新聞等では五輪の経済効果がうたわれる日々です。さて、泉鏡花の小説「春昼」「春昼後刻」を読んだのですが、なかなか手ごわい小説。研究者はこの作品をどう読んでいるか?笠原伸夫氏による「泉鏡花 エロスの繭」という本に収められている「春昼」「春昼後刻」論を読み、気になった部分を引用してみました。
◆物語には二つの異質な時間が表層部と内層部とにわかれて流れている。一つは現在形の時間であり、もう一つは現在形の時空に挟め込まれた、回想の時間である。表層を支配する線型の時系列に対して、内層のそれは非時系列的な超越性が濃い。表層の明るさに比し、内層は暗湿の気配に充ちる。
◆この物語は、長閑な春の風物が、内にひそめた異変の影を滲ませつつ溶融して、いつしか抽象的な感覚にまで鈍化されるところで終るのだが、物を見るまなざしのただならぬ感覚は注目に価する。
◆一種の視野狭窄なのか、風景から夾雑物が排され、鈍化した形態をしめして物語は終る。……もはや現実世界の出来事を叙しているのではない。……言葉による抽象的な紋様といった趣である。……図形化される寸前といった感じ……風景の上に重ねられる三角形や円、そこに封じ込められる奇妙な感覚。物語はそのような結末をめざして、表層の緩徐な進行と内層の急迫する感情とに綾織られながら、超現実的な愛恋の相を刻み込んでゆく。
◆散策子が前ジテなら、この男(=客人)は後ジテということになりそうだ。……夢幻能は同一人格の分離と融合を絶妙に語るが、たしかにこれも<同人異形的な存在>なのであって、ユングふうにいうならその男は散策子自身の<影>とみることも出来る。散策子が歩くのは平坦な日常の時間軸のうえだが、影の男の登場は、日常的時間軸から大きくずれる界域においてだ。物語の表層が緩徐調であるなら、内層はただならず急展開する。表層と内層とでは時間の流れは異質なのである。むしろ内層部の物語は破局(カタストロフィー)からはじまるといったよい。
◆客人と女は生前ついに一度も話を交わしてはいない。海辺への道で三度すれ違い、郵便局で一度女が電話しているところを目撃した、それだけである。両者のかかわりは現世では単なる擦れ違いでしかない。しかし瞬間的出逢いが永遠の相と切り結ぶということがないとはいえなぬ。
◆客人の語りでありつつ、しかしそれを再現しているのは住職であり、散策子がその語りを受けとめている、という仕組みなのである。
◆「春昼」の描く観音堂裏での怪奇な幻は、まちがいなく名越の骨棄て場幻想の一変種であった。
◆舞台の上で女と背中あわせに坐ったその影をみて、客人は真っ蒼になっる。自分自身だったからだ。<見る人>と<見られる人>の同一性、存在にして同時に影。典型的な二重身(ドッペルゲンガー)である。
◆図形が△→□→○という順序、いいかえれば<1、2、∞>という構図をとっていることだけに意味があるのではない点に注意したい。三角形は内閉的図形の最小のものであって、<1>であり、四角形は同じ意味で<2>である。もちろん円は無限となる。実は幻想の闇のなかでそれは<1、2、∞>という順序なのだが、現実の世界、つまり春の昼さがり、ものみなすべて緩やかなただずまいのなかでは逆であって、玉脇みをが手帳に描くのは○と□△の順である。<∞、2、1>なのだ。
◆夢幻の界域において<1、2、∞>であった配列が、現実の世界では逆になるのは、物語の表層と内層の関係を如実に示しているといわねばなるまい。冥界の秩序が整序された方向性をもつものに対して、顕界のそれは逆向きである。表層と内層の関係に置きかえれば、表層は負の方向性をもつものに対して、内層の方は正の方向性をもつ。表層は<∞、2、1>であり、内層は<1、2、∞>だというのは、別の見方をすれば、線的な時系列をもつ表層に対して、非時系列な構図をとる内層の優位性ということになりはしないか。
◆<死にいたる歓喜>をはらんだエロスの質に注目せざるをえない。黒髪と白い肌の対比。極端にエロティックな視線。幻の像はあきらかに重い物体(オブジェ)となって幻視者のうえに重なりあってくる。男は<見る人>でありつつ同時に<見られる人>であった。幻の女はいま<誘惑する身体>として深い快楽にうちふるえている。男のまなざしは深く激しい欲望の虜となり、幻の女の白い肌をさし貫こうとする。幻の女は男の足に背中をもたせかけ、膝を枕にすると、黒髪がずるずると仰向きにひるがえり、白い胸が露わになる。あぶな絵の構図である。幻視者にとって性的行為の絶頂とその終りをさし示すようなものだ。男のまなざしは間違いなく欲望するまなざしであり、女の身体は<欲望される客体>として顕われでている。女の身体は闇のなかでフェティッシュな物体としてとしてそこにある。かれの内面にあった理性の限界点は闇の想像力の激しさのゆえに破壊され、他者は重い質量感を備えた幻となってかれに迫る。その限りでかれは<ナルシス症患者>でもあろう。己の内なる幻の像に恋しているのだから。
◆非時系列的空間としての内層から、時系列的空間である表層への、異変の影の浸透である。
◆物語の内層が非時系列的空間であるかぎり、現実と非現実の境目は融けてしまっているのであり、男の死骸が<海>でみつかったとしても不思議ではない。
◆玉脇みをという名が示すように、彼女もまた幻の水脈を通って男の死んだ岬へと流れるのである。それは現実的な重さをもたない、陽炎のような死であった。
◆「春昼後刻」の末尾は、もはや現実の時間を超える位相にあるのだろう。物語の表層を流れる時系列的秩序と、内層を流れる非時系列的、夢幻の構想力が、いまこの終結部において一つになり、時間の枠を超えてしまうのである。風景は現実の風景であることをやめ、その輪郭がいつしか融けてしまって、むしろ抽象的な眺めに転移するのだ。……終結部にいたってより根源的な映像(イメージ)、表層と内層とを一つにして止揚する映像(イメージ)の提示で終る。
◆男と女と八歳の子と、かれらは波の彼方で幻の家族を構成する。いや、現世的関係からいえば幻の家族かもしれないが、女の手帳にあの謎の図形が逆の配列でならんだように、他界にあっては切り放すことの出来ぬ魂の縁(えにし)で結ばれるのかもしれない。
※以上、「泉鏡花 エロスの繭」笠原伸夫(国文社)より引用
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