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シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

伊豆・土肥へ海水浴・・・ 電車・船で行く旅の今昔レポート

2008-08-18 05:12:27 | Weblog

実に55年ぶりの海水浴です。
今まで何回か故郷土肥を訪れていますが、混雑する夏は避けていました。
中学生の頃まで、毎年のように土肥の親戚の家に泊まり、ひと夏土肥の海で泳いでいたものでした。「雷が鳴ると、梅雨が明けるのは間近だ」という祖母の言葉に、「いよいよ夏休み・・・土肥へ行ける!」と心が躍ったものです。当時の子どもは、塾もなければ、部活も学校のプールもなく、夏休みは学校生活から完全に開放されましたから、親の故郷の田舎で過ごす子どもも多かったのです。



お盆の8月13日からの二泊三日の旅です。孫と一緒の海水浴ということで荷物が多く、私だけが電車で出かけることになりました。実のところ、55年前の旅を再現したかったのです・・・。

沼津駅まで普通列車で行きました

東京駅から東海道線で沼津駅まで3時間、沼津港から東海汽船で土肥へ1時間半の船旅というのが当時のルートでした。今回は、新宿駅から小田急電鉄で小田原駅へ、そこで東海道線で熱海駅まで行き、乗換えで沼津駅へという3時間の旅です。東海道線がすっかりローカル線化して、沼津に行くには熱海駅乗換えとなるのです。新幹線利用なら1時間短縮できますが、今回はあえて昔と同じ3時間の旅の再現です。

 小田原駅で東京発熱海行の電車に乗り込みました。お盆ということで、海水浴に向かう子ども連れの家族や若者でほぼ満員です。そこで、左側の窓辺に立ちました。小田原駅を出発すると次の早川駅から根府川駅へと車窓まじかに相模湾の海が見え,土肥の海に思いを馳せていたことを思い出したのです。
 熱海駅で多くの乗客は東伊豆に向かう伊東線に乗り換えるホームに向かいましたが、ここで熱海始発の静岡行の電車に乗り換えです。国内第二位の長さを誇る丹那トンネルを抜ければ、函南駅、三島駅、そして沼津駅です。

沼津駅のホームは55年前とあまり変わっていませんでした

ちょうど御殿場線と相互乗り入れの新宿行の小田急ロマンスカーが停まっていましたが、これがなければ55年前にタイムスリップした趣です。
 駅から港までタクシーで10分足らず、昔は港湾(沼津港)まで歩いたものですが、手荷物を持っての真夏の炎天下の40分の道のりも苦になりませんでした。途中、港湾から駅までの魚の運搬列車の線路が目印になり、これを越えるとホッとしたものです。

 港に着くと、30名位の乗船客が船を待っていました。以前は東海汽船の松崎行きの汽船が待機していましたが、出発20分前にもかかわらず、船の姿が見えません。切符売り場で尋ねると、東海汽船は3年前に運行を取りやめ、現在は戸田のホワイトマリーン号が土肥までを運行しているとのこと「大手の東海汽船が潰れ、ウチのような小さな会社が代わりをするとは・・・」と冗談ぽく話されていました。

ホワイトマリーン号は小型快速艇です

ホワイトマリーン号は戸田を経由して1時間で土肥に着きます。昔は1時間半かかりましたから、大変なスピードアップです。小型の船舶で、操舵室が先頭上部にあり、その下が客席、後部にデッキという構造・・・航海中は波を左右に切り裂くように疾走しますので、波しぶきが後部デッキにシャワーのように飛んできます。



大瀬崎から戸田、土肥までの海岸線は切り立った崖が続き、美しくも厳しい景観を見せています。波しぶきを浴びながらの涼しいデッキの上から、遊覧船気分の船旅を楽しみました。
 ホワイトマリーン号は喫水の低いモーターボートのような船体です。スピードは出ますが、揺れが大きく、乗客が船酔いしやすいという特性があり、波が高くなりやすい戸田から土肥の間の航路では、船長判断で運行を取りやめることがたびたびあります。現に、翌日、14日には第3便から休航となりました。

小田急ロマンスカー、ホワイトマリン号の定期運行は廃止されました

今年、夏季限定の遊覧船が運行されることになりました

 首都圏から駿河湾フェリで土肥へ


土肥海岸は安全、清潔な海水浴場です



これが土肥の海水浴場です。昔はなかった、50メートルほどの波除ブロックの防波堤が二つ、海岸を護るように敷設されています。波のうねりで、ホワイトマリーン号が休航となった14日でも、海水浴場は海水浴を楽しむ人でいっぱいでした。

 砂浜には、100メートル間隔で三つの監視やぐらが立ち、三人一組の若者が待機、海水浴客に何かがあればすぐに出動できる態勢をとっています。地震警報や雷警報があれば、町から無線が入るようになっているとのことです。また、波除ブロック付近にはサーフボートで三人のライフセーバーが泳ぎながらパトロールしており、海水浴客の安全がきめ細かく護られている体制には感心しました。

首都圏の各大学のライフセービング部の3年生が協力して、市営の海の家を拠点にして活動しているとのこと、活動開始から10年以上の歴史があり、その間、死亡事故につながるような重大事故は起きていないということでした。

 大学生は、海岸の清掃活動にも従事、毎日、午後4時から海水浴客にも呼びかけ、ゴミ集めをしており、海岸の一角に設けられた市の環境整備部係員が常駐しているゴミ集積場に集められ処理されています。
翌日早朝、海岸を散策しましたが、ブルトーザーで海岸は整地され、ゴミ一つありませんでした。ちょうど午前6時にライフセーバーの若者たち15,6人がジョッキングを終えた後、朝の集会を開いて今日一日の活動に備えていました。

 

 若者を見ていて、太平洋戦争のさなか、海岸で行われた運動会を思い出しました。予科練の若い兵士たちが、土肥に演習に来た時のことです。民泊している家の子どもを背負い、徒競走・・・そのたくましい背中に必死にしがみついていました。 

焼津の花火大会の花火が見えました

 夜、旅館の部屋から遠く、駿河湾越しに花火が見えました。後で調べると8月14日の焼津海上花火大会でした。焼津は土肥から40キロほど駿河湾で隔てられていますが、さえぎるものが何もない海上のこと、打ち上げ花火なら見えるのです。

 花火を見ていて、これも戦時中63年前のこと、小学校一年の時の体験を思い出しました。深夜トイレに起きたときのことです。何気なく、便所の窓から海を見ると、対岸が真っ赤に燃えていたのです。昭和20年7月30日、清水が米軍の艦砲射撃を受けた日のことです。
 
 花火大会の打ち上げ花火と艦砲射撃で燃える街の炎・・・今が平和の時であることをしみじみと実感しました。






土肥へのアクセス情報:
往路: 新宿(小田急)→小田原(JR)→沼津(タクシー)→沼津港(ホワイトマリン)→土肥
 5,090円(850円・740円・1000円・2500円)
帰路: 土肥(中伊豆バス)→修善寺(伊豆箱根)→三島(JR)→小田原(小田急)
→新宿
 3,280円(1280円・500円・650円・850円)

 *小田急特急870円、東京駅からJR710円、新幹線2390円加算 (片道運賃)
 *ホワイトマリン号運行状況を熱海駅時点で営業所に確認、欠航なら三島駅で乗換、修善寺より
  バスで。戸田港で運行中止になった場合は、タクシーで(約6,000円)。
 *名古屋中部地方からは、清水より土肥へのフェリーボート利用が断然便利。
*東京から車で行く場合は、沼津ICで降り伊豆半島に向かう。
  ただし、夏は渋滞するので、清水ICまで進み、フェリーボート利用が快適。

伊豆縦貫道路が修善寺までつながり、土肥までの陸路がグッと便利になりました。




 

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南会津への旅ー登山、スキー、温泉、蕎麦、&ドライブ

2008-07-13 05:56:01 | Weblog
本ブログで紹介の旅館末廣は臨時休業中です。一日も早い再開を願っています 

 
いよいよ冬到来です。温泉に浸かり、雪見酒でも・・・と考えられておられる方へ、とっておきの情報です。温泉あり、スキーも楽しめる、蕎麦も美味しい、貴重な岩魚の骨酒もいただける南会津・湯の花温泉をご紹介しましょう。見出し写真は雪の夜道を旅館末廣へ帰る三世代の家族です

 湯の花は、私にとって第二の故郷と言える所で、釣りに、登山に、スキーにと何度も出かけ、温泉で癒され、春の山菜、秋のきのこ、冬の漬物を味わい、蕎麦を啜り、岩魚の骨酒を賞味する・・・春夏秋冬、いつ出かけても至福の時間を過ごすことができる自然に恵まれた桃源郷なのです。

 首都圏から230キロ、距離はさほどではありませんが、那須塩原ICから尾頭トンネル(400号線)、山王トンネル(121号線)、中山トンネル(352号線)の三つの峠を越えていく秘境の地でもあります。  

湯の花温泉に泊る 
江戸時代から続く湯の花温泉は、江戸と会津を結ぶ会津街道からも離れ、昔は訪れる人も少なかったに違いありません。今でも、湯の花を初めて訪れた人は、ここが四ヶ所も共同浴場を有する温泉豊富な村落であることに気がつく人は多くはないでしょう。
定宿にしている旅館末廣を紹介します。初めて訪れたのは今から26年前、当時9歳だった息子が夜中に発熱、村の診療所に当時は若かったご主人の運転する車で連れて行っていただいたことが縁となりました。その息子も今は35歳、隔世の感があります。 

旅館末廣はご夫婦で経営されている旅館で、家庭的な雰囲気でなによりも落ち着くことができます。奥さんの愛情こもった手作りの食事は、何回も泊めていただいている私には家庭の味となっています。
 敷地内に源泉がある温泉は湯量豊富で、加水なし、加熱なし、かけ流しの本物の温泉、昔からの石造りの内湯も落ち着きますが、川を見下ろす高台に作られた露天風呂で、木々に囲まれ、清流を見下ろし、川辺にある共同浴場小屋を対岸に眺めながらの入浴は格別です。また、冬の雪の中での入浴もたいへん趣があります。

忘れてならないのが、旅館末廣のシンボル、愛犬パルでしょう。大型のゴールデンレトリバーで、亡くなった母犬と同じ北海道からやって来て、二代続けて家族の一員として扱われています。愛犬家の方は、きっと、愛犬の自慢話に話が弾むでしょう。





秘湯の宿の会員旅館です。詳しくはホームページをどうぞ・・・。

裁ちそばと伝統的な岩魚の骨酒を味わう 

南会津の村々では、昔から蕎麦を栽培し、食してきました。末廣の奥さんの話ですと、蕎麦は生きている食べ物、厨房から客室に運ぶ間にも、味が落ちてしまうといいます。正真正銘の蕎麦を賞味したければ、蕎麦を茹で、釜から上げて、天然の冷水で水洗いしたその場で食べなければ・・・ということで紹介されたのが弟さんの経営する紅葉館です。
 
紅葉館も温泉旅館ですので、宿泊客がある時には飛び込みで蕎麦を食べることができません。そこで末廣へ宿泊予約を入れる際には、紅葉館への予約もお願いしています。末廣に泊り、夕食だけは、紅葉館で蕎麦を頂くという贅沢を味わっています。
 東西の有名そば老舗によって作られた「新そば会」に加盟する各地の名店を渡り歩くほどの蕎麦好きの私ですが、紅葉館の蕎麦が優れている点は、海抜700メートルの地元産の良質な蕎麦、山から引いている水の良さ、食堂と厨房が隣り合わせの「生きたそば」を客に出すことができる距離、そしてそばを出す絶妙なタイミングでしょう。
 蕎麦は食事の最後に出されます。自家製の付け出し、そば粉を使った昔からの料理、地元の素朴な野菜、岩魚の塩焼きなどを摘みながら、地元会津の酒と岩魚の骨酒で盛り上がる客の様子を測りながら、蕎麦を出します。美食、美酒で酔いしれた体に、冷たい、香り豊かな、生きた蕎麦がのどを滑り落ちる感動で、テーブルは一瞬そばを啜る音だけという空間になります。





岩魚の骨酒についても述べておかなければなりません。紅葉館では大きな火鉢に炭を熾し、串にさした岩魚を何時間も遠火で焼き上げます。昔は囲炉裏で焼いたそうですが、この伝統的な焼き方で、脂肪分、水分を完全に取り去った岩魚は川魚独特の臭みがまったくなくなり、香ばしさだけに凝縮されます。これを熱燗に入れるのが伝統的な骨酒です。「骨酒のための岩魚を焼き上げる腕がなければ、村長にはなれない」という冗談を湯の花ではよく言うそうですが、根気よく愛情を込めて岩魚を焼きあげる姿勢が、村長の職にも通じるのかもしれません。 
ご主人自作の紅葉館のホームページをご覧下さい。
http://www.h6.dion.ne.jp/~rinta/ 

田代山に登る
田代山は海抜1,926メートルの高層湿原を持つ山です。航空写真を見ると、頂上を刃物で切り取ったような形をしています。そこが湿原で、近くの尾瀬よりも400メートルも高い高層湿原は人気の的です。
最初に登ったのは30年前、山開き間もない6月でした。友人から聞いていたので出かけました。丁度、田代山林道を建設中の最中で、横道に迷い込みながらのドライブでしたが、赤土、石ころだらけの林道を峠の猿倉口登山口に着きました。登山道は歩きやすく整備され、頂上の湿原までそんなに苦労することなく登りました。登山道両側の笹薮は竹の子を取るために登山者が入った踏み跡で一杯、取り残しの竹の子を取って帰ったことが思い出です。



田代山林道について触れておきます。舘岩と田代山登山口の猿倉を越え、土呂部(どろべ)を経て栗山に至るこの林道は、未舗装のカーブ、急坂で、その上土質が脆いのか、常に工事中、通行止めも度々です。何度も田代山林道で栗山方面に抜けようとしましたが、通行できたのは一度だけです。道路状況を確認して、お出かけください。
田代山の紹介はアサヒネットのホームページをご覧下さい
http://www.asahi-net.or.jp/~QY5S-SOZK/tashiro/tashiro.htm
また、一人山歩きの登山情報に詳しい、次のページも参考になります。
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/mhorie/101tasirotaishaku.htm
但し、ベテランの方の報告ですので、所要時間は3割増しで考えましょう。

帝釈山で落雷死亡事故がありました
 田代山頂上の避難小屋から帝釈山(2,069m)を往復する登山道がありますが、私は一度も行ったことがありません。登山靴やズボンを泥だらけにして帝釈山から戻ってくる登山者を見て、私には無理だと感じたからです。しかし、帝釈山からの眺望は田代山より見晴らしが利くことで行かれる方も多いようです。
この頂上で落雷死亡事故があったのは2004年の夏です。末廣のご主人によると田代山・帝釈山での初めての登山者死亡事故、救援活動や報道陣で湯の花は大変な騒動となったとのことです。落雷事故は、いつでも、どの山でも起きうる事故であることには間違いありません。
ちょうどこの時、雷雲が南会津地方を覆った当日、会津駒ケ岳を登っておられ方が、その時の様子を詳しくホームページで報告されています。是非、お読み下さい。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~katsuaki/heta026.html

冬の南会津

 難点はアイスバーンになりやすい三つの峠道を越える雪道のドライブです。四輪駆動、スタッドレスの車でも運転には細心の注意が必要です。また、吹雪いたらホワイトアウト現象に遭遇する危険もあります。気象情報をよく聞いて現地へのドライブを計画しましょう。
南会津地方は日本有数の豪雪地帯です。スキー場もいくつかありますが、湯の花から30分ほど尾瀬よりの桧枝岐近くにある高畑スキー場がお薦めです。今では少なくなったスキーヤーオンリーのスキー場で、南会津の最も奥くにあることもあり、空いているゲレンデは初級者でも安心して滑ることができます。スキー場上部からの眺望は素晴らしく、会津駒ケ岳が目前に、燧ヶ岳が西に、東には那須連山、遠く北に磐梯山が見えます。

高畑スキー場にて・・・






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晴れ、雨、雷、そして晴れ・・・奥久慈男体山ハイキング

2008-05-18 11:23:30 | Weblog


 五月晴れのスタートでした。写真は大円地集落の茶畑に沿って、奥に聳える男体山へ向かう私たちのグループです。ハイキングが初めてという仲間二人とともに意気揚々と出発しましたが・・・

水郡線の電車は意外に込んでいました
 5月17日(土曜日)、水戸駅構内で弁当を買い、水戸駅発9時23分の郡山行の電車に
乗り込みました。ローカル線なので、空席はあるだろうと考えていましたが、予想に反して、3両編成の電車は満席、立っている人もかなりいます。乗客の半数以上が、ハイキング姿で、晴天に誘われての奥久慈のハイキングを楽しむのでしょう。そういえば奥久慈方面のハイキングは人気上昇中、私のブログでも、5月に入ってから、男体山を紹介したページにアプローチする方が増えていました。
 男体山へは今回で5度目、電車利用は初めて、そしてハイキングが久しぶりという仲間と連れ立ってのハイキングです。

タクシー確保顛末記です
 男体山は、登山口まで水郡線西金(さいがね)駅か上小川駅から徒歩で行くのが一般的です。しかし、登山口まで往復2時間半の徒歩を強いられます。今回は初心者もいることなので、往復タクシー利用です。
 前日にタクシーを予約しようと袋田のタクシー会社に電話しましたが、過日の問い合わせには丁寧に応答してくれたのに、新緑の袋田の滝や袋田温泉への客が多い土曜日ということもあったのでしょう、数少ない男体山登山のタクシー利用者のための配車はお断りという雰囲気です。
 そこで袋田の一つ先の大子のタクシー会社に電話すると、料金的には時間的にも水戸寄りの山方宿駅からのタクシー利用を勧められ、親切にも山方ハイヤー(℡0295-57-2404)を紹介してくれました。


 
 10時9分、山方宿駅で降りたハイカーは私たちの6人だけ、2台の山方ハイヤーの車が駅前に待機していました。田植えが終わったばかりの田んぼや山々の新緑が晴天に映える久慈川、湯沢川渓谷に沿っての、快適なドライブです。古分屋敷(こぶやしき)集落の男体山の登山道入り口まで20分で到着、午後3時に迎えを頼み、ハイキング出発です。
 前もって迎車を約束してあったのは正解でした。山中からの電波の状況が悪く、携帯が通じにくいので、下山途中でのタクシー会社への連絡が不可能なのです。約束の午後3時を10分ほど過ぎてしましましたが、古分屋敷の駐車場に同じ運転手さんが待機していてくれました。
 帰路、「三太の湯」という立ち寄り湯の標識が見えたので尋ねると、その周辺にもハイキングコースがあり、入浴を終えたハイカーを迎えに行くことがあるとのこと・・・早速、帰宅してから情報を集めることにしました。

料金は迎車料込みで往復1台7,960円でした。



頂上で天候が急変しました
 当日の天気予報では、栃木県、群馬県の山沿いでは午後3時ころから雷雨だとのことでした。茨城県北部の男体山でも午後3時頃からの天候悪化がありうると考えていましたが、早くも頂上到着直前の12時半からポツポツと雨が落ち始め、頂上では雨の中の昼食となりました。裾野の西側大円地、古分屋敷や、東側の持方集落はよく見えますが、北側の袋田方面の空は真っ暗な雲に覆われ始め、雷鳴が始まりました。

 昼食後の休憩なしで、すぐに下山開始・・・やがて雨が激しくなり、稲光が横に走り、落雷も始まりました。頂上直下の断崖沿いの岩だらけの急な下り坂の登山道を早く通り越し、その先のブナ林に逃げ込みたいのですが、初心者がいますので安全第一、滑りやすい岩の坂道を這うようにして降りるので時間がかかります。「三点確保」の声を掛けながらの下山です。
 途中、三人のグループが傘を差し、雷を避けるためでしょう、しゃがみ込んでいます。私たちは雨具を忘れたため、ずぶ濡れになった同行者を囲むようにしてブナ林の中の歩道へ急ぎました。



 ようやく大円地越えの東屋に着く頃から、急速に天候が回復、日差しが戻り、ホッと一息つくことができました。途中で雷を避けていた三人グループも東屋に到着、男体山から月居山(つきおりさん)、袋田の滝への縦走を計画したが、断念したとのことです。三人とも完璧な雨対策のスタイル、それに対して下着までずぶ濡れの哀れな我がグループ・・・いろいろと反省いたしました。
◎ 初心者とのハイキングでは、予備の雨具や軍手を用意する。
◎ 雨が簡単にしみ込まない素材のズボンを履く
◎ 天気予報で雷雨の恐れがある場合には、午前中に頂上を下り始める。


 大円地集落の茶畑を登り始めたのが午前11時、到着したのは午後3時、4時間かかりました。皮肉にも、青空の中をくっきりと聳え立つ男体山に見送られて大円地を後にしました。

 

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鉄道と路線バスの旅・50年前の北海道旅行

2008-05-11 10:55:21 | Weblog
先週、学生時代の友人の快気祝いを東京・御茶ノ水で開きました。同じ病気で、同じ病院で、執刀医も同じ、私が5年前、友人は2ヶ月前の手術という縁で、二人のささやかな宴となりました。

話題はいつしか50年前、昭和34年に出かけた北海道旅行となり盛り上がりました。もう一人の友人三人で、2週間、テント・寝袋を担いでの旅行でした。かかった費用は1万5千円、バイトで貯めた金でした。
当時の大学卒業者の初任給がそのくらいでしたから、今の物価の換算で、およそ10倍、15万円ぐらいになるでしょうか・・・学生の身分にしては豪華な旅でした。テントを使ったのはほんの3日、往復の夜行列車での2日、後は友人の父君が勤めていた国鉄の宿舎や、旅館に泊まりましたので、この金額となりました。
 今でも記憶に残る列車と路線バスを乗り継いでの旅の断面を記してみます。



 網走駅から列車を乗り継いで、帯広駅に出て、士幌線上士幌駅へ・・・そこから山道をテントで泊まりながら、当時秘境としてようやく知られるようになっていた然別湖へ向かう予定でした。
ところが、上士幌の町の人に道を尋ねると、半ば呆れ顔で「熊に食われるが関の山」だと諭され、計画を断念、糠平湖畔の真新しい温泉旅館に泊まりました。糠平湖も完成したばかりの人造湖で、満水までには至らず、赤茶けた湖畔がむき出しでした。

ここの旅館では失敗があります。天汁を澄し汁と思い、ずいぶん量が少ないと思いながら、飲んでしまったことです。当時、天ぷらは醤油でしか食べたことがありませんでしたから、浸して食べる天汁があるのだということなどまったく知らなかったのです。

 私たちが行き帰りに乗った士幌線はとうの昔に廃線となりましたが、当時のコンクリートアーチ橋梁が今では北海道遺産となり、観光客が訪れています。

 上士幌駅から再び、帯広駅へ・・・そこから広尾線広尾駅に向かいました。車中の記憶はまったくないのですが、愛国駅・幸福駅が途中にあり、一時期、大変有名になりましたので、そこを学生時代に列車で通過したのだとようやく思い出したくらいです。

その広尾線も廃線、線路、橋脚は撤去されたものの、駅舎は保存状態がよく、鉄道ファンが訪れているようです。(詳しくは廃線研究所のページを・・・)。

 広尾駅からは路線バス襟裳岬へ・・・見学後、再び路線バス日高本線様似駅へ向かいました。バスの中で、地元の人から、将来は広尾駅から様似駅まで鉄道が繋がるという話を耳にしましたが、その広尾線も廃線、日高本線も一時間に一本列車が走るかどうかという、車窓から見る海岸沿いに干されている昆布の光景がハイライトというローカル線と現在ではなってしまっています。

その代わりとして、広尾町豊似から浦河までが、236号線日高山脈を突き抜ける野塚トンネルの開通で結ばれましたから、地元の方の夢も実現したことになるでしょうか・・・。冒頭の写真は昨年の夏、訪れた襟裳岬です。



(判官館の岬から見た新冠町へ走る日高本線)



(判官館の断崖下を太平洋の波打ち際を走る)

日高本線は様似・鵡川間の廃止が決まりました



苫小牧駅から室蘭本線に乗り換えました。途中の長万部(おしゃまんべ)駅で忘れられない思い出があります。男性の売り子が首からかごをぶる下げ、停車した列車の車窓に向かって「毛がに!毛がに!」と連呼しているのです。たしか一匹50円でした。今の値段で500円になります。ゆで蟹を買うと、新聞紙が手渡され、膝の上に広げて、蟹を捌いて、食べました。この話を北海道出身の同僚に話したところ、「それは歴史的な体験だった」と羨ましがられました。

今でも長万部駅は蟹の駅弁では知られていますが駅弁かにめし本舗のホームページ
をのぞいて見ましたが、50年前に毛がにを新聞紙付で売っていたという記事はありませんでした。
 
青函連絡船青森駅に渡りましたが、洞爺丸の海難事故から5年しかたっていませんでしたから、救命胴衣を真剣に探した記憶があります。
 青森駅からは奥羽本線回りの夜行列車上野駅へ一気に向かいました。車窓から見た八郎潟は干拓が始まったばかり、月明かりの中、満々と水を湛えた美しい姿を見せていました。

 50年前の記憶というものは、受け取り手によってずいぶん異なるものだと痛感しました。一方が鮮明に覚えている光景・出来事も他方の記憶にまったく残っていないなどちぐはぐの連続でしたが、それでも話が途切れることなく続いたのは50年前、青春時代の2週間を、ともに過ごした濃密な時間・空間があったからでしょう。
今ではまったく顧みられることがなくなった、普通列車と路線バスを乗り継いだスローな旅の楽しさを久しぶりに思い出して、私のブログ東京から行く石見銀山の旅を紹介、他の旧友にも声を掛け、50年ぶりの列車とバスの旅で世界遺産石見銀山を目指すことを約束して、宴を終わりました。









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大分の郷土料理と臼杵のふぐを味わう

2008-02-24 09:07:47 | Weblog
 

旅の楽しみの一つに、食があります。昨年末農林水産省から「郷土料理100選」が発表され、大分県では「だんご汁、ごまだしうどん、ブリのあつめし」の3点が選出されました。今回の旅では、その三つを味あうことができました。

 だんご汁
 大分県全域で食べられている基本食だそうです。宇佐神宮前の土産店の食堂で食べました。基本食ということで、定食に添えてあるようでしたが、単独でも注文できます。だんごが入っているのかと思いましたが、野菜がたくさん入った味噌汁に幅の広い厚めのうどんが入っているという感じで、山梨の郷土料理「ほうとう」と似ています。
 名前の由来ですが、小麦粉を捏ね、団子状にちぎったものを伸ばすところからくるようです。だしは小魚を使っているようで、ここがほうとうの味と異なるところです。店の方の話ですと、店により、また家庭により独自の味があるとのこと・・・夏場でも、汗を流しながら、この熱いだんご汁を食べるとのことでした。

ごまだしうどん
 佐伯の郷土食です。国木田独歩館の受付の女性に教えてもらった松並木先の駐車場前の店に行きました。お湯だけの中の、うどんが・・・そしてかまぼこ、青ねぎが散らしてあるだけです。その中に練り状のごまだしを大匙一杯加えます。それがそのままだしとなり、いい塩梅の味となります。いとも簡単な調理法、さすがに漁師の伝統食です。しかし、ごまだし作りはたいへんです。エソという小魚を丁寧にさばき、焼き、身をほぐし、そしてごまを加えて擦る・・・という漁師のおかみさんが手間隙かけて作ったものなのです。
 このごまだしは万能調味料、いろいろな料理に使えます。冷蔵庫の中なら三ヶ月は持つという優れもので、土産にもってこいとばかり、13個を送ってもらうことにしました。

ブリのあつめし
 醤油に漬け込んだ新鮮なブリの切り身を炊き立てのご飯の上に載せ、その上にお茶をかけて食べる漁師の船上食が原点です。りゅうきゅうというとも呼ばれているようで、琉球の漁師から伝わった調理法とのことでした。
 佐賀関で関さばのりゅうきゅうを食べました。あたたかいご飯の上に、関さばの切り身がならび、薬味がかかっています。それに特製のたれをかけて頂きました。
 大分空港でもりゅうきゅうの真空パックのセットが売っていました。売り場の女性の話ですと、関さばのりゅうきゅうは年に数回しか食べられないとのこと・・・高価な郷土食となってしまったようです。

臼杵とふぐ
「冬に臼杵に行くのだったら何を置いてもフグを・・・」と臼杵に詳しい友人から聞いていたので、臼杵に着くと予約しておいた料亭春光園に向かいました。臼杵藩主稲葉家家老の屋敷跡、庭園は文化財に指定されているとのこと、着いたのが6時半で暗く、残念ながら庭園を見ることができませんでした。料亭入り口はまさしく映画で見るような武家屋敷の玄関の構えそのものです。
 
 個室に通され、早速食事です。地元の特産の名物を並べた先附をそこそこに、いよいよふぐ刺しです。大皿に載せられたふぐ刺しですが、皿の模様が透き通るくらいに芸術的な薄さにそがれているのがふぐ刺しですが、臼杵のふぐ刺しは違います。厚くそいだふぐの身が無造作に並べられた趣なのです。潮流の激しい豊後水道で育った天然ふぐの身は、薄く削ぐのが大変で、贅沢に厚い身のままで、ふぐ独特の歯ごた・甘みが倍加している食感なのです。

 そして薬味として盛られた青ねぎともみじおろしの横になにやら白いどろっとした形状の品が添えてあります。これがふぐ××で、ここ臼杵でなければ決して食べることができないものです。怖々と箸を伸ばし、ポン酢に漬け頂きましたが、上品なまったりとした甘みが口いっぱいに広がり、高級品のフォアグラもその比ではありません。
 ちょうど部屋にお見えになった女将との会話の中でも話題になりましたが、石川県能登地方に伝わるふぐの卵巣の糟漬けは、ふぐの毒(テトロドトキシン)抜きの奇跡の発酵文化として知られていますが、臼杵にも独特の調理法の文化があるのかもしれません。
 
 続いて出されたのが2月~3月しか食べられないという白子です。ふぐちりに入れた安物の白子は食べたことがありますが、臼杵では焼き白子として出されます。
 表面を微妙な火加減で炙った白子が、小さな丸もちのような形で小皿に二つ載っています。そのまま口に入れ、表面を歯でそっと割ると、中身が流れ出しとろけるような滑らかな舌ざわり、そしてほのかな甘みが口中にひろがります。
 
 ふぐの天ぷらを食べた辺りから、ひれ酒の酔いも手伝い満腹となり、ふぐちりの後の定番の雑炊は遠慮しました。それにしても、ふぐミソ(?)の味わい、ふぐ刺しの量感、白子の上品さ・・・臼杵で出会った伝統のふぐ料理の味は生涯忘れることができないでしょう。




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臼杵・佐賀関・別府温泉を楽しむ・・・九州冬の旅

2008-02-17 13:43:58 | Weblog
 大分空港からレンタカーを借り出し、二泊三日の九州旅行を楽しみました。大分空港からのレンタカーの旅は2度目となりますが、前回訪れなかった名所旧跡を訪れるのが今回の旅の目的です。
 その第三日目の報告です。



8:00 臼杵市内ホテル出発
8:30 稲葉家下屋敷前駐車場へ
9:00 野上記念館
10:00 野上記念館→二王座道→市内散策 
10:30 駐車場発
12:00 佐賀関着
13:00 佐賀関発
14:00 大分市通過
14:30 別府浜脇温泉着
15:30 浜脇温泉発→別府国際観光港
17:00 大分空港着
18:05 大分空港発、羽田へ



臼杵市内見学:
 臼杵の町でまず最初に目にするのが臼杵城址でしょう。竹田の岡城は川沿いの丘陵に、佐伯の城山は100mの山頂に築城されているのに対して、臼杵城は町の中にあります。浜辺の島に築城されたのが、町の発展とともに周辺が埋め立てられ、町の中に取り込まれた形になりました。現在は公園となり、桜の名所でもあります。築城は大友宗麟で、その絶頂期の頃は、ポルトガル船も寄航していており、当時の臼杵は異国情緒豊かな町でした。
 大友家が没落し、関が原の戦いで戦功があった稲葉家が美濃から移ってきました。稲葉家は、織田信長、豊臣秀吉に使えた稲葉一鉄が始祖で、市内には稲葉家の家臣団の屋敷が幾つかあり、往時の姿を伝えています。その中で、丸毛屋敷跡が見所の一つでしょう。明智光秀の名家老であり、光秀と運命をともにした斉藤利三に連なる丸毛氏は、山崎の合戦後流浪の身でしたが、姻戚である稲葉家に200石で召抱えられました。そんな関係から、利三の娘お福、後の春日の局が、住んだこともあるという斉藤家の屋敷跡もありますが、お福が住んだというのは伝説でしょう。なお、お福の子、稲葉正勝は小田原城主となっています。
 歩くだけならば、一時間かからずに一回りできるという旧城下町は江戸時代に戻ったような家並みが続きます。ポルトガル人が闊歩していた時代の町割りとほとんど変わらない町割だと野上弥生子が書いていましたが、そんな雰囲気が濃厚な町です。商家が多く、目に付くのは「推薦店 ふぐの郷臼杵」という看板を掲げた店です。ふぐの鰭を店先に干してある店もあります。昨夜訪れた武家屋敷跡にある春光園と異なり、庶民的な雰囲気が魅力的、次回はこちらを訪れてもよい・・・と考えながらの散策です。その商家の一角が野上弥生子の生家が記念館となっています。
 南の高台の一角が武家屋敷と寺が織り成す石畳の道、二王座道です。切通しあり、階段ありの石畳の坂は晴雨を問わず散策したいところです。
 映画「なごり雪」を撮影した大林宣彦監督は、タイムカプセルに包まれたようなこの城下町の情感をあますことなく捉えています。



*前回訪れている国宝「臼杵石仏」には行きませんでした。
*「観光ガイド・・写真で見る臼杵・・原山隆編集」が大変参考になりました。駐車場の管理人の方の手元にあり、無料で配布されています。

野上記念館で:
 野上(小手川)弥生子の生家、小手川酒造の一部が記念館となっています。臼杵への旅での一番の楽しみは、この記念館を訪ねることでした。甥であるフンドウキン株式会社会長小手川力一郎氏の野上弥生子逸話や松岡正剛氏の千夜千冊「秀吉と利休」を読んで、野上弥生子という作家の幅広い交友関係、説得力ある鋭い洞察力、リベラルな思想、老年になっても衰えない創作意欲と知識欲に深く心打たれたからです。
 記念館での展示物の中で特に惹かれたのは、二階の展示室入り口のケースに展示されている一冊の本、1911年創刊の女性文藝雑誌「青踏」です。その隣に置かれた伊藤野枝の写真から、二人は青踏社で知り合い、その縁で大杉栄と伊藤野枝の結婚式に野上弥生子が出たのだと合点がいきました。そして、展示室に隣接する、弥生子が上京するまで使っていた部屋を覗いた時、ふと、二年前に訪れた福島県二本松市の智恵子記念館の、智恵子の過ごした部屋となにやら雰囲気が似ているなと感じ、そして突然、智恵子が「青踏」の創刊号の表紙絵を描いたということを思い出したのです。
 部屋の佇まいが似ているのも当然です。高村(長沼)智恵子の生家も酒造業を手広く営んでいました。ただ、酒造業を継いだ弟は経営能力が無く破産、一家離散となり、これが智恵子の精神を追い詰めていくことになります。
 帰りがけにもう一度「青踏」に目を向けました・・・弥生子と智恵子は青踏社で出会ったことがあるのでしょうか・・・同じような境遇に育ち、はるばる九州から東北からと、夢と希望を持って上京した若き二人の女性は、一人は99歳まで執筆活動を続け、天寿をまっとう、「天神丸」「秀吉と利休」などを遺し、一人は精神病の闇に閉ざされたまま53歳の生涯を終えましたが、夫高村光太郎の「智恵子抄」となって後世に生きています。

記念館を出ると、棟続きの隣は九州では一、二を競う大手の小手川酒造、忙しく作業をしている社員の方々の姿が見えます。向かい側の、同じような佇まいの小手川商店で、お茶をご馳走になり、土産を買い求め、臼杵を後にしました。

ところで雑感・・・小手川酒造は、フンドウキン株式会社となっており、その名を架した醤油の製造元です。この「フンドウキン」という名前ですが、記念館でその紋を見て、ようやく納得しました。「分銅紋」に創業者の名前の一字「金」を埋め込み、「分銅金・・・フンドウキン」だったのです。
因みに、千葉県野田市に「亀甲紋」に「萬」を入れ「亀甲萬」という醤油製造元がありますが、カタカナ表示を始めたのはどちらが先なのでしょうか。また、いつの頃からのことでしょうか。いろいろ調べたのですが、結局、分からずじまいでした。

佐賀関に向かう:
臼杵を出て、すぐ217号線を佐賀関まで進みます。狭く、山の縁の海岸沿いの道路です。ところどころに抜け道があり、カーナビが機能しませんが、基本的には海岸に沿っていけばよいのです。九州旅行最終日のこの日は晴天、日向灘の海も凪いでいます。冬だというのに暖かく、まるで故郷の南伊豆の海岸沿いを走っているよう、海岸すれすれの道ですから、ひとたび海が荒れれば、波しぶきを浴びることになるでしょう。のんびりと磯で釣りを楽しんでいる人もおりました。佐賀関の漁港は朝の漁を終えた船が連なっています。 
 佐賀関を訪れたのは、あまりにも有名になった関さば、関あじを賞味することです。丁度昼時になり、歩く人のほとんどいない佐賀関の町を過ぎると、海岸沿いに「関あじ関さば館」があり、駐車場に4,5台の車が停まっています。中に入ると、一階が水産物販売所、二階がレストランです。水産物はもちろん関あじ、関さばが中心、関あじは3月から10月まで、関さばは9月から3月までが旬の魚です。干物は、、鮮度と味を保つため、神経抜き、血抜きをパックに入れてあります。
 二階レストランは、平日にもかかわらず、8割の入りです。新築で、見晴らしがよく、休祭日は混雑するのでしょう、待合室までありました。関さばの刺身は、一本500gの大きさで7,000円、二人ではとても食べきれそうもなく諦めました。家内は地魚の煮付け、私は関さばのりゅうきゅうをオーダーです。

別府温泉へ:
 佐賀関から愛媛街道と呼ばれる197号線になります。ほぼ直線道路で、改修も進み走りやすい道路です。道なりに進むと、大分市内で10号線と合流です。大分から別府、日出までの別府湾沿いに走る10号線は、片側三車線の一般道として高規格道です。平日の午後でしたが、渋滞することはまったくありませんでした。
大分を過ぎ別府に近づくと、鶴見岳、由布岳が見えてきます。野上弥生子は「或る女の話」の中で「・・・幾つかの円い山を後に負うて、前には瀬戸内海から続いた綺麗な入江を控え、また至るところに、無尽蔵に地の下から湧き出る熱い湯を持った・・・」と別府を描いています。

高崎山を過ぎて、最初の温泉が別府八湯の一つ浜脇温泉です。「湯都ピア浜脇」の道路標識があり、そこを左折、直ぐです。スーパーマーケット、入浴施設が一体化した区画になっており、地下駐車場があります。「湯都ピア浜脇」は昭和の初めに立てられたコンクリート三階建ての旧浜脇高等温泉の地に建てられました。昔からの共同浴場とヨーロッパのクアハウス風の入浴施設は別棟で、どちらに入ろうか迷っていましたら、地元の方でしょうか、「向こうは値段が高いぞ」と教えてくださいましたが、結局、貴重品入れが完備したクアハウスにしました。
 二階が、受付とロビー、60畳位の和室の休憩室、ジムがあります。階段を下り、一階が浴場です。かぶり湯、気泡浴、全身浴、圧注浴、打たせ湯、運動浴、寝湯の8つの浴槽があり、ここでも入浴注意書きは日本語、ハングル、英語です。
ゆっくりと入浴三日間の九州冬の旅の疲れを取りました。午後三時頃ということもあり、入浴者は10人足らずでした。和室には若者が二人、おそらくバイクで九州を回っているのでしょう、熟睡していました。
一人500円の贅沢なひと時でした。

大分空港へ:
 10号線に戻ります。10分も走ると、別府国際観光港が右手に見えてきます。ここは大阪、神戸のフェリーボートが発着する港です。ここのみやげ物店は大分県の物産展の趣があり、水産物以外なら大抵の品が販売されています。また、毎年2月に行われる別大毎日マラソンの折り返し地点になるところです。
 10号は日出(ひじ)町まで三車線の走りやすい道路が続きます。日出で213号に入り、直ぐに大分空港道路(有料)の標識が出てきます。こちらが新しい213号線のようですが、距離的にも大差が無く、海岸沿いを走り、美しい杵築城を眺められる本来の213号線を走りました。
 杵築城を望む別府湾の海で取れる城下かれいは食通の間では有名です。初夏が旬で、その頃に訪れたなら味わうことができるでしょう。ここから空港までは、わずかな距離です。

 三日間の走行距離は384キロ、スタッドレス付レンタカー料金20,000円、ガソリン代は3,000円でした。











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国東半島両子寺・宇佐八幡宮から黒川温泉へ・・・九州冬の旅

2008-02-05 10:52:44 | Weblog
大分空港からレンタカーを借り出し、二泊三日の九州旅行を楽しみました。大分空港からのレンタカーの旅は2度目となりますが、前回訪れなかった名所旧跡を訪れるのが今回の旅の目的です。
 第一日目の報告です。

7:50 羽田発(ANA)9:30 大分空港着
9:30 大分空港着
10:00 レンタカーで空港出発。北上して、国東交差点を左折、豊後高田方面へ
10:40 両子寺(ふたごじ)到着。境内散策
11:40 両子寺出発。豊後高田を経て、宇佐へ。
12:30 宇佐神宮到着。昼食後、神宮境内散策。
14:00 宇佐神宮出発。387号線を小国まで。422号で黒川温泉へ。
16:30 黒川温泉着(宿泊)

大分空港から両子寺(ふたごじ)へ:

 国東半島には仏教文化が栄え、数多くの寺院や石仏があるという知識は持っていましたが、どのような分布で、どのくらいの密度で存在するのか漠然と地図を眺めているだけでは分かりません。そんな時両子寺のホームページを開き、その成り立ちが明快に説明され、ようやく全体図が見えてきました。
「国東半島のほぼ中央に聳える両子山(721m)から放射状にくにさきの谷々は海岸へと広がり、約28谷を六つの里に分け、六郷と称し、この地に開かれた天台宗寺院全体を総称しして六郷満山と呼び、奈良、平安・鎌倉の昔より、宇佐八幡〈全国八幡の総本社〉の庇護と影響の下に神仏習合の独特の寺院集団と信仰が形成され、往時には半島一帯に185の寺院、洞窟、僧坊、を含めて約八百の大小の堂、また、石仏・石塔が、点在し、ほとけの里といわれる六郷満山仏教文化圏が開かれてきました。」

 

 見所は無数にあると言ってよいでしょうが、六郷満山の総持院である両子寺、九州最古の和様建築物である国宝富貴寺、九体の平安時代の仏像を有する真木大堂、代表的な石仏の熊野磨崖仏などが多くの人が訪れるところです。これらを全て訪れるとすると1日は要します。今回の旅では、訪れたことがある富貴寺、真木大堂、熊野磨崖仏を外し、両子寺宇佐八幡宮を訪れることにしました。

 カーナビ画面に目的地「両子寺」を入れ、出発です。別府湾沿いの国道213号線を北上、国東で左折、集落を過ぎ、登りの山道に入ります。寺の名前の道路標識が多く見られ、「み仏の里」に入ったことが実感できます。冬ということで国東半島を走る車は少なく、快適なドライブです。常緑樹と竹林が多い山間は、冬景色という感じがしませんが、上り坂のカーブごとに置かれている滑り止めが入った砂袋が、凍結する道路の危険性を教えてくれます。

やがて「両子寺」の立派な標識・・・山道を登っていくと駐車場です。観光バスが数台
、乗用車が20台位駐車できるスペースです。本来なら駐車場下の、石像仁王二体が守る仁王門から石段を登り、山門を通り護摩堂に至るのが正式な参道でしょう。駐車場から上る階段脇の下段には蝋梅が黄色の花をつけています。受付で拝観料を支払い、書院・客殿がある広場に出ます。そんなに広くはありませんが鬱蒼と茂る杉山を背景に築山風によく手入れされた庭園は、冬の最中でも、魅力的な風景です。境内には桜の木、もみじ、石楠花など花木が多く春や秋の頃なら装いはまったく違うでしょう。
雪になっても不思議ではない小雨の降る気温5度の境内は閑散としています。右手にある護摩堂に参詣、誰一人いない講堂の中は、わずかな明かりの中、暖房もなく、祀られる不動尊と日夜対峙しての修行は並大抵なことではないでしょう。



 ここから奥の院へ山道を登ります。14世紀中ごろに造られたと言う国東塔は必見です。急坂の石段を登ると左手に10メートルはあろうかと思われる岩が立ち、その表面が磨崖碑となっています。奥の院はその奥まった一角にあり、岩山を背後に組みこんだ建物で、前面の谷は二抱えもある年輪を刻んだ杉の林です。奥の院の裏側の洞窟状になった空間に入りました。裸電球の明かりで薄暗い洞窟内も修行の痕が残され、岩山からしみ出る水を神水として溜める窪みが岩山に削ってありました。

両子寺から宇佐神宮へ:



 次の目的地は宇佐神宮です。両子寺から豊後高田へは道が下ります。直ぐに集落があり、前方に独特の形状の岩山が見えてきます(冒頭の写真)。国東周辺の山々は岩山が目立ち、猪群山の頂上にはストーンサークルがあり、古来から石材の入手は容易で、それが石仏、石塔、石板碑が多く作られた理由でしょう。カーナビの指示に従い、豊後高田市内に入らず国道10号線に出てしばらく走ると宇佐八幡宮(神宮)の標識が出てきます。広い有料駐車場があり、その南側に土産店が並んでいます。

 駐車場の東にある朱塗の宇佐鳥居を過ぎると、常緑高木のイチイガシが生い茂る参道は南に曲がり、宇佐神宮の北側を守るように流れる藻岩川を渡る朱色の神橋があります。そこから広い参道がまっすぐ伸びていますが、南端には行き止まりの森が見えるだけです。右手にある宝物館は火曜日であったため、休館でした。

 左手の池には鯉のえさの販売機があり、一組の夫婦が鯉に餌を与えています。隣に絵馬殿があり、明治・大正時代の額や絵馬が飾ってあります。参道に戻り、南端まで歩くとようやく左に上宮へ続く緩やかな階段状の参道になりますが、上宮は見えてきません。登りきると本殿の屋根が見えるだけで、右手斜めに進んで、ようやく上宮の横手にでます。ここで左を向いて始めて本殿に正対できるのです。一之御殿、二之御殿、三之御殿が並び、それぞれ御祭神に拝礼します。本殿の正面に勅使門があり、百段の石段がまっすぐ下っています。



 一般の参詣者には、あえて参道に幾つかの曲がり角をつけ、華麗な八幡造りの国宝本殿の姿を最後の最後まで目にすることが出来ない巧みなレイアウトが、宇佐神宮の特色のように思いました。これが宇佐神宮の懐深さ、奥行きの深さを感じさせてくれ、時々参詣する明治神宮との違いです。それもそのはずで、全国4万あまりの八幡宮の総本山であり、伊勢神宮に次ぐ我が国第二の総廟であり、天皇家の勅使が10年に一度参向するという格式を持った神宮であることをパンフレットから知りました。 

 本宮のお参りを済ませてから、参道を戻り、若宮神社で左手に下り、下宮に詣で、再び参道に戻ります。ここから表参道の神橋まで行かずに、神宮庁を左折、西参道の、鎌倉時代からの歴史がある神橋である屋根付の呉橋(くれはし)を見学します。現在は渡ることが禁止されており、並んで作られている歩道橋で寄藻川を渡ります。右に曲がれば、みやげ店前の駐車場はです。

宇佐神宮から黒川温泉へ:

 カーナビの推奨ルートは宇佐別府道路大分自動車道やまなみハイウエイ経由ですが、やまなみハイウエイは走ったことがあり、湯布院も今回の旅では寄らないこと、また、レンタカー借り出し時に黒川温泉付近の降雪・凍結情報を知らされていましたので、瀬の本峠から黒川温泉へ下るこのルートを避けることにしました。
 第二のルートは387号線院内玖珠九重を経て、熊本県小国に入り、そこで442号線黒川温泉に向かうルートです。一般道を走ることになりますから、昔ながらの町並みを楽しみながらドライブできるのでは・・・と思いながら設定しました。
  
 387号線を選んで正解でした。私の古い地図では、387号はカーブの多い道路となっていましたが、今では改修が進み、走りやすくなっています。平日でしたが、交通量は少なく、落ち着いた町を抜けていく予想通りのドライブです。



 玖珠町に近づくと正面に大きな山容の万年山(ハネヤマ)1,140m)が見えてきます。頂上部が平らなこの山はミヤマキリシマの群生地があり、五月末から六月初にかけて多くのハイカーが訪れます。387号はさらに万年山と九重山の間を走りますが、ここに天然洞窟温泉で知られる壁湯川田川沿い最大の宝泉寺温泉文字通り川底から温泉が湧く一軒宿の川底温泉と三つの魅力的な鄙びた温泉地を抜けていきます。いつの日か、ここの温泉に泊まり、万年山に登ろうと考えながらのドライブでした。
 川底温泉を過ぎると熊本県です。小国町に近づく辺りから、387号は、昔ながらの、すれちがいが出来ないような、細いカーブが連続する下り坂になります。しかしここもトンネルを新設中で、今年中には開通するようです。
 小国から442号に左折、阿蘇くじゅう国立公園に向かって上っていけば、30分で黒川温泉に到着です。ここまで、路面凍結の標識はありましたが、雪はまったく目にしませんでした。
 一日目は150キロのドライブでした。







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時代の目撃者・・・鎌先温泉と不忘山

2008-01-27 08:26:10 | Weblog

大谷恭平選手ホームラン王確定!のニュースで玉川徹氏が「ぜひ、宮城のカマサキ温泉で傷を治していほしい」と勧めていました。それが本記事の鎌先温泉なのです。当時の疎開体験をなさった方がこのニュースをお聞ききになったらどんなに嬉しかったことか・・・玉川徹さんほんとうにありがとうございました。

泊まるなら「鎌先温泉」、スキーをするなら「みやぎ蔵王白石スキー場」・・・と繰り返すのはもう一つの理由があるからです。それは、ここが太平洋戦争での忘れてはならない悲劇の一場面の、その現場となった歴史があるからです。

『集団疎開・・・しゅうだんそかい』という言葉を耳にしたことがありますか

 今から71年前、昭和十九年、アメリカ軍の空襲が現実味を帯びてきた東京の区部から、小学校三年生以上の児童全員が地方へ避難することになりました。東京の親元からはなれ、空襲の恐れのないと思われていた地方・・・富山県、長野県、新潟県、山梨県、栃木県、群馬県、福島県、宮城県、山形県などの・・・旅館、料亭、寺などに、学校ごと避難していったのです。そこを『学寮』と呼び、教師たちと生活の面倒を見るため採用された『寮母』・・・多くは20代前後の若い女性でした・・・と終戦までの約一年間の避難生活を体験したのです。空襲が本格化した昭和二十年からは、小学校一、二年生も加わりました。
これを『学童集団疎開』と呼んでいたのです。
 現在76歳以上の方の中には学童疎開を体験された方がおられます。『集団疎開』という言葉が今ではほとんど死語となってしまった理由は、体験された方があまりも悲惨な思い出だったために、あえて口にするのを避けてきた面があったかもしれません。

鎌先温泉にも疎開ツ子(集団疎開の児童)がやって来ました

 宮城県は学童集団疎開を多く受け入れた県です。県南だけでも白石市内、遠刈田温泉、小原温泉などにも疎開児童がやってきました。鎌先温泉には台東区、杉並区の学校が割り当てられ、数百人の児童が一年近くの疎開生活を送りました。
 疎開地での生活はみじめなものでした。国からの配給は途絶えがちになり、食事はご飯と漬物だけ、そのご飯も米飯から、いも、すいとん、さらに大根の雑炊と貧しくなっていきました。栄養失調から、青白い顔で動作も鈍くなり、勉強どころではなくなっていました。親恋しさから、学寮から逃げ出す児童も出てきました。

昭和二十年三月十日に悲劇が起こりました

 三月になると、六年生は東京の本校で行われる卒業式に出席するため、疎開地から次々と東京へ戻っていきました。喜々として帰る六年生、羨ましげに見送る在校生・・・そして東京大空襲があったのです。
 白石の学寮から東京へ帰った六年生の内、6人の児童が亡くなりました。
   鎌先温泉にいた在校生の一人は、一家全員が亡くなり、一夜にして孤児となりました。
   多くの児童が、親や兄弟姉妹を亡くし、そして帰る家を失いました。

東京空襲はB29による夜間無差別爆撃でした

 空飛ぶ要塞といわれた四発大型爆撃機B29が、299機の大編隊で東京を夜間空襲しました。一機には12名前後の兵員が搭乗していましたから、東京上空に3,600名近い米軍兵士が来襲したことになります。
 
 使用した爆弾は焼夷弾です。木造家屋がほとんどの日本の家屋は、爆破するより焼き尽くす方が効果的です。しかし焼夷弾にはもう一つ恐ろしい威力があったのです。焼夷弾は燃焼するとき周りの酸素を大量に消費します。炎から逃げおおせても、その周辺の酸素は一瞬にして無くなり無酸素状態に・・・窒息死した人も多かったのです。
 東京の下町地域の周辺から爆撃を開始し、中心部に向かって焼夷弾を投下しましたので、多くの人は逃げ場を失い、8万人の死者、4万人の負傷者という未曾有の惨事となったのです。

不忘山上空を越えようとする三機のB29がありました

 東京爆撃が終わったあとで、帰路に迷ったのか偵察のためなのか、山形方面へ向かって飛行していました。蔵王連山越えで山形市方向へ飛んでいた三機は、全機とも不忘山の頂上に衝突したのです。悪天候の吹雪の中、目測を誤ったのです。
 空飛ぶ要塞といわれ、日本軍の戦闘機や高射砲でもほとんど撃墜されることが無かったB29が、三機同時に失われ、34名の戦死者が出たことは米軍にとっても大きな損失となりました。

忘れ去られた悲劇

当時の日本は、軍部による報道管制が厳しかったため、鎌先温泉の疎開児童の悲劇や不忘山へのB29 の墜落については詳しく報道されることはありませんでした。
戦後、日米友好を願った白石市によって、不忘山の山頂近くのB29 墜落地点に搭乗員の慰霊碑が立てられました。慰霊碑はお花畑の直ぐ上にあり、スキー場脇の不忘山登山道を登れば、2時間30分ほどです。
慰霊碑に詣でることがありましたら、眼下に広がる白石の町、遠刈田温泉、鎌先温泉、小原温泉で、苦難の日々を過ごしていた東京からの疎開ツ子たちがいたことも思い出してください。

ところで、「疎開」という言葉ですが・・・

 軍事用語です。一箇所に軍隊を集中させると壊滅的損害をこうむる危険性があります。「に薄く展」して、損害を少なくする作戦用語です。将来の兵力となる子どもたちを地方に移動させ、戦力を温存するという建前で、軍部を説得しようとした関係者の苦肉の用語だったかもしれません。

登米に123名の小学生が学童疎開


関連リンク:

東京大空襲
語り継ぐ学童疎開
小原温泉に児童を引率された安井治平氏のお話
米空軍出撃記録(英文)
(「10 MARCH 1945 Japan」の項目が東京空襲の米軍側の出撃記録です。42-63564,42-65310, 44-69747が不忘山で墜落したB29に関するものです。Fubo Mountainの文字が見えます・・・
参考資料:
台東区、杉並区、荒川区、葛飾区、品川区の各教育史
白石かねまん会、不忘会






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八甲田の観光バス転落事故に思う

2008-01-11 10:17:24 | Weblog

1月5日、青森県で酸ヶ湯帰りの東京の観光バスが下りカーブでスリップ、転落して死傷者が出る事故がありました。私も春スキーに酸ヶ湯温泉に2度ほど出かけたことがありますので、同じ場所を通っているだけに、人事とは思われません。

 「吹雪で視界が真っ白になり、あわててブレーキを踏んだ」と運転手は話していたそうです。いわゆるホワイトアウト現象に遭遇して、38人もの乗客を乗せた重量のある大型観光バスを下り坂のカーブで急ブレーキをかけたのですから、スリップしても当然という印象を持ちました。
 報道ではチェーンを付けずにスタッドレスタイヤだけの走行が原因とされていますが、運転手が雪道走行に不慣れであったことが主因だったのではないでしょうか。また、厳冬期の八甲田付近の気象状況・路面状況について十分な情報を与えられていたのかどうか会社側の責任も問われるでしょう。
今回の南会津への旅行では、家族の一部は会津高原尾瀬口から会津バスをたかつえスキー場入り口の八総(やそう)まで利用しました。自家用車に家族を乗せて冬の中山峠を越えるときには、いつも極度の緊張を強いられますが、地元の路線バスなら安全ということもあり、会津バス利用となりました。
写真は、吹雪いている八総付近を走行する桧枝岐行きの会津バスです。

 今回の事故についてどう思われているか、特別豪雪地区の路線バスを運行する会津バスに問い合わせましたところ、総務部長の鈴木様から、丁寧なメールを頂きましたので、紹介させていただきます。

 今回の事故は大変遺憾に思います。基本的にはご指摘の通りであり、前が見えなくなった時点で「運転の一時休止」をできなかったのかと思います。またチェーンについては、遠隔地でありその風土を把握することは大変難しいため、運転する上での準備(運行計画の把握)不足であり、チェーン着装は当然であります。
 大分以前の話ですが、関東方面の運転者は、当社運転者の2~4倍チェーンを掛けるのに時間がかかると聞いたことがありますが、それも一因なのでしょうか?
  当社としては、雪国として的確な情報の収集と把握により、運行管理者が運転者に運行上の適切な指示(チェーン着装等)を行うこととなっております。また運転者に積雪・凍結時の運転操作上の注意点の周知も行っておりますので、今後、何か気づいたがありましたらご指導願います
 。」

 南会津の352号線は、夏場には尾瀬を目指す全国からの観光バスが昼夜を問わず走行する路線ですが、冬場になると、数はグッと減るようです。しかしスキー場へ乗り入れる観光バスもあり、今までに事故は無かったとはいえ、これからも安全運転をお願いしたいものです。
 
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「会津高原尾瀬口」は、静かな暖かな駅でした

2008-01-07 17:38:40 | Weblog
 今回、初めて会津高原尾瀬口駅に立ち寄りました。東京に戻る家族を駅で降ろすためです。毎年のように、南会津方面へドライブに出かけますが、駅舎を行き帰りに眺めながら、ただ通り過ぎるだけでした。
 閑散とした印象の駅で電車が走っているのを一度も見たことがありません。殊に冬場は雪の中に取り残された無人駅のような印象しか持っていませんでしたが、今回初めて駅の構内に入り、実は、人も駅舎も暖かな駅であることが分かりました。

 この鉄道線の「野岩(やがん)鉄道」の名前の由来を女性の駅員に尋ねましたら、代々引き継がれたらしい年季の入ったメモを手に、下野の国(栃木)と岩代の国(会津)を結ぶ鉄道ということから来ているとのこと・・・「お客さんからよく尋ねられるので、代々このメモが引き継がれているのです」と丁寧に説明してくれました。
ホームへ向かう家族の写真を取ろうとしましたら、改札口を通してくれました。人気の無い待合室にも石油ストーブが炊かれ、駅員の方々の暖かい心遣いが伝わる駅です。
1月3日11時47分発の浅草行の快速列車は二両編成、Uターンする帰省客でほぼ満員、会津高原尾瀬口で乗り込んだのは二家族の7人だけでした。


 
 写真は駅舎から滝の原集落越しに中山峠方面を撮った風景です

田島町・舘岩村・伊南村・南郷村が合併して、南会津町になりました。駅のある滝の原集落はその南端にあり、会津高原尾瀬への出発点であり、以前の「滝の原駅」から「会津高原尾瀬口」と改められた所以です。
 ここから352号線は標高差約500mの山道を登り、海抜1,000mの中山トンネルを越えます。写真の右手の方向です。トンネルを越えると、会津高原と名づけられた山地があり、周辺の多くの沢から流れ出る川沿いを352号線は進み、特別豪雪地帯に指定された地区に点在する集落を結んでいます。たかつえスキー場湯の花温泉高畑スキー場、そして桧枝岐村と、会津バスで会津高原尾瀬口駅から1時間40分かかります。
 この地区に沿って流れる川は、舘岩川伊南川となり、只見川に合流、やがて阿賀野川となって日本海に注ぎます。

一度は乗りたい野岩鉄道
会津方面に出かけるなら、ぜひ野岩鉄道の会津鬼怒川線を乗ったらいかがでしょうか・・・。東京から東武日光線(JRも新宿から3本出ています)、東武鬼怒川線会津鬼怒川線、そして会津鉄道・・・日光と会津若松を結ぶ江戸時代の主要街道であった日光街道沿いに点在する村々、美しい渓谷と山々・・・ドライブで見る風景と一味違う風景を、ゆったりと楽しむ贅沢を味わえます。
浅草8:00発の東武特急「きぬ」、野岩鉄道「快速AIZU マウントExp」を利用すれば、会津若松11:57に到着で4時間の旅、新幹線利用の郡山経由のJRでは3時間34分の旅、時間的に遜色はありませんし、料金面では有利です。
会津方面への旅の選択肢に加えたいものです。


 
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東京から行く石見銀山の旅

2007-11-11 09:26:32 | Weblog
高速バス「いわみエクスプレス」が運行休止となりました。高速バス「スサノオ」利用、jr出雲市駅から大田方面に向かう旅程となります。

石見銀山がどこにあるのか知っていますか・・・?

こんな質問をすると島根県の方に叱られそうですが、関東地方の人間には、石見の国・島根県にあるということまでは答えられますが、更に島根県のどこかと尋ねると首を傾げる人も多いのです。余談になりますが、「石見銀山を世界遺産に・・・」という運動の中で「大田市を石見銀山市に替えよう・・・」という意見が多数だったようですが、表示等を変更する手間と経済的な負担を考えて現行通りとなったようです。

大田市は東京からは実に遠いのです。
10月14日の「銀の道ウオーク」に申し込んだ際、担当の方に全国からの参加者がいるのか問い合わせたところ、「ほとんどが県内の方ですが、九州の方も申し込まれていますよ」とのことでしたが、因みに、博多から大田までは新幹線・特急利用で4時間、運賃は9,900円ですが、これが東京からとなると8時間、21,100円・・・空路・特急利用でも4時間半、31,830円となるのです。

思い出深い石見銀山の旅とするには
東京から、これだけの時間と費用(実は後ほど交通費を安く上げる裏ワザを提案します)をかけて出かけるのですから、心行くまで世界遺産石見銀山を楽しまなくては元が取れません。
 ではそのノウハウ紹介です。
その一・・・石見銀山を歩き尽くす
その二・・・雨天の日は絶対に避ける
その三・・・石見銀山に丸二日をかける
その四・・・最低二人で、できたら四人で
ではその理由です。



 石見銀山遺跡を楽しむには、ゆっくりと、時間をかけて、自分の足で散策することが最良の方法です。見所は次の三つです。
町並み地区」と名づけられた石見銀山の外郭町大森の町並みを散策しながら、そこに住んでおられる500名の住民の方と同じ目線で、武家屋敷や町家の佇まいを鑑賞しながら、そこで行われている地元の方の生活を共有します。
銀山地区」では間歩や精錬所跡、神社、城址を訪れ、400年に亘って銀を掘り続けた人々の息吹を感じます。来年四月には最大の坑道、大久保間歩が公開される予定です。
 両地区の施設に自由に入場できる共通チケット1,500円を購入します。
銀山街道」は採掘した銀と銀鉱石がこの道を通って日本海の港から朝鮮・中国やはるばるポルトガル・スペインまで運ばれました。その同じ道を辿り、往時の人々の苦難を偲びます。



今回参加した10月14日の「銀の道ウオーク」は幸いに晴れの日でした。もし、これが雨天だったら・・・恐らく「銀の道ウオーク」は中止、「町並み地区」と「銀山地区」の見学に変更になったのではないでしょうか。しかし、森に覆われた谷間に、細長く伸びる大森町の町並みや銀山遺跡を、傘を差しながらの散策では逃げ場がありません。せっかくの世界遺産遺跡の印象がまったく違ったものにしてしまう恐れがあります。石見銀山遺跡の訪問は、雨天の日は避けるべきです。
そこで、天気予報の中で最も精度が高い週間天気予報を活用して連続した晴れの二日を旅行日に選びます。季節はいつでも良いでしょうが、冬場は積雪のため「銀山街道」が歩けません。地元の方のお話ですと、桜が咲く四月上旬と秋の紅葉の頃が一番、新緑の頃もお勧めだそうです。

 一日目は「町並み地区」に1時間30分、「銀山地区」に2時間をかけて散策です。昼食時間を入れて4時間30分を予定します。両地区のある見学施設に自由に入場できる共通チケット1,500円がお得です。
二日目は「銀山街道」を歩きます。16世紀後半毛利家支配の時代に使われた道「温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)」、14キロ、6時間のウオーキングです。道標が完備しているので、地図と照らし合わせながら歩けば、大丈夫とのことです。前回のブログで紹介した「鞆ノ浦道(とものうらどう)」はガイド同伴でないと勧められません。
 14キロ、6時間はとても歩けないという方はJRを利用します。山陰本線大田駅から馬路(まじ)駅で途中下車、鞆ノ浦港と鳴り砂と盆踊りで知られる琴が浜を散策、次に馬路駅から温泉津駅へ、沖泊港と温泉津温泉街を見学します。「鞆ノ浦道」と「温泉津沖泊道」の両方の港を見学できるメリットがあります。ただ山陰本線の本数がたいへん少ないので、時刻表で確認します。なお、馬路駅(駅舎も取り払われている)も温泉津駅も無人駅です。



 石見銀山遺跡見学は自家用車や観光バスで訪れる観光客を受け入れることが主眼となっているようです。JRを利用して大田駅なり仁万(魔)駅から石見銀山へ訪れようとする個人観光客はタクシー利用でどうぞ・・・ということです。路線バスを利用して大森町まで行くことは可能ですが、本数が極端に少なく、使いにくいのが現状です。また、タクシーも駅で待機していなければ、電話で呼び出すことになり、それだけ割高となり、四人乗車で一人当たりの負担を減らしたいところです。

 また、銀山街道を歩く人はまだまだ少数派、それだけ静かなウオーキングを楽しめますが、マムシスズメバチが生息する山道も歩くことになりますから、万が一に備えて、二人以上で出かけましょう。



 東京からの・・・往復交通費28,090円の裏ワザ・スケジュール
一日目: 新宿南口高速バスターミナル
(高速夜行バス乗車に不安のある方、私の体験談をお読み下さい)
    (浜田・益田・津和野行いわみエックスプレス)発19:10→  12,100円

二日目: 浜田駅着7:20
       浜田駅発7:34(特急)→仁万駅着8:15        1,780円
       仁万駅発8:30(路線バス)→大森代官所跡8:47着     340円
*高速バスが遅れた場合
浜田駅発8:34(快速)→仁万駅着9:17
仁万駅からタクシー→15分で大森代官所跡着
     「町並み地区」、「銀山地区」の散策
大森代官所跡15:07(路線バス)→大田駅15:33 560円
市内ホテルに宿泊

三日目: 大田駅発(路線バス)7:35→大森代官所跡着7:52       560円
     「銀山街道温泉津沖泊道」を歩く     大森代官所跡(路線バス)→龍源寺間歩(ウオーキング開始。登り)→降路坂の茶屋跡(海抜500m強。ここからは降り)→西田の石仏→上市恵比寿社(ここから平坦な道)→西田集落・ヨズクの里(昼食。トイレはここしかない)→中村の題目塔(ここから山道に)→将棋岩→清水の金柄杓→(国道9号線トンネルの山を超える)→松山の道標(山道終わる。この先で温泉街と沖泊への分岐点。一時間で沖泊へ)→沖泊→温泉津午後3時30頃着
     
     温泉津共同浴場で入浴、休憩、夕食    


  
日本海の新鮮な魚料理を。。春:鯛・ひらまさ・あじ・トビウオ 夏:ひらまさ・すずき・アマダイ・剣先イカ 秋・冬:ひらめ・かれい・あんこうなど。値段との相談ですが、「鯛に飽いた殿様も、この魚だけに箸を付けた」といわれる高級魚のど黒(赤むつ)がおすすめです
 浜田駅前の「さか本」も日本海の魚を賞味できます 
    温泉津駅発(普通)18:23→浜田駅着19:11          650円
     浜田駅発(高速バス東京・新宿行いわみエックスプレス)19:50→
                                 12,100円
四日目: 新宿駅南口バスターミナル着7:50分
7月1日から浜田発18:55分、新宿着7:00分となります。

予約の手順は次の通りです。

①週間天気予報で旅行日を決める
②高速バスをインターネット予約する
③宿泊ホテルを予約する 

では、Bon voyage!


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石見銀山「銀の道ウオーク」に参加する

2007-11-04 13:25:20 | Weblog
 今年の8月に朝日新聞全国版に大田市が主催する「銀の道ウオ―ク」への参加者を募集していることを知りました。石見銀山が世界遺産に指定されてから是非訪れたいと考えていましたから、渡りに船とばかり申し込みました。 今回設定されたトレッキングは三つの銀山街道を歩くルートです。石見銀山から銀を日本海に運んだ16世紀前半銀山開発の初期に利用された鞆ケ浦道(ともがうらどう)、同じく16世紀後半の温泉津沖泊道(ゆのつおきどまりどう)、そして江戸時代に利用された陸路を尾道まで運ぶ尾道道(おのみちどう)です。私は最も古い時代の銀山街道鞆の浦道のルートに申し込みました。</fon

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/51/c91435302d0d8569a87f90a855e9055f.jpg" border="0">

 10月14日、幸いなことに晴天です。午後9時30分に石見銀山駐車場集合ということで前夜宿泊した大田市内のホテルを7時45分に出発しました。散策をかねて石見銀山に向かって町を歩き、途中で石見銀山から戻るタクシーを拾おうと考えたのです。古い町並みの市内を出て、市立病院を越えると田園地帯です。時折三瓶山が美しい山容を見せてくれ、歩道が整備された道路が点在するこじんまりとした集落を結んでいます。しかし、この散策は大失敗、一時間半歩きましたがタクシーは一台も来ません。後で知ったのですが、大田市のタクシーは駅だけに常駐、あとは電話で呼び出すしかないとのことでした。幸い、久利という村落で一日に7便しかないという大森町行きの市内バスに乗ることができ、10分遅れで石見銀山駐車場に到着、参加者は出発前の準備運動中でした。




 
石見銀山駐車場は山を切り開いて作られています。売店・トイレも完備された当初の駐車場だけでは足りず、更に新たな第二駐車場が完成したばかりです。全ての車は駐車場に置き、ここからシャトルバスで銀山地区に向かうようになっているようです。「銀の道ウオーク」専用バスが到着、コースごとに乗り込み、乗車直前に配布された「コースガイド・街道編」を見て、「しまった!」と思いました。この地図に記載された鞆ケ浦道トレッキングコースでは行程の実に半分近くが「歩行困難」の点線になっている難コースだったのです。温泉津沖泊道温泉津沖泊道にすればよかったと後悔しましたが、バスは走り出し挑戦するしかありません。
 
 10分で銀山公園に着き、そこからウオーキングです。鞆ケ浦道ウオーク参加者は12,3名を1班とした二班で、それぞれガイドが先頭に立ち出発です。銀山川沿いの遊歩道を歩き始めましたが、参加者は石見銀山には何度も来ていると思われる方々ばかりで、難コース鞆ケ浦道ウオ―クそれ自体を目指して参加されたようです。案の定、私は直ぐに遅れ始め、先頭のガイドさんの説明も聞き取れません。 私の班には市から依頼されたのでしょうか、地元大森在住の方が最後尾に付かれました。常に最後尾でしたので、この方の説明をずっと拝聴する幸運に恵まれました。石見銀山の歴史間歩(坑道)の時代ごとの変遷吹灰法やアマルガム法など銀の精錬法精錬に燃料として使用した松や竹の植林(これが結果として環境保全につながり、世界遺産指定の決め手となったとのことです)、足利時代から戦国時代に至る銀山を巡る武将の戦い、更に出雲風土記の歴史的価値、鞆の浦道の山道に見られるアケビ、栗、やまいも、ヤマモモの植物の収穫法など多岐に亘りその博学振りには驚かされるばかりです。毎日一時間半の周辺の散策を日課にしているとのこと、息をまったく切らさずに早足で山道を登られる健脚ぶりには同年輩の方とはとても思われません。
 今回、石見銀山に初めて訪れたのにもかかわらず、「銀の道ウオ―ク」に参加したため、歴史遺産地区の「町並み地区」「銀山地区」「石銀地区」を素通りしてしまいましたが、5時間のウオーキングの間話していただいた知識で石見銀山のイメージを膨らますことができ、来年の再訪が楽しみになりました。



 
 鞆ケ浦道は400年以上の歴史がありますが、銀山街道として使われたのは16世紀前半の大内氏の時代だけで、毛利氏が銀山を掌握するようになると飲料水の入手が容易で、水深が深く、日本海の北風を遮る温泉津沖泊道が使われるようになったとのことでした。しかし鞆ケ浦道は海辺の馬路(まじ)と大森とを結ぶ生活道として綿々として利用され、昭和20年代までは魚などの行商人がこの道を利用して、大森に入ってきたとのことでした。しかしそれから60年の歳月がたった現在ではほとんど自然に帰った状態になっていたようです。
 10年前大田市がトレッキングルートに指定し、一度は整備したようですが、歩く人も少ないのか当時の道標は腐ったまま放置され、一部の道は竹やぶになっていました。今回の「銀の道ウオーク」のために荒れ果てた道を再整備手書きの真新しい道標がポイントとなる箇所に設置されていました。
 しかしマムシが住み、夏から秋にかけてはスズメバチが巣を作る山道、そして両側が深い急傾斜の尾根道を歩くなど、ガイドの方の先導がない鞆の浦道トレッキングは避けたほうがよいという印象です。また、最後の国道9号線を横切る横断歩道は信号機が設置されておらず、両方向ともカーブしている見通しの悪く箇所で、横断には注意が必要です。




 山林を歩くことが多いウオーキングでしたが、昼食を取った「人切岩」先の峠からの眺望は素晴らしいの一言に尽きます。大田市からはるか出雲の日御崎まで伸びる日本海沿岸が見通せ、二年前に訪れた灯台もかすかに見ることができました。また、鞆ケ浦へ降りる直前の峠から馬路集落とそこに広がる鳴き砂で知られる琴が浜海岸を一望できる地点での景色は鞆ケ浦トレッキングの有終の美を飾るに相応しいものです。大森の方が、子供の頃、家族揃って大森から銀の道を辿り、浜辺で開かれる盆踊りを訪れたことを感慨深げに話されていました。
鞆ケ浦のトンネルを過ぎたところに市が配車したバスが待っていました。銀山公園から丁度5時間のコースでした。ほとんどの皆さんは車を置いている銀山駐車場へ戻りますが、松江から参加された女性と大田市から三瓶温泉へ向かう私はここで皆さんと別れ、馬路駅まで歩きました。海岸に沿って集落の中を通り駅に向かいましたが、空き家が点在し、屋根が崩れたまま放置されている家もありました。馬路駅の駅舎は取り除かれ空き地になっており、線路を横切ってプラットホームへ昇り、15時30分発の電車を待ちました。


推奨資料 
石見銀山コースガイド街道編  石見銀山ガイドの会     TEL:0854-89-0120 FAX:0854-89-0706 
推奨リンク
 石見銀山関係 石見銀山 製精錬法解説  佐渡銀山 灰吹方の歴史 東京都鍍金工業組合
 
次回の石見銀山訪問までに課題が二つ残りました。
.灰吹き方の「吹く」という名称の由来は「最後の段階で鉛を灰に吸収させるため酸素を吹き込む様子を言う」のか「鉛を吸収した灰を吹くことで銀が現れる様子を言う」のか色々と調べたのですが分かりませんでした。
.最後の段階で使う灰はどうやら動物の骨灰であるらしいのですが、灰吹方発祥 の地中国と異なり、馬・牛などの肉食の習慣がなかった当時のわが国では骨灰を 大量に入手するのは困難です。佐渡金山の古文書には「人骨がよい」という記述 があるようですが、事実はどうなのでしょうか。
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津和野へ長距離夜行バスで往く

2007-10-28 10:01:09 | Weblog
高速バス「いわみエクスプレス」が運行休止となりました。高速バス「スサノオ」利用、jr出雲市駅から大田方面に向かう旅程となります。


 10月14日に大田市が主催する「銀の道ウオーク」に参加しました。
それを機会に一度は訪れてみたいと考えていた津和野を訪れました。
津和野は森鴎外の出身地であり、また、小京都と言われる美しい城下町です。
以前から機会を待っていましたが、東京からは如何せん遠いということで二の足を踏んでいました。
石見銀山と同じ石見の国・島根県にあり、この機会を逃しては訪れることなく終わってしまいそうです。
そこで、津和野から石見銀山を経て松江へと島根県を西から東まで横断して東京へ戻る経路を考えました。




 当初、津和野へは空路で行くことを考えていました。「銀山ウオーク」の募集は8月に発表されましたから、羽田から萩・石見空港への「旅割」運賃の利用が可能で、交通費17,680円、東京駅6時20分発・津和野駅11時55分着、これなら新幹線・山口線利用の東京駅6時16分発・津和野駅12時54分着より時間面でも費用面(21,170円)でも有利です。
 そんな時、長距離夜行バスが東京新宿から津和野へ運行されていることを知りました。早速ネットで「高速バスネット」へアクセス、新宿駅19時10分発・津和野着(翌日)9時15分着、ネット決済12,840円で津和野まで行けることが分かりました。



初体験・・・「長距離夜行バスの旅」
 長距離夜行バスに気持ちが大きく傾いたのは、長距離バスの座席配置を見て、これなら快適かもしれないと思ったからです。三列独立の大きくリクラインする座席は、28席という余裕の配置です。トイレも付いています。14時間という長時間の乗車ですが、何より地上を走ります。飽きれば大きな車窓から風景も楽しめます。あの飛行機のエコノミー席の窮屈さ・密閉された機内の14時間よりずっと魅力的に感じました。定年後旅を趣味としている者として、ぜひ一度は体験したいという誘惑に駆られました。
 バスの運行は西日本JRバスです。電話で問い合わせると「新宿から目的地までの途中のSAでは停車しない」「航空機のエコノミー席よりシートのリクライン度は深いかどうかは飛行機に乗ったことがないので分からない」「湯茶などの車内サービスはない」「夕食や飲み物などはお客さんが各自持ち込んでいる」との回答でした。
 10月12日金曜日の夕方の新宿駅はサラリーマンや若者でごった返しています。石見銀山ウオークに参加するのでリュック、ウオーキング・シューズに、登山帽というスタイルでしたが、周りとの違和感を感じました。週末にもなるとアルプス登山に出かけるザックを持った若者が列を作って夜行列車を待っていた50年前の新宿駅とは隔世の感があります。
 新宿駅新南口の長距離バスターミナルの待合室は30名位の乗客が椅子に座りそれぞれのバスを待っています。5分間隔でバスのアナウンスがあり、夜行バスの本数と利用者が多いのは想像以上です。30分前でしたので隣のコンビニを覗きましたが、食欲をそそる弁当がありません。そこで同じ並びにある高島屋デパートの地下名店街で弁当を購入しました。

 5分前に津和野行きのアナウンスがあり、改札が始まります。ネット予約はメール・アドレスに送られてきた確認書が切符代わり係員に荷物を預け、車内には必要なものだけを持ち込みます。定刻通り午後7時10分に出発、混雑する甲州街道を抜け、首都高速に乗り、中央高速道経由で向かいます。乗客は思い思いに持ち込んだ夕食を取り始めます。車高が高いため、かなり揺れます。斜め前の小学校低学年の男の子は気分が悪くなりましたが、シートをリクラインして備え付けのブランケットをかけられ母親に介抱されている内に眠りにつき、浜田で降りるまでずっと熟睡していました。
 JR西日本バスへの問い合わせでは途中のSAには立ち寄らないとのことでしたが、出発二時間後9時に双葉SAで15分の休憩があり、翌朝の5時半に七塚原SAでも15分休憩がありました。二回のSA休憩のお陰でバスのトイレを使用せずにすみました。9時半で消灯になり、揺れる暗い車内をトイレまで行くのは大変、車内トイレはあくまでも緊急用だと感じました。




浜田で大半の乗客が降ります
 高速浜田道に入る頃に空が明るくなります。早朝の山の間を縫うように高速道は走り、島根県は山間地が多いことを知りました。ところどころ山に囲まれた盆地にあり、赤瓦の家々からなる集落が点在して、石見の国に来たのだと実感できます。浜田道が終わり、バスは浜田市内に入ります。10分ほどでJR浜田駅に到着です。ここで20名近い乗客が降り、あの男の子と母親も駅前の駐車場で待っていた父親の自家用車に乗っていきました。バスには7名だけが残っただけです。

 後に調べて分かったことですが、浜田は東京から島根県で最も遠い市であることが分かりました。JRでは東京から新幹線・特急を乗り継いても7時間から8時間掛かり、運賃は22,940円です。空路では萩・石見空港利用の5時間で来ることができますが、運賃は26,790円(旅割19,090円)、しかも実質一日一便だけ、これが夜行バスなら12,100円です。鉄道にしろ空路にしろ、荷物を持っての乗り換えはたいへんで、子ども連れならなお更でしょう。乗客の皆さんは何度も夜行バスを利用されるらしく、12時間の長旅も気にされている様子はありません。浅い眠りで一時間ごとに目がさめ、細く空けたカーテン越しに暗い高速道を眺めていたのは私ぐらいのものでした。前の席の中年の女性が明け方メールを打っていましたが、何気なく覗くと「思っていたほど疲れなかった。リクラインシートが快適だった」とありました。この方は消灯時の9時半から七塚原SA休憩の5時半まで熟睡されていました。
 
 浜田から津和野までのバスの旅は疲れました。
 距離はわずか70キロ強ですが、9号線を走るため平均時速35キロとなり2時間ほどかかります。日本海まで落ち込む山間地を抜けていくため眺望も余り利きません。益田から津和野までの9号線は高津川・津和野川沿いに走るので景色は楽しめますが、カーブが多く、とうとう車酔いです。途中益田駅で4人が降り、終点津和野駅までは3人だけでした。




 津和野では自転車を借り、町中を巡ろうとしましたが、森鴎外記念館で時間を取りすぎ、次の機会を待つことにしました。鴎外は11歳で津和野を離れ、二度と故郷の地を踏むことはありませんでしたが、「石見人森林太郎トシテ死セント欲スと遺書に残した故郷への強い思い入れがあったのになぜだろうかと疑問に思っていましたが、今回そのナゾが解けたようようです。津和野はあまりにも東京から遠かったからではないでしょうか山口線が鴎外の生前に開通していたのなら、故郷を再訪していたのに違いありません

津和野からはJR山口線、山陰本線を利用しました



山口線はバスと同じ津和野川・高津川沿いを走りますが、線路は道路より高い位置を走りますから、往路と違う風景を見せてくれます。一方山陰線は9号線を走るバスの車窓からの風景とは様変わりの美しい風景の連続です。日本海の海岸すれすれに走り、小さな漁港、人家のない小さな磯、海に浮かぶ小島など飽きることのない風景が続きます。最近列車での旅を楽しむ機会がありませんでしたが、この益田から松江までの島根県を横断する山陰線は日本有数の美しい景色を楽しめる路線ではないでしょうか。 
 人口減少が進む島根県はいわゆる限界集落が高知県について多い県とのこと、山陰線も単線で、多くの駅が無人駅となり、駅舎が取り壊され広場だけとなっている駅もあり、考えさせられる列車の旅となりました。
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スコットランド五日間の旅のプラニング

2007-10-21 11:17:17 | Weblog
スコットランドの魅惑的な旅を提案します。八つの見所を五日間で回るスケジュールです。スコットランドの良さを余すことなく知り尽くす盛り沢山なプランです。

○ 神秘のネス湖Loch Ness
○ 13世紀に起源を持つ小さな町ビューリBeaulyに1泊
○ 最もスコットランドらしい風景を楽しめる三つのドライブコース
○ 海峡を越える二つの橋
○ フェリーの船旅
○ スコットランドを代表する二つの古城
○ スカイ島2泊
○ 夏目漱石が滞在したピットロホリーPitlochry訪問




次が日程とコースです。
一日目 成田空港発
二日目 パリを経由して、午前中にエジンバラ空港へ。
 レンタカーで出発。
 エジンバラEdinburgh(A8/A902/A90)→フォース・ロード橋Forth Road Bridge (M90/A9/A924)→ペットロホリーPitlochry(A924/A9/A889/A86)→スピーン・ブ リッジSpean Bridge(A82)→ネス湖北岸ドライブ(Loch Ness)→ウルクハート城 Castle Urquhart(A82/A831/A833/A862)→ボーリーBeauly

* フォース・ロード橋Forth Road Bridge
エジンバラの北側にある海峡を渡る橋。1964年に建設、当時ヨーロッパ第一位、世界第四位の長さを誇る吊橋であった。海峡上の長さ1,000m、全長2,500m。通行量が当時の年間400万台から現在は2,300万台に増え、建替時期に来ている。

* ペットロホリーPitlochry
本ブログ「スコットランドと夏目漱石」を参照

* ネス湖Loch Ness
英国最大の淡水湖。長さ32キロ、幅1.6キロの細長い独特な形のネス湖は氷河によって形成された。水深200メートル、周囲の山も同じ200メートルの高さがあり、氷河の谷間に出来た湖であることが分かる。
怪物が棲んでいるという伝説が伝わり、その愛称ネッシーNessie探しに懸賞金まで賭けられたことがある。



* ウルクハート城Castle Urquhart
ネス湖を望む絶景の位置に建てられた十三世紀の城址。17世紀のスコットランド独立戦争時に破壊される。ネス湖観光の最も有名なビューポイント。

* ビューリBeauly
人口1,100人強の小さな町。十三世紀にフランス人の修道僧によって立てられた修道院から町の歴史が始まる。フランス語beau lieu 「美しい土地」が名前の由来。ハイランド観光の拠点になっている。

□ 推奨ホテル Priory Hotel
    三ツ星ホテル。町の基礎を築いた「小修道院(priory)」をホテル名に。顧客のホテル・レビュー(書き込み)でも評価する意見が多い。家族経営の伝統あるホテル。

三日目 ボーリーBeauly(A835/A890)→蒸気機関車が走るカイル線沿いドライブでアハナシーンAchanasheenへ(A890/A87)→*A87に出たら左折する→アイリーン・ドナン城Castle Eilean Donan(A87)→*A87をUターン→カイル・オブ・ロハルッシュKyle of Lochalsh→スカイ橋Skye Bridge(A850)→スリガッチャンSligachan

* 山岳道路A890のドライブ
インバネスInvernessからカイル・オブ・ロハルッシュKyle of Lochalsh間を結ぶ鉄道カイル線Kyle lineに沿うようにして雄大な谷間キャロン谷Glen Carronを走る単線の山岳道路。平坦な道だが、一車線、ところどころに退避エリアpassing areaが設けられ、道路を譲り合う。譲られた側の車のドライバーはうなずいたり、片手を挙げたり、ハンドルを握ったまま指を立てたりして、挨拶を交わす。



* アイリーン・ドナン城Castle Eilean Donan
13世紀に築城。英国でもっとも多く、写真や映画で紹介された古城。静かな湖水に突き出すように築城されている。18世紀のスコットランド独立戦争で破壊されたが、200年後個人によって再建され、現在に至る。



* スカイ・ブリッジSkye Bridge
10年前まではフェリーでスカイ島に渡っていたが、この橋のおかげで本土に結ばれた。当初有料であったが、現在は無料で通行できる。

□ 推奨宿泊ホテル Sligachan Hotel    180年の歴史を持つホテル。Sligachanには民家はなく、このホテルがあるだけ。昔の旅人が泊まった宿屋innが前身。近年はキリン山Cuillin登山者と観光客で賑わう。二つあるバーのうち、周辺の住民やキャンパーにも解放されているバーは山小屋風の気さくな雰囲気。ウイスキー・ビールの種類も多く、料理も安くて、おいしい。



□ 推奨B and B Marcos Home
スカイ島に移住してきたイギリス人夫妻の経営。スコットランド人の家を買い取り、B and Bに転用。Sligachanからスコットランドの名ウイスキーTaliskerの蒸留所へ行く途中にある。夕食も予約すればだしてくれるが、酒類の提供の免許はない。近くにレストランやバーがある。

四日目 スカイ島探訪・・・スリガッチャンSligachan→ポートリーPortree(A850)→ウイグUig(A856)→スリガッチャンSligachan
    * 本ブログ「スカイ島観光情報」を参考に。

  

五日目 スリガッチャンSligachan(A850/A851)→アーマデールArmadale→マレイグフェリーMallaig ferry→マレイグMallag(A830)→蒸気機関車が走るポート・ウイリアム線沿いドライブPort William Steam Train→ぽフォート・ウイリアムFort William(A82)→コー渓谷ドライブGlen Coe (A82)→クライアンラリッヒCrianlarich(A85/A84)→スターリングStirling (M9/A8)→エジンバラEdinburgh

* マレイグフェリーMallaig ferryスリガッチャンSligachanからアーマデールArmadaleに向かうA851は道路を整地せずに舗装をした波打った道路でした(10年前)。フェリーの乗船時間は30分たらずだが、スカイ島の山々、マレイグの周辺の緑が楽しめる快適な船旅。



Port William Steam Train
ハリーポッターの映画にも登場するこの路線は海岸と山の間を走る風光明媚な景色が売り物の観光蒸気機関車路線。営業は6月から10月まで。
マレイグMallagからポート・ウイリアムPort WilliamまでのA830はこの線路に沿って走る。

* コー渓谷Glencoe  スコットランドの谷「glen」は氷河によって作られたため、独特の美しい風景を見せている。Glencoeが最もよく知られるのは、この美しい谷に1691年に起きた凄惨な事件による。ここを本拠地とするマクドナルド族MacDonalds Clanが200年に亘って牧畜を巡って対立関係にあったリオン渓谷Glen Lyonを本拠地とするキャンプベル族Campbells Clanの襲撃を受け、殺戮された。キャンプベル族の背後には王国軍が付いていたため、ハイランドの人々の怒りはその後も長く続くことになる。

六日目 エジンバラ空港発。パリ空港経由。
七日目 成田空港着


 
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私のスコットランド旅行プラニング・・・航空券の購入

2007-10-08 20:57:43 | Weblog
 前々回はスカイ島、前回は夏目漱石のスコットランド旅行について触れましたので、スコットランド旅行の企画を立てたいと思います。スコットランド旅行への出発点は、エジンバラ空港が便利です。
次の写真はインバネス空港です。



まず、計画は航空券の購入から始めます。私は退職後2年ごとの、四回の海外個人旅行に出かけましたが、一回目のイギリス旅行ではBritishAirways、最近の三回はエール・フランス航空の正規割引料金の航空券を購入して出かけています。エール・フランスは成田からシャルル・ドゴール空港に直行、そこから国内線やスペイン乗り入れ空港へワン・フライト料金で出かけました。

 個人旅行では初めての不案内な海外空港では不安があります。連続して三回利用して親しんでいるシャルル・ドゴール空港利用をつい考えてしまいます。また、高速鉄道(TGV)、国内線は勿論のこと、国際線への乗り継ぎが20分以内の徒歩で可能なフロアーの配置に慣れているのも利用する理由です。因みにロンドン・ヒースロー空港ではインバネス行きの国内線に乗り継ぐのにバスを利用をしなければならなかった記憶があります。
 
航空会社の正規割引航空券を購入する理由ですが、航空会社のサイトから、手軽に購入できます。いわゆる格安航空券よりもやや割高かもしれませんが、信頼性があることが何よりも安心できます。


航空券購入のシミュレーション練習


 個人海外旅行ではいかに安い航空券を購入できるかが、総費用を安く上げるコツとなります。三年前のプロバンス旅行、今年のアンダルシア旅行も四月に出発しましたが、一般的には、航空各社とも4月に最低料金が設定されおりこれを活用したからでした。各企業とも四月は異動時期であるため海外出張を控えることと、学生の海外旅行ブームも三月で終了、四月は新学期が始まることで利用客が激減します。因みにエールフランスでは2008年4月の成田―エジンバラ間で諸税、サーチャージ込みで往復121,000円の料金を設定しています。
 
しかし、スコットランド旅行では地理的条件も考えなければなりません。北緯66度近辺にあるスコットランドでは4月はまだ冬の装いです。観光シーズンは6月から10月までと考えたほうが無難です。そこで2008年6月6日成田発、12日帰国という設定で航空券購入のシュミレーションをしてみます。



エールフランス航空日本語版サイトを開きます

割引運賃」をクリック
オンライン割引運賃(目的地別)」を選んでクリック 
ページを下げ、「オンライン正規割引運賃目的地別」から「イギリス・エジンバラ」を選んで「予約」をクリック  
往路の日付を「6月2008」「6日」、「復路」を「11日」に変更、ページ右下の「運賃別で表示」をクリック出発日を決定するをクリックお帰りの日を決定する」をクリック  
同一運賃で選択可能な2便の内、AF277便を選択、「出発便を確定する」をクリック  
選択可能な4便の内、AF5051便を選び、「帰りの便を確定する」をクリック
設定した旅程運賃総額154,100円が表示される。ここでシミュレーションを終了する。ここから「予約」で個人情報入力、「確定」でクレジット情報を入力して、購入完了です。 

 正規割引航空運賃は、日付ごとに細かく設定されています。出発日、帰国日を適宜選択することで、購入費用を安く抑えることができます。「確定」まで至らなければ、なんど試みても費用は掛かりませんので、シミュレーションを重ねることをお勧めします。「確定」でクレジット情報を送りますと、購入決定ということで、メール連絡が入ります。それ以降のキャンセルは17,500円かかります。
 British Airwaysのサイトでは2008年3月までの予約しかできません。その時点の航空料金の比較では、エールフランスとほぼ同額です。

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