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泉鏡花の小説を映画化した「日本橋」について昨日記事にしました。今日はその戯曲を読んだことを書きたいと思います。これまで泉鏡花の戯曲は何作品かは読んだことがありますが、この作品は、特に読んでいてリズムがいい感じがします。トントンとリズミカルな台詞がまるでJAZZの即興による掛け合いのように軽やかに進み心地いいのであります。
ボクは戯曲をそんなにたくさん読んだことがありません、シェイクスピアにモリエール、寺山修司につかこうへいといった程度のレベルなのですが、この泉鏡花の、特に「日本橋」は一際読んでいてリズミカルな感じがするのであります。先ほどJAZZの即興のようにと書きましたが、それは台詞のキャッチボールがそう感じられたのであり、実際はそうではなく、この戯曲は十分計算されて書かれた楽譜のようなのです。戯曲を読んでいて、とにかく<音楽>のような印象を受けました。非常にリズミカルで聴覚的と言えるのかもしれません。
鏡花の作品に登場する女性はどこか気高い感じがします。そして間接的に色っぽさを充満させています。なぜなら、この作品では悲劇的な結末となるきっぷのいい芸者・お孝という女性がメインで出てきます。彼女はもうひとりの清楚な芸者・清葉を目の敵にしながら清葉に振られた男にいいより、その男といい関係になってしまうのです。しかし、そこには感情的な心の交流はありません。
そこで、お孝に惚れて身を持ち崩した熊の毛皮を羽織りそれに湧いた蛆虫を食べながら生きて、ストーカーのように彼女(=お孝)に纏わり付く「熊」とあだ名される男、五十嵐伝吾が登場するのですが、彼はまるで獣同様になってしまっています。すべてを無くしてもお孝に未練があるのです。彼とて最初は清葉に言い寄り振られた口で、その後にお孝に狂ってしまうのです。一体なぜ?とてもお孝は男から見て気立てのいいやさしい女には見えないはず、寧ろ木の強い勝ち気な女です。一緒になっても振り回されてしまうでしょう。では、身を落としてまで求める魅力とは?ボクは映画を見て戯曲を読んで、彼女はきっと誰よりも床上手に違いないのだということ。実は、男にとっての魔性魅力はそんなところにあるのでしょう。
それは以前の記事で書いた同じく鏡花の「高野聖」に孤家に住む魔性の女の魅力に取り付かれ獣にされてしまった男どもをどこかで連想させなくもありません。そこでは、若き聖が寝ようとしたとき女の部屋から聞こえる「およしなさい」という声。それは獣にされた男たちが彼女の体を求めて近寄っていることに違いないのであります。なぜ男たちが彼女の体に群がるのか?それは普通では得られない快楽が女によって得られるからではないでしょうか?快楽のため、女をひたすら求めんとす最早欲望の塊となった男は、獣と同様であると鏡花は言わんとしているのか…なんて思わされたわけです。
それゆえに、鏡花が描いたお孝という女性は癖があるものの、一つ一つの行動や発言が魅力的に書かれているように感じました。どっぷりとはまると怪我をしかねないけれど、付かず離れずであればそれはいい女なのではないかなと思いました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/7e/ed2d1a3390643783877ba98b82208944.jpg)
お孝の有名な台詞らしい。
“「同じく妻」だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査さんの帳面に、名を並べて、女房と名乗って、一所に参る西河岸の、お地蔵様が縁結び……これで出来なきゃ、世界は暗だわ。”(※“”部分、「鏡花小説・戯曲選 第十二巻」(岩波書店)から引用)
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ボクは戯曲をそんなにたくさん読んだことがありません、シェイクスピアにモリエール、寺山修司につかこうへいといった程度のレベルなのですが、この泉鏡花の、特に「日本橋」は一際読んでいてリズミカルな感じがするのであります。先ほどJAZZの即興のようにと書きましたが、それは台詞のキャッチボールがそう感じられたのであり、実際はそうではなく、この戯曲は十分計算されて書かれた楽譜のようなのです。戯曲を読んでいて、とにかく<音楽>のような印象を受けました。非常にリズミカルで聴覚的と言えるのかもしれません。
鏡花の作品に登場する女性はどこか気高い感じがします。そして間接的に色っぽさを充満させています。なぜなら、この作品では悲劇的な結末となるきっぷのいい芸者・お孝という女性がメインで出てきます。彼女はもうひとりの清楚な芸者・清葉を目の敵にしながら清葉に振られた男にいいより、その男といい関係になってしまうのです。しかし、そこには感情的な心の交流はありません。
そこで、お孝に惚れて身を持ち崩した熊の毛皮を羽織りそれに湧いた蛆虫を食べながら生きて、ストーカーのように彼女(=お孝)に纏わり付く「熊」とあだ名される男、五十嵐伝吾が登場するのですが、彼はまるで獣同様になってしまっています。すべてを無くしてもお孝に未練があるのです。彼とて最初は清葉に言い寄り振られた口で、その後にお孝に狂ってしまうのです。一体なぜ?とてもお孝は男から見て気立てのいいやさしい女には見えないはず、寧ろ木の強い勝ち気な女です。一緒になっても振り回されてしまうでしょう。では、身を落としてまで求める魅力とは?ボクは映画を見て戯曲を読んで、彼女はきっと誰よりも床上手に違いないのだということ。実は、男にとっての魔性魅力はそんなところにあるのでしょう。
それは以前の記事で書いた同じく鏡花の「高野聖」に孤家に住む魔性の女の魅力に取り付かれ獣にされてしまった男どもをどこかで連想させなくもありません。そこでは、若き聖が寝ようとしたとき女の部屋から聞こえる「およしなさい」という声。それは獣にされた男たちが彼女の体を求めて近寄っていることに違いないのであります。なぜ男たちが彼女の体に群がるのか?それは普通では得られない快楽が女によって得られるからではないでしょうか?快楽のため、女をひたすら求めんとす最早欲望の塊となった男は、獣と同様であると鏡花は言わんとしているのか…なんて思わされたわけです。
それゆえに、鏡花が描いたお孝という女性は癖があるものの、一つ一つの行動や発言が魅力的に書かれているように感じました。どっぷりとはまると怪我をしかねないけれど、付かず離れずであればそれはいい女なのではないかなと思いました。
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お孝の有名な台詞らしい。
“「同じく妻」だわ。……雛の節句のあくる晩、春で、朧で、御縁日、同じ栄螺と蛤を放して、巡査さんの帳面に、名を並べて、女房と名乗って、一所に参る西河岸の、お地蔵様が縁結び……これで出来なきゃ、世界は暗だわ。”(※“”部分、「鏡花小説・戯曲選 第十二巻」(岩波書店)から引用)
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