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日々発見

日々新しい事に挑戦して・・・

2013年 ヨーロッパへの旅 14

2013-11-14 17:09:26 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 

9月11日(水) (アテネからマドリッドへ) 

5時起床、6時チェックアウト。
タクシーでアテネ空港へ。
8:30スペインのマドリッドへ向けて飛び立った。
飛行時間は3時間。

機内は3人ずつの6シートですごく狭い。
おまけに隣席の男性の大きいこと、
大きいこと・・・ちょっと辛かった。

さらに、機内食のまずさは相当な物だった。
結局、ヨーグルト一つだけお腹に入れた。

マドリッドのホテルは「ウサ パセオ デル アルテ」
Husa Paseo der Arte Hotel
近代的な建物で、
部屋もモダンで
とてもすてきな雰囲気だった。

 

 

しばらく休んで市内観光へ。
ホテルから歩いて5分、ソフィア王妃芸術センター。

18世紀の病院をモダンに改装したという左側の建物で、
後で取り付けたエレベーターが
透けていて、外からもよく見えた。

  主に20世紀の現代アートを所蔵する美術館で、
ピカソ、ダリ、ミロなどの現代美術の
巨匠達の作品が集められている。

 


ほとんどの部屋で皆が写真を撮っていたので、
私も何も考えずに撮っていたら、
理由は分らないが、係員が飛んできて
「ここと隣の部屋の写真は
撮ってはいけない。」と言われた。

恐れずに、正直に言うと、現代美術の多くの作品が・・・・
ほとんどと言っていいほど、私には理解し難い物だった。

この美術館の大きな売り物はピカソの「ゲルニカ」という、
戦争の悲劇、怒りを表した大きさ縦3.5m、
横7.8m、の作品だったが、
これもそう思って見るからなるほどと思うものの、
私は海外の美術館で彼の昔の作品のすばらしさを
何枚か見たことがあるので、
どうしてあの画風から後年このように変化したのか
・・・・と不思議だった。

もっとも、ピカソもダリも世界中から認められているのだから、
きっとすばらしい作品に違いない。
観る目がないのは私だけ・・・


さて、夕食。
ここからが受難の始まり!

10日もするとそろそろあっさりとした物が食べたくなる。
ガイドブックに書かれていた
日本食店か中華店を求めて歩き始めた。
正一郎君ががんばってナビゲーターに・・・

ところが、30分以上歩き回った挙句、
2軒ともすでに閉店していたことが分った。
それから、スペインに初めて出店されたという
回転寿司店「銀座」にも回ったが、
ここもすでに閉店していた。

結局、1時間以上歩き回って、
ホテルに戻る途中のパエリア店に入った。

 パエリアにお米(右)とスパゲティ(左)があるなんて知らなかったが、
お味はまあまあ・・・。
今日も飢えずに済んでよかった。


「地球の歩き方」2011年版、
飲食店については絶対に鵜呑みをしてはいけない。
何度も経験しているのに、又 確認を怠った。

    

今日は朝から何度もCNNのニュースで
9・11のセレモニーが流れていた。
あの時の衝撃的なニュース、
イタリアのフィレンツェのホテルで、
テレビの前に立ち尽くして聞いていたが、
もう10年にもなるのだ。

     

 

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2013年 ヨーロッパへの旅 13

2013-11-10 23:26:43 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 


9月10日(火) (アテネ4日目) 

 

 7日 9848歩、8日 16812歩、9日 14010歩、
毎日歩いていたので、少々疲れが溜まってきた。

今日は一日中ホテルで日記、絵葉書などを書きながら過ごした。

夫と正一郎君は10時ごろに出て行って、6時ごろに帰ってきたが、
電車にも乗らず、一日中歩き回っていたらしい。

電車と言えば、昨日は駅構内で切符の検札があった。

日本と違い、改札口があるわけではないので、
切符を買わずに電車に乗る人が多いのではないか
と思っていたが、突然、数人の係員が現れて、
切符を見せるようにと言った。

私達はもちろん買っていたので、問題はなかったが、
持っていなかった人への対応はどうだったのだろう・・・


プラットホームに降りるとホームの端から端まで、
ギリシャならではのすばらしい彫刻のレリーフが
飾られており、
やはりというか、さすがというか、この国の誇りを感じた。

  

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2013年 ヨーロッパへの旅 12

2013-11-07 20:41:02 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 


9月9日(月) (アテネ3日目) 続き


アドリアノス門
 

 これは、ローマ時代2世紀に立てられた門で、
高さ約18m、幅13,5m、
ゼウス神殿のすぐ北側にあり、
シンタグマ広場の前門のように、堂々と立っていた。


ゼウスの神殿

かつて104本ものコリント式の柱が並び、
それは美しく、威厳のある姿だったということだが、
現在はその内の15本しか残っておらず、とても残念に思った。
同じ敷地に柱の一部と思われる円形の、
ちょうど、ちくわぶを輪切りにしたような石が
たくさん見られた。

紀元前515年に着工が始まって以来、
二度も時の権力者の失墜によって
中断されたこの工事は、ローマ時代2世紀、
アドリアノス皇帝の時代に完成したという経緯がある。

何世紀にも渡って、
ゼウス神の聖域に神殿を建てようとした思いの強さに驚くと共に、
日本にも同じ時代に何らかの文化があったかもしれないが、
「木の文化」では、しかも高温多湿の環境では
確かな物は残らないだろうと思い、
あらためて「石の文化」の強さを思った。

遠くにアクロポリスのパルテノン神殿が見えた。

パルテノン神殿を手中に・・・

帰り道、シンタグマの駅前にある無名戦士の墓にお参りをしたい、
と言う正一郎君と一緒に立ち寄ると、丁度、横長の碑の前で、
見回り交替の儀式?が始まり、
その後、衛兵との記念撮影が許可され、
私達もそれぞれ撮ってもらった。 

後の碑の右側には「英雄達にとっては、
世界中どこでも 彼等の墓となり得る」
左側には「伏している無名の戦士のために、
空のベッドが運ばれてくる」と書かれているそうだ。

 それにしても・・・正一郎君は
どうしてお墓参りをしたいと言ったのだろう。

 

ホテルに帰って、しばらく昼寝をして 、
7時に一昨日行ったレストランへ。

彼と帰り際に約束をしていたので、大歓迎をしてくれた。

期待が大きかったせいか、一昨日ほどではなかったが、
この日釣れた小魚や少し大きな魚、
そして水イカのグリルなどいただき満足。

正一郎君によると奄美大島と同じような味がするとのこと。
南国の魚は共通点があるのかな。

   

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2013年 ヨーロッパへの旅 11

2013-11-04 08:12:21 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 

9月9日(月) (アテネ3日目)  


今日は昨日のようにシンタグマ駅から
アクロポリス駅まで地下鉄に乗り、古代アゴラを目指す。

アゴラというのは、政治、宗教、
文化的施設が集中していた場所で、
現代では「市場」を指す言葉として使われているようだ。

当時は男性が買物をする役目だったが、
このアゴラで政治を論じたり、
雄弁家の話に耳を傾けていたらしい。

この時代に哲学者ソクラテスやプラトン、
喜劇作家のアリストファネス、
歴史家ヘロドトスという人達が活躍していたという。

このアゴラへの途上、保育園の先生と子供達だろう、
日本の「か~ごめ、かごめ・・・・後の正面だ~~~~れ。」
 という遊びと同じことをしていた。 
つい懐かしくて、かわいくて、しばらく見とれていた。

 

パゴラの遺跡はほとんど廃墟と化していて、
立ち入ることは出来なかった。

すばらしい遺産が朽ち果てていくのはもったいないことだと思う。
まして すぐ側の住宅の壁にはこんな落書きが・・・

本当にもったいない!

 

そして、奇遇!
昨日、美しい小路で迷っていた時にお会いした
キプロスの婦人に偶然再会した。

昔 アテネで仕事をされていて、
今は歯の治療でこちらに来ていると言われたが、
彼女のお陰で、アクロポリスの入口までたどり着けたのだ。
これも何かの御縁と、記念に写真を撮らせていただいた。

次にゼウス神殿に向かった。

神殿を探す内、アギオス・エレフテリオス教会という
12世紀に建てられたヴィザンティン様式の
小さな教会に行き当たった。

そして、すぐ近くにあるアテネで一番と言われる
ミトロポレオス大聖堂にも立ち寄ったが、
残念なことに改修中で、全貌を見ることは出来なかった。

この教会は1840年から15年の歳月をかけて建てられ、
現在は、大統領の宣誓式などの国家的行事が
全てここで行われるとのことなので、
重厚な美しい内外装が見られず、
本当に残念だった。

この地の人達は信心深い人が多いのか、祈りをささげ、
ガラスケースの中に納められたイエスの絵に口づけをしている。

どちらの教会でも、
ガラスにたくさんのキスマークが付いていたが、
このような光景を見たのは初めてだった。

続く 

 

 

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2013年 ヨーロッパへの旅 10

2013-11-02 23:28:11 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 

9月8日(日) (アテネ2日目) 続き

暑さと喉の渇きで外に出ると、
すぐに新アクロポリス博物館前に並ぶ
カフェの一つに入り、一息付いた。

 遺跡内の出土品は長い侵略と戦争の歴史の中で、
海外に流出した物もあるが、
このアクロポリスの麓にある博物館で多くを見ることが出来る。

2009年にオープンした新アクロポリス博物館は、
すばらしい建物だったが、
ギリシャ語と英語の説明文だけで、
「何世紀の物」という部分しか理解出来ず、
正直に言うと、私は1時間で飽きてしまった。

(博物館内部から玄関部分と正面に聳えるアクロポリスを撮った写真)

この博物館は遺跡の上に建てられていて、
通路はガラス張りになっているので、
その下にある数々の遺跡が覗けるようになっており、
近代建築の技術に驚かされた。

 

 館内は撮影禁止になっており、係員の目も厳しいが、
1ヶ所だけ撮影可能な所があった。
復元作業の様子をビデオで見せている所だ。

博物館の外では観光客相手の美しいおもちゃのような電車や、
白馬の馬車などが目を引く一方、多くの黒人や、
母国がどこの国の人かは分らないが、
路上での物売り、物乞いが多く、
特に若い母親が乳飲み子を横に置いてアコーディオンを弾き、
小さな子供達がテーブルを回って縦笛や歌、
アコーディオンの演奏をしながら
お金をねだっている様子を見ると胸が痛んだ。

 ガイド付きでなければ細かい事は分からないが、
とにかくアクロポリスの壮大さは理解出来た・・・・
ということで、次は夕飯探し。

日曜日はどこもかしこも全て休み。

正一郎君と「日曜日こそ働けばいいんだよ。旅行者が困るじゃないか。
銀行の預金金利を下げるな、
消費税を上げるなと言ってデモをする資格はないよ。」
「そうよ、そうよ、同感!」」などと悪口を言いながら
ホテル近くを歩いていたら
昨日のレストランの前のイタリアンレストランだけが
開いていたので、そこに落ち着いた。

                            

この3皿を三人でシェアーして、皆満腹。
 それぞれ、まあまあおいしくて良かった!
  感謝 感謝 

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2013年 ヨーロッパへの旅 9

2013-11-01 07:46:52 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 

9月8日(日) (アテネ2日目) 

昨夜遅く、テレビで2020年・オリンピックの開催地が
東京に決定したとの報道があった。


毎日のように、「福島」のニュースが流れ
数日前には竜巻の様子が映っていたので、
こんなに遠くにいても日本のことがよく分かり、
ますます世界は狭くなっていると感じ、
「福島」がオリンピックに影響しなければいいのだが、
と危惧していた。
 


決定の瞬間、日本応援メンバー達が抱き合って泣いている姿に、
私も もらい泣きをしてしまった。
もちろん、東京オリンピックまで生きていて、
毎日テレビにかじりついていることだろう・・・と思いたい。 

今朝は、昨夜遅く到着した正一郎君と合流し、
アクロポリスに向かう

彼は一昨年EU旅行で一緒にヨーロッパを回った青年で、
今年は大学4年生。
とてもしっかりした好青年で、
着々と自分の夢に向かって進んでいる様子だ。

まず、彼のお薦めで、毎週日曜日の10:50~11:10に
行われるという無名戦士墓前の交代式を見に行った。
 

シンタグマ駅のすぐ側にあるこの墓は大きな横長の碑で、
約400年間に渡るトルコ支配に終止符を打った
1823年からの独立戦争での戦死者や、
それ以降に起こった数々の戦争で犠牲となった兵士達の
霊を慰めるために造られたという。
 

どう見てもコスプレにしか見えないのは僕だけかな・・・・
と正一郎君。 
週に一度、20分だけのチャンスに巡りあえて、
本当にラッキーだった。

 

その後、アテネ観光の拠点シンタグマ駅から
隣の駅アクロポリスまで地下鉄に乗った。

駅のあちこちに彫刻が配され「正にギリシャ」という雰囲気だ。

アクロポリスとは 「高い丘の上の都市」という意味で、
外部の侵略を防ぐ要塞として機能していたが、
紀元前8世紀頃から次々と神殿が建てられ、
聖域として人々の信仰を集めるようになったそうだ。

入口を間違えて住宅街に入り込んでしまったが、
その美しい真っ白な小路にびっくり!

このような美しい小路がずっと続いている様を、皆想像出来るだろうか。

結局、回り道をしながら元に戻って来たが、
途中で出遭った人達との話も楽しい思い出となっている。

さて、大昔、世界史で学んだアクロポリスは、
パルテノン神殿の柱の写真だけが遠い記憶の中に残っているが、
やはり行って 見て その大きさを実感出来た。



すぐ近くでは柱の先だけしか写すことが出来ない。

少しずつ修復工事も進んでいるようだが、
紀元前8世紀にどのようにして
これだけの建造物を作ることが出来たのだろうか。

丘の上から眼下に広がる屋根の波を見ると、白っぽく、
太陽の光で目を開けていられないほどのまぶしさだった。

そして「ああ、これだ!」と思ったのは、
16~7年前に
アメリカのフィラデルフィアの友人イワンさんリディアさん宅で
DVDを見せてもらったイロド・アティコス音楽堂だった。

アッティカの大富豪イロド・アティコスがアテネ市に寄贈した物で、
161年に建築され、6000ほどある観客席は最近修復されたそうだ。

この音楽堂で日本の鼓童の演奏があり、
その友人夫妻が大感激をして、
私達にそのDVDを見せて下さったのだ。

その頃、私達は「佐渡の鼓童」のことについて全く知らず、
ずっと観たいと思っていたが、
ついに横浜でその機会を持つことが出来た。
(私のブログ2012・7・22鼓童 DADAN で取り上げている)

長年の思いが叶って、その感激はひとしおだったが、
今回、そのDVDに収録されていた会場を直に見たことで、
その感激は倍増した。
ただ一つ残念だったことは、
夜の舞台でその照明のすばらしさを体感出来なかったことだ。


 
続く

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2013年 ヨーロッパへの旅 8

2013-10-30 11:13:30 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 


9月7日(土) (ハニアからアテネへ) 

今日は1:35のプロペラ機でギリシャの首都アテネに移動する。

ハニア空港に着くと、職員の誘導が悪いせいか、
多くの旅行者が右往左往していた。
空港係員に尋ねると、それぞれが違う案内をするためだ。

言葉のせいではなく、連絡の統制が取れていないような気がした。

私達も御多聞に漏れず、しばらくどうしたらよいのか分らなかったが、
それでも大きなトラブルもなく機上の人になり、無事アテネに着いた。

アテネはさすがに大都市。
空港も大きく、美しく、オリンピックのお陰か市内までの道路も広く快適。
そして、黄色のタクシーに乗れば、市内のどこにでも35ユーロで行ける。
近い距離であればもちろんそれに見合った安い料金らしい。

Titaniaホテルは4つ星の美しく大きな、とても混雑したホテルだった。 

これほど美しいエントランスは見たことがないほどの造りで、
玄関ホールには古代模様を模したタイルのモザイク絵が敷かれ、
右にレセプション、左に大きな階段、全て大理石で造られていた。

まるでどこかの宮殿に来たような感じだったが、
あまりにも混雑し過ぎていて、従業員と目を合わせたり、
挨拶をしたりというチャンスがほとんどなかった。
(この写真は夕方、丁度落ち着いた時の物)
早速町に出ると、落書きの多さ、汚さにがっかり!

そして、道路のあちこちに小銭を求める人が座っており、
どんなに美しい国立図書館、大学、
アカデミーなどの建物があっても、イメージは落ちる。

国立図書館

アテネ大学

アカデミー

ホテルから5~6分歩くと北から上記の順に並んでいる3つの建物があり、
デンマークの建築家、ハンセン兄弟の設計で
19世紀に建てられた物とのことだが、
造りは古めかしいのに、つい最近建てられた物のような感じがした。

しばらく町をブラブラして、ギリシャではまだティータイム?
の時間かもしれないが、ホテルの近くのレストランに入った。

おいしくて、食べるのに夢中で
残念ながら写真を撮り忘れてしまったが、クレタに入って以来、
ギリシャ料理に対して持っていたイメージが変わった。

何でもオリーブオイルがたっぷりかかっているのかと思っていたが、
新鮮な魚の塩焼き風の味にも感激した。

サーブをしてくれた男性に「明日も来るから・・・」
と言って別れを告げたら、
「明日は日曜日だから休みだよ。」と言われた。

 

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2013年 ヨーロッパへの旅 7

2013-10-26 23:09:10 | 2013年 ヨーロッパへの旅


9月6日(金) (クレタ島・ハニア2日目) 

のんびり朝食を取り、丁度、我々の部屋のバルコニーから見える
大きな市場の偵察に出かけることにした。

ここは屋根付きの十字形をした建物で、
食料品、酒類、ハーブやスパイスなどが売られており、
朝早くから夜遅くまで賑わっている所らしい。

種々雑多の土産物、魚、肉、チーズ、惣菜類、見たこともないような品や
食品の混ざり合った臭いで、異国を感じた。


 

ハニアはイラクリオンに次ぐクレタ島第二の都市で、
1840年から1971年までは、行政の中心でもあった。
 
島の北西岸に位置し古代名をキドニアという。
クレタ文明時代の都市に起源し、続いて、古代ギリシャ、
東ローマ帝国、ヴェネツィア共和国の支配下に置かれ、
17世紀にオスマン帝国領になったという歴史があり、
島のあちこちにその頃の遺跡
(キドニア遺跡と呼ばれる)がたくさんある。
その遺跡の上に現代の建物が建っているので、
これらを全て保存して後世に残すのは
かなり難しいのではないかと思った。
 
 
 
 
 
 

 
 
ここから昨日の港まではやはり数分。
そのまま岬の先端近くまで歩くと、
海の色と薄い黄土色の石の色がマッチして、とても美しかった。
 
 
 
 
 
ああ、あの運転手が言っていたハニアの美しさはこれだったのだ。
本当に澄んだ空気が作り出す空の色だ。
 
 
ヴェネツィアンポートを右側に眺めながら、
海沿いの道を少し行った所にある
小さな博物館には、ハニア周辺で発掘された
ビザンチン時代の陶器やモザイクなどが展示されていた。
 
 
 
ビザンチン博物館の中は撮影禁止。
係の人に天井を指差しこの角度で1枚だけ撮らせて欲しい
と頼んだ1枚がこれ。
 
 
そして、チケットをこの博物館とセットで買うと1ユーロ安くなる、
と言って薦められた考古学博物館はすぐ近くだが、ここに行くまでの
旧市街地の街並みも本当に美しかった。
 
 
 
この迷路のような石段の細い道の両側には
レストラン、カフェ、ブティック、かわいらしい品々を集めたショップなどが
たくさん並んでいて、ここを見ているだけで何時間も楽しめそうだった。
 
 
 
考古学博物館は古い建物で、紀元前3700年の土器から始まり、
5世紀の物まで展示されていたが、イラクリオンに比べ
何となくぞんざいな感じだったので、ありがたみが薄かった。 

ここはサッと見て、早めにホテルに戻り、
8時からの夕食に合わせ、お風呂にも入り、
レストランに行ったら、今日も一番乗りだった。
 
しばらくして、もう一家族も来たが、ディナーは2組だけ。
ちょっとドキドキしながら、それぞれのチョイスでコース料理が並んだ。
 
 
いつものようにパンが5~6個、前菜、サラダ、夫はビーフ、私はチキン。
パンは全く手を付けず、サラダだけでお腹がいっぱいになり、
味はおいしいのに、チキンもビーフも少し口を付けただけ。
さらに、私の大好きな果物が大きなトレーに出てきても、
ほとんど食べられなかった。
 
サーブをしてくれたモデルのような美しい女性に、ギリシャの人達は
こんなにたくさんの夕食を食べるのかと聞いたら、
「もちろん。」と頷きながら「朝食はコーヒーとビスケットぐらい、
夕食は9時頃から始まり、11時、12時まで続くので、
寝る時間は大体2時頃だ。」とのこと。
 
それでは太るはず。
道理で、日本では考えられないほどの体型の人が多い。
 
しかし、その女性は細身で、仕事は忙しいし、二人の子供がいて、
一日中動き回っているせいか太ることはないということだった。
 
やはり、食べて動かなければ太るのだ。
 
 
 
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2013年 ヨーロッパへの旅 6

2013-10-25 00:33:28 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 


9月5日(木) (クレタ島・イラクリオンからハニアへ)その3 

海でとても楽しいひとときを過ごした私達は、
ホテルに戻って一休みし、7時半にレストランに向かったが、
まだ誰もおらず、8時からビュッフェスタイルの夕食だと言われた。

珍しく、このホテルの宿泊にはディナーも付いているということだったが、

どこかの団体客と一緒に食事をするのかと、
がっかりしながら部屋に戻った。

間もなく、部屋に電話が入り、すぐに行くとまた一番乗り。
先程のボーイさんが満面の笑みで
一つ一つの料理の説明をしてくれた。

8時丁度、30~40人の老年の一団が入って来た。
彼等はキプロスからの観光客で、アテネ、クレタ島を1週間で回り、
今夜が最後の晩だという。
2時間半の飛行時間とのことだった。

最初、隣のテーブルの人から「サイプロスを知っているか。」と聞かれ、
首を横に振ると、何人かが「キプロス、キプロス・・・」と言い、
気付いた。

我々がまだ若かった頃、キプロスでイギリスからの独立運動が始まり、
ギリシャ軍とトルコ軍の代理戦争のような紛争があり、
確か今も分断されている所だったかな・・・
名前は知っているが、いつも自分の記憶力のなさ、
知識の乏しさに恥ずかしい思いをする。

結局、会話力もなく、知識もないので、
政治の話は出来なかったが、
料理のことは皆さん良く御存知で、
いろいろ説明をして下さり、とても楽しく過ごすことが出来た。

 

帰国後、ネットで調べて
(キプロス紛争を五行で説明したら)という記事を見つけた。

以下は受け売り。


1  キプロスがイギリスから独立する

2   南部に多い元からの先住民である裕福なギリシャ系が
政治の主導権を握り、北部の後からやって来た
貧しいトルコ系住民との間に
亀裂が発生して、双方の武力衝突を起こすようになる。

3   トルコ共和国がキプロスのトルコ系住民を保護する
という名目で軍事介入し、トルコ系住民の多いキプロスの北部を
キプロスから切り離し一方的に分離独立を宣言する。

4   キプロス政府の要請に基づいてキプロス島の南部に
ギリシャ政府が軍隊を駐留させると、
トルコ共和国も北部の軍隊を増強し、
やがて国境線付近で大規模な武力衝突を繰り返すようになる。

5   こうしてキプロス紛争がギリシャとトルコの紛争に発展し、
       ギリシャとトルコそれぞれが
南北に新しいキプロス政府を樹立して、
キプロスは完全に南北に分断された国家となる。

ギリシャの料理やお菓子のことなど、
よく御存知だったのは考えてみれば当然。
彼らの祖先はギリシャ人だったのだ。

思いがけなく、たくさんの方と話が出来、とても楽しいひとときだった。
(おまけに、遅ればせながら、ちょっぴり勉強も出来た。)

  

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2013年 ヨーロッパへの旅 5

2013-10-23 10:08:32 | 2013年 ヨーロッパへの旅

 

9月5日(木) (クレタ島・イラクリオンからハーニァへ)その2

土産物屋に入ると美しく安いアクセサリー、革製品、
布織物が並び、どれも興味を引かれたが、
これからの行程を考えると何も買えない。

 

ある店で水槽の中に足を入れている母子三人を見た。
ああ・・・これはいつかテレビで見たことがある。
足の皮膚の角質を魚に食べてもらって、美しくするのだ。

私もしてもらいたいな・・・・と思ったが、何となくためらった。
そして、今も実行しなかったことを後悔している。

ここから2~3分で海岸、ヴェネツィアン・ポートに出た。
湾内を巡るボートが並び、何ヶ所かに客引きの看板が立っていた。
その中の一つに声を掛けられ、
5時から6時までの1時間、乗ってみることにした。

私達は島巡りをするのかと思っていたら、そうではなく
沖の方の水深3メートルぐらいの所まで行き、
そこで潜って遊ぶのだと言う。

お客は全部で8人。
目的地に着くまでの間、船長が舳先に乗って舵取りの方向を指で示し、
小さな男の子が舵を握って拍手喝采を浴び、その子の母親も挑戦。
次に私も、夫も船長さんになって、とても楽しいひとときだった。

 

目的地に着くと、中の若い二人がシュノーケルと
足ひれを付けて船長と共に海に入っていった。 

船長は船の下で撒き餌をし
グラスボードの下にたくさんの魚を集めたり、
ウニやヒトデ、タコを捕ってきて、我々を楽しませてくれた。
もちろんショウーが終れば全部海中に戻す。
この辺りは小さな魚やタコしかいないようだった。

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