まがりかどの先に

まがりかどの先にはきっと良いことがあると信じ、目の前の人生の小路をてくてく歩き続ける日々の雑記です。

誰に向けたものなのだろう?

2022年04月05日 | 読経の日々

『小さなお葬式』というCMをこの頃よく目にするが、「これって誰に向けたものなのだろう?」と、ふと思う。

近頃はいつかは死ぬときがくるということを受け止められるようになったが、こんな自分に向けて、「みな飲んじゃわないで、ちょっとはお金を残しておかないと、残された人たちが迷惑だよ」と言っているようにも聞こえるけれども、残された家族等へ「お葬式は、シンプルにお安く、サクッといきましょう」と言っているようにも聞こえる。

お葬式という非日常の分かりにくい部分を、実際に先立つ費用という面で分かりやすく提示してくれるのは有り難いサービスではあるけれど、あまり安さやお得感、お手軽感を煽られると、順番でこれからフェードアウトしていく自分としては、なんだか日々生きている事自体が安っぽい感じがしてきてあまり良い気分になれない。

だいたいお葬式っていうのは、死んだ当人が心配する必要はない。生きている内に死んだときは、といくら考えてみても、まだ死んだわけではないし、先々実際に死んだその後はどうなるか自分にはわからない。

いざ死んでしまったら、もう生きていないのだから、そもそも心配はできない。

結局、生きている内は一生懸命家族や隣人を慮って今を生きればいい。死んでしまったあとの心配でお葬式代の保険に入ったりお金を残すなら、今を生きるために使った方がご利益がありそうだ。

お葬式は、残された生きている人たちの気持ちの整理の問題だから、その故人への思いの中で、できる範囲でやったらいいという話だろうと思う。

遺族がお葬式で借金をして後々ローン返済に追われるというんじゃお葬式の意味を成さないけれども、こういう非日常の気持ちの整理の部分までがパターン化、形式化され、金額で判断される社会ってどうなんだろう。

今風ではあるけれど、ちょっと寂しいと感じる。

 


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