余市町へ行って来た。
お目当てはこれ↓
溢れんばかりに海鮮がのったちらし寿司。「まんぷくちらし」と言い、お値段は税抜き880円。
具材だけではなく、ご飯の量も多めなので、女性はご飯少なめでと頼む人もいる(私も)、ボリューム満点の一品。
隣の汁物は、煮物かと思うような厚切りの大根やニンジン、鮭のあらが入ったあら汁で、お値段は税抜きで100円。
安くて美味しいので、お店はいつも混んでいる。
余市は小樽に隣接する小さな町で、今は観光客もほとんど見かけず、町中を歩く人の姿もまばらなのだが、平日の午前11時過ぎにはすでに満席で、入りきれない人の行列までできているという混みようだった。
一体、どこにこんなに人がいたんだと思う。
ファミリーすしガーデンハウスさんは、まんぷくちらしをはじめとしたランチのお寿司が人気だそうだが、メニューは他にもたくさんあって、小樽特産のシャコや八角なども食べられるようだ。(次回は食べてみよう)
ところで余市といえば、海産物のほかに果物の栽培も有名で、特にりんごは特産品になっている。
しかし余市町がりんごで有名になったのは、「りんご侍」と呼ばれた人たちの働きがあったというのは、あまり知られていないかもしれない。
「りんご侍」とは戊辰戦争で敗れて、逆賊の烙印を押されて北海道に渡ってきた会津藩の藩士と家族らのことを言う。
1869年、明治2年に第一陣として北海道に渡った約200戸の藩士とその家族は、2年後に余市に入植した。
「天皇の御恩に報い規則に従って、仕事に励み、怠ればきつく戒めていただきたい」
当時、開拓使に提出した血判書には、そのような言葉が書かれ、侍としての誇りが読み取れる。
余市でりんごの栽培を始めたのは、200戸のうち、わずか10戸の会津藩士だったが、すぐにりんごが実ることは無く、初めてりんごが実ったのは、入植して8年が過ぎた時だったそうだ。
りんごが実ったのは、畑の片隅に植えた苗のうち2本で、このりんごは「緋の衣」と名前がつけられた。
ちなみに「緋の衣」という名前の由来は、会津藩主、松平容保が孝明天皇からもらった「緋の御衣」にちなんだという説と、会津藩降伏の調印式で、真っ赤な緋色の敷物の上で敵軍にひれ伏した無念を忘れないためという説があるそうだ。
「緋の衣」は当時としては実が甘くて、第二次世界大戦前までは全国に特産品種として知られ、ロシアに輸出するなどしていたそうだが、現在、余市では100年を越える原木が一本残っているだけで、「緋の衣」を入手するのは困難になっている。
ところでりんごの栽培に力を注いだのは会津藩士だけではない。
「緋の衣」が初めて実ることになる年の春(1879年)に、秋田亀田藩の旧藩士らが余市に入植してりんごの栽培を始めている。
秋田の一団は農民が多く、最初から鎌や鍬を持って入植したため、開墾に勢いがあり、農業技術もあったそうだ。
会津からは、りんご栽培の指導者が多く出て、秋田には農業技術あった・・・ということで会津と秋田の関係を分かりやすく言うと、りんごは会津が実らせ、秋田が広めたと言われている。
その後、徳島県など他県からも入植者が入り、りんごの栽培規模はどんどん大きくなっていったのだそうだ。
現在は、りんごの他にもさくらんぼやぶどうなど様々な果物が栽培されていて、道内では「フルーツのまち」として、果物狩りなどで賑わっている。
というわけで、コロナが衰えたらぜひ余市へ、北海道へお越しください。おいしいものがたくさんありますので。ぜひぜひ、、、