。

いろいろなお線香を試してみるのだが、結局「のきば」か「香樹林」に落ち着く。

好みは人それぞれなので、これがオススメとは言えないが、今のところ一番気に入っている香りかな・・・

自分の好きな香りに包まれて、今朝も感謝の気持ちで手を合わせることができた。












  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

説明書はきちんと読むこと

2013-08-12 16:27:51 | 日記
冷蔵庫を新しく購入した。

今まで使っていたのは16年使った冷蔵庫で、最近モーターの音がうるさくなってきたことから、思い切って買い換えることにした。

家に届いたH製の冷蔵庫の素晴らしさと言ったらない!(ちなみにH社の関係者ではありません・・・)

前の冷蔵庫と冷え方がぜんぜん違う。

前の冷蔵庫は、古かったせいもあってか何時間入れておいても、生ぬる~い状態にしかならなかった。

しかし、今度の冷蔵庫ときたら中の温度設定にしていても冷蔵庫内の食品はキンキンに冷えているし、冷凍庫のアイスクリームなど歯が立たないくらいガチガチに凍っている。

さらに感動したのはチルド室。

プシューという音と共に真空状態になる。

だから中に入れた肉や魚の鮮度が落ちない。

いやいや、こんなことなら早く買い換えればよかったと思う。

さて、最近の暑さで子供達がカキ氷を作りたいと言う。

では、さっそく氷を作ろうと氷を作るための容器を取り出した。

ざっと説明書に目を通してから容器に水を入れてふたを閉めるが、なかなか閉まらない。

なんだか閉めにくい・・・とおもいつつ力を入れた。

本当はここで一旦やめて説明書を読めばよかったのだが、なんとなくふたが閉まってしまったので、そのまま冷蔵庫内にセットした。

しか~し、いくら待っても氷ができない。

もしかしてふたの閉め方が良くなかったのではないかと気になって、また容器を取り出してみると、案の定ふたが平行に閉まっていなかったことに気づいた。

ふたを閉め直すために、もう一度開けようと思ったが、とても固く閉まっていてびくともしない。

何度も挑戦したが無理だった。

これ以上無理をすると壊してしまうかもしれないので、開けてもらうために購入した電器店へ持って行くことにした。

ちょうどH社の販売員の方がいたので、事情を話して開けてもらおうと思ったが、その人も開けることができなかった。

次に電器店の従業員の方もやってきて一生懸命開けようとしてくれたのだが、やはりだめだった。

従業員さんは「これは無理にこじ開けると壊れるかもしれません。それを覚悟でやるか、あきらめて新しいものをご購入頂くしかないかと思います」と沈痛な面持ちでおっしゃった。

え~そうなの・・・と私も沈痛な思いで立ちすくんでいたら、いつの間にか隣に夫が来ていて「仕方がない。新しいのを買うつもりでやろう」と言った。

「じゃあ、やりますか」という従業員さんの声でみんなスタンバイする。

まず容器の下側を夫と私がつかむ。

それからふたの部分を従業員さんが持った。

そして、お互いにそれをおもいきり引っ張った。

(H社の方は近くで心配そうに見守っていた)

せーの!という掛け声で引っ張ったら、パコーンとふたが外れた!

あまりの嬉しさに私も夫も従業員さんもH社の方も、おもわずその場で拍手をしてしまった。

みんなが笑顔!

周囲のお客さんは、何が起きたのかとあっけにとられた顔で、こちらを見ていた。

その後、従業員さんには、じゅうぶんにお礼を言って電器店をあとにした。

私も嬉しくて「みんな嬉しそうな顔だったね~。すごくいい笑顔だった!」と夫に言うと「ちゃんと説明書を読まないからこういうことになるんだ」と叱られてしまった。

はい、そうでした・・・元はといえば私のせいです。

説明書はしっかり読んでから使用すべし。

いい教訓になりました。













  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ウェルカムの気持ち

2013-08-11 14:01:01 | 日記
父が高齢者住宅に入ったため、実家は空き家になっているのだが、家財道具のほとんどは父がいた頃のままになっている。

今日は父の住む高齢者住宅へ持っていく洗濯の物干し台を、実家から運び出そうと思っていた。

実家の2階にある物干し台を折りたたんで両手で持ち上げて、階段を下りていた時、うっかり足を滑らせてしまった。

「まずい」と思った。

人間は一瞬の間に色々なことを考えることができるものだ。

階段から足を滑らせた直後に転びながら「これは痛いんだよなぁ。腰を打ったらまずいなぁ」などと考えていた。

案の定、右手のひじに強い痛みが走った。

腰は?

おやっ、腰は痛くない。

よかった。腰は打たなかったみたい。

右手のひじは擦りむけて血が滲んでいたが、思ったよりダメージが少なく済んだ。

右ひじの痛みが治まってから、あらためて自分の姿を見ると、うまい具合に持っていた物干し台がクッション代わりになって私の下敷きになっていた。

人がひとり歩けるほどの幅しかない階段で、両手で前に抱えていた物干し台が、どうして私の下になってくれたのか分からない。

立ち上がって物干し台を見ると、金属の細い棒が曲がっていた。

私の体を支えてくれたんだね。

ありがとう・・・と心の中で物干し台に感謝しつつ、曲がった部分を力いっぱい元に戻した。

どうやら物干し台も壊れていなくて、このまま使えそうだった。

思わず物干し台に感謝してしまったが、大事に至らなかったのはご先祖のお蔭かも知れないと思う。

最近は少なくなったが、以前はしょっちゅう階段から滑り落ちていた私。

そそっかしい私を心配して、階段を下りていくのを心配しながら見守って下さっていたのだろうか。

お盆に入り大勢のご先祖達がいらしているのかもしれない。

そして、生きている人々もお盆にはたくさん家へやってくる。

まず、大学で家を離れている長男パインが帰省する。

それから義理の姉夫婦が泊りがけでやってくる。

地元の義姉や甥、姪たちもやってくる。

叔父や叔母も来る。

亡くなっている方々にも、生きている人たちにも「ようこそ」「おかえり」と言う気持ちで迎えたいと思う。







  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ガングリオンの治療

2013-08-07 17:41:19 | 健康

今日は皮膚科へ行ってきた。

1年以上前に左手の中指の関節にできたガングリオンが、最近またすこし膨らんできたようだったので、中に溜まった液を抜いてもらうためだった。

思えばガングリオンに関しては、3軒の病院を渡り歩いた。

ガングリオンとはいわゆる良性の腫瘍の一種だそうで、痛みがなければ放っておいても問題はないものだそうだ。

しかし、私の場合は軽い痛みがあったので病院へ行った。

最初の病院では液を抜いただけで終了し、再発しやすいという説明はしてくれたが、その後の説明はなかった。

そして液を抜いて10日くらいで、また液が溜まってしまった。

それも前回より大きくなってしまった。

2回目に行った病院でも、最初の病院と同じく液を抜いてくれたが、お医者さんに「こんなのは放っておけばいい」と言われ、そうなのかと放っておいたら、さらに大きく膨らんでしまった。

たかがガングリオン。

世の中には大変な病いに苦しむ人がたくさんいるのだ。

それにくらべれば全然大したことはない。

そう思ったが、やはり気になる。

しかも、触ると若干の痛みがあるのがいやだ。

というわけでサードオピニオンを求めて、現在通っている皮膚科へ行った。

そこでは、とても丁寧な説明をしてくれて、今後の治療方法の説明もあった。

まず第一段階は、先の2軒の病院と同じように膨らんだガングリオンに針を刺して中の液を抜く。

そして(ここから先が前の2軒と違った)、患部をしっかり押さえる圧迫療法。

これをしばらく続けても再発する場合、患部に液が出るのを抑える薬の注射。

この注射は2週間おきに打つそうだ。

・・・で、現在の私のガングリオン治療は注射で、今日は2回目の注射を打ってきた。

2週間ぶりに診察してくれた先生曰く「固まってきましたね」とのことだった。

「それはいい事なんですか?」と聞くと「いいことです」とおっしゃってくれた。

確かに注射をしてから膨らまなくなってきた。

やった~

目の上のタンコブならぬ指の上のガングリオンが消えてきたのが嬉しい!

とはいえ再発しやすいものらしいので、また出てくる可能性はあるのだけど。

ガングリオンの原因というのは、まだよく分かっていないそうだ。

手の使いすぎだとかいう話もある。

ちょっと調べてみると、男性より女性に出やすいそうだ。

しかも若い女性に多いとか!?

私は若くはないけど、それを読んだ途端、ちょっといい気分になった。

ところが皮膚科の先生からは、きっぱり「老化ですね」と言われてしまった。

いい気分から、いきなり奈落に突き落とされた気分。

まぁ、いいか。

老化だろうが何だろうが消えてさえくれれば・・・






  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おじいさんの戦争体験談

2013-08-06 14:32:07 | 日記
今日は広島に原爆が投下された日。

犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈り申し上げます。

さて、今日がそのような特別な日だということもあり、今日の仕事で伺った80代の男性から戦争当時のお話を聞く事ができた。

男性は15歳の時に兵隊に志願して戦争に行かれたそうだ。

時は終戦の前年。

行き先も知らないまま、北海道の小さな村から連れて行かれた先は広島県だったそうだ。

田舎しか知らずに育ったので、ずいぶん大きな街だと驚いたのが広島の第一印象だったとか。

その後、船で食料を運搬する任務に就く。

香港、台湾、中国などまで行ったそうだ。

そして翌年8月、中国の揚子江へ荷物を運んだ帰りの船の中で、広島に原爆が落とされたことを聞いたそうだ。

九州の門司に船が着いた時は長崎にも原爆が落とされた後で、長崎から避難してきた多くの人々を見て驚いたそうだ。

みんなひどい火傷を負い、服もボロボロ。そのような人々が港におおぜい集まっていたそうだ。

港に船を着けると乗り込んできてしまうということから、船は港から離れた沖に停泊していた。

ところが終戦になり、船の中で今後どうするか隊長以下乗組員で話し合ったそうだ。

とりあえず中国から積んできた米や砂糖がたくさんあったので、それを港で売ることにしたそうだ。

食料が圧倒的に不足していた時代、米も砂糖もあっという間に売れてしまう。

売上金を分け合い、すこし残しておいた米でおにぎりを作って船を下りた。

とにかく家に帰ろうと北へ向かう汽車にのる。

途中で広島に停まったが、あの大きな街が何も無くなっていたことに衝撃を受けたそうだ。

その後、広島からさらに進み、大阪で降りたそうだ。

当時、大阪駅には大人も子供も浮浪者が大勢いたそうだ。

大阪駅で毛布をかぶっておにぎりを食べていると、みんな指をくわえてじっと見ている。

子供が可哀そうだったので、すこし分けてあげると、周囲の大勢の人々が駆け寄ってくる。

とにかく誰も彼も、当時はみんなお腹を空かせていたそうだ。

ここまで話を聞いただけでも、胸がつぶれるような思いがする。

私は子供と動物のかわいそうな話にはめっぽう弱いときているので、お腹を空かせた子供たちの事を想像しただけで涙が出そうになる。

掃除用の雑巾を持ったまま、ついつい男性の話に引き込まれていたが、時計を見て慌てた!

ややや、もうこんな時間。

業務は一時間なので、残りの仕事を済ませなければ・・・

「じゃあ、続きは次に来た時に聞かせてくださいね」

そういって切り上げようとしたが、「いや、まだ続きがあるんだ。今日は掃除はいいから話を聞け」と言われ、また座りなおす。

さて、その後その男性はさらに青森まで行く。

青森からはもう北海道が見えていた。

「津軽海峡を渡れば家に帰れる」

ところが、青森の港には大勢のアメリカの憲兵がいて、船に乗る乗客を一人ずつ調べていた。

兵士だったことが分かれば捕まってしまうと思い、同じ故郷へ帰る仲間と共に軍の物資を売って作ったお金で小さな船を借り、夜中に見つからないように出航したそうだ。

そして、函館にもアメリカ軍が居た為、誰もいない陸に船をつけてもらったとか。

そうやってなんとか故郷の村に辿りついた男性が、最初に目にしたのは、小旗をふって出迎える大勢の村の人々だったそうだ。

この時が、お話をしてくれた男性の顔が初めて笑顔になった瞬間だった。

当たり前だけれど、もう二度と戦争は起してはいけない。

年数が経ち、戦争を経験した世代が少なくなってきたが、やはりこういう話は語り継いでいかなければいけないとあらためて思った。

今日の仕事の報告書には「よいお話を聞かせて頂いた」と書いておこうかな。。。








  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする