窓から見える隣家の金木犀の大木がまた黄色い花をつけ始めた。
今シーズン二度目の開花のようだ。
金木犀は気温の急激な変化があると、「二度 咲き」「三度咲き」があるというけれど、ここに来ての急激な気温変化に刺激されたのだろうか。
一週間ほどの短い花期だけれど、窓を開けると秋風とともに流れこんでくる、気高い高貴な感じの香り(私見)に陶酔できるのかと思うと、本当にありがたい気持ちになる。
今日はご近所の享年90歳になる”地域先達”の葬儀・告別式があり、施主のお手伝い方々、お別れをしてきた。
お寺が同じということで、亡くなった先達と同世代のご住職の声を久々に聞いた。
檀家というお付き合いとは別に、ご住職にしてみれば、地域の同朋としての思いもあったのかもしれない。
「露!」
私が知っている限りでは、もっとも大きな、気合の入った引導渡しだった。
木として生まれたものでも、木として生を終え倒れ朽ち果てるものもあり、切り出され材木となり、家の部材として人の生活を助けながら朽ちるものもある。
薪として、炭として、人の生活を助けるものもある。
その時その時を受けとけ止めて、しっかり生き、燃え尽き、灰になり、土になる。
土は新しい芽吹きの養土となり、時を紡いでゆく。
今日のご葬儀では、小さな曾孫さんたちも棺の側で未邪気に時を過ごしていて、『死』が忌み嫌われるものではない、悲しいものでもないと実感できた。
涙より、「おじいさん、ありがとう」の声。
先達は、この曾孫さんたちのために、休耕田にレンゲ草の種をまき、来春には曾孫たちの遊ぶ姿を見ながら家族でバーベキューをしようと行動中だったらしい。
そんな毎日の中での脳梗塞発症での急死(休止)だったとのこと。
伊藤左千夫のお父さんの辞世の句、『あら楽し 冥土の旅は 花盛り』(『銚子をめざして 駅間ひとりウォーク(2)(成東~飯倉)
2020年03月22日 | 銚子をめざして 駅間ひとりウォーク』)は、私のめざすところだけれど、先達はやっぱり私の先達。
しっかりこれを地で行っていたようである。
人の死は、秋風ににおう金木犀の香りのような季節の移りのようなものかもしれない。
死んだらとか、死にたくないなんて考えても、逆に、死にたいと考えても、そうそう思いどおりにはならないし、無理を通せば傍迷惑だ。
そもそも『個人としての(私的な)生・死』には、意味はないと思うようになった。
今を一生懸命考え、迷い、悩めばいい。
どんな自分でも、不器用な自分でも、例え人に迷惑ばかりかけている自分であっても、その日、その時を一生懸命生きた生の後の死には、木が薪になり灰になっても、土になっても、他のために生き続けられる、そういうことなのだろう。
二度目の花をつけ始めた隣家の金木犀、その手前には今年たわわに実をつけたわが家の柿がいい色に色づき、なんかいい。
今、とてもいい時間だ。