飾釦

飾釦(かざりぼたん)とは意匠を施されたお洒落な釦。生活に飾釦をと、もがきつつも綴るブログです。

「セゾン文化は何を夢みた」(永江朗)を読む

2013-12-04 | Weblog

先月の25日、セゾングループで一斉を風靡した堤清二氏が永眠されました。それを機会に私は知人が企画に参加し出版した「セゾン文化は何を夢見た」(朝日新聞出版)を読み返しています。なぜなら私は社会人のスタートが西友でしたので堤氏の死には、雲の上の人であり接点もなかったのですが、少し感慨深いものがあります。京都に住んでいた学生時代、どこに就職しようかと考えた時、日本広告史に残る「不思議、大好き」「おいしい生活」の2つの西武百貨店の広告はそれこそ関西にまで届いており非常にイメージがよく、松田聖子が「スウィート・メモリー」をCMで歌ったサントリーとともに、当時、憧れの眼差しで見ていた企業でした。華やかな西武流通グループ=セゾングループの文化戦略、イメージに振り回される若者は思うのでした。文化事業をやってみたい!と。例外にもれず私もそうでした。(セゾングループとは西武百貨店、西友、パルコ、西洋環境開発、クレディセゾン、西洋フードシステムズ、ファミリーマート、良品計画などの企業集団)

できた学生ではなかったので就職活動は難航しましたが、入社したのがセゾングループの一つであるスーパーの西友、関西地区の店舗に配属されました。確か入社した1年目に阪神タイガースが優勝し、大阪は阪神フィーバーに湧きました。パ・リーグは西武ライオンズが優勝し、関西でも西友なのでライオンズ・セールを実施。駅前でチラシを配布したりしたのですが、あまり積極的に手にしていただけなかった記憶があります。当時は西武文化戦略などと称されマスコミを賑わしたセゾングループですが、入社した私はそれとは裏腹に泥臭いスーパーの現場。売場でマイクを使って家庭用品のタイム・セールをやったり、品出しの毎日でした。なんとか展開を変えたいと英語もろくにできないのに、会社が公募したアメリカの映画学校(サンダンス)への留学に応募。当然ですが、全く英語がわからず、あえなく玉砕!人事の人に関西から応募したのは君だけだよと言われました。ならばと休憩時間に店舗にテナントとして入っていたピアノ教室に楽譜も読めないのに通い、小さな子供とともに発表会を…と。しかし、そんな活動が目立ったのか発表会を前に東京に転勤の辞令がおり、西友が経営する西武百貨店の店舗に配属となりました。

やっぱり東京は違う!西友は東京が本社だから。休日には西武美術館に足を運んだりしセゾングループの文化活動に積極的に触れたりしました。憧れの文化事業に近づいているぞ、勝手にそんな気持ちを持ちながら。でもやっぱり配属されているのは販売の部署で。ある時、店舗でセゾンカード開拓キャンペーンというのがあり、課長に呼び出され「何枚開拓できるんだ!」と叱咤されました。思わず私は「ご安心ください。お店でトップになりますから」とたんかをきってしまったことがあります。若いから頭に血が昇りやすすかったのですね。それから私も必死でカードの開拓をしたのですが、やったこと以上に数字が伸びているので不思議に思うと、別のフロアの女の子が私の威勢のいい発言に共鳴してくれて勝手に私の名前でカードを開拓してくれたということがわかりました。結果は2位で、報償は使えない去年のシステム手帳、なんじゃこれ?と思いました。文化にはほど遠いのですが、それはそれで毎日仕事が楽しかったのでした。

やがて自己申告制度で延々と文化事業への想いを書いて、販売促進として運営していた多目的ホールの担当となりました。本流の文化事業ではないものの、演劇、ダンス、お笑い、伝統芸能、ジャズ、邦楽、クラシック音楽、現代美術…と数多くのイベントをそこで開催しました。配属の辞令が出た帰り、思わず嬉しくて電車の中で涙が流れたことを覚えています。ですからそこでは、自分で言うのもなんですががんばりました。ホールでは年間で100本以上ものイベントを企画し、実施。スタッフも4人程度ですからてんやわんや。憧れたセゾングループの文化事業そのものではないものの、その端くれに私はいるんだと勝手に自負し、本流の文化事業に負けるものかと。ただ、予算なるものは、ほとんどなかったのでアイデア勝負でしたので本流とくらべるとやっぱり見劣りしましたが。しかし、ある企画では先鋭さにおいて本流を超えた企画だねと専門家に言われたイベントや、専門誌の方にこのイベントは歴史的な意味があるよと言われたイベントも企画できたりしました。

やがて、会社の業績がバブル崩壊とともに悪化しそのホールも閉鎖することとなりました。会社でも早期退職制度を活用したリストラが始まり、お世辞でもいいムードであったとは言えませんでした。そんな空気の中、私自身も会社への帰属意識が薄くなり退職を決意し、まったく違う業界へと転職することを決めました。やがてセゾングループは解体していくことになります。今振り返ると、幻想であったのかもしれませんが憧れのイメージがあって、なんとかそこに近づきたい。そのためには認められなければいけないと必死だったように思います。悔しい思いもたくさんしましたが、突っ張って過ごしていたように思います。それが今にとても役立っているように思えてなりません。憧れの企業体であったセゾングループ、その総師であったのが堤清二氏でした。そこで働いた20代はよき思い出として残っています。

セゾン文化は何を夢みた
永江 朗
朝日新聞出版
セゾンの歴史 上巻 変革のダイナミズム
由井 常彦
リブロポート
セゾンの歴史 下巻 変革のダイナミズム
由井 常彦
リブロポート

 

 

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2 コメント

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元気にしてますか (ナイショ)
2013-12-13 12:50:38
堤清二さんが亡くなって セゾン文化 の一時代の終わりを感じました。経営者として聞く風評とご本人の本当の考え方や思いとの齟齬があって「自分の周りにご機嫌取りのイエスマンが多くなったことが失敗だった」と堤さんが辻井喬としてNHKに出演した時に話したのを思い出しました。
錦糸町時代とその前の体験や思いを初めて知りました。ある意味で青春なんですね。僕も同じでしたよ。(^.^)/~~~
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元気ですが (飾釦)
2013-12-13 20:39:15
ナイショさん、コメントありがとうございます。
ナイショさんが誰なのか、ヒントをいただけると嬉しいです。
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