函館の旅の続きです。
函館の街を歩いていておもしろいなと思うのが住宅の形で、和洋折衷になった住宅を見かけることがある。
こちらの建物も和風建築の一部が洋館になっている。
函館は横浜、長崎と同じ時期に開港したことで、外国の文化が入ったのだが、他都市のように外国人遺留地がかたまっておらず、市中に混在したため、至る所でこうした住宅が見られるようだ。
でもこれが函館らしい風景なのかもしれない。
というわけで函館では主に神社仏閣巡りや街歩き少々をしたが、最後に修道院に行ってきた。
女性の修道院で聖トラピスチヌ修道院。
修道院の門をくぐると、大天使聖ミカエル像が迎えてくれる。
ドラゴンに向けて槍を振り下ろそうとする大天使ミカエル像。とても強そうですね。
さらに進むと両手を広げた慈しみの聖母マリア像が迎えてくださる。
マリアさまを見るとき、いつも遠い昔のことを思い出す。
そして聖テレジア像。
テレジアは実在した修道女で24歳という短い生涯を閉じるまで、神を信じて祈りの生活をされたそうだ。1925年に聖人として認定されている。
ところでほとんどの人は、これまで幾つもの人生を生きてきている。
それらのことを前世と呼ぶのだが、前世のことはほとんどは忘れて生まれてくるらしい。
たしかに新しい人生を始めるにあたって、過去の人生の思い出は邪魔になる。
でも私は、なぜか二つの前世を憶えている。
そのうちの一つが、修道院で生活していた人生で、これは物心ついた子どもの頃には今よりもずっと多く、しばしば思い出していた。
修道院の孤児院にいた頃のわたし、修道女となったわたし。
断片的ではあるが、脳内に鮮やかにその時の映像が浮かぶことがあり、現実でも偶然マリアさまの像を見かけると、いつまでも見入ってしまう。
マリアさまを見る時の感情は、なかなか言葉では言い表せないものがあり、懐かしさとか、悲しみとか、訳のわからない感情で胸がいっぱいになる。
今回もマリアさまの前に行ったら、そのような感情が湧き上がるのかもしれない思ったが、不思議と平常心だった。
前世のことが、今やっと自分の中から浄化されたなと思った。
それが嬉しかった。
でももう一度修道女として生活してみなさいと言われたら、今でも喜んでやれるだろうと思う。
祈りと労働と読書の日々。
トラピスチヌ修道院のホームページには「神を探し求める生活」と書かれている。
これは今の人生でも同じようなことをやっていると思う。
でも当時と決定的に違うのは、今は市井の中で自由に暮らしていることで、自由というと何かポジティブに思うが、規律のある中で決められたことを規則正しく行うよりも、自由に暮らす方が私にとっては難しい。
(自分にとって)難しいことにチャレンジしている今の人生は、レベルが一段階上がってるのかも?
実は、この記事を書くのは二回目で、一回目は前世のことをもっと詳しく書いていたのだが、ちょっと目を離した隙に全部消えてしまっていた。
変な操作もしていないのに、そしてせっかく苦労して書いたのになぜ消える?と残念に思ったが、もしかすると書いてはいけないことを書いたのかもしれない。
というわけで、投稿ボタンを押すまで記事が消えないことを祈つつ終わりにしたいと思います。