昨日書いた今の時代の方が好きという記事。
書いた後、ずっと心の中にわだかまりのようなものが残り続けていた。
今の時代はどちらかというと不安で先の見えないことの方が多いけれど、お金や物を追いかけていた時代よりは、まだ地に足がついているように感じて、今の時代の方が好きだと書いた。
でもそれは決して、あの時代が嫌いだったということではなかった。
そこをまだ自分の中でハッキリと認識できていないままに文章を書いてしまい、自分の書きたかったことがうまく書けなかった気がして、なんだかモヤモヤとしたものがずっと残っていた。
それをもっとはっきりとさせるために、そして自分自身のために、今また記事を書いている。
バブル期の時代、確かにブランド品を競って買うようなことには興味がなかったが、経済発展がめざましい時代であったからこそ、受けることができた恩恵がたくさんあったことも事実だった。
家から通っていたので、家へお金を入れても、まだ自分で使えるお金は残っていたから、休暇をとってよく旅行へ行った。
思い出すのは、当時パリのブランド店に、多くの日本人が押しかけて、ブランド品のバッグや財布などを大量に買っていたことで、フランス人の店員さんらが、呆れたように見ていたことをよく覚えている。
そしてフランスだけではなくて、どこの国に行っても日本人観光客がいると言われたのもバブル期の時代だった。(今の中国人のように)
それが良いか悪いかは別にしても、そのような恩恵を受けられたことが、先人のお陰だったということを、当時の私を含めて、どれくらいの人々がわかっていただろうか。
日本が経済大国になった陰には、先の大戦で命を落とされた多くの方がいらっしゃったことなど、当時の私は微塵も考えなかった。
国のために家族のために命を散らしていった兵士の方、そして無惨にも犠牲になられた多くの民間人の方。
彼らのおかげで、次の世代の私たちが、こうして平和な暮らしをさせて頂いていることを思うと、昨日の記事はあまりにも傲慢だったと恥ずかしくなった。
喜多川泰さんの書かれた「運転者」という小説がある。
その中にとても腑に落ちる文章が載っている。
いい時代に生まれたなぁと思えるとしたら、それはそういう時代に生まれて運が良かったと思うかもしれませんが、どっかからふっと湧いて出た、ラッキーで平和で裕福な時代に生まれ育った訳ではありませんよ。
たくさんの血と汗と涙、そして努力、極論、命が費やされて作られてきたものです。(あった)ものではなく、命と引き換えに(作られた)ものなのです。
それぞれの時代に生きた人が、延々と続く命の物語の一部を精一杯、自分の役割を果たすように生きてくれたから、次の世代は、前の世代よりも「いい時代」に生まれ育つことができるようになる。
そして今あなたが、その命の物語というバトンを受け取って生きているんですよ。
人生を長く生きても百年足らず。
その短い一生を、自分の利益だけを追求して生きるのではなくて、少しでもこの社会にプラスとなるような恩恵を残していく。
それが自分の役割を果たすことではないかと書かれていて、とても感銘を受けた。
六十代になってから、特に残り時間が短くなってきたと感じるが、次の世代が「いい時代に生まれて来ることができた」と思えるように、残りの人生、精一杯自分の役割を果たしていきたいと思う。