ミーロの日記

日々の出来事をつれづれなるままに書き綴っています。

今年最後の参拝

2021-12-28 21:27:01 | 日記

毎年この時期になると、新しいお札を頂きに神社へ行く。

今日も行ってきた。

まず最初に行ったのは、崇敬する神社である相馬神社。

最初の鳥居から参道を見上げれば、真っ白に雪が積もった急な坂道が続いているのが見える。

その参道をゆっくりと一歩ずつ登っていく。滑らないように、そして荒くなった呼吸を整えながら。

あと何年この坂道の参道を上って行けるだろうか?

あと10年くらいは大丈夫かな。

でも降りてくるのが難しくなるかもしれない。

滑って転んでしまったら・・・と考えるとちょっと怖い。

以前、やはり年末に相馬神社の参拝の後、下りの参道で自分の両足が見えるくらい派手に転んだことがある。

転ぶ瞬間というのは時間にするとほんの一瞬だと思うのだけど、その時は転びながらいろんな事が頭に浮かんだ。

真っ先に頭に浮かんだのは、もらったばかりのお札を汚してはいけないということで、お札を持っている手を地面に着かないようにしようと思った。

結果、両手でお札を胸に抱えこむようにして転んだ。

それから転びながら、これだけ大きく転んだらさぞかし痛いだろうなという事も浮かんだ。

その痛さを想像しながら派手に仰向けに転んだら、全くと言っていいほど痛くなかった。

参道はコチコチに凍っていたのに、身体がフワッと地面に落ちたように思えたくらい不思議とどこにも痛みがなく、後から痛むことも無かった。

手をつかずに転んだことがよかったのか、はたまた神さまのお陰なのか、、、私としては、神さまのお陰だと思っているのだけれど。

というわけで、相馬神社の凍った参道を下ってくることが心配になったあなた。大丈夫です。安心してください。

この参道の他になだらかな坂道があります。

もっと歳をとって下ることが難しくなったら無理をせずに、こちらの道を降りてこようと思う。

ところで今年最後の参拝もまた、いつものように感謝だけをしてきた。

ただし例年とすこしだけ違ったのは、「またここへお詣りに来ることができました、ありがとうございます」という感謝の想いが強く湧き上がってきたことで、これは自分でもすこし意外だった。

今年はたくさんの人が、寿命というには短すぎる年齢でお亡くなりになるというニュースが多くあった。

その多くの人が、まさか自分が死ぬとは思っていなかっただろうと思う。

そして、昨年までの自分もまた同じで、いつか必ず死ぬことは分かっていても、それはまだまだずっと先のことだと何の確信もなく思っていた。

だから神社の参拝に来ることは、いつでもできると昨年までは思っていた。

でも今は違う。いつ寿命が来てもおかしくないのだと思うようになった。

だからいつでも、後悔しないように生きていきたいと益々強く思うようになった。

明日、寿命が尽きても後悔はないだろうかと自問自答する。

残していく家族のことは心配だけど、この世に生まれてきてやりたかった事は、この世的には良いことも良くないこともほぼ叶った。

良くないことが叶ったというのはちょっとおかしな言い方だけど、自分の学びとしてはそれらもすべて良いことだったと思う。

だから、大きな後悔はしないかもしれない。

でも欲を言えば、もっと生きて、もっと真我に近づきたい。

(訳の分からないことを書いてしまいましたが・・・)とりあえずできることは、日常生活を丁寧に生きることで、限りある生命を存分に活かして後悔の無い人生を送って行きたいと思う。

なんてことを、年末の参拝で思った次第です。

このあと、氏神様である神社にも参拝をしてお札を頂いてきた。

掃除をしてきれいになったマイ神棚は気持ちがよいものです~

 

 


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日帰り入浴

2021-12-24 11:48:14 | 日記

近郊にある温泉ホテルの「昼食付き日帰り入浴プラン」に行ってきた。

和食のフルコースを食べて温泉に浸かり、その後ホテルのラウンジでお茶を飲みながら景色を眺めて、滞在時間は2時間半。

あと30分長ければ最高なのだけど、宿泊するよりずっとリーズナブルな価格で温泉に泊まったかのような気分が味わえた。

「食事はいかがでしたか。量などは足りたでしょうか?」食事の最後、デザートを運んできてくれたスタッフの方に聞かれた。

「お腹いっぱいになりました。とても美味しかったです」と答えると、「そうですか。次はぜひ宿泊をお待ちしております。良いお年をお迎え下さい」とおっしゃって頂いた。

「今度は泊まりたいね」と一緒に行った夫に言うと「そうだな」と言った後に「でも来年からワクチンパスポートがないと泊まれないぞ」と続けた。

ワクパスは持っていないし、これからも持つ予定のない私はガッカリしたが、よく話を聞くと、ワクパスが必要なのは、現在も実施されている観光支援を受けての旅行らしい。

今年は必要ないが、来年から提示が必要になって、持っていない人は検査を受けないといけないそうだ。

検査というと、鼻の中に綿棒を入れるアレだろうか。

アレは痛そうだなぁ、嫌だなと常々思っていた。

それでまさかの陽性になった時には、「札幌の60代主婦が感染」とか言って大きなニュースになるのかと想像したら、ますます怖くて受ける気がしない。

そんなことをするくらいなら泊まらなくてもいい。(泊まりたいけど、、、)

「検査もしたくない人は、正規の料金を払えば泊まれるんじゃないかな」という夫の言葉に少しホッとしたけど、なんだか胸の中にもやっとしたものが残った。

一体いつまで続くのだろうか。

コロナの感染者数が増えたとか、減ったとか、また増えたとか、毎日そんなニュースばかりでそろそろ飽きてきた。

昨日のテレビに出ていた専門家という女性が「三回目も打った方が良いです」とおっしゃっていて、これを観た人は一刻も早く打ちたいと思うのだろうなと少し暗い気持ちになる。

最近、知人友人はもちろんだが、家族間でもワクチンの話はなんとなく避けるようになった。

打つ打たないは個人の自由という暗黙の了解ができたような気がする。(ただし子どもへの接種は反対。)

ほとんどの人が打ったので、きっと打っているのだろうと思って話題にものぼらないのかもしれないが、打っていない身としてはありがたい。

それにしても、今後ホテルの昼食付き日帰り入浴もワクパスが必要にならないとも限らない。

これが最後の日帰り入浴にならないことを願いつつ帰ってきた。

 


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散歩

2021-12-20 17:58:54 | 日記

久しぶりに散歩に行ってきた。

雪道になってから散歩に行っていない。

凍ったツルツル路面だったので転倒が怖くて行けなかった。

しかし先週ドカ雪が降って、少し滑らなくなった様なので行くことにした。

実は、どうしても散歩に行きたい理由があった。

さて散歩に行くにあたり、靴は絶対、、、とまでは言わないが、最強に滑らない靴を履いた。

靴底にびっしり金属のピンが打ってある靴。

しかし雪道は滑らないが、スーパーの床はめちゃめちゃ滑るという靴で、何度スーパーで転びそうになったことか、、、

それはさておき、(雪道では)滑らない最強の靴を履いて、手にはビニール袋と園芸用のハサミを持って向かったのは、裏山の入口。

ここで松葉を採りたかった。

前にも書いたが、松葉を使ってヨーグルトを作っている。

これが爽やかでおいしくて、しかも健康にも良いそうで、すっかりハマってしまった。

本当は赤松とかエゾ松とかが有ればいいのだが、散歩コースで行ける場所にはモンタナ松しかない。

でもモンタナ松も食用になって味も良いので、これで十分かな。

松があるだけありがたい。

早速、片手に乗るくらいの量をいただいてきた。

この分量で5リットルほどのヨーグルトができる。意外とできる、、、

松葉を採ったあとは、せっかくなので少し散歩を続けることにした。

昼下がりに歩いている人はだ〜れもいない。と思ったら、向かいから犬を連れた人が歩いて来た。

前にも書いたが、本当は喉から手が出るほど犬を触りたいのだが、コロナ禍なので触りたいのを我慢している。

ところが、すれ違おうとした瞬間、なんとワンコの方から満面の笑みを浮かべて近づいて来た。

確かにワンコは笑っている(ように見えた)

そして飼い主さんを見ると、マスクをしていない飼い主さんも笑顔で、ワンコが近寄るがままにされている。

これは、もしかして触っていいってこと?そうだ、きっといいってことだ!

よほど私が、ワンコを撫でたそうに見えたのかもしれない。

「触っていいですか?」と聞くと「どうぞ」とおっしゃってくれた髭のお兄さん、ありがとうございます!

しばらくワンコとの至福の時を過ごさせてもらった。

最近少し気分が晴れなかったのだけど、これで一気に気持ちが上がったかもしれない。

ちなみに今日は鹿を見なかった。

いつも鹿がいる場所↓

冬はまだまだこれからが本番です。野生動物たちにも厳しい季節が続く。

 


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物を手放すタイミング

2021-12-14 18:22:28 | 日記

年末が近づいてきたから大掃除というわけでもないが、不要になった物を捨てている。

先日ブログにも書いたが、しばらく捨てることはおろか、見ることもできなかった鳥籠を捨てたことで弾みがついて、さらに仕舞い込んでいた大きな額縁を二枚捨てた。

これは20代最後の歳に、夫と共にローンを組んで初めて家を建てた時、新居のリビングに飾るために買ったものだった。

額縁と言ってもお金が無かったので、決して高い物ではなくて、どこにでもあるようなカジュアルな額縁に印刷された絵を入れたものだが、アパート暮らしの時には無かった大きな白い壁に二枚の絵を飾ったら、とても素敵になって嬉しかった記憶がある。

それから子どもが生まれて、ハイハイしながら階段を上がるようになったので、上れないように飾っていた一枚の絵を外して、階段の前に塀のようにしばらく置いていたこともあった。

それはそれで様になっていて、長男が一歳の時の年賀状は、その絵の前で笑っている長男の写真を使った。

夫婦二人だけの時から子どもたちが生まれて成長していくまで、笑ったり怒ったり悲しんだりの何気ない幸せな日常生活を、ずっと見ていた二枚の額縁だった。

だから義父母と同居するために新しい家に引っ越しをする時、捨てるという選択肢は無かった。いつかまた飾るかもしれないと思っていた。

しかし引越しをして16年。一度も飾ったことはない。

ずっと納戸の中に入れっぱなしだった。

一度も飾らなかったのは、若い頃は好みだった絵と額縁が、歳を重ねるうちに好みに合わなくなっていたからで、もう二度と飾ることはないとわかっていたが、それでも捨てることができなかった。

きっと無意識のうちに、それらを捨てるのは、思い出まで捨てるように思えたのだろうなあと自己分析、、、

それは鳥籠にも言えることで、鳥籠を捨てることはP太郎と過ごした10年まで捨ててしまう様な気がしたのだと思う。

鳥籠はP太郎ではないし、鳥籠や額縁を捨てても思い出まで捨て去る事はないと、鳥籠と額縁を処分した今はよく分かる。(ただし亡くなった大切な人の形見としての物は、例外だと思うが)

今はもう必要ではなくなったので手放すことに決めたのだけど、ちょっぴり胸の奥が痛んだものの、それ以上に清々しい気持ちになった。

物や場所には感情が残るとはよく聞くことで、呪われた宝石とか髪の毛が伸びる人形とか、幽霊の出る家とかは、それらを所有していた人の感情が残っているのだと思う。

不思議だけれど、物や家の中などの空間は、それを所有した人やそこに居た人たちの感情を汲み取っているそうだ。

だから逆に執着心からではなくて、大切にして愛情を注いであげた物や場所は、所有者を幸せにしてくれる。

二枚の額縁も鳥籠も十分に幸せをくれた。だから、もうこれらが無くても私は大丈夫。

他にもこれが無くなっても大丈夫だと思える物は無いかと考えているが、まだ有りそうかも。

手放すポイントは、少し前に流行ったが、それを見てワクワクするかどうか、好きだと思うかどうかだと思う。

 


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鳥籠を捨てる

2021-12-09 16:25:16 | 日記

夢を見た。

三年前に死んだオカメインコのP太郎の夢で、P太郎がこんなにもはっきりと夢に現れるなんて初めてだった。

夢の中では生きていた時と変わらないP太郎がいて、それは夢とは思えないほどはっきりとした姿だった、、、と言うのは、夢を見ながらこれは夢だと認識しており、P太郎を見ながら「夢の中でもこんなにもはっきりと姿を確認できるんだ」と思っていた。

夢だとわかっているけど、もう一度P太郎の姿を目に焼き付けておこう。ついでにP太郎と遊んで行こう、、、と思ったら目が覚めてしまった。あ~残念。

ところでP太郎がいた鳥籠を、今年の秋にやっと捨てることができた。

亡くなった最初の頃は空っぽの鳥籠を見るのがつらく、かと言って捨てることもできず、目に入らないように物置小屋の奥に仕舞い込んでいたが、今年の秋に掃除をしていたら鳥籠が出てきた。

そして、それがあまりにも汚れていることに驚いてしまった。

こんなに汚れていたっけ、、、と思いながら鳥籠を見ていたら、もう捨てようと思うことができた。

もしもまた鳥を飼うことがあったら、その時は新しい籠を買えばいい。

できればもう新しい子をお迎えしたいけど、外泊することが難しくなるので、今はまだ飼えないかな。

そういえばコロナがあってから散歩に行ってワンコ連れの方とすれ違っても「触らせててください」とは気軽に言えなくなってしまった。

やはり飼い主さんに気をつかう。本当は喉から手が出るほど、さわらせてもらいたいがガマン。

というわけで、今は散歩中のわんちゃんより野生動物に目を向けている。

野鳥観察もそうだが、今特に気になっているのが鹿で、早朝に散歩するとたまに鹿を見ることがある。

いつも森林の中からこちらを見ている。

この前は立派なツノを持った雄鹿と雌鹿や子どもの六頭くらいの群れがいて、家のそばにこんなにたくさん居ることにちょっと驚いた。

離れているので、向こうも安心してか逃げずにじっと見つめてくるのだけど、鹿を観察しているようで、実はこちらが観察されているのではないかと思う。

それにしても野生動物は種類によっては、数が増えているようだ。

ヒグマは札幌市内や近郊でも増えているそうで、前は気軽に森林の中を歩けたが、今は出逢う可能性があるので一人で森には入れなくなった。

また鹿もシカりで、こちらに来た時よりずっと会う確率が増えた、ということは鹿の数も増えているのかもしれない。

これは良いことなのかな?

人間の都合では良くないのかもしれないが、野生動物にとっては住みやすくて良いのかもしれない。

ところで白老町へ行ってきた。

穏やかな太平洋。

そしてカモメの群れ。

やっぱり鳥が好き。

 


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自家発電

2021-12-05 16:47:39 | 日記

ついに家庭用の蓄電池バッテリーと太陽光パネルを買った。

東日本大地震以来、災害時用に食料品や水の備蓄をしたり、冬の災害に備えてカセットガス式のストーブを購入してはいたが、電気まで考えていなかった。

ところが2018年9月の胆振東部地震で停電を経験して、蓄電池バッテリーの購入を考えるようになった。

東日本大震災に比べれば、我が家は被災したとは言い難い程度で済んだが、それでも丸二日間北海道全域が停電するという経験は初めてで、あっという間にお店から食料品が消えたり、交通がストップしたりするのを目の当たりにすると、備えは大切だとあらためて思い知らされた。

亡くなった方々や家が壊れて避難所生活をされた方もが大勢いらしたことを思えば、二日間の停電だけで済んだことは幸いだった。

特にガスと水道が使えたというのが大きくて、食品は冷蔵庫にたくさんあった為、いつもと変わらない温かい食事ができたのがよかった。

停電でネットも使えず、暗くて長い夜をランタンの灯りの下で、手回しのラジオを聴いて過ごすのも悪く無いと思った。

本当は落ち着いたらすぐに蓄電池バッテリーを買うつもりだったが、喉元過ぎればナントヤラで、買わないまま時は流れて今日になってしまった。

それがなぜ急に買うことにしたのか。

それは次女から何度も「買った方がいい」と言われたから。あんまり何度もしつこく言うので買うことにした。

「最近、職場で家庭でも蓄電池バッテリーを備えた方がいいって話がよくでるんだよね~」という次女の言葉に、そう言えば胆振東部地震のあと、買おうと思っていたのを思い出して、夫が選んで購入した。

購入したのはエコフローのポータブル電源とソーラーパネル。

太陽光によって電気が作られ、しかも充電が早いと言うので楽しみにしていたが、ちょっと期待はずれだったかもしれない。

早速、日当たりの良い窓辺にパネルを立ててみた。

しか~し、うんともすんとも動かない。

夫と顔を見合わせ、まさか壊れているんじゃないかと思ったが、お日様が顔を出して光が強くなった時にやっと充電し始めた。

ただ充電することはするのだが、ほとんど蓄電器には蓄電されていない。

この蓄電器が満タンになる日は来るのだろうか?と思うくらいの頼りなさで、やはり北国の冬で室内は無理があるのかもしれない。

これが夏に屋外に置いたら、説明書に書いてあるように二時間くらいで満タンになると思うが、室内で冬の太陽光で蓄電というのは難しい。

というわけで、最近、晴れの日が待ち遠しくなった。

晴れたらすぐにパネルを広げられるようにスタンバイしてある。

微々たる蓄電だが、なんだか楽しい。

家の窓から見える朝の太陽が昇ってくる瞬間。

晴れたらいいな。

 


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近所のお風呂で思うこと

2021-12-01 11:20:41 | 日記

久しぶりに近所の温泉へ行ってきた。

最近、遠くの温泉へ行くことが多くて、近所の温泉から足が遠のいていたけど、久しぶりに行く近所の温泉もやっぱりよかった。

いつも決まって行く温泉や銭湯は3箇所あって、その日の気分で行く所を決めている。

行ったのは古くから行っている温泉で、なぜかお湯に浸かりながら見知らぬ者同士で会話が始まるという、身も心も温かくなるお風呂だった。

と言ってもコロナがあってからは、以前ほどの会話は無くなりさびしい限りだと思っていたら、70代後半かと思われるお二人の女性同士が静かに話を始めた。

どうやらお風呂で知り合った常連さん同士のようだった。

「普段は自分で運転するんだけど、今日は天気が悪いから息子に車で送ってもらったの。もうそろそろ運転をやめようかと思うのだけど、つい便利だから運転しちゃう。だって重たい物でも気兼ねなく買えるでしょ?」

それを聞いたもう一人の女性が言った。

「息子さんに全部運転をお願いしたら?だって、そのために息子さん、こっちに戻って来たんでしょう?」

「そうなんだけど、いちいち頼むより自分で運転したほうが早いわ」

その会話を聞いていた私は、失礼ながら、その女性がまだ運転していらっしゃるということに驚いた。

60歳の私は、免許証の返納がもう頭に浮かぶ様になったと言うのに、自分で運転した方が早いとはまだまだお若い。

すると、息子さんに運転を頼んだら?と言った女性が話し始めた。

「頼める子どもがそばにいるなら、頼んだ方がいいわよ。私は子どもに遠慮して頼まなかったことを後悔してるの。うちの親は元気で、なんでも自分でできるんだと思われているみたいで、すっかり連絡が来なくなっちゃった」

なるほど、、、子どもの立場だったらそう思う。きっと安心しているのだろう。でも、たまには大丈夫かいと声をかけてもらいたいという女性の気持ちもまたよくわかった。

私も離れて暮らしていた父がまだ元気だと思っていたから、安心してあまり電話をしなかった。亡くなった後に父が日記代わりにしていた手帳が出てきて、中を読んだら寂しいという言葉がたくさんあって、胸が締めつけられる思いがしたっけ。もう少し気にしてあげたらよかったなあと思う。

今となっては、声がけをしたくても親がいない。

今はまだお世話されるより(子どもたちの)世話をすることばかりだが、もっと歳をとって、自分ではできないことが増えたら、子どもに限らず、周囲に、素直に救いを求められるようになっていたいと思う。

生まれてくるのも一人、死ぬのも一人。だから、年老いてもできるだけ自立していなければ、、、とずっと思っていたが、コロナで人とのふれあいが制限されることを経験したからなのか、最近人と人のふれあいや支え合いは大切だと思うようになった。

「でもね、息子とは喧嘩ばかりしてるの。ここへ送ってもらう車の中でも喧嘩してきたし」

息子さんに送ってもらったという女性が、そう言いながらも嬉しそうなお顔が印象的だった。

 


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