母の子(私の兄弟)とその家族に声をかけ、ささやかですが一周忌法要を行いました。
この1年は、ホント、あっというまでした。
できれば母の生家や兄弟の家にも声をかけたかったのですが、92歳の天寿を全うした母の兄弟は既に亡くなり、代も変わっているし、普段のお付き合いもないことから、直系だけに声をかけることにしました。
それでも、『兄弟は他人のはじまり』で、なにが気に入らないのか、親の法要にも出てこない強者がいたりして、人間関係は、肉親ほど難しいなぁとつくづく思います。
母は認知症が出てから約7年間、まあ、言葉では言えないくらいの、いろいろな混乱がありました。それでも、『うちのばあちゃん』だから、十分とは言えないまでも、家族でできる支援はしてきました。
遺産として少し残った預貯金は、私は辞退し、外に出た兄弟で均等に分割することで協議書を作り、整理しました。
わが家のメンバーとしては、「やれることはやったよね!」という思いです。
供養は、本人の志の問題なので、来なくても、あまり腹も立てず、あるがままに放置しておくことにしました。やってしまったこと、済んでしまったことにいつまでも拘って生きるのはあまりいい生き方ではないですよね。
法要は、骨になってしまった母に線香をあげることが本旨ではないと思う。
今生きている人間が、これからどう関係性を持って生きて行くかというために、故人の名の下に集うことではないんでしょうか。
来年は、三回忌。変なわだかまりを捨て、皆、顔を見せてくれるといいし、母の孫世代が新たに家族を持って、にぎやかになるといいなぁと願っています。
読経の方なんですが、練習を重ねている般若心経の部分は、ご住職さんについて何も見ず唱えることができました。『門前の小僧習わぬ経を読む』ではないですが、毎日の積み重ねは、大きな力だと実感です。
お経の意味は、未だちんぷんなのが・・・(―_―)!!ですが。
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