■製作年:1977年
■原作:田村泰次郎
■監督:西村昭五郎
■出演:山口美也子、加山麗子、宮下順子、志麻いづみ、他
1977年、今は倒産してしまった日活がロマンポルノとしての「肉体の門」を映画化しています。公開当時、私は16歳、そんなような映画があったことは色気づいてくる年頃なので微かに覚えています。確か成人雑誌を買い、この映画を紹介していたように思いますので当時からすれば幻の映画?まあ、そんなことどうでもいいことなんですが。ところで、原作の田村泰次郎は肉体文学と言われたそうですが、日活ロマンポルノこそは同様に肉体映画と言えるのかも知れません。なんせ女優らが惜し気もなく裸になり濡れ場を演じ、時に傷だらけになり、汚れ役などを文字通り体当たり演技を見せているのですから。アクション、コメディ、ロマンス、サスペンス…その頃のロマンポルノはあらゆるジャンルをヌードと絡めながらやっていました。やがて大学生になりその日活も頻繁に見に行くようになり、振り返ると私にとって思春期における映画とは、恥ずかしくもロマンポルノが含まれているのでした。性的な感性をそこで養われたことはもちろん、映画的な感性という視点においても斬新な映像表現や新進気鋭の映画監督をそこで知ったり(今、大御所の地位のある監督もロマンポルノ出身者が多い)映画を作りたい!という思いの強い若い監督が様々な制約の中でどう見せていくのかなど、多くをそこから学んだし、まだまだ作家性という点においても勢いがあったように思います。
さて、この映画に登場する女性たちは徒党を組んで、女の意地と心意気で闇市を風切って歩いています。敗戦の焼け野原の跡、そこから力強く生きてやろうとする女たち。映画を見ていて、このブログでも一時集中て書いた東映のピンキーバイオレンス映画「女番長」シリーズにも繋がるような反骨精神を思い出しましたのでした。彼女らは体を売ってなんとか生計をたたてる、たててるといいながらも住家はどこかの廃墟なのですから宿なしなわけです。いわゆる当時パンパンと呼ばれた女性たちで、ほとんどアバズレのズベ公といった風なのですが、たとえば、生活も守られおしゃれに専念し男の視線を集めつつ徘徊する現代の繁華街を歩く同世代の女性と比べるとどこか精神性というか魂があるように見えました。豊かで守られ貧しさが万延しておらず、情報のみが独り歩きし、それに翻弄されている現代の女性のほうが、享楽的で刹那的に見えてしまうのは偏見でしょうか?やっぱり社会全体がハングリーであればこそ、気風というかそういったものが違うのでしょう。都市生活では飼われた猫ばかりで、野良猫を見ることがなくなったように、肉食系、草食系などという言葉が使われるように・・・です。ただ、過去を描いた映画と今の現実を比較するのは純粋に比較はできないのではありますが・・・。
映画は概ね原作に忠実なのでロマンポルノの中でも文芸路線に属していた作品なのでしょう。お決まりの濡れ場のシーンは、実はポルノと呼ぶにはどうなのかなと思えるほど少なく、今見ると一般映画レベルといってもいいんじゃないかと思えました。
肉体の門 [VHS] | |
加山麗子,山口美也子,宮下順子,志麻いづみ,岡本麗 | |
日活 |
肉体の悪魔・失われた男 (講談社文芸文庫) | |
田村 泰次郎 | |
講談社 |
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