ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

省エネタイプの幸せ感

2019-07-29 17:34:35 | 日記

骨折していた足は、数日後の診察が最後になる予定となり、やっと完治というゴールが目前になった。長かった・・・ホントに骨折すると長いものですね。

医師に「骨折部分がずれたら手術です」と脅されて、今まで恐る恐る歩いていたが、今は普通に歩けるようになり、夏になったら履こうと思って買っていた新しいサンダルも、この度、やっと履くことができた。新しいサンダルが早く履きたかったから、本当にうれしかった!

それにしても普通に歩けるって、なんて素晴らしい!!

ずっと行っていなかった温泉にも久しぶりに行ってきた。

温泉に浸りながら、今まで感じていた以上に、もう心から最高に幸せだなぁと思っていた。これは、「今まで生きてきて幸せに感じたことベスト10」には、間違いなく入ったと思う。

入浴料440円で、こんなにも幸せを感じられるなんて、これも骨折をしたお陰かな。

それから松葉杖なしで買い物をするのが、こんなに身軽で楽ちんで、軽やかだったとは思ってもいなかった。

松葉杖を持っていると、誰か介助者がいなければ買い物カートを押せない。

たとえ松葉杖を一本にして、片手でカートを押したとしても、カバンからお財布を出して代金を支払うのも、買った商品を買い物バックに入れるのも不自由だった。

だから、松葉杖を持たずに普通に歩けて、温泉や買い物以外にも、今までできなかった庭いじりをしたり、軽い運動をしたり、そんな何気ない日常が送れるようになったことが、心から嬉しい!

たかが片足にひびが入っただけで、こんなに不自由な想いをする。

普通に歩けることが、どれほど幸せなことだったのか、今回ばかりは本当に身に染みた。

そして、普段、当たり前にしていることが、本当はすごいことで、けっして当たり前のことではなかったということが、今よくわかる。

これは自分の健康だけに限らず、日常のあらゆることに当てはまる。

きっと、生きていて当たり前なんて、ひとつもないのではなかろうか。

当たり前だと思って暮らしていた色々な事、それは、実はものすごく幸せなことだった。

例えば、朝「行ってきます」と言って家を出て行った家族と、もしかしたらそれが最後の別れになるかもしれない。

そう考えると、毎日の「いってらっしゃい」にも自然と心が入る。さらに家族が無事に帰宅すると、「帰って来てくれてありがとう」と思う。

これは、友人知人にも当てはまる。あの時に会ったのが最後だったなんて後悔しないようにしたい。

失ってから気づくことも多いが(もしかして、ほとんどが失って初めて気づくのかもしれないが)、失う前に、すべてがありがたいことだったと気づければ、自分の周りは幸せなことばかりになる。

こんなことを書き綴ってふと思うことは、私は今まで何度、このように思って生きて来ただろうかということだ。

自分の書いた過去のブログ記事を読み返せば、きっと今と同じような気づきを書いているような気がする。

自分の書いたものを後から読み返すことは滅多にしないので何を書いたか憶えていないのだが、こうして当たり前だと思っていたことが、実はそうではなくて幸せな事だったと深く想うことを、今まで何度か経験してきた。

しかし、忙しい日常生活を送るうちに忘れてしまい、再び何かのきっかけに深く想うようになる。

「喉元すぎれば熱さを忘れる」ということわざがあるが、まさに私のことを言っていると思う。

しかし、ちょっとずつ、前回よりも確実に「当たり前は、当たり前ではない」ということが、心の中に刻まれている。

その証拠に、最近は以前にもまして、普通の何気ないことにとても大きな幸せや喜びをおぼえる。

特に何かラッキーなことが起こらなくても、ふだんの暮らしの中に多くの喜びや幸せを感じられるようになった。

省エネタイプの幸せ感とでも言ったらいいのだろうか。

特別なことをしなくても、日常の中に幸せがあふれて居ることに気づいた今、昔の自分よりずっと幸福感が高くなった。


 


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女子とは

2019-07-24 15:15:07 | 日記

6月初めに骨折をしてしまい、6月と7月はほとんど活動できなかったが、実は、この二か月間は例年以上に(参加していれば・・・)個人的イベントが多い月だった。

もっとも多かったのは、学生時代や社会人時代の古い友人からのお誘いで「里帰りしているから会わない?」とか「久しぶりに同期で集まるよ」とかで、長らく会っていなかったのに、まだお誘いしてくれるのはありがたいことだった。

しかし、こちらは松葉杖の身。

松葉杖をつきながら動き回るのは、正直不安だった。

出かけるのはどうかと、一応医師に確認したら「あなたは骨折しているんですよ!何をしようとしているのか知りませんけど、私はおすすめはしません!」ときっぱり言われてしまった。

後ろで苦笑いしている看護師さんを見て、やっぱり出かけるのはやめようと決断した。

そんなわけで、どうしたわけか今年は例年以上に多かったお誘いのすべてを断ったのだが、そんなお誘いの中で、高校時代のクラス会のお誘いがあった。

幹事の友人が電話をくれたのだが、今回はこんな事情で行けないとのことを伝えると、後日また連絡をくれた。

友人の話によると、何十年ぶりかのクラス会は、なかなか楽しかったようだ。

「女子は○○ちゃんとか△△さんが来てたよ。みんな元気だった。男子は、まるっきり別人になっちゃってる人もいたわよ(笑い)」

楽しそうにクラス会の様子を教えてくれる友人の話を聞きながら、すこし違和感を感じていた。

それは、友人が何度も口に出す「女子・男子」というワード。

昔「貴様いつまで女子でいるつもりなんだ問題」というエッセイ本を読んだことがあるが、詳しい内容は忘れてしまったものの、なぜかその本のタイトルだけを思い出していた。

「貴様いつまで女子のつもりなんだ~」笑

女子・男子というのは、大体何歳ごろまで使っていい言葉なのだろうか。

学生時代までだろうか。

だとしたら、大学生までかな?

でも、私の中では中学生か、せいぜい高校生くらいまでだろうという気がしていた。

それがこともあろうに、もう還暦も視野に入って来たおばさん達が使っていいものだろうか。

自分たちのことを「女子」と言うには、あまりにも無理があり過ぎる。というか、あり得ないだろう。

じゃあ、何と言ったらしっくりするのかと考えると、女・男というのはあまりにもガサツに聞こえるし、女性・男性というのも高校時代の友人たちを指すにはちょっと違う気がする。

雌・雄はぜんぜん違うし、おばさん・おじさんも同じ年齢の友だちを指す言葉としては相応しくない。

ということは、やっぱり「女子・男子」という言葉が、この会話では一番ふさわしいのかもしれない。

なんてことを考えていたら、友人が最後にしんみりと教えてくれた。

「何十年ぶりかでクラス会をやろうとなったのには理由があってね。実は、先日〇△くんが亡くなったんだって。それで男子たちが、〇△くんを偲んでクラス会を開こうと言うことになったみたい」

58歳での死は、まだ早い。卒業してから一度も会っていない〇△くんの学生服姿が目に浮かんだ。

高校を卒業して40年。こうして亡くなった人もいれば、孫がいる人もいるし、シングルの人もいる。

しばらく会っていなくても、話すと根本的な性格などは、18歳の頃とあんまり変わっていない。

40年前、女子と男子だった友人たち・・・40年の間には、それぞれ人生のドラマがあったのだろうなぁと思うと、なんだか皆が愛おしく思えた。

 

 

 


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自然からの音

2019-07-19 15:04:56 | 日記

気温が上がって、最近は部屋の窓を開けることが多い。

すると、外の音がとてもよく聴こえてくる。

幸い、この辺りは住宅街と言っても周りは野山ばかりなので、聴こえてくるのは車や工事の騒音ではなく、鳥や虫の声、そしてカエルの大合唱で、そんな自然の音を聴いていると本当に癒される。

先日は、テレビを観ていたら画面に自然の風景の映像が映り、鳥たちの美しいさえずりがバックに流れていた。

「きれいな声だなあ」と思いながらテレビを眺めていたら、なんと画面が変わっても同じ鳥の声が流れている。

それで、やっとテレビの音声ではなくて、外から聴こえてくる鳥の声だと分かった。

とにかく、テレビの音声と間違えるくらい美しい鳥たちの声が響き渡っている。

そして癒されるのは鳥の声だけではなく、カエルや虫たちの声もまた生き生きとして、まるで生きることを謳歌しているようだ。今この時だけを生きる、私たち人間も見習わなければいけないと思いながら聴いていた。

ところで来客があって、鳥や虫、カエルの大合唱が聞こえる部屋にお通ししたところ、しばらくして、その方は外から聴こえてくる大合唱に気づかれた。

そして、「すごい所ですねぇ」と言われた。

これは褒めて頂いたのか、呆れたのか分からないが(多分、後者)とにかくそのように言われたので、すごい所ついでに、家の周囲およびたまに室内で見かける虫の話をした。

その中でも、北海道人ならば、これを聞いたら、ぜったいに感嘆の声をあげるに違いない、とっておきの虫が来ることを教えてあげようと思った。

「たまに、いや、滅多に見ることは無いんですけどね、一年に一度見るか見ないかってくらいなんですけど・・・すごい虫が来ることがあるんですよ!」

勿体ぶって、前置きを長々言ってから「なんと!カブトムシがくるんです!!!」と教えた。

一応、説明しておくが、カブトムシはその昔、北海道では生息していなかった。もちろん、私が子供の頃はクワガタは見ても、カブトムシはテレビか図鑑でしか見たことがない。

しかし近年、飼っていた個体が逃げて繁殖したのか、はたまた本州からの荷物にくっついて入ったのか、北海道でもカブトムシが生息していることがわかった。

とは言っても、やはり稀にしか見られない珍しい虫に変わりはない。

だから、ウチのベランダにたま~に来ることを教えてあげたら、絶対に驚くだろうと思った。これで驚かなかったら、北海道の人じゃないか、虫が嫌いな人だろう。

・・・で、きっと驚いてくれるだろうとわくわく期待しながら「カブトムシが来るんですよ!!」と発表したのだが、客人の反応は驚くほどあっさりとしたものだった。

「あっ、そう」みたいな・・・

もしかしたら「あ、そうですか」と丁寧語で言ってくれたのかもしれないが、私は期待が大きかった分「あっ、そう」にしか聞こえしかなかった。

がっくりしていたら、お客さんが「私の実家にもいますよ」と言われた。

なんと、客人は本州のとある田舎でお育ちになっていて、カブトムシは珍しくもなんともなかったらしい。残念・・・

しかし、そこから虫やカエル談議に花が咲き、外から聴こえるカエルの大合唱を聞きながら、客人はおっしゃった。

「こういう時、石を投げたら、一瞬でピタッと鳴き声が止まるんですよね。ああ、石を投げてみたいわ~」(←ちなみに女性です)

カエルや虫の大合唱の中に石を投げ入れるというのは、私にとって想像もしていなかった発想だったが、彼女は子供の頃に田舎でやった遊びだったのかもしれない。

自然からの音は、時に大人を童心に帰らせる。




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嬉しかった話

2019-07-16 16:02:14 | 健康

三か月ごとの歯の定期健診へ行ってきた。

今までは、毎回行くたびに必ずどこかしら指摘されるのが常だったが、今回は違った。

「すごい!すごいですね。素晴らしい!!なにも言う事無いです。私がすることは何もないくらい、お口の中はきれいです。歯茎の状態もいいし、磨き残しもないし、こんなに改善したなんて、、私すっごく嬉しいです!嬉しすぎる~!」

そう言って、若い歯科衛生士さんから最高の誉め言葉を頂いた。

さらに「あっ、写真撮ってもいいですか?」と言われ、口の中の写真を撮られた。

使用前、使用後じゃないが、お口の中が非常に良くなったので改善前と改善後の写真を残すのだという。こんなに嬉しいお口の中の写真撮影は初めてだ。

生れてから58年・・・かつてこれほど口の中を褒められたことがあっただろうか。

ない・・・一度たりともない。

「ここ、もっと丁寧に磨いて下さいね。あっ!ここ虫歯かも」

気づかなかった小さな虫歯を発見されることはあっても、歯科衛生士さんから涙を流さんばかりに大絶賛の誉め言葉をかけてもらう日が来るなんて、奇跡じゃないかと思う。

「やったー!」口をあけたまま、心の中でガッツポーズをする。

最近、家での歯の磨き方を変えてから、口の中が非常に良くなったと自分でも感じていたので、ある程度は予想していたが、ここまで褒められるなんて嬉しすぎた。

しかし、それよりも嬉しかったことは、感動の涙を流さんばかりに喜んでくれた歯科衛生士さんの一生懸命さで、それが一番うれしかった。

ところで以前も書いたが、毎日時間をかけて丁寧に歯磨きをしているつもりだったが、行くたびに指摘されるのが、右奥歯の歯周ポケットだった。

3ミリまでが正常らしいが、私は最初5ミリもあり、それがやっと4ミリになったものの、それ以上なかなか改善しなかった。(これが6ミリになると、最悪抜歯になるらしい)

さらにもう一か所、治療が終わっているのに、ぐらつく歯が一本あって、調べた所、歯根が短いということが分かった。

歯根が短いのは、その歯だけなのだが、これは生まれつきのようだった。

歯医者さん曰く「しばらく様子を見ましょう」とのことで、時間が経てばぐらつかなくなる可能性があると言われていたが、これがいくら時間が過ぎてもぐらつきが収まらなかった。

歯根がぐらつくというのは、非常に気持ちの悪いもので、なんとか改善させようと一生懸命歯磨きをしていたのだが、なかなか治らずにいた。

そこで「何かよい方法はないものだろうか?」と調べていたところ、「つまようじ法」なる歯磨きの仕方を見つけた。

これは歯ブラシを歯茎と歯の境にあてて、まるでつまようじのように、毛先を歯と歯の間(歯茎の部分)に入れるというもの。

歯ブラシで磨くというよりも、歯ブラシを押す感じで磨いていく。

歯茎の境目の裏表を順番に押して行き、最後に虫歯予防のために普通に歯の表面も磨くため、けっこう時間がかかるが、これを朝晩二回続けた。

私の歯並びは、どちらかと言うと隙間がないため、歯ブラシの毛先を入れるのが難しいが、毛先一本でも入ればよいそうで、最初はなかなか思うようにできなかったが、何度かやっているうちにできるようになった。

ちなみにつまようじ法の専用歯ブラシというのもネットで売っているが、普通の歯ブラシを使ってもできた。

今は、毛先が二列になっている細い歯ブラシを使っているが、こちらの方が普通の歯ブラシを使うより細かい部分が磨きやすく、歯茎の中にも入りやすいと思う。

この磨き方をして三日目には、早くも歯のぐらつきを感じなくなるほど効果があって、歯周ポケットもきっと改善するだろうという確信が持てた。

そして確信通り、歯周ポケットは奥歯は3ミリまで改善し、他の部分は1ミリから2ミリになって、金属の針が入っても全く痛みもなく出血もない健康な歯茎だと言われた。

このつまようじ法は、歯のぐらつきを改善し歯周病の予防と改善に効果があるそうだ。

歯がぐらつく方、歯周病の予防と改善をしたい方、ぜひ一度試してみてはいかがでしょうか。

歯医者さんで、ほめられるかもしれません・・・

 



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暗い話ですが

2019-07-12 16:14:01 | 日記

本当は明るいことを書きたかったのだけど、やはり書かなければいけないかもしれない。

ちょうど一年ほど前のことだが、今も時々行っている床供養の時に、短冊の周囲に黒いもやと悪臭を漂わせながら、一人の男性の霊がいらっしゃったことがある。

こんなにも分かりやすく出てくるのは、私も初めてのことだったが、彼には見ず知らずの相手であっても、すがらなければ苦しくて仕方がない理由があった。

それは、彼の亡くなった理由が自殺だったということ。

自殺をすると、亡くなった時に抱えていた苦しさが、それ以上に倍増されて永遠に続くと聞いたことがある。

これは、この男性霊の様子を見ても事実だろうと思う。

生きていることの苦しさから逃れようと自ら命を絶ったのに、それ以上の苦しみが永遠に続くなんて、これこそ地獄だ。

彼は自殺したことを、とても悔やんでいた。「後悔」

生きていれば、時間の流れによって必ず変わって行くのに、その時の苦しみから逃れたいばかりに、、、もっと言うならば、自分の事しか考えていない自己チューで、せっかく頂いた命を自ら絶ってしまったことを、彼はとても後悔していた。

自殺した本人は、地獄の苦しみが待っていたとしても、それは自己責任だからいいかもしれないが(よくはないが・・・)残された周囲の人たちの気持ちはどうなのかということをよく考えてもらいたい。

「もしや自分の言った言葉が、追い詰めてしまったのだろうか」

「あの時、声をかけてあげていたら、自殺を止められたかもしれない」

「自分のことに精一杯で、悩んでいることに気づいてあげられなかった自分が悪かった」

このように周りの人は「自分が悪かった」と、少なからず思うものなのです。

もしかしたら、それはその人の一生の心の傷になるかもしれない。

まして親が自殺してしまったら、子どもの心の傷はいかほどのものだろうか。

自分だけが苦しいと思ったら大間違い。その自殺が、どれほど周囲の人を苦しませることになるのか、それを知ったら簡単に自殺なんてできない。

生きていると、困難や苦しみは誰にでもあるが、これも時間と共に必ず変わっていくということ、そしてせいぜい生きても人生90年くらいのものだと思うと、短い人生を思い切り生きてやれと言う気持ちになる。

そこまで元気じゃなくても、普通に生き切ったあとは、少なくとも地獄ではない場所に行ける(と思う)

というわけで、そのようなおバカなことをしてしまった人の苦しみが、すこしでも癒されますようにと床供養をする。

本当に、この供養を知ることができてよかったです。ありがとうございます。

次回は明るい話を書きたいものです。



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生き物たちに

2019-07-10 15:55:39 | 日記

前回、久しぶりにP太郎のことを書いたら、その日の夜、夢の中に初めてP太郎が現れた。

私は、夢の中でずっとP太郎の背中や頭を掻いてあげていた。

P太郎は、生きていた頃のように気持ちよさそうに目をつぶって、うっとりしているものだから、私は止めるに止められず「これでもか~」と言うくらいカキカキしていた。

それで動物とふれあいたい欲求はすっかり満足!

きっとブログを書いてP太郎のことを思い出したことで、夢を見てしまったのだろう。

あの日、P太郎が亡くなった日の翌朝、P太郎がいなくなったカラの鳥かごの中で、P太郎が餌をついばむ音がずっと聞こえていた。

しばらく餌を食べている音が聞こえていたが、急に静かになった。

そして、信じられないかもしれないが、耳元で二回「ぴぃ」と鳴くP太郎の声が聞こえると、飛んできて私の左肩に止まった。

ぴぃと言う鳴き声も、羽ばたく音も、左肩に乗った感触もはっきりとわかった。

それが、私がP太郎を感じた最後で、P太郎はそのあとすぐに、私の肩の上からどこかへ飛び去ってしまった。

以来、あまり私が悲しむと、P太郎が行くべきところへ行けなくなってしまっては可哀想なので、P太郎のことはできるだけ思い出さないようにしていたが、今回は夢の中でP太郎に触ることができて嬉しかった。

ところで当たり前だが、動物にも魂がある。

特に人間と一緒に暮らして愛情を注がれた動物は、最後に飼い主に挨拶をしてから逝くことが多いと思う。

それとは逆に人間に虐げられて命を落とした動物たちは、それが例え魚類であっても、非常に無念の想いを残していることがあると思う。

例えば、釣り堀の魚たち。

彼らには、人間に釣られるという道しかない。どこへも逃げることができず、ただ人間に釣られて命を落とすのを待っているだけだ。

釣ったあとに人間が感謝して食べるのなら、まだ浮かばれもするだろうが、遊びの為だけに釣られて殺されて捨てられるなら、あまりにも可哀想すぎる。魚たちが無念の思いを残しても不思議はない。

そういうことでは、食料になってくれた動物たちも同じであり、食事の前に「いただきます」と言って、食料になってくれた動植物たちへ感謝することは、とても意味のある大切な習慣なのだと思う。

今日は、P太郎の夢の話以外まったく考えずに書き始めたが、いま書いた記事を読み返しながら、「そうかぁ、私たちの命になってくれた動物や植物たちに心から感謝しなければいけなかった」と思っている自分がいる。

感謝して食べていたつもりだが、毎日の事になると慣れですっかり忘れていた。

本当にごめんなさい・・・今日は、すべての生き物たちに謝りたい気分です。


 

 


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バイオフィリア

2019-07-08 16:51:36 | 日記

窓から見える森林を眺めていると、この森の中を歩きたいという欲求に駆られる。

木の香りを胸いっぱい吸い込みながら歩きたい。

歩けるときは、それほどよく行くわけではなかった場所なのに、歩けなくなると、猛烈に行きたくなる。

別にこの森じゃなくてもいいのだけど、どこか自然の中を歩きたいと思う。

それから、動物と触れ合いたい。オカメインコのP太郎がいなくなって10か月、寂しさにはもう慣れたが、たまにまた、あの温かい背中にどうしようもなく触りたくなる。

もちろん、小鳥じゃなくても全然かまわない。犬でも猫でも・・・いやむしろ触れ合えるのなら、犬か猫の方がいい。小鳥より大きい分、触り応えがあるし。

あぁ自然の中で動物とふれあいたいなぁ。

しかし、やろうと思えばできないことではない。森の中には、熊が確実にいるし、犬や猫よりずっと触り応えが有りそうだ。

な~んて、今日は森を眺めながら、瞑想ならぬバカな妄想をしていた。

(注意・今の時期は、一人で森の中に入るのは大変危険です。熊に出会ったら、人間も熊もお互いに不幸なのでやめましょう)

ところで我々人類の祖先は、数百万年におよぶ歴史の大半を大自然の中で暮らして来た。

広大なサバンナや深い森の奥で暮らすことを、何世代にもわたって繰り返す間に、人間の脳は動植物に囲まれた環境に適応してきたと考えられるそうだ。

その証拠に「人間は自然と触れ合うと副交感神経が活性化して一気にストレスが減る」という研究結果が数多く出ている。

たとえば森林浴。これはストレスの解消ほか、血圧の低下や免疫細胞の向上などの効果が確認されているし、植物のオイルを使ったアロマテラピーもリラックス法としては効果あることが知られている。

興味深いところでは、周囲に緑が多い病院に入った患者は、病気の治りが早い傾向が見られたそうだ。また監獄での実験では、窓から緑が見える部屋で暮らす受刑者の方が、病気にかかりにくかったという結果も出たそうだ。

住んでいる周囲に緑がないという場合は、気に入った観葉植物の鉢をひとつ置くだけでもいいそうで、緑が目に入るだけで、ストレスが低減するのだとか。

このように自然の中に行ったり、植物を身の回りに置いたり、また動物と触れ合ったりすると気分が良くなりストレスが減るということから、「人間は、本能的に自然やほかの生物とのつながり(生命愛)を求める」という説を、バイオフィリアと言うそうだ。

現在では、このバイオフィリアに基づいて、オフィスなどに自然のグリーンを取り入れて、社員の健康を守るという取り組みをしている企業もあるようです。

このようなことから、森の中に入って熊さんと・・・いえ、動物とふれあいたいという私の欲求は、まさに人間としての本能だったと納得した。

というわけで、散歩ができるようになったら、熊さんと会わなさそうな自然の中へ行くぞ~!

ご近所のワンちゃんをさわらせてもらうぞ~!おお~!(と雄たけびを上げてみる)

今は窓から木々を見るだけでがまん、がまんです。

 


 

 


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かしまし娘

2019-07-03 15:38:40 | 日記

ひまだわ・・・

掃除は終わったし、夕食の準備も済んだし、(主に次女用の)チーズケーキまで作ってしまった。

さっきまで読書をしていたが、本を読むことにもすこし疲れた。

ひまだなんて贅沢だなぁ・・・と思いながら窓の外を見ると、朝に降っていた雨はあがり、すっかり道路は乾いていた。

そこで、久しぶりに玄関前の掃除をすることにした。

足のギブスはまだ取れていないが、ゆっくり慎重に歩いている分には、松葉杖を持たなくても大丈夫。病院の先生も「コケなければいい」とおっしゃっていた。

庭は雑草が伸びて気になるが、庭の方は完治してからすることにして、とりあえず家の前の道路を掃くことにした。

骨折でできなかったことを思うと、外の掃除ができることさえ嬉しくてたまらない。

元気な時は「めんどうだなぁ」と思っていたことが、いざできなくなってみると、できないことがもどかしく、そして何でも自由にできていたことが、なんとありがたいことだったかと今更のように身に染みる。

やはり起こったことに無駄はなかった。つくづく健康で動ける身体があることの幸せを感じた。

というわけで、さっそく家の前を箒で掃いていたら、ご近所の方に話しかけられた。

会うといつも話し込んでしまう中国人のワンさん。

ワンさんに「今年の夏に娘が帰って来るので道東を旅行をしようと思っているが、いい所を教えてほしい」と言われた。

道東はいい!道南とも道北とも道央とも違う景色がある。私なんか、道東が一番北海道らしい風景なんじゃないかと思っているくらいで、道東には美しい自然がたくさんある。

教えたい場所はたくさんあった。

箒を持ったまま道東の観光スポットの話から近所のスーパーの話までワンさんと立ち話をしていたら、車でちょうど帰ってきたご近所の方、二名が話しかけて来た。

お二人は仕事から帰って来たばかりだと言って、野菜がたくさん入ったかごを持っていた。

そして「たくさん野菜もらったからあげる」と言って、私とワンさんに採れたての野菜をたくさんくださった。

このご近所さん達は、近くの農家で一緒にパートの仕事をしているとか。

しいたけや青菜を収穫したり、出荷したり。今は野菜の収穫が始まって、けっこう忙しいそうだが、仕事は楽しいと言って、二人で顔を見合わせて笑っていた。

本当に楽しそうだなぁ~と、ちょっと農家のパートもいいかなと思ったりする。

というわけで、今度は四人で農家のお仕事についての話が盛り上がってしまった。

オンナ3人集まれば、かしましいと言うが、4人も集まったのでかしましいこと、かしましいこと・・・ひとしきりしゃべって、野菜のお礼を言って、それぞれの家に帰って行った。

私も「野菜うれしいなぁ~」とルンルンしながら家に入ってから、はたと気づいた。

しまった!外の掃除をするのを忘れていた・・・

今日はもういいか、、というわけで、今、ブログ記事を書いています。

・・・こんなのんきな記事を書いている場合ではなかったですね。

九州の方、豪雨の被害が小さく済みますように。祈っています。

 

 

 


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いと、をかし

2019-07-02 14:51:27 | 日記

高校生の頃、全般的に勉強というものは好きじゃなかったが、唯一、大がつくほど好きだったのが古典だった。

源氏物語や枕草子などの古典は、一度や二度読んでも意味不明だが、繰り返し読み進めて意味がわかってくると、もう目の前にその情景が浮かんでくるほどで、授業を聞きながら、意識は一瞬で平安時代へと飛んでいた。

抑揚のない小さな声が、非常に聞き取りにくい古典の教師だったが、古典だけは(ここ強調。他は舟をこぐこともあり)解説を聞き漏らすまいと、全身を耳にして聞いていた。

ところで「源氏物語」は紫式部が書いたという事になっているが、実は1000年頃、宮中にいた女房たちが、紫式部の書いた筋書きにあーだこーだと言いながら、どんどん話を口頭で付け加えて出来上がったものなのだということを、最近知った。

つまり源氏物語の文章は、当時の女性たちの口語で、話している言葉をそのまま書いたものなのだとか。

そういう事なら、初めて読んで分かるはずがないのは当たり前だ。現代であっても、若い娘(こ)たちの話す会話が、何を言っているのやら、よくわからないくらいなのだから。

また、清少納言の「枕草子」も同じで、清少納言の口語がそのまま文章にされているそうだ。

実は、私が一番好きだったのが枕草子で、高校生の頃は冒頭の文章は暗記していたくらいだった。

春は曙。やうやう白くなりゆく山際。すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ、蛍とびちがひたる。雨など降るも、をかし。

秋は夕暮れ。夕日のさして山際いと近くなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさえあはれなり。まして雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入りはてて、風の音、蟲の音など。(いとあはれなり)

冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃・火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。

この短い文章の中に「いと」という副詞が多く出てくるのだが、現代語だと、「すごく」とか「超」と訳される。

「超~」「めっちゃ~」まさに現代の若い女の子たちがよく使う言葉になっている。

つまり清少納言は、1000年前の女子高生のようなもので、自分の好きな事や嫌いな事をきゃっきゃと喋りながら、このような枕草子を書いたのではないかと推測されるそうだ。やはり自分も女子高生だったので、類は友を呼ぶ?で枕草子に惹かれたのかもしれない・・・

そのようなことを知ったうえで、また枕草子を読み直してみるのも面白いかなと思う。

それにしても、現代は自分の好きな事を書く場所が、ブログを含めて数多くあるが、もしかして1000年後には、現代人が書き残したものが、古典の授業で使われていたりするのかもしれない。

それもまた、いとをかし・・・

 


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