ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

引っ越し

2016-03-31 17:01:40 | 日記
さて、3日目はいよいよ次女ピーチが引っ越しをする日だった。

この引っ越しが思った以上にハードで、引っ越しを終えたあとは疲れすぎで、しばらく吐き気がしてご飯が喉を通らなくなるほどだった。

こんなに疲れたのは久しぶりかもしれない。

二階の部屋から重たい荷物を運び出し、それらをトラックの荷台に乗せる。

一人暮らしのはずなのに、こんなに多かったかと思うくらいのたくさんの荷物を二階の部屋(それも階段から一番遠い部屋)からトラックへと荷物を運んだ。

滑らないためにラバーのついた軍手を持っていて本当に良かった。

洗濯機や冷蔵庫などの大物家電は普通の軍手では運べなかったかもしれない。

ところで、私がなぜ引っ越し業者さんのように働かなければいけなかったかと言うと、軽トラック一台とそれを運転する男性ひとりしか頼んでいなかったから。

引っ越しをすることになって、私はいくつもの引っ越しやさんに電話をかけて、だいたいの見積もりを聞いたのだが、一般的な引っ越し業者だと12万円以上になった。

「単身世帯で目と鼻の先ほどの場所に引っ越すのに、そんなにかかるんだ」と驚いたが、軽トラックではなく普通のトラックで作業員が二名くることを考えると妥当な金額なのかもしれない。

そしてこのような引っ越し業者さんに頼むと、すべてをやってもらえるだろうから、たぶん依頼主は座って見ているだけで良いのだと思う。

ところで、私が見積もりをした中に○帽さんがあった。引っ越しも受け付けますと書かれていた。

試しに何社か見積もりを取ると、一般的な引っ越し業者さんに比べて四分の一以下で受けてくれるとか。

ただし運転手兼作業員一名しか来ないため、依頼主も働かなければならない。

私は働くのは苦にならないし、長女と次女もいる。

かよわい(?)女手だが、○帽さんのほかに三名いれば大丈夫だろうと思い、○帽さんにお願いすることにした。

さて、どこの○帽さんにお願いするか・・・

いくつかの○帽さんに電話をして、その中でも一番頼りなさそうな話し方をする○帽さんに決めた。

なぜ頼りなさそうな人に頼むことにしたかと言うと、頼りなさそうな話し方の中にもどこか誠実な感じを受けたからかもしれない。

引っ越しをお願いした○帽さんは、何度も何度も電話の向こうで当日の準備の確認をしてくれた。

「もう大丈夫ですよ」と思うくらい確認してくれる。

さらにはこちらを出発する二日前に電話をくれて、また当日の確認をした。

羽田に着く時間も教えてあったのだが、着いた時間を見計らうように東京でもまた電話をくれた。

「段ボール箱はアパートの前に置いておきました。盗まれる心配はありませんよね。大丈夫ですよね」と念を押すようにおっしゃる。

「大丈夫ですよ。段ボールなんて盗まれないと思います」と答えると、「いえいえ、段ボールで家を作って住んでいるおじさんが持っていく心配がありますから」とおっしゃったのには思わず笑ってしまった。

一生懸命に引っ越しをやってくれようとしているのが伝わって来て、最後に渡そうと思っていたドリンクは、お茶のペットボトル以外に家に帰ってから飲んでもらうように缶ビールも2本買っておいた。
(まちがいなく、この方はお酒が好きだと思ったので)

やってきた○帽さんは60代後半と思われる方だったが、電話から想像していた通りの実直そうな方だった。

そして自分のことを「おじさん」と呼び、私のことを「おかあさん」と呼び、チェリーとピーチのことを「むすめ」と呼んだ。

「おじさんがこっちを持つから、おかあさんはそっちを持って。むすめ!むすめは段ボール箱を運んで」というような感じで、引っ越しは順調に進んで行った。

しかし、すべての荷物をトラックに積み込み、新しいアパートに向かう途中で道に迷ってしまったのは予想外の出来事だった。

目印になる建物を教えてもわからない様子なので「おじさんの地元はここではないのですか?」と聞くと「いやぁ~ここなんだが・・・」となんとも頼りない返事が返って来た。

結局、かなりの時間をかけて新しいアパートに辿り着いたのだが、それでも滝のような汗を流しながら安い料金で一生懸命に引っ越しをして下さったおじさんには感謝しかなかった。

引っ越しが終わり代金を支払おうとすると「今、領収書を書いてきますから」と言っておじさんはトラックに戻り、しばらくして戻って来たおじさんから受け取った領収書の金額を見て驚いた。

なんと当初聞いていた代金の三分の一の金額で書かれていた。

これではあまりにも少なすぎる!

それを言うと、おじさんは頭をかきながら「いやいや、おじさん迷ってしまったし、おかあさんもむすめもたくさん働いたから、これくらいでちょうど良いんです」とおっしゃった。

しかしそのような金額では私の方が後味が悪いので、きちんと当初の金額でお支払いするとおじさんは申し訳なさそうに受け取ってくれた。

そしておじさんはピーチに向かって「あと3年間、頑張って勉強してください」と言い、チェリーには「おねえちゃん、今日はたくさん荷物を運んでくれたね。ありがとう」と言い、私にも「おかあさんもよく働いてくれました」とおっしゃってくれた。

頑張ってよく働いてくれたのは、おじさんの方なのに・・・

引っ越しを終えたあと、身体は吐き気がするほどヘトヘトだったが心には温かいものがこみ上げてきた。

○帽のおじさん、ありがとう。








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榛名神社

2016-03-30 16:41:24 | 旅行
群馬へ行った目的は、もちろん次女ピーチの引っ越しのためだが、もうひとつ、とても楽しみにしていたことがある。

それは榛名神社へ参拝をすることだった。

群馬に着いた日に夜遅くまでかかって半分以上の荷物を箱に詰め終え、あとはそれほど時間をかけなくてもできそうだと思ったので、翌日3月24日に榛名神社へ長女ピーチと一緒に参拝に行くことにした。

昨年夏に初めて榛名神社へ行った時は、大勢の参拝客が来ており、本殿で参拝を済ませてから後ろを振り返ると長い行列ができていて驚いた思い出がある。

「さすがは人口の多い関東圏の神社。参拝客も多いのだわ」と、今回も混むことを予想して午前中の早いバスで行くことにした。

高崎駅から1時間余りをかけてバスはなだらかな山道を登って行く。

バスは昨年と同様に数名の乗客が乗っているだけだったが、参拝客の多くは自家用車で来ていることは昨年の様子で知っている。

さて、やっと榛名神社へ着いた。

私は嬉しさでワクワクしていた。

神社へ来る前に嬉しさと緊張感でワクワクするのは、私の場合、この榛名神社と岩木山神社、そして相馬神社なのです。

ところで、この三社のご祭神はやや違うのかもしれないが、私にとってはみんな同じ空気、同じ香りがするような気がしている。

三つの神社に共通して受け取る私の感覚は、近寄りがたいほどの威厳のある厳しさと深い優しさです。

だから、私はいつも参拝をすると決めた日からすでに緊張している。

神様の前に、果たして私は顔をあげて出られるだろうか・・・いつもそう思っている。

さてバスを降りてすこし坂道を登って行くと、神社の鳥居が見えてくる。
(嬉しさで思わず笑みがこぼれる)



鳥居をくぐると隨神門がある。



お分かりになるでしょうか?

門の向こうは雪景色です。

前夜に雪が降ったそうで、まだ積雪があった。どうりで寒いはずでした。

そして、榛名山から吹いてくる風(榛名おろしと言うそうです)が肌を刺すように冷たい日だった。

本殿までは長い山道の参道を登って行くのだが、参道にかぶさるように生えている木から時々溶けた雪が水滴になって頭の上に落ちてきて、その冷たさにびっくりする。

そして、まだ寒い時期だからなのか、予想に反して参拝客はまばらだった。



ここは変わった形の岩が多い場所です。かつては修験道たちが修行をしていたのだとか。

行者さんたちは、このような切り立った岩も登ったのでしょうか。

そして本殿。



本殿まで行く間はずっと曇り空だったのだが、本殿で手を合わせている最中に太陽が顔を出してくれた。

まるで「よく来た」と言われているようで、とても嬉しくなった。

さて帰りは参道にあるお店でなにかおいしいものを食べようとチェリーと話していたのだが、チェリーは夏に来た時に食べた「きゅうりの丸かじり」がとても美味しかったので、またきゅうりが食べたいと言った。

「この時期にきゅうりはやっていないと思うよ。そうだ!きっと味噌こんにゃくはあるはずだから、味噌こんにゃく食べよう!」

そう思って探したのだが、夏に開いていたお店は閉まっていた。

今の時期は参拝客が少ないからかもしれない。

結局、神社を出て「門前そば」と書かれたお店に入った。

店に入ると一人の女性がそばを打っている最中で、手打ちそばなので温かいそばはできないが冷たいそばなら出せるとおっしゃった。

ピーチと二人で手打ち蕎麦を頼み、ついでに温かい味噌こんにゃくも頼んだ。

お蕎麦はこしがあり、歯ごたえのあるこんにゃくも甘辛い味噌だれが合っていてとても美味しかった。

他には誰もお客さんがいなかったので、しばらくストーブで温まりながらお店のおかみさんとお話をすることができた。

「もう長いことお店をやっていらっしゃるのですか?」

私がそう聞くと、おかみさんはごく当たり前のように「えぇ、400年くらい前からです」とおっしゃった。

「ひぇぇ、よ、よんひゃく年ですか!?」思わず声が大きくなった。

長いことお店をやっていると言えば、せいぜい50年とか長くても100年くらい?と思っていたから400年前からとは驚いた!

やっぱり本州は歴史が違うのだなぁ。

北海道は移住してからまだ100年ちょっとしか経っていないから、50年も店を続けていると聞くと「老舗ですね」と言われそうだけど。

榛名神社ができて1400年、それから神社の麓に人が集まって集落ができたのだそうだ。

そして、その頃にお店を始めたのだとか。

「またお参りに来た時には、必ず来ますね」とおかみさんに挨拶をして、帰りのバスに乗った。



(つづく)








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美しく平和な国

2016-03-28 16:02:45 | 日記
次女ピーチが新しいアパートへ引っ越しするため、ピーチが大学生活を送る街へ、ピーチと私、そして長女チェリーの3人で行って来た。

お昼近くに羽田空港に着き、モノレールで浜松町まで行ったのだが、モノレールの中から見る東京の景色は、緑が多くて、とても綺麗だった。

ちょうどお昼の時間だったので、公園の芝生にシートを広げてお弁当を食べている親子連れの姿が見えた。

小さな子どもたちと若いママたち数名が輪になってお弁当を食べている。(楽しそうだなぁ)

工場の外では、制服姿のままキャッチボールをしている男性たちの姿も見える。(二人ともニコニコしている)

また、どこかの会社の中では窓に向かって並んで食事をするサラリーマンの姿も見えた。
(あそこは社員食堂かな。午後からの仕事に備えてしっかり食べているのね)

通り過ぎていく景色は、暖かく柔らかな日差しの中で散歩をする人、ベンチに座ってくつろぐ人、本を読んでいる人などの姿があった。

あぁ、この景色を外国の人が見たら、なんて日本は美しくて平和な国だと思うに違いないだろう。

穏やかでゆったりとした時間が流れているような気がした。

そんなことを思いながら、流れていく窓の景色に見とれているうちに、あっという間に浜松町に着いた。

さて、浜松町から電車に乗り換えをする。

これまで群馬に行くときは東京駅で新幹線に乗っていたのだが、東京駅周辺はもう何度か観光しているため、今度は上野駅で降りてみようと思っていた。

上野駅は初めて行った。

正確に言えば、高校の修学旅行で乗っていた列車が上野駅で停まったことはあった。

・・・が、降りたことはなかった。

祝・上野初上陸!

それにしても上野駅も広かった。

あっちこっちに出入り口があって、どこから出ればよいのかもわからない。

ちょうど案内所があったので、そこで観光スポットを教えていただき、地図をもらって上野公園へ行った。

公園内を歩いていると、見たことのある銅像が立っていた!

「おぁ、これがあの西郷さんの像か~」親子三人で西郷さんを見上げ感心する。

もう完全なおのぼりさんになっている私たちは、西郷さんの前で記念写真を撮り、次に「アメ横」に行った。

アメ横と言えば、ドラマ「あまちゃん」に登場した場所がある。
(歌って踊る女の子たちが映し出される大きな電光掲示板みたいなのがある場所です)

あまちゃんファンだった長女チェリーは、ぜひそこへ行ってみたいという。

「ここ、ここ、テレビで映っていたとこだ!」電光掲示板を見つけたチェリーが興奮して叫ぶ。

電光掲示板の前でまた記念写真を撮って、ぶらぶら歩いていたらあっという間に時間になってしまった。

本当はもっと行きたい場所があったんだけど、時間がないのであきらめる。

実は私、上野動物園のハシビロコウに会ってみたいのです。

これがハシビロコウ↓



今回は時間がなくて上野公園とアメ横だけだったが、お楽しみは次回に取っておこうと思う。

さてこの後、新幹線にのって一路、群馬へ向かいました。

(つづく)









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気をつけて帰れよ

2016-03-22 14:10:36 | 介護
先日、関東に住む弟が父を見舞うためにやって来た。

弟が父の見舞いをする時間を聞いていたので、あとから私と妹も父の所へ行ったのだが、父がとても元気になっていてびっくりした。

顔色も良いし、目に力があって、会話もすこしできるようになっていた。

ただ前回(昨年秋)に弟が来た時よりも、今の父はずっと弱っているので、いくら私と妹が「今日のお父さんはとても元気だね」と言っても弟にはピンとこなかったかもしれない。

でも父は弟がお土産に持ってきたおせんべい一枚をバリバリと食べ、甘酒をおいしそうに飲み干した。

食べ終わると、父は「こっちへはよく来ているのか?」と弟に聞いた。
(父がこのように長い文章をしゃべったのは久しぶりで、私達にとっては驚きだった!)

どうやら弟が仕事で戻ってきていると勘違いしているらしかった。

弟が「うん」と返事をすると、父は満足そうに「なんたって工場長だもんなぁ。偉くなって、大したもんだ」と言った。

ちなみに弟が「工場長」というのは事実ではなく、どこから工場長が出て来たのか分からないが、いつからか父は弟がどこかの工場長だと思い込んでいる。

弟もそれは分かっていて、あえて否定はせず「うんうん」とうなずいていた。

父はもうベッドからは起き上がれないが、ぽつりぽつりと話す父を囲んで他愛のない話をし、そして帰り際にみんなで写真を撮った。

「気をつけて帰れよ」と弟に向かって何度も言う父に手を振りながら、弟はとても悲しそうな顔をしていた。

久しく父と会っていなかった弟にとって、今の父の姿はやはりショックだったのかもしれない。

しかし私と妹にとっては、ずいぶん元気になった父の様子が嬉しかった。

元気になっていた父を見て、弟とは逆に私はすこし安心したので、これで心置きなく次女ピーチと一緒に大学のある街へ引っ越しの手伝いに行くことができる。

今はピーチが戻るさみしさ半分、出発前の慌ただしさ半分といった感じでしょうか。

「気をつけて帰って」

いつもならば父と同じことをピーチにも言って送り出すところだが、今回は一緒に行くのでそれは言わない。

さて、準備に取り掛かるとしましょうか。










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ほしい、ほしい、なんとかしてほしい

2016-03-18 16:29:01 | 日記
お弁当の用意があるので、いつも朝は5時過ぎに起きる。

そのせいか私は寝るのが早い。午後10時もしくは10時前には布団に入っている。

昨夜もそうだった。10時に布団に入って、すぐに気を失ったと思う。

深夜(だと思った)、突然電話が鳴った。

寝ぼけていて携帯電話か固定電話かわからなくなり、どっちだ?どっちだ?と考えていたら、やはりもう寝ていた夫が鳴っていた固定電話に出てくれた。

ふと時計を見たら、午後10時50分だった。

こんな夜中に誰なんだろう・・・もしかしたら父の施設からだろうか。

不安な気持ちで夫の声に耳を澄ましていると「ちょっと待ってください。今、変わりますから」という夫の声がして、私に電話だと言いに来た。

「だれ?」と聞くと夫が「たぶん従兄の人じゃないか?」と言った。

いとこから電話なんてめったにかかってくることはない。

父は6人姉弟の6番目だったので、いとこ達とは年が離れている為、子どもの頃から遊ぶなんてことはおろか、個人的に会うこともなかった。

ただ、いとこ達はよく我が家へ遊びに来ては私の父に相談事をしていたので、顔を合わせることはあったかもしれない。

「はい、もしもし」

ねぼけた頭のまま電話に出ると、「こんな時間にすみません」もなければ「今話せるかい?」と聞かれることもなく、いきなり明るい声が響いてきた。

「ミーロちゃん(本名は出せませんのであしからず)元気だったかい?いやぁ、久しぶりだなぁ。何年ぶりだろう。そうだ、僕がおじさん(私の父)に結婚相手を探してくださいってお願いに行った時に会ったよね。あれ以来だ。覚えてるかい?」といとこは話し出した。

そんなことあったかしらん?
30年も前のことだし、なんせこちらは寝ぼけているのだ。思い出せない・・・

「そうでしたか?そんなことありましたか?」

そう答えると「忘れちゃったの?さびしいなぁ」と明るく返事が返ってきた。

その後もいつ結婚したの?とか、こどもは何人?とか聞かれ、あとはいとこ自身の近況などの話が延々と続いた。

受け答えをしながら「この人は一体何のために電話をかけてきたのか?」とずっと考えていた。

まず一番最初に思ったのは先日退院した父の様子を聞くためかと思った。

そういえば、いとこはもうずっと父とは会っていないはずだ。

きっとほかの親戚から父の様子を聞いて、心配して電話をくれたのだろう・・・そう思って、いつ父の話が出るかと待っていたが、一向に父のことを聞いてこない。

そのうち、話はいとこ自身の子どものことになった。

20代半ばになるひとり息子さんは、現在東京の超有名私立大学に行っているとか。

「へぇ、息子さんすごいですね」

そう返事をしながら、「早く本題に入ってくれ~」と思っていた。

暖房を消した部屋は寒く、私はパジャマだったので、もう眠気などどこかへ吹っ飛び、そのかわりに体が冷えて寒気がしていた。

「で、その息子がね、昨年就活だったんだ。ところが希望する職種に就くことができなかったんだ」

「そうですか。残念でしたね」

そう答えつつ、それが夜中にわざわざ電話をしてくることなのか、いや、ほかに言いたいことがあるはずだ。父のことなんでしょ?早くその話を切り出してチョ~、こっちは寒いんだから・・・と思っていた。

すると、いとこが意を決したように切り出した。

「ところでミーロちゃんって、まだあの頃から勤めていた会社にいるの?」と聞かれた。

「いえいえ、とうの昔に退職しました」と答えると「じゃあ、旦那さんは同じ会社なの?」と聞く。

「いえ、夫は違う会社です」と答えると、さらに「じゃあ、そこにだれか知り合いはいないの?」と聞かれた。

なぜ、いとこが昔私が勤めていた会社のことを聞いたのかと言うと、自分の息子のやりたい職種ができる会社だったからということに気づいた。

つまりコネはないのかということを聞きたかったようだ。

こんな夜中にそんなことを聞くために電話をしてきたのか。

しかも「こんな時間にすみません」の一言もなく、延々とつまらない話につき合わされて、これが言いたかったとは・・・

寒さと寝起きのぼ~っとした頭では、怒るよりも気が抜けるような気がした。

いとこはがっかりした声で他にもコネを探して、いろいろ当たってみたけれど駄目だったと教えてくれた。

どうやら私が最後の望みの綱?だったらしい。

たとえ私がまだ勤めていたとしても、コネは無理だ。
私にそんな力はないし、今はコネが通る時代でもないと思うのだが・・・

「息子はもしも希望の職種に就くことができなければ、友人が起こしたIT関連の会社に行くと言っているんだよね」といとこは言った。

「いいじゃないですか!お友達に来てくれと言われているのだったら、そこも考えてみてはいいんじゃないですか?」と答えたが、いとこは力なく「なかなかどこも厳しいよね~じゃあ、また」と言ってやっと電話を切ってくれた。

結局、父のことは最後まで聞かれなかった。

身内の恥をさらすようだが、まったくいとこの親ばかぶりには呆れる。

もしかして息子さんより親の方が、その職業にこだわっているのではないかと思った。

いとこは一番私と年が近くて、まだ50代で仕事も現役だ。

大手の金融機関に勤めているのだが、こんな失礼なことをほかの人にもしているのだろうか、社会人としてどーなのかとさえ思った。

自分のことばかり、「ほしい、ほしい、なんとかしてほしい」

いとこからはそういう臭いが漂ってくる。

私もいとこと話をして、これは他人ごとではなく、自分も気をつけなければと思う。












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父、退院

2016-03-17 15:23:34 | 介護
一週間足らずの入院だったが、父が退院することになった。

400もあった血糖値は通常値に下がり、ひどかった貧血も800CCの輸血で改善された。

退院する日の朝、病室に迎えに行くと父はすっかり顔色が良くなって、ベッドの中で目を開けていた。

「おとうさん、今日は退院だよー!」

そう呼びかけると軽くうなづいたような気がしたが、どうも反応がいまいち鈍い。

そして、まるで幼子のように、きょとんとしたような、びっくりしたような顔で、私の顔を見つめ続けた。

「えっ、まさかこの人だれって思っているわけじゃないよねぇ」
思わず忘れられたかと心配になった。

そこで「私のこと、わかる?」と聞いたら、今度は、はっきりとうなづいてくれたので安心した。

看護師さんが父の着替えをして下さっている間、主治医の先生から父の病状についての説明を受けた。

先に書いたように血糖値も貧血も改善したとのこと。

しかし、またこれらは繰り返す可能性があること。

血糖値についてはこれから糖尿病食にして、あとは服薬だけでインシュリン注射の必要はないとのこと。

そして、父の楽しみである「甘いもの」は一日に一つなら飲んだり食べたりしても良いそうだ。

ただし、これが若い人ならば甘いものは厳禁というところだそうだが、父の場合は高齢なので残り少ない人生、好きなことをさせてあげたいということで甘いものOKがでた。

「甘いものを食べて血糖値が上がったら薬で下げますから、食べたいときは食べさせてください」とのことだった。

ひどい貧血は下血はしていないようだが、ほかからの出血がないのか、本当なら調べるところだが、父の身体が検査には耐えられないとの判断で、このまま様子を見ることになった。

「たぶん老衰で血液を作る力が弱まっているのではないでしょうか?」とも先生はおっしゃった。

そして「もしもまた貧血がひどくなったら輸血をしましょう」とのことだった。

それにしても、今の医学は進んでいる。

これじゃ、老人になってもなかなか死ぬことができないんじゃないかと思う。

父の脈拍が下がったとき、まるで眠っているかのような顔で、ただ体がだんだん冷たくなっていった。

お医者さんも「あの時危なかったですね~」とおっしゃったが、まさにあの時、父はあのまま自然に苦しむことなく逝けたのだと思う。

これが自分ならと考えると、もう治療はいいから苦しまずに逝かせてほしいと思うかもしれない。

ただ、家族となると、とにかく生きていてほしいという想いが出てきて、父が元気だったころ話した「延命治療してでも生きたい」という言葉を守ってできる限りの治療をお願いしている。

さて病状の説明を受けて帰ろうとしたら、廊下で父にペースメーカーを入れて下さったお医者さんとばったり出会った。

お医者さんは私の顔を見ると「お父さん、お元気になって良かったですね。やんちゃすぎるくらい、お元気になりましたね」とおっしゃった。

「やんちゃとは、はて??」

疑問符が頭の中を巡った・・・

私や妹が接している父はやんちゃどころか、ぐったりとうなだれて弱々しい父のはずだった。

あとで看護師さんからお話を聞いたところ、父の肌が荒れているので薬を塗っているそうだが、それが痛かったらしく、父は塗るのを嫌がって暴れた?そうだった。

あぁ、やはり認知症の方も進んできているのだなと思った。

前に認知症を見て下さった医師から「暴れたりしませんか?」と聞かれたことを思い出した。

父はレビー小体型認知症だが、症状が進むと暴力や暴言が出てくることもあるのだとか。

幸い、父は今までそういったことは全く無かったが、嫌な事(薬を塗る)をされてつい暴れてしまったのかもしれない。
これが認知症ではない父ならば我慢できたことが、今は脳の抑制が効かないのだろう。

やはり身体も脳も徐々にだが限界を迎えつつあるのだろうと思う。

さて、今週末に関東から弟がひさしぶりに父の様子を見にやってくることになった。

いきなり弱っている父の姿を見せると弟のショックが大きいと考えて、妹が時々父の写真を送っているそうだ。

弟は離れていて、まして仕事もあるので、なかなか父に会いに来ることができない。

弟も父のことが心配だろうとは思うが仕方がない。

それを思うと、父のそばにいて様子を見ていられる私や妹は幸せだと思う。

週末は父の所でひさしぶりに姉弟が集まることになっている。

今後のことなどを姉弟で話したいと思っている。









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春よこい

2016-03-15 11:35:49 | 旅行
長男パインが帰省していたので、久しぶりにドライブをしてきた。

数か月間も雪に囲まれた生活をしていると、そろそろ雪の少ない場所へ行きたくなる。

で、札幌から近くて雪の少ない場所と言えば苫小牧方面。

特に最近は白老町の虎杖浜が気に入っているので、虎杖浜へ向かって車を走らせた。

途中でウトナイ湖に寄りました。

ウトナイ湖は野鳥が多く見られる場所で、特に白鳥の飛来地として知られています。



雪がないとはいえ、とても寒い!

湖から吹いてくる風が冷たすぎて10分も居られなかったが、のんびりと佇む白鳥の親子を見ることができました。

ウトナイ湖のほとりにある道の駅では、地元で採れた野菜や加工品も売られている。

ウトナイ湖へ寄ったもう一つの理由は北海道産の小麦粉を買うことだった。

最近パン作りに凝っていて、北海道は小麦粉の生産量が多いはずなのに、なぜかスーパーでは道産小麦粉があまり売っていない。

道の駅で見つけたときにはたくさん買うようにしているが、ウトナイ湖の道の駅でも「春よ恋」という小麦粉が売られているので、さっそく5キロほど買った。

さてウトナイ湖で過ごしたあとは、苫小牧の町を抜け白老の虎杖浜(こじょうはま)へ向かった。

虎杖浜はタラコが有名なのですが、私はタラコではなくて、いつも魚の干物を買います。

干し魚を買うお店はいつも決まっていて、おばあさんがひとりで干し魚を作って売っている「油川商店」へ行く。

虎杖浜には干物を売っているお店はいくつかあるのですが、その中でもダントツおいしいと思うのがここです。

脂がのった干し魚はわざわざ札幌から買いに行くたくなるくらい美味しいと思う。

お店に置いてある干物はその日によって違うのだが、今時期はニシンがおいしいそうで、さっそくニシンの干物を買った。(期待通りのおいしさでした!)

以前はおじいさんもお店に出ていたが、今はどうされたのか姿を見かけることはなくなった。

おばあさんに「おいしい干物が食べたいから長く(店を)続けてくださいね」と言ったら、「私も歳だからいつまで続けられるか」とおっしゃった。
どうかお元気で・・・と心から願う。

さて次に向かったのは、前から行ってみたいと思っていた「北のランプ亭」



こちらは炉端焼きのお店なのだが、ランチでは海鮮どんぶりやカキフライ定食など炉端以外のメニューもある。

土日や季節によっては予約をしなければ入れないくらいだと聞いていたが、平日だったせいかお昼時にも関わらず店内はガラガラで余裕で入ることができました。



お店の裏にはすぐ太平洋が見える。

そして、頼んだメニューがこちら↓



ホタテ、イカ、鮭、ししゃも、そしてイカの下敷きになっていて見えないがホッキ貝もある。

素材で勝負というか、どれも新鮮なので炭火で焼いて塩だけもおいしいです。

これは二人分で写真ではあまりわかりませんが、ひとつずつが大きく食べごたえ十分で、イカを食べただけでおなかがいっぱいになるくらいです。

ちなみにご飯はおかわり自由で、ほかに味噌汁や魚介の小鉢、サラダなどが付きます。

たしかお値段は一人1600円ほどでしたが、私には多すぎる量だったので、今度はもう少し少ない量の定食を頼もうと思います。

お腹がいっぱいになれば、次に行くのは温泉しかないっしょ・・・と言うことで、同じく虎杖浜にある「虎杖浜温泉ホテルいずみ」の日帰り入浴へ行った。

こちらの温泉は源泉かけ流しでお湯の良さもさることながら、なんといっても魅力的なのが小高い場所にある露天風呂から望む太平洋の景色です。

お湯に浸かってのんびりと太平洋を眺めてきました。

ところで行った日が平日だったこともあってか、どこもかしこも人が少なくてガラガラ状態だった。

人が多くて混雑しているよりは良いのだが、あまり人が少ないのもまた寂しいというか「これで商売は大丈夫なのだろうか」と心配になってしまう。

札幌中心街は大勢の人で賑わっているが、こうして郊外へ行くと本当に人が少ない場所が多い。
観光客どころか、地元の人も見かけないし・・・

美味しいものもあるし、良い温泉もあるのにもったいないな~と思うのだが、人口が減ってきているのだから仕方がないのでしょうね。

いろいろなことが、これから変わっていくのだろうと思う。

とはいえ虎杖浜へのドライブは良い一日が過ごせました。










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食べる!?

2016-03-11 15:46:47 | 介護
父がまた入院することになった。

ペースメーカーを入れてすこし元気を取り戻したかのようだったが、また調子が悪くなり一日中眠っているような状態になってしまった。

検査をして頂いたところ、なんと血糖値が400を超えているとか。

血糖値は正常時で高くて100くらい、糖尿病でも200を超えるとかなり高い方なのだそうだが、父の血糖値はそれを遥かに超えていた。

また貧血もひどく、ペースメーカーを入れた心臓には問題なかったが、弱っている原因は高い血糖値と貧血ではないかとお医者さんはおっしゃった。

そこで血糖値と貧血の治療のために入院することになった。

さっそく入院手続きのために病院へ行き、医師から父の詳しい状況とこれからの治療についてのお話を聞いた。

血糖値は持病の糖尿病のせいで上がっているそうで、今後は必要ならばインシュリンも使って血糖値のコントロールをしていくとのことだった。

また貧血については、かなり状況が進んでいるため輸血をすることになった。

そして最後に医師から、父が万が一の時になった場合、心臓マッサージや電気ショックなどの延命処置をするか?ということを聞かれた。

心臓マッサージも電気ショックも、父の場合は家族が病院に駆け付けるまで命を少しでも長らえておく為の処置になるということだった。

身体がのけぞるような電気ショックは受けさせる気はなかった。

母の最期に電気ショックをしてもらったが、あれはなんだか母がとても可哀相だった。
(電気ショックが有効な方も、もちろんいるのでしょうが・・・)

また心臓マッサージは私も習いにいたことがあるが、患者の胸が沈むくらい強い力で押し続けるため、高齢者であれば肋骨を折ることも珍しくないそうだ。

家族が来るのを待つためだけに父に苦しい思いはさせたくなかった。

だから、電気ショックや心臓マッサージなどの治療はしないということを医師に伝えた。
これは妹も同じ意見だった。

できれば父には苦しむことなく眠るように逝ってほしい。

ペースメーカーを入れる直前、脈拍が30ほどに下がって危険な状態になったとき、父はまるで眠っているかのように穏やかだった。

医師もおっしゃっていたが、ペースメーカーを入れなければ、あのまま亡くなっていただろうと思う。

もしかしたらあれが父の寿命だったのだろうか。

すこしだけ伸ばしてもらった寿命ならば、残りは父の好きなことに使ってあげたい。

「残りの人生はお父さんの好きだったことをしてあげたいね」と妹とも話をしたが、はて父の好きなことと言ったら?と考えた。

昔は囲碁など好きだったが、今は誘ってもやろうとしないと高齢者住宅の職員さんが教えてくれた。

ところが「御飯ですよ」と声をかけるとパッと目を開け、自ら箸を持って介助なしに一人でほとんどの食事を完食するのだそうだ。

「食べることが好きなんですね~」と職員さんに言われたことを思い出した。

血糖値が高いので今までのように甘いものはあまり食べさせられないのではないかと思い、医師に相談したら「血糖値は薬でコントロールしますから、退院したら甘いものを食べさせていいです」とのことだった。

薬を使って血糖値を抑えながらも甘いものを食べるなんて、とても矛盾しているが、父は高齢なので治すというより延命させる治療になっている。

病室に戻ると父はベッドの中でウトウトしていた。

ベッドの頭の部分が上がっていて、このまま眠るには高いように思えたので、父の耳元で「(頭)さげる?」と大きな声で聞いたところ、父のつぶっていた目がパッと開き「たべる!」と答えた。

もう笑うしかなかった。

「さげる」と「たべる」を聞き間違うなんて、まだまだ父は大丈夫だと思った。








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2016-03-08 17:10:01 | 日記
日差しがやっと春らしくなってきた。

春と言えば、卒業や進学、就職などと言った新しいステージへのスタートという感じがする。

私の周りでも、次の新しいステージに行くための準備に忙しく走り回っている人たちがいる。

その一人が長男パインだ。

3月に就活がスタートし、先日大学のある町から帰省したパインは、毎日忙しく企業の合同説明会へ参加するために飛びまわている。

まだあまり似合っていない真新しいスーツを着て、ピカピカに磨いた革靴を履き、何度も鏡を見て入念に身だしなみを整えると「いざ出陣」といった感じで家を出て行く。

パインの第一希望は北海道内の企業だそうだ。

できれば北海道に住み続けたいと言ってくれるのは嬉しいが、パインの希望している企業はとても狭き門なのでどうなりますことやら・・・

これもご縁なのでしょう。きっとご縁のある所に行くことになる。
すべては神様とご先祖様におまかせするのみ。

なんてことを言うと、パインは「ふふっ」と笑う。

口には出さないが「また、おかあさん変なこと言って」と思っているに違いない。

でも本当にそうなのだから気にしていない。

また、そのように思うととても気持ちが楽になる。おまかせの心境とはなんと心地の良いものかと思う。

「ぜったい、ぜったい、なんとしても、あの会社(学校)に入ってほしいっ!!神様、ご先祖様、どうかお願いっ!!」

8年くらい前の私ならば、何が何でもといった感じで、そう思っていたと思う。

そして期待外れの結果になるとひどく落ち込んだりした。

(まさに心境は心地よいどころか地獄でしたね)

もしも私の希望通りになったとして、これからの人生は幸せいっぱいということには決してなるとは限らないのに、その時はそうなればすべてがハッピーになると信じていた。

そう、希望通りになるとたしかにその時は幸せな気持ちになるのだが、時間が経つにつれて、そんな気持ちも薄れていく。

そしていろいろと不満が出てきて、次々と自分の望むことを叶えてほしい、ほしい、ほしい、と思っていた。

そんな人間だった私だが、先祖供養や神様をお祀りするようになってから、徐々に気持ちが変わってきた。

そして、今ではすべておまかせの心境になった。

おまかせと言っても、何もしないですべて神頼み、先祖頼みということではない。

当の本人(ここではパイン)の努力が一番であることは言うまでもなく、親である私もできるかぎりのフォローはしてあげようと思う。(たとえば食事を作るとか、健康管理とかね)

それで、たとえ希望とは違う方向へ行くことになっても、それはそっちの方がいいよと言うことなのだと思って、喜んで送り出せばよいのだと思う。

長い人生の中では何が幸せかは最後までわからない。

だから、子どもたちにはどこへ行っても喜びを感じて生きて行ってほしいと思う。

さて、新しいステージと言っていいのかわからないが、父の具合がよくなく、また入院することになった。

ペースメーカーを入れて一時的に元気になったようだったが、次第に元気がなくなり今はほとんど眠っている状態。

呼びかけるとたまに目をあけてうなずいてくれるが、ずっと目をあけては起きていられないようだ。

なんとかまた元気になってほしいと思っている。

そして、今月後半に予定している次女ピーチの新しいステージ(新しいアパート)への引っ越し手伝いに、心置きなく行きたいものだと思う。










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にこにこ

2016-03-02 17:58:34 | 日記
猛吹雪が続いていたが、やっと天候が回復した。

ところで昨日は父の病院の付き添いの予定があったのだが、吹雪の中、車で行くのは危険だと夫に止められた。

あいにく妹は用事があって行けない。

ヘルパーさんも人手が足りず付き添ってもらうことが難しいとのことで、仕方なく病院に電話をすると日にちをずらしても良いと言ってもらえた。

時折、晴れ間ものぞき、これなら行けそうかなと思ったが、とつぜん猛吹雪になるという変わりやすい天候だったので、やはり行かなくてよかったと思う。

以前、車を運転中に「ホワイトアウト」と呼ばれる天候になったことがある。

激しい吹雪で周囲が真っ白になり何も見えなくなる現象で、その時は横道から幹線道路に出ようとしていたのだが、走ってくる車がまったく見えなくなった。

停止線を示す表示板も何もかもが見えず、この辺りかなと思った位置で止まり、身を乗り出して車の切れ間を待っていたのだが、吹雪が小さくなって周りの景色が見えた一瞬があった。

その時、自分の止まっていた場所を知ってぞ~っとした。

なんと幹線道路のほうに車体の半分以上が飛び出した状態で止まっていたのだった。

走ってくる車があったら、間違いなくぶつかっていたと思う。

以来、冬道で天候が悪い時や悪くなりそうな時は、できる限り予定をずらすようにしている。

もしも運転中にホワイトアウトになってしまったら停車して待つと言われているが、私のように通行量の多い場所で止まっていては危険すぎる。

やはりできる限り外出は控えることが良いだろうと思う。

というわけで、父の所へ行かなくなったので、昨日も本日も雪かきで汗を流していた。

雪かきは全身運動なので、疲れるけれど運動した感がある。(今日はストレッチしなくてもいいかな~)

雪かきして、掃除して、ごはん作って、次女ピーチが帰っているのでたまにおやつも作って、読書して、パソコンして、あっという間に一日が終わる。

一日はとても早いが、どれもみんなやりたいことなので毎日がたのしい。

また、それができるなんてとても幸せだと思う。

雪かきも楽しいと思ってやっているので、自然と顔もにこにこするせいか、ご近所さんとの関係も前よりもずっと良くなったと思う。

今朝はいつも不愛想なご近所の方2名から、私が気づく前に向こうから挨拶してくださった。

前は二人ともこちらが挨拶をしても、黙ってうなずくのはまだ良い方で無視も多々あったのに、一体どうしちゃったのだろう?

挨拶してもらったのが嬉しくて、私はますますにこにこしてしまう。

ところで知人から「仕事を手伝ってくれない?」と頼まれた。

知人は小中学生のための塾をやっていて、実は長男パインもお世話になった。

生徒が増えたので人手が足りなくなったのだそうだ。

塾の仕事だなんて、私にはとても無理だと思った。

「教えるなんてできません。逆に教えてもらいたいくらいです」とお断りしたのだが、問題の採点が主な仕事なので大丈夫とのことだった。

ヘルパーの仕事も長期の休みをもらったばかりだし、今は新たな仕事をするという気にはなれないのだが、子どもと接する仕事もいいなぁと思える。

とりあえずお断りしたのだが、知人からは「やる気になったらいつでも連絡ちょうだい」と言って頂いた。

55歳にもなってお仕事の話をいただけるなんて、本当に嬉しくてありがたいことだと思う。

そんな出来事も嬉しくて、最近は(にやにやではなく)にこにこが増えた。

さて明日もまた、にこにこした顔で父に会いに行こうと思う。








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本好き

2016-03-01 15:41:20 | 日記
私は本を読むことが好きで、いつも手元に何かしら本が無いと落ち着かない。

どこへ行かなくても、本からはたくさんの学びと楽しみを得ることができる。

子どもの頃、母が年に1度だけ街の中心にある大きな書店に連れて行ってくれた。

そこで「好きな本を買ってあげるから一冊だけ選びなさい」と母に言われ、私と弟、妹はそれぞれに急いで好きな本を探しに行った。

一冊だけ・・・どれにしようか。

書店に香る新しい紙の匂いを深く吸い込み、好きな本を買ってもらえる嬉しさにわくわくししながら、吟味に吟味を重ねて好きな一冊を探したことを思い出す。

あれから大人になった今も本が好きで、新しい本を手に取った時のわくわく感は変わらないのだが、なぜかうちの子どもたちはあまり本を読まない。

長男と次女はたま~に読んでいるらしいが、それよりも圧倒的にスマホを見ている方が多い。

子どもたちが小さかった頃は絵本をたくさん読んであげたつもりだったが、まだ足りなかったのかな・・・

ところで私がいま読んでいるのは立松和平さんの「良寛 行に生き 行に死す

子どもと毬をついて遊んでいるというイメージの強かった良寛さんだが、じつは若い頃は労働こそ修行と考え、よく働いたといたという。

良寛さんは日常作務の中にさとりの機があることを知り、それを実践した人だったそうだ。

つまり日常生活すべての中に真理があることを良寛さんは知っていたのですね。

良寛さんが修行した円通寺には、行脚して歩く多くの雲水たちが立ち寄ったそうだが、良寛さんが、それら雲水についての詩を残している。

我(われ) 行脚の僧を見るに
すべて是(これ)可憐生(かれんさん)
三刹(さんせつ)の地を踏まずんば
衲僧(のうそう)の名を汚すと謂へり(おもへり)
ゆえに師友(しゆう)を去り
茫々(ぼうぼう)として策(つえ)をついてゆく
一夏(いちげ) 此の地を離れ
三冬(さんとう)かの郷(きょう)にとどまる
いたずらに草鞋(わらじ)の銭を費やし
虚しく他行のみちのりを数ふ(かぞう)
なんの閑菩提(かんぼだい)あってか
汝らが為に成ぜられんや

「最近の行脚僧を見ると、すべて可哀相な人たちばかりである。
禅宗の大寺を訪ねなければ、僧の名を汚すと思っている。
そのために彼らは師匠のもとから離れ、先もわからないのに別の師匠を求めて錫杖をつき遠くまで行く。
この寺で夏安居を過ごしたと思うや去っていき、冬はあちらこちらの寺にこもる。
いたずらに旅費を使い、虚しく遠方への旅を重ねる。
そんな修行によって何の悟りがあなたたちに成しとげられるというのか」

なかなか難しい言葉も多く一度では理解できないので、何度も何度も読み返しているのだが、読み返していると、良寛さんがまるで肉体を持って生き生きと動いているかのように思えてくる。

これは立松氏の書かれる文章の力であり、また良寛さんの魅力なのかもしれない。

自分なりに想像を膨らませ、本の世界へ入っていく。

これだから本はやめられないのです。











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