198万PV達成!漫画史研究家・本間正幸監修【少年画報大全】(少年画報社・現在三刷)更新復活

【20世紀冒険活劇の少年世界】メトロポリス漫画総合研究所(since1997)から、昭和の映画、出版美術、音楽を!

続・大津市イジメ事件を考える!

2012-07-14 23:55:58 | 2001年夏「少年画報大全」(少年画報社)監修者への道
大津市イジメ事件は、その後・・・。

私はこのブログ記事の書き方に共感、心から支持し、おすすめ致します!!

何らかの圧力や規制などにより、記事が削除されてしまう前に、是非、読んで見て少年犯罪の現状や、学校教育現場のあり方について皆さんも一度考えてみて下さい☆


デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba


http://ameblo.jp/dewisukarno/


デビ夫人のブログは、予想通り物議を醸しだし、賛否両論を呼んでいるようだ。
アメーバの削除規制は、記事へのコメント削除だけでなく、デビ夫人グルっぽの自己紹介にまで及んでいます。

「デビ夫人のブログを支持します。」

と書いた私のコメントを含めて四件の自己紹介が削除されました。

又、実名で白黒ハッキリと意志表明しているデビ夫人のブログにコメントしている人の中に、アメーバでアカウントを作らずに、匿名で加害者を盲信的に擁護する偏った自己主張をしている少数意見の主は、かつてイジメの加害者だったのだろうか?
イジメの問題を自己保身のため隠蔽する卑怯で卑劣、情けない偽善者の教師達、加害者の父兄が悪しき権力を握るPTA、偏った思想の教育委員会、正義の味方どころか良心の欠片すらない地元警察、病院の医師、弁護士から市長になった女まで、本来なら子供達の成長を温かく見守ってあげなければいけない立場にいる、肩書き・職業の社会人全ての情けない姿が晒されることで、全ての大人達を、大津市の子供達はじめ、日本中の子供達がみんな、これからは信用しなくなるでしょう。
私が学んでいた横浜市立上の宮中学校でも、私が中学三年の1982年1月14日、一人の同級生が、自殺しております。


レコード屋の息子M君と、私の家は比較的近くにあり、私立の幼稚園、公立の小学校、中学校と同じ学校へ通います。
幼稚園の時に、M君の家へ遊びに行った記憶があります。
けれどもそれ以降小学校は四クラス、中学校は六クラスあり、全て一緒になることはありませんでした。
中学まで1.5Kある私の通学路途中、毎朝M君と顔をあわせ続けたため、中学二年の頃から特に仲良くなります。
元々、アニメやドラマなど、大の音楽好きだった私は、毎月親からおこづかいを貰うと、直ぐに近所の本屋さんと、M君の両親が経営するレコード屋さんへ通っていました。
オーディオを自作して、中学校の文化祭に出品したり、ブラスバンド部に所属して、合唱コンクールの際、指揮者として活躍したM君は、当時としては珍しく男子生徒よりも女子生徒の友達が多かったようです。
小学校から乱暴者のため、同級生と喧嘩ばかり繰り返していた私の学校生活は、中学に入って剣道部に入ってからも友達が少ないまま、いつも一人で過ごす時間だけが多かったのです。
そんな私の姿をみるにみかねたのか、心優しいM君は私に声をかけ、

「今度、家に遊びに来なよ。」

と言ってくれたのでした。

M君は、私に好きな音楽について尋ねると、お店から発売されたばかりの私が好きそうなレコードを持ち出して来て、二階の部屋で聴かせてくれたました。

さだまさしさんと、井上陽水さんがとても好きだったM君と、井上陽水さんが大好きだった私。
オフコース全盛時代、他の同級生と較べても、私とM君は音楽の趣味が比較的近かったようです。

冷暖房完備、オーディオ設備やソファーが自分の部屋に揃っており、寂しがりやだったM君の部屋には、いつもたくさんの友達が来ていたようですが、やがてみんなが受験勉強を始める頃になると、私とM君二人だけで過ごすことになります。

M君と友達になってから、私はたくさんの同級生を紹介され、いつしか友人も増えていったのですが・・・。

私の知らないところで、M君はクラスメートの一部から、イジメにあっていたようです。

電気系オタクのM君は、理系と音楽以外の成績は、芳しくなく

「死人に口なし。Mに○なし。」

と、テストの成績についてからかわれていたことを随分後になってから、知りました。
漫画オタクの私と、電気系オタクのM君。

「本間は将来、どんな仕事をするつもりだい?俺は、東電の学校に行って将来は電気技師になりたいんだ。」


「俺は【ビリー・パック】のような少年漫画を復刻する、出版社の編集者になりたいと思っているんだけど・・・、難しいんだろうな。」

「じゃあ、俺が電気関係の技師や発明家に成れるか、本間が出版社で漫画の編集者に成れるか、どっちが先に夢を叶えられるか競争しよう!」


ところが、M君は色弱だったため、クラス担任であり社会科教師の川松の進路指導の際、保険室に連れて行かれ無理矢理目の検査をされ

「お前は、緑と赤の色の違いが識別出来ないだろう。そんなんじゃあ、東電高校どころか理系の学校へ進学するのは無理だ!諦めて普通の学校に進路変更するんだな!」

「川松先生、そんなはずはないです。もう一度検査して見て下さい。(涙)」

M君は、納得がいかなかったようです。

その日、学校から帰宅したM君は、特に仲の良かった友人何人かに電話をしたようです。

私は、学校から帰宅後、二階の自分の部屋で昼寝をしていました。
電話のベルが鳴り、直ぐに学校帰りの姉が電話に出たので、私はそのまま、深い眠りについてしまいました。

その日の夜遅く、M君のお母さんから私に連絡があり、

「本間君、今日うちのMと一緒に遊ばなかった?」
と言われます。

「今日は、朝、会ったきりですけど、M君まだ帰ってないんですか?」


その後、遅く帰宅した姉が

「そう言えば今日の夕方、M君から電話があったわよ。」


そう、夕方、私が昼寝している時に、M君は私に連絡をくれていたのです。

もし、あの時、私が昼寝をしていなければ・・・。

いつものように、自転車でM君の家へ行き、二人で井上陽水さんの曲でも聴いて話相手になっていたなら、M君のその後の運命も変わっていたかも知れません。

M君が亡くなる9日前、私の誕生日である1月5日に、二人でバスと電車を乗り継いで、電気街のある秋葉原と古書店街のある御茶ノ水に行ったことがあります。
お互いいつも一人だけで行っていた秋葉原と御茶ノ水の街。
お年玉をもらって、軍資金がたっぷりあったので、M君は、1月5日が私の誕生日だと知ると、

「どうせなら、本間の誕生日のお祝いに、二人で秋葉原と御茶ノ水へ出かけようじゃないか。」

と、なったのです。
鶴見駅から京浜東北線で秋葉原駅までは一本。
私は、東京駅で中央線の快速に乗り換え、御茶ノ水駅へ。
いつもは一人きりで行く電車の移動時間、中学三年生の二人にとって、その日だけは、遠足気分でとても楽しい時間だったのです。


1月15日は成人の日で休日だったため、私がM君が亡くなった事実を知ったのは、16日の朝の通学路でのこと。

急いで隣の教室を覗いてみると、M君の机の上に花瓶に花が飾られていたのです。

M君と一番仲が良く、M君が憧れていたクラスメートの女の子は、泣きじゃくっていましたが、私は男の子なので、人前で涙を見せることは出来ません。(涙)

M君の自殺について、学校側は、

「本人は進路について悩んでいたようだが、イジメや、担任の進路指導など、学校側の対応に何も問題はなかった。」

と、発表。

一部のクラスメートからのイジメの実態や、担任である川松の進路指導の実態など、全ては闇に葬られ、家族の調査からその事実を私が知ったのは、中学校を卒業してからのことだったのです。

M君は、日記を書き残していたようで、M君の遺品を整理していた家族がそれを発見。
イジメの実態や、担任川松の進路指導の実態などが、明らかにされていきます。
学校教育現場の問題や隠蔽体質は、30年以上前から、何ら変わっていないようですね。
いつも夜遅くまでM君の部屋に入り浸っていた、不良少年の風貌の私を見て、少なからず悪い印象を持っていたM君の両親。

M君の死後、日記に登場する私の記述を見て、対応が一変します。

「本間君は、うちのMにとって、本当に良い友達でいてくれたんだね。」

と、涙ながらにM君の両親に言われるようになります。

M君がレコード屋の息子だったから、近付いた奴もいれば、仲の良い友人を装おって影でイジメていた奴もいたようです。

陰湿なイジメの実態や、学校教育の現場など、昭和時代からの問題は、平成時代になってからも放置されエスカレートしていると私は考えています。

M君の死後、M君と仲の良かった友人達は、葬式や命日、そしてM君の両親の希望で高校時代の数年間、M君の誕生日に合わせてM君の家に集まります。

けれども、高校進学以降、みんな進路がバラバラとなっていたため、一人減り二人減り・・・、10年も過ぎると私以外は誰もM君の家へは行かなくなりました。

私はM君の家に一番近く、本当に仲も良かった。
そして音楽好きであり、今も変わらず横浜鶴見に住んでいる。
M君の父親は、元映画俳優。
有名児童劇団の創設に深く関わっているため、戦後の日本映画についてなど、私と共通の話題もあるため、今も交流が続いてます。

M君が亡くなってから20年後の夏、私は少年の日の夢を叶え、【少年画報大全】を監修し発売することになります。

その夏、シークレットベースの

【君がくれたもの】

が流行り出した時、私は思わず・・・。(涙)


M君をイジメていた主犯格のMKは、私と同じ神奈川県立白山高校へ進学。

高校時代、MKは、暴走族の非行少年達と一緒にグループで私に対して嫌がらせを始めてきます。
私は度重なる喧嘩が元で、何度も停学を喰らってしまい、退学寸前の状態。

けれども、偶然私の家の近くに住み、同じバス停からバスに乗って菊名駅に通学する朝鮮学校の生徒T君と親友になります。
ガッツ石松とチャゲ&飛鳥の飛鳥を足して2で割ったような風貌、空手の名手で身長180センチ以上のT君は、当時の横浜朝鮮学校の伝説的なボスでした。
日本人の不良少年で唯一、在日の良き理解者となった私は、朝鮮学校の生徒と横浜の非行少年達との争いの渦中に巻き込まれます。

1980年代、日本の非行少年達による朝鮮学校の生徒達の通学鞄を狩る通称チョンバン狩りに報復する形で、菊名駅や横浜駅でT君率いる朝鮮学校の生徒達による白山狩りや武相狩りと呼ばれる非行少年狩りが日常的に繰り返されるようになったのは、丁度その頃。


M君イジメの張本人であり、その後何の反省をすることなく、グループで日本人の弱い一般の高校生や、朝鮮学校の生徒に対する人種差別を繰り返していたMKは、一浪後、帝京大学へ進学。
就職も決まった四年生の冬に酒に酔ってビルから転落し植物人間実態となり、数年後に人知れず亡くなったとの噂。
MKと中学時代から仲が良く法政二高に進学した力自慢、横山光輝先生の漫画【バビル二世】のポセイドンからポセとあだ名されていたNは、高校時代MKと一緒にいる所、菊名駅でT君と遭遇し、喧嘩となり、T君得意の必殺技、割箸を鼻に入れられ貫通させられ大怪我。
卑怯で卑劣なMKは、それを見て、怯えて詫びを入れるだけだったとのこと。

Nは、法政大学へ進学。
一年生の冬の深夜、鶴見駅近くで自ら運転する車で事故を起こし炎上死。
Nの実家は、その後、引越します。

もう一人、MKとNと仲の良かったTKは、神奈川工業高校進学後、実家の工務店が夜逃げをし、今も行方知れずのまま。

M君のクラスは、当然同窓会も開かれず、担任の川松のその後は判りませんが、私のクラス担任の植野は、私達の学年が卒業後、上大岡の中学へ転勤。
学級崩壊となり、ノイローゼ。
今は養護学級の教師になったと、卒業後、1995年に一度だけ開かれた同窓会の席上涙ながらに語っていました。

M君が亡くなってから、その後の一連の出来事は、全て天罰が下されたのであり、因果応報。
自業自得だと私は考えています。


私は、中学時代の反面教師達の姿を実際に見て、教師や警察、弁護士や医者など、肩書きだけで他人である大人を信用することが出来なくなりました。



漫画史研究家・アニメーション史研究家・社会学士


本間正幸
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