goo blog サービス終了のお知らせ 

シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

最新バルセロナ情報です・・・

2009-07-04 10:40:21 | Weblog


オーバーツーリズムに困惑するバルセロナ住民方々のデモ映像が流れていました。水鉄砲を観光客に向けて、発射するグループの映像もありました。160万人の住民に対して10倍の1500万人の観光客が訪れているとのこと、民泊の急増で家賃が高騰、さらに一部の観光客が私有地に侵入して写真を撮る、ごみを捨てる、注意すると暴力をふるうという悪質な行動に我慢できずのデモだったようです。最新の観光情報を入手してからお出かけ下さい


8日間のバルセロナ旅から帰ってきました。同一ホテルに六泊して、街や近郊の名所にでかけるというスタイルの旅は初めてでした。ホテルに荷物を置いたまま、まるで、自宅から出かけるような気軽な旅も良いものでした。
 写真はバルセロナの通りをゲイ・フラッグを掲げて行進するゲイたちです。



バルセロナを訪れるなら・・・
 5月か6月が最適なシーズン・・・この情報にはまったく間違いありません。訪れた6月23日から29日まで、郊外のモンセラット山へのハイキングで雷とパラパラとした雨に降られた以外、ほぼ快晴の毎日でした。日本の梅雨がウソのようの日和でした。
 最高気温は27度、日差しが強く、夏らしい暑さでしたが、湿度が低いせいか、日陰に入ると実に快適、夕方から夜半にかけての散策を楽しむ人で賑わっていました。

到着した6月23日はサン・ホアン祭りでした
 バルセロナの空港に午後10時に到着・・・上空から花火が打ち上げられているのが見えましたが、夏至を祝うサン・ホアン祭りの前夜祭、空港からタクシーで市内のホテルまで、爆竹の音が絶えることがありませんでした。
 成田から17時間の旅でしたが、ホテルに荷物を置くと、早速、ランブラス通りへ・・・夏の到来を祝う人々で、ごった返していました。子ども連れや乳母車を押して散策する若い夫婦もおり、地元の人と夏至の夜を共にしました。バルの一軒に立ち寄り、カーニャ(生ビール)で乾杯、バルセロナ到着を祝いました。

バルセロナは安全な街でした
 出かける前に、スペイン失業率17%の報道や外務省の海外旅行安全情報などで、治安の悪化が伝えられ、かなり緊張してのバルセロナ散策でしたが、安全に、楽しく、バルセロナの旧市街やランブラス通りの散策を楽しみました。
 確かに、路上に座る多くの物乞いを目にして、バラの花を売りつけようと近づく浮浪者にも出会いましたが、アジア系の地元民も多く、日本人観光客という隙を見せなければ、なんら問題はないと感じま


 
ホテル:
 バルセロナの中心地、カタルーニャ広場近くのホテルの三ツ星ホテルを予約したのは正解でした。旧市街地にもランブラス通り、グラシア通りにも徒歩圏内・・・この一角にはホテルが軒を連ねていますが、いずれも19世紀にバルセロナが繊維産業で最も賑わった時期に建てられた重厚な石造りのビルが軒を連ね、内部を改装してホテルとして営業しています。そのため、部屋やレストラン、ロビーは狭く、遮音性もいまいちですが、エレベーターを設置、バスタブもあり、快適に六日間を過ごすことができました。ツインで一泊12,000円、わが国のビジネスホテル並の料金設定でした。

タクシー:
 バルセロナは地下鉄網が完備していますが、時間的なロスと、スリなどの被害を避けるため、市内の移動はタクシーを利用しました。流しのタクシーが手軽につかまるのではないかと思っていましたが、これが意外に難しく、ホテル近くのカタルーニャ広場のタクシー乗り場から乗りました。
 料金は5ユーロから7ユーロ、一番遠かった北にあるグエル公園からカタルーニャ広場までが12ユーロ、値段はメーターに表示され、チップはお釣りが少しならそれを・・・払わなくても問題はありません。空港から市内までは30ユーロ少々、スーツケース二つの料金が、メーターを止めた最後に加算されて表示されます。
渋滞時にメーターがドンドン上がるのは日本と同じです。乗り込むときに「Hola!(オラ!)」と挨拶するのが慣例、行き先の発音に自信がないときは、紙に書いた行き先を示し、「Por favor (ポルファボール お願いします!)」と言えばOKです。

鉄道:
 カタルーニャ鉄道(バルセロナ公営)とRENFE(レンフェ・スペイン国鉄)に乗りました。
モンセラットに行くにはスペイン広場から出ているカタルーニャ鉄道で1時間、ダリの美術館訪問にはサンツ駅からフィゲラスまでRENFEで2時間の道のりです。いずれの線路も郊外に出るまで地下を走ります。
初めての体験となる切符の買い方ですが、カタルーニャ鉄道はスペイン語か英語の切り替えができる自動販売機で、RENFEでは窓口で購入します。割引往復切符(ida y vuelta イダ・イ・ブエルタ)であること、行き先を確認することで問題なく購入できます。
(後日、モンセラットとフィゲラス訪問記で詳しく報告します)

テレビ報道:
 当然のことながら、日本の情報はまったく入ってきません。ただ、到着した翌日の6月24日には中村俊輔選手がバルセロナ・エスパニョールへの移籍を告げる報道で、スコットランド・セルテイックで活躍する姿を流していました。
ところで、スペイン代表と南アフリカ代表の対戦の中継をテレビ観戦しました。0-1とずっとリードされていましたが、後半戦で2-1と逆転、その直後に追いつかれ、終了間際に得点し逃げ切るという白熱したゲームでした。両チームの体格のよさ、玉回しの的確さ、攻撃の切り替えの早さ、圧倒的な攻撃力を見ていると、日本チームの4位入賞は難しいのではないか・・・と心配になりました。
 ところでバルセロナ滞在中にマイケル・ジャクソンの訃報・・・テレビは朝、昼、夜と特集番組の映像ばかりとなりました。
 
食事:
 ホテルでは取らず、街のバールとレストランを渡り歩きました。



朝食には、細長いパンの両端からスペイン特産イベリコ豚の生ハムがはみ出しているボリューム満点のボガデイ―リョ(ジョ)が気に入りました。しかしこのようなヘビーな朝食を食べているのは私たちだけ・・・スペイン人は、コーヒーとクロワッサンなどの軽い朝食でした。
 もっとも彼らは11時頃にバルでもう一度食事、昼食として2時ごろにしっかりと食べ、夜は遅くまでバルで飲み食いをするという日本人とは異なる食生活のようです。
 日本人に人気のパエリアには注意が必要です。値段が安いパエリアは出来合いのものを暖めるだけ、お米の味にシビアな日本人には食べられたものではありません。
やはり、専用の鉄鍋で焼き上げた本来のパエリアをレストランでいただくのがよいでしょう。

お土産:
 カタルーニャ広場に面した大手デパートEl Corte Inglesで済ませました。スペインのカラフルな色のネクタイとシャツを探しました。シャツは持参したクビ周りサイズ表を店員に見せると探し出してくれました。地下に、食料品を販売する区画があり、真空パックの生ハム、修道院で作られたお菓子などを購入しました。
 ワイン類は、ロンドン経由でしたので、機内持込規制で購入できません。その代わり、ヒースロウ空港の免税店で、スコッチウイスキーを・・・二度訪れたことがあるスコットランド・スカイ島の銘酒TALISKERを見つけ、懐かしさから購入しました。

費用:
 航空機、ホテル、食事、現地交通費、土産代を含めて、52万円・・・一人26万円の旅でした。

バルセロナはスペインではない!
 ・・・と地元の方がよく言うとのことですが、独自の言語、文化、歴史を持ち、モデルニスモ建築の世界遺産、旧市街の中世からの町並み・・・たしかにスペインというより隣の国フランスに近い雰囲気を持っています。
地名表示、レストランのメニュー、看板など、まずカタラン語、続いてスペイン語で書かれているという具合で、地元の方々の自国語への自負心が伝わってきます。
世界遺産・カタルーニャ音楽堂のトイレに掲示されていたカタラン語、スペイン語、英語の注意書きを紹介しておきましょう。
{Si us plau, no disposition cap objecte als urinaris i WC. Gracies}
{Por favor, no espositen ningun object en los uninarios y WC. Gracias}
{Please don’t throw any object in the urinaries and WC. Thank you}






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤城山と伊香保温泉を訪ねる日帰りドライブ

2009-06-06 05:44:53 | Weblog

6月中旬は赤城山のつつじが大変美しい季節です。大沼や小沼を散策して自然を満喫、そこから伊香保温泉に向かい、一浴びしてから東京に戻るというドライブはいかがですか



伊勢崎ICから、北に聳えている赤城山が目の前、裾野の町、大胡を巻くようにして進めば迷うことはありません。旧富士見村の赤城大鳥居から頂上の大沼、小沼へ約40分、登るにしたがって70箇所以上のカーブの連続ですが、暴走よけのウエーブ舗装も快適で、新緑の中を風を感じながらのドライブです。

帰路は大沼から赤城大鳥居、渋川、伊香保へ1時間半・・・赤城山から利根川が流れる渋川へいったん下り、そこから榛名山の中腹にある伊香保温泉へ向かいます。上毛三山のうち、2山を訪れるという贅沢なドライブとなります。
(写真は霧の小沼です)

 例年、第二、第三土・日曜日がつつじの最盛期、路上駐車の取り締まりも厳しく、注意してください。

 
出発 東京から関越自動車道・北関東自動車道へ
1. 伊勢崎IC 114キロ
    *ETC車なら手前の波志江PAスマートICで降りる
2. 上武道路(国道17号)を前橋方面へ。 3キロ
    *波志江スマートICからは北上して上武道路(国道17号)へ
3. 飯土井町信号で大胡(おおご)へ右折。5キロ
    *波志江スマートICからは上武道路で左折、最初の信号
4. 神沢の森公園を過ぎて、すぐ県道3号線の交差点に。前橋方面へ左折。5キロ
5.信号・堀越南で3号線は前橋へ左折するが、直進して県道34号へ渋川方面へ。6キロ
6. 赤城大鳥居



右折して、赤城山を登る。14キロ。
到着 大沼
 大沼から小沼までは車で5分。付近を散策
7. 赤城大鳥居に戻り、34号を渋川へ右折。8キロ。
8. 渋川 標識に従い4キロ
到着 伊香保温泉
  本ブログ「普通列車で行く伊香保温泉」を参考にしてください。
9. 渋川伊香保IC
関越自動車道を経て、東京へ。
到着 東京  119キロ

赤城山とは
 あかぎやま」の呼び名が正解。国土地理院規定の呼称「あかぎさん」に地元が猛反発、昔からの「あかぎやま」に戻させたいきさつがあるとのことです。
 最高峰の黒檜山(1828m)をはじめ、駒ヶ岳(1685m)、地蔵岳(1674m)、長七郎山(1579m)、鍋割山(1332m)などの山頂を持ち、赤城山は、その総称です。中央部のカルデラ内には、火山湖の大沼、覚満淵(かくまんぶち)、小沼があります。




 
赤城山とうどん 
 上武道路(17号線)の両側の農家では田んぼよりも麦畑が目に付きます。それもその筈で群馬県は全国有数の麦作県、特に東毛地域はビールの原料になるビール麦うどんなどに使われる小麦等麦生産地として知られ、丁度今の時期、5月末から6月中旬にかけては麦の収穫時期となります。
 赤城大鳥居からは山頂へ向かう道路の両側に「そば・うどん」を商う店が連なり、どの店もそれぞれの趣のある店構えを競っています。

赤城山とスケート場
 私の学生時代、スケートをやろうと思えば、箱根、富士吉田、軽井沢、赤城山などに出かけるしかありませんでした。大沼のボート乗り場近くのご主人とお話しする機会を持てましたが、昔はスケート場には大勢の若者が押し寄せ、大沼周辺の宿に一泊、スケートを楽しんでいたと懐かしそうでした。室内スケート場が普及、年々スケート客は減り、冬季三ヶ月間で200人まで落ち込み、スケート場は閉鎖されたとのことです。
 今でも7,80センチの氷が張り、ワカサギ釣りの観光客が訪れるとのことです。

赤城山と志賀直哉
 志賀直哉の短編小説「焚木」の舞台が大沼であることを帰宅してから思い出しました。「焚木」は一度しか読んだことがありませんが、湖を取り巻く自然描写が神秘的でこれが白樺派の代表的な作品なのかと感動したことを覚えています。作品の中で「宿の主人のKさん」と紹介されているのが、当時25歳の青年であった猪谷六合雄(いがやくにお)であり、独力で建てた小屋に当時32歳の志賀直哉を客人として招いたことを今回初めて知りました。
 猪谷六合雄は日本のスキーの先駆者の一人で、スキーアルペン競技で日本初の五輪メダリスト・猪谷千春の父です。「現代文明の中に生きながら自然人であり続けた」六合雄を再評価する動きがあるようです。
 <平凡社ライブラリー 猪谷六合雄―人間の原型・合理主義自然人 猪谷六合雄 高田宏著>

上毛三山
 群馬県(上毛野国)には古くから人々の生活に根付き、愛されてきた三つの山、赤城山榛名山妙義山があります。 群馬の人たちは、愛情を込めて、この3つの山を上毛三山といいます。
 北関東平野を囲むようにして聳えるこの3つの山は、深く群馬の人々の生活にかかわって来ました。昔は街道をたどる人たちの目印になっていましたし、現在では、群馬県の学校の運動会で、多くの学校が、色別の組み分けでなく、赤城団(組)・榛名団(組)・妙義団(組)を使っていると聞いたことがあります。



富岡から妙義山を望む


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筑波山へ行ってみませんか

2009-05-31 10:39:02 | Weblog
先日、スキーサークルの仲間4人で、筑波山に出かけました。
写真は、女体山頂上です。



全員、今までに筑波山へ出かけたことがあり、チョッとしたハイキングという気軽な気持ちで出かけました。
最年長のEさんは、小学校時代に遠足で登って以来、実に、60年ぶりの筑波山・・・電車で来た記憶があるとのことでしたが、常磐線の土浦駅から今は廃線となった筑波鉄道で来たのでしょう。上野駅から直行電車もありましたから、筑波山は東京近郊の小学生の遠足候補地として、、高尾山と並んで人気があったのです。

メンバーは60歳代以上ですが、スキーシーズンが終わると、スポーツジムで普段から体力作りに励んでいます。ケーブルカーもロープウエイも乗らずに、筑波神社からケーブルカー沿いの御幸ケ原コースを登り、女体山(877m)を経て白雲橋コースを降りて神社に戻る最長コースに挑戦することにしました。
しかし、登り始めて直ぐに、安易な気分は吹き飛んでしまいました・・・結局、地図に示されている標準所要時間を大幅に超える登り2時間下り2時間のハイキングとなりました。

侮れません、筑波山!標高差621m、しかも直登です!
今人気のミッシュランの三ツ星ハイキングコースの高尾山は、登山口(清滝)から頂上まで400mの標高差ですが、筑波山はその1.5倍・・・600mです。しかも、階段状の登山路が頂上にほぼ真っ直ぐ向かっていますから、高さ150m・600段を登る東京タワーの4倍に匹敵します。
では、そのハイキング報告です。
Nesiaさんのサイトにある筑波山マップをご覧になりながらお読みください。


出発筑波神社



昼なお暗い杉やヒノキの大木の中を登ります。道幅は十分な広さがありますが、徐々に勾配がきつくなり、散策気分は吹き飛んでしまいます。登山道は杉やヒノキの木々の中を進むため、到着地点までまったく眺望はまったくありません。整然と立ち並ぶ杉やヒノキの大木に筑波神社の神域に入り込んでいることが実感できます。

唯一ホッとできるのはケーブルカーの車両が交差する中間点の空き地です。休憩しながらケーブルカーの写真を撮る絶好のポイントです。ケーブルカーに乗った家族に手を振りながら迎える方もいます。



またまた、頂上鞍部まで坂の連続です。ここら辺りから後ろを歩くハイカーの激しい息使いに追われるように登ることになります。相変わらず杉やヒノキの中で見晴らしは利きません。

水場に出ます。百人一首にある “つくばねの峰より落つるみなの川こひぞつもりて淵となりぬる”の男女川(ミナノガワ)の源頭です。周囲はヒノキの大木が何本もあり、万葉集や古今和歌集にも詠われた歴史の山にいることが実感できます。




ようやく、男体山と女体山の鞍部、御幸ケ原に到着です。広場になっておりケーブルカーの駅と数軒の茶店があり、公衆トイレもあります。見晴らしは北側の展望が利くだけですが、多くのハイカーがここで昼食を取っています。西に男体山への登り口があります。

ここから東に向かいます。女体山までは10分程度の緩やかな登り坂で、植生がガラリと替わり、ブナの木が目立つ明るい登山路を散策気分で歩けます。この辺りは遠足の小学生たちがお弁当を楽しむ姿をよく見かけます。



祠のある女体山山頂は一等三角点のある狭い岩場で、巨岩がせり出すように頂上を造っています。ここからの展望は筑波山のハイライトです。何度見ても見飽きない大パノラマですが、滑落しないよう十分気をつけます。
パノラマ夜景.comの夜景写真が眺望の雄大さをよく捉えています。ぜひご覧下さい。

女体山からの白雲橋コースへと下ります。
登ってきた御幸ケ原コースと様相が一転します。海抜700mくらいまではブナやミズナラの落葉樹の明るい雰囲気の登山道ですが、岩が不規則に階段状に積み重なった道となり、両手が使えない下りは、意外に時間が掛かります。

ここからは古来から修行僧が通った道・・・北斗岩、裏面大黒、弁慶七戻り、出船入船、母の胎内くぐりと名づけられた巨岩怪石が次々と表れます。

270年の歴史があった弁慶小屋、惜しまれつつ2006年に廃業しました。建物の基礎が俤を留めています。ここを東に曲がるとつくしが丘へ、直進すると筑波神社です。ここまでで白雲橋コースの4分の1ですが、ホッとする場所です。

ここからは樹木は常緑広葉樹のアカガシが目立つようになります。岩だらけの道から土壌の道となりますが、相変わらず階段状の道が続き、見晴らしの利かない林間をだらだらと降りるだけ、気持ちを切り替えて森林浴を満喫することにしましょう。

針葉樹のアカマツが多くなると、白蛇弁天の社が見えていきます。
ここからは杉やヒノキが多くなり、筑波神社の神域に戻ってきたことが分かります。

到着:筑波神社


家族連れ筑波山ハイキング
 ケーブルカーとロープウエイがあるのだからと気軽に頂上を目指す家族連れも多かったようです。坂道途中で泣いたり、ぐずったりする子どもをなだめる親の姿も目にしました。筑波山は階段状のキツイ坂を持つハイキングコースです。特に、身長のない子どもでは辛い山登りとなってしまいます。
そこで次のコースはいかがでしょうか・・・

小さな子ども連れなら・・・
 筑波神社の境内を散策した後、ケーブルカーで御幸ケ原に・・・女体山手前のブナ林で遊ぶ。ロープウエイでつつじヶ丘へ。バスで戻る。
 1時間ほど歩くことができるなら、男体山を一周する自然研究路が平坦で自然を楽しむ散策ができる。

小学生以上なら・・・
 つつじヶ丘からおたつ石コースを女体山頂上へ登る。頂上を目指す最短コースのハイキング。弁慶小屋跡までは見晴らしがよく、最後の岩だらけの登りも、両手を使えば、安全に登りきることができる(手袋必携)。1時間30分で頂上へ。
 ブナ林で昼食、ケーブルカーで筑波神社に降りる。

筑波山へのアクセス:
つくば市観光協会サイト交通案内
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾瀬ヶ原と日光湯元を散策・・・一泊二日の周遊ドライブ

2009-05-23 10:42:21 | Weblog
5月中旬に山開き、いよいよ尾瀬のシーズンが始まりました。
 尾瀬を歌った「夏の思い出」を聞いて、尾瀬に出かけたのが半世紀前・・・夜行列車で沼田まで行き、バスを乗り継いで富士見下に早朝到着、富士見峠から尾瀬ヶ原に入りました。
それ以来、至仏山(2228m)や燧ケ岳(2356m)に登り、尾瀬ヶ原や尾瀬沼を何度となく歩きました。今では、鳩待峠まで道路が通じ、手軽に尾瀬ヶ原の散策を楽しめる時代と変わりました。
 鳩待峠(1591m)から尾瀬ヶ原(1400m)まで下り、後は平坦な木道のみ、鳩待峠に戻る道は登りとなりますが、休憩と食事時間も含めて、6時間もあれば尾瀬を楽しめます。


  
 日本ロマンチック街道と称される120号線を沼田から日光まで周遊、尾瀬ヶ原と日光湯元の高原を散策するという欲張った一泊二日のドライブルートです。
google map


一日目
出発 東京から関越自動車道へ
1. 沼田IC 141キロ 
2. 国道120号線を片品村へ 29キロ
3. 鎌田で401号へ左折、戸倉まで16キロ
4. 鳩待峠まで乗合バス・タクシー40分900円 駐車料金1,000円
*宿泊する旅館では無料で車を預かってくれる
到着 鳩待峠
尾瀬ヶ原散策 6時間 「尾瀬案内人web」をご覧下さいhttp://www.oze.biz/guide/ozegahara_course.html
5.鳩待峠から戸倉へ 乗合バス・タクシー40分900円
到着尾瀬戸倉温泉泊 尾瀬戸倉観光協会http://www.oze-navi.com/



二日目
6.401号を鎌田まで戻り120号を左折し、丸沼高原スキー場へ16キロ
到着 日光白根山ロープウエイ
 天候を見て、白根山中腹に。菅沼、丸沼、尾瀬の山々の展望が素晴らしい。
7. 金精峠トンネルを抜け、湯元まで8キロ
8. 1キロ先の光徳入口を左折、光徳牧場へ
到着 光徳牧場
 周辺を散策。ここの牛乳とソフトクリームは定評がある。レストランも併設。
9. 中禅寺湖、華厳の滝、イロハ坂13キロ
10.清滝ICまで6.5キロ
11.清滝ICから日光宇都宮道路、東北自動車道を経て、東京へ
到着 東京  167キロ
  

「尾瀬案内人web」のこと

 尾瀬情報をネットで集めている時に出会いました。尾瀬戸倉温泉で「尾瀬の宿いさ」を経営されるご主人のサイトです。尾瀬のガイドでもあり、遭難対策救助にも参加、尾瀬に関する正確な情報が参考になります。
遭難対策のページを読み、木道で滑り、骨折・捻挫などの怪我が多いことを知りました。http://www.oze.biz/guide/




日光白根山と光徳牧場の思い出

 初めて訪れたのは高校2年の時、友人二人とテントを担いで出かけました。
 三本松でバスを降り、一泊目の目的地、光徳牧場へ向かいました。突然、後ろから声をかけられ、子どもを背負った女性が早足で近づいてきたのです。付近に熊が出没するので、牧場まで一緒に行ってほしいとのこと・・・その夜は、チョとした音にも怯えながらのテントでの一夜となりました。
次の日、湯元から菅沼へ向かう山道を金精峠(2024m)まで行き、峠にある金精様に登山の安全を祈願、そこから登山道に入りました。金精山(2244m)、五色山(2379m)を経て、弥陀ケ池へ・・・そこにテントを張り、次の朝、日光白根山(2577m)に登りました。国立公園のど真ん中で野営、そんなことができた時代でした。

丸沼高原から清滝へ

120号線沿いには見どころが無尽蔵にあります。丸沼、菅沼、湯ノ湖、中禅寺湖・・・湯滝、竜頭滝、華厳ノ滝・・・光徳牧場、戦場ヶ原、いろは坂・・・湖畔の一軒宿・丸沼温泉、今上天皇が戦時中疎開されていた湯元温泉、中禅寺湖周辺の宿・・・
日本ロマンチック街道と呼ばれる所以です。
 ところで、昔は片品から戸倉へ通じる現在の401号線が主要道で、会津街道と呼ばれ、大清水、三平峠、沼山峠から七入に至り、桧枝岐から会津若松へと通じていました。戊辰戦争では政府軍がこの街道を会津に攻め上りました。



アクセスや入山規制については、尾瀬保護財産http://www.oze-fnd.or.jp/main/access/access1/access1.htmlのサイトをご覧下さい。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バルセロナへの旅・・・8日間のプラニング

2009-05-17 13:43:55 | Weblog
日程と主な見どころです。

6月23日(火)成田(NH201)11:35→16:00ロンドン(IB4189) 19:10 → 22:10バルセロナ

6月24日(水)

旧市街散策

 カタルーニャ社のブラン・テイエリーさんのガイドで4時間の散策を楽しみます。バルセロナを安全に楽しむ旅のノウハウを教えてもらいます。
グラシアの聖ジョアン祭
 バルセロナの北にある落ち着いたグラシア地区に出かけます。夏至を祝い、花火や焚き火で、夏を迎える喜びを祝う地元の人々の輪に入ります。 

      

6月25日(木)
サクラダ・ファミリアとグエル公園

ガウデイの代表的な作品で世界遺産・・・時間をかけて隅から隅まで歩き回りたいと思います。
旧市街の骨董市
 木曜日にカテドラル前の広場で開かれます。アンテイ―クな品々を眺めながら、スペインの庶民の生活に思いを馳せます。

6月26日(金)
モンセラットに日帰り旅行



カタルーニャ鉄道で郊外へ・・・岩山に立つ大聖堂と少年聖歌隊の歌声が楽しみです。大聖堂の中で瞑想に耽り、周りの村を散策し、村の小さなレストランでゆっくりと食事です。
カタルーニャ音楽堂コンサート
モンタネールの最高傑作、モデルニスモ装飾の美の極致といわれる世界遺産カタルーニャ音楽堂で至福の時を過ごします。夜9時半から始まる夏の夜のコンサートをネットで予約します。
 
6月27日(土)
フィゲラスに日帰り旅行



スペイン国鉄(Renfe)で往復4時間の旅、ダリ美術館を訪れます。
スペイン内戦で焼け落ちた市民劇場を、ダリ自身が外観、内装も設計、美術館に改装しました。展示されるダリの作品とともに、美術館自体もダリの作品といえます。数々の仕掛け・・・今から楽しみです。
 
6月28日(日)
ノンジュイックの丘散策
スペイン村でスペイン各地の民家を訪れます。また、丘の上から、バルセロナ市街と地中海の眺望を楽しみ、ロープウエイで港へ・・・
旧市街の絵画の市
ピー教会前の広場で土・日に開かれます。スペインの街の画家の作品を眺め、思い出となるような小品を一つ買い求める予定です。

6月29日(月)
グラシア通り散策(午前中)
バルセロナ最後の散策・・・ウインドウ・ショッピングを楽しみ、土産の購入です。

6月29日(月)バルセロナ(IB4176)16:35→17:55ロンドン(NH202)19:35→
6月30日(火)→15:20成田


5月15日の朝日新聞がスペインの失業問題が取上げていました。失業率17%・・・バルセロナ旧市街近くの職業紹介所に立ち尽くす人々の写真が掲載されていました。
ところで、バルセロナ市内の散策には一抹の不安があります。スリやひったくり、置き引き被害に会う日本人観光客の話をよく耳にするからです。

10年前、マドリッドを訪れたときのことです。トレドへの日本人バスツアーに混乗しましたが、「犯罪都市マドリッドにようこそ」とガイドが挨拶を始めたのでビックリしました。現在のバルセルナでも「ランブラス通りを散策する人は、観光客が6割、地元民が3割、残りの1割がスリ」と言われるほど治安が良くないようです。
外務省の海外安全ホームページをご覧下さい)
http://www.pubanzen.mofa.go.jp/info/info4_S.asp?id=161

 今回の旅では旧市街Barrio Gotic地区での散策を一番の楽しみにしています。旧市街近くのホテルを予約したのも、それが理由です。ところが、この最も歴史があり魅力に溢れるゴシック地区が、最も治安が悪いところ・・・そこで、初日の4時間の散策の際、カタルーニャ観光・ブラン・テイエリーさんに個人ガイドをお願いすることにしました。
バルセロナの旅が、安全で、思い出深い旅となるよう、テイエリーさんからいろいろとアドバイスをもらおうと考えています。



カタルーニャ観光http://www.catalunya-kankou.com/ですが、バルセロナ情報をネットで調べているとき、偶然見つけました。日本語で書かれている日本人の個人観光客ためのサイトです。
交通案内、観光案内、カタルーニャの歴史など日本人観光客が必要とする情報が全て含まれています。治安に問題がある地区を地図上で示したページもあります。
このサイト・・・店長のブラン・テイエリーさんが一人で立ち上げました。

食道楽の私にとって最も参考になったのは、レストラン、カフェやバルの情報です。
店の雰囲気や料理のおいしさが、軽妙な切り口で紹介され、店にいるかのような臨場感があります。これだけの文章を書くことができるのは、日本人でもそうは多くはいないでしょう。テイエリーさんの日本語力には驚かされるばかりです。

今回のバルセロナ旅行でぜひ食事をしたいと考えているレストランは次の通りです。
ロス・カラコレスLos Caracoles
カラコレスとは「カタツムリ」のこと、名物料理が店名となった老舗(旧市街)
セテ・ポルテス 7 Portes
パエリアを始め海鮮料理で知られ、日本人もよく訪れる老舗(バルセロナ港)
クアトラ・ガッツ 4 Gats 
 ピカソやミロも通った老舗(旧市街)
アル・ラコ El Raco
モンセラットにある小さな村の小さなレストラン。テイエリーさん推奨の店






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スペイン・バルセロナへ・・・航空券購入とホテル予約

2009-05-09 10:31:47 | Weblog
6月にバルセロナへ出かけることにしました。
燃油チャージの大幅な下落と円高で、海外旅行のチャンスだと考えたからです。
ロンドン経由でバルセロナに入ります。
新型インフルエンザが心配ですが、2年間待ちに待ったバルセロナ旅行・・・
渡航制限の措置がとられない限り、出かける予定です。




 
航空券の購入
 航空会社の正規割引航空券を利用します。過去に購入したことのある英国航空、フランス航空、全日空の各社の最安運賃を比較しました。4月13日時点では、燃油チャージの料金を大幅に下げた全日空が有利ということが分かりました。

 ANAの国際線サイトを開きますhttps://www.ana.co.jp/asw/index.jsp?type=i
 新しく導入された最安の割引運賃検索機能{運賃カレンダーで検索}をクリック
 到着地{ヨーロッパ}、到着空港{スペイン・バルセロナ}、出発月{6月}、旅行日数{8日}、人数・大人{}を選び、{検索}をクリック
 運賃カレンダーが表示され、出発月の日ごとの運賃が分かります。最安運賃が黄色の文字で示され、旅行日数で最安運賃日が変わるので、日数を増減して運賃を調べる機能もカレンダーに付いています。
運賃は日々変わり、割引率は出発日が近づくにつれて低くなります。4月13日時点の購入では279,140円(往復2人分)でした。
 カレンダーの出発日へカーソルを、{次へ}をクリック
 旅程がズラリと値段順に表示されます。
  なお、全日空にはバルセロナへの直行便はありません。ロンドン、パリ、フランクフルトのいずれかで、他社便に乗り換えます。値段、乗り換え時間等を考慮して、旅程を選択します。{選択}をクリック
 選択した内容確認のページが表示されます。フライトの日程と金額を確認し、適用条件を読み、問題なければチェックを入れ、{会員の方}か{一般の方}をクリックします。
 なお、この時点で全日空のフライトは確定しますが、他社便のフライトの搭乗は確認できていません。これ以降、個人情報の入力して送付した時点で、コンピュータが他社便のフライト確認を行い、満席の場合はキャンセル待ちとなるか、旅程を変更することになります。
 旅程が確定したら、クレジット情報を送付します。
 メールアドレスに{購入ありがとうございました}が送付されてきます。
 添付されている{eチケットお客様控え}をプリントアウトして準備完了です。


ホテルの選び方

 過去の二回のスペイン旅行では、レンタカーで各地のパラドールを渡り歩くという旅のスタイルでしたが、今回はバルセロナに腰を据えてじっくりと旅を楽しみます。したがってホテル選びを慎重に考えました。

A.カタルーニャ広場Placa de Catalunya周辺のホテルに的を絞る
その理由です。
○ バルセロナの目抜き通りであるランブラス通りLas Ramblasに近く
○ バルセロナで最も気品ある通りグラシア通りPasseig de Graciaにも近く
○ バルセロナで最も歴史のある旧市街のゴシック地区Barri Goticoに接している
○ 北のグエル公園Parc de Guell、南のモンジュイックの丘Montjuicのほぼ中間点
○ 国鉄(RENFE)、カタルーニャ鉄道(FGC)の始発駅に近い

B.ホテルを調べる
 ネットでバルセロナ情報を調べているとき、バルセロナ・ツーリスト・ガイドBarcelona Tourist Guide(日本語版はありません)に出会いました。このサイトのホテル地図が大変よくできています。

  サイトhttp://www.barcelona-tourist-guide.com/を開きます
 Hotel Map}をクリック
  バルセロナ市街の全体地図が表示されます。
  赤い点線で囲まれた地区、バルセロナの中心部をクリック
  この地域にある44のホテルを数字と格付けの星数で表示

C.三ツ星ホテルを選んでいます
 プールもジムも必要ありません。ホテルのレストランで食事もしません。朝食は近くのバルで、昼食・夕食は市内のカッフェやレストランで取りますので、ホテルは泊まるだけ、清潔で、安全であれば良いと割り切っています。その基準が三ツ星なのです。
地図の上部がカタルーニャ広場Placa de Catalunyaで、周辺にある7つの三ツ星ホテルがありますが、予約したのは13番のホテルです。

  番号をクリック、グラビナ・ホテルHotel Gravinaのホテルの写真と説明のページに変わります。
  宿泊可能かチェックします。{Reservation Information For The Gravina Hotel}をクリックして、予約ページに
  Check-inとCheck-outの日付を入れ、{Search This Hotel}をクリック
 (この予約ページにホテルの更に詳しい説明と写真が載っています)
  空室の有無、部屋の種類、曜日ごとの宿泊料が出てきます
 (現時点で大幅な値引きになっています。)

D.ホテルのレビューを読んでホテルを確定します。
三ツ星という一般的なホテルの評価だけでは不十分です。当該ホテルの宿泊者のレビュー(review書き込み評価)を参考にします。Barcelona Tourist Guideにはこのレビューがありません。そこで、他のインターネット予約サイトでのレビューを参考にします。Hotels.comhttp://japan.hotels.com/でチェックしました。
そこには、「“perfect location on a safe street(安全な通りに面し、完璧なロケーション)” “walking distance from everywhere(主な見所へは徒歩圏内)” “ good staff(スタッフ良し)” “clean and tidy(清潔で、こぎれい)”」とおおむね好評、ベッドの固さ、シャワーの出力、部屋の遮音性などを指摘する意見もありましたが、このホテルを選んで問題なさそうです。

E.料金を比較し、申し込みサイトを決めます
 複数の予約サイトでの料金を調べます。4月13日時点でのBarcelona Tourist Guideを通してのGravina Hotelの6泊料金は700ユーロ、Hotels.comでは68,830円でした。なお、現在ではBarcelona Tourist Guideは600ユーロまで値下げしています。
 なお、この料金はnon refundableでキャンセルができない料金設定です。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石見銀山を訪れる・・・大久保間歩ツアーに参加

2009-04-14 16:25:05 | Weblog
高速バス「いわみエクスプレス」が運行休止となりました。高速バス「スサノオ」利用、jr出雲市駅から大田方面に向かう旅程となります。



4月上旬に石見銀山に出かけました。

今回で二度目・・・前回は銀山街道・鞆ヶ浦道を歩いただけで終わりましたので、じっくりと世界遺産の町を楽しもうということで友人との二人旅となりました。
石見銀山へのアクセスは前回のブログに紹介しましたので、石見銀山観光の最新情報に的を絞ります。



4月3日は、銀山観光の目玉として昨年より始まった大久保間歩一般公開ツアーの今年度の初日でした。銀山公園の案内所で偶然知り、30分前でしたが予約センターに電話、最終の四回目午後1時15分のツアーに空席があり、急遽申し込みしました。
ツアーは石見銀山世界遺産センターから出発です。銀山公園からの連絡バスは出てしまっていましたが、急いで歩けば間に合うということで、五百羅漢沿いのバス道を急ぎました。10分ほど行くと、世界遺産センターへの新しく作られた歩道が右手にあります。快適な歩道を行き、急峻な階段を登り切ると到着です。30分掛かりました。

一回ごとの定員は20名大久保間歩の世界遺産としての重要性と、間歩見学の諸注意をガイドから聞いてから、小型バスに乗り込んで出発です。10分ほどで、大久保間歩ツアー専用の小さな駐車場に到着です。駐車場脇のトイレの横に、竹の杖が準備してあります。急坂の山道を歩くために、必要ならお使いくださいということです。

明治時代に作られたという水抜き坑道である金生坑までは直ぐ、明治時代は坑道を「」、江戸時代は「間歩」とよんでいるとのことです。


ここからは本格的な山道、春先の重い雪で倒れてた竹を左右に見ながら進みます。あえぎながらジグザクの山道を登ると、いよいよ大久保間歩・・・立派な小屋があり、そこに入坑用の装備・・・ヘルメット、長靴、懐中電灯の一式が用意してあります。感心したのは、長靴です。子供用から外国人用の特大サイズまで揃えて、中敷も用意するきめ細かさです。

大久保間歩の坑口前でガイドから再度の注意があります。冒頭の写真がその時の様子です。ガイドが先頭、最後尾に保安員が付いて、入坑です。内部は当然のことながら、真っ暗・・・足元は水溜り・・・頭上注意のガイドの声を伝言ゲームよろしく後ろに伝えながらの前進です。
左右に掘られた坑道は、懐中電灯の光も届きません。やがて、初代銀山奉行の大久保長安が馬で乗り入れたという大きな空間があり、そこから先は入坑が禁止されています。



それにしても、もともとは岩山であったところを銀鉱石を求めて縦横無尽に鑿一つでくり貫き、これだけの空間になるまで掘り進んだ4百年以上の歳月の長さを実感できました。しかも、この大久保間歩はほんの一部・・・最盛期の16世紀末には世界の銀の生産高の三分の一を産出していたことも納得できました。
間歩の上部は江戸時代の手堀り跡、下部は明治時代にトロッコを入れての機械掘り・・・当時の坑道の足場の丸太や明治時代のトロッコの枕木の跡が今でも残っています。コウモリが至るところで冬眠中・・・糞などで汚れた壁には触らないようにという注意がありました。

大久保間歩を出て、さらに上にある釜屋間歩まで山道を登りますが、何人かの年配の方はギブアップ、グループが戻るのを待つことになりました。



釜屋間歩は慶長年間に発見され、最大の銀の産出量を誇り、坑口、テラス、階段跡を見ることができます。この周辺は鉱脈が露出しており路頭掘りが行われたところ、至るところに痕跡が残り、今でもこの周辺を歩く地元の方は転落防止用に長い竹を持って歩くというガイドの説明は説得力がありました。
また、山の頂上近くの急斜面に見える岩場は、当時の路頭掘りが行われたところで、転落事故なども日常茶飯事だったでしょう。

 当初、3,800円のツアー代金は割高だと思いましたが、ヘルメット・懐中電灯・長靴の装備が用意され、ガイドと保安員が付き添って安全を確保、懇切丁寧なガイドの説明・・・菜種油を入れ、山吹の枝を芯にしたサザエの殻を片手に持ち、その灯りたよりに暗黒の中を掘り進み、鉱石を背負子で運び出す・・・寿命は30歳までだったという当時の人々の過酷な人生に思いをはせることができた二時間半のツアーでした。

大森代官所跡で資料館を見学、大森町の町並み地区を散策、銀山地区を経て龍源寺間歩を訪れ、再び代官所跡まで戻りましたが、3時間かかりました。以前は龍源寺間歩までバスが運行していましたが、環境汚染を考えてか中止、中間地点の観光バス乗降所からでも、年配者にはかなりキツイ徒歩となります。

大久保間歩ツアーに参加なら、龍源寺間歩見学(400円)は省いてもよいでしょう。なお、大久保間歩一般公開ツアーへの参加は事前予約制です。
大久保間歩予約センター ℡0854-84-0750

二つの銀山街道の港、鞆ヶ浦沖泊を訪れました。説明版がありますが、雨模様であったこともあり、訪れているのは誰もいませんでした。往時、船を繫いだという「鼻ぐり岩」は鞆ケ浦に一箇所、時代が新しい沖泊にはかなり残っています。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京から石見銀山へ・・・3泊4日(車中二泊)の旅

2009-04-07 09:07:38 | Weblog
高速バス「いわみエクスプレス」が運行休止となりました。高速バス「スサノオ」利用、jr出雲市駅から大田方面に向かう旅程となります。


4月2日から4日にかけて、桜咲く石見銀山を訪れました。

大森町、銀山遺構など歴史地区をまる一日かけ思う存分散策、次の日に銀山街道の一つ温泉津沖泊道を歩く旅でした。
初日は4月3日から始まる大久保間歩一般公開ツアーにも参加できましたが、二日目の銀山街道は雨天のためあきらめ、銀山街道の二つの港、鞆ケ浦と沖泊を訪れました。

往復を高速夜行バス利用で経費を安く上げようとしましたが、現地での鉄道、路線バスの便が悪く、タクシーを利用したことで、交通費と宿泊費だけで、37,460円・・・石見銀山は東京から遠く、個人旅行は割高であることを実感しました。しかし、時間を気にすることもなく、思う存分、石見銀山を歩き尽くせたことで満足しています。

一日目: 午後7時10分 新宿駅南口バスターミナル出発(車中泊)   10,780円
 
二日目 午前7時15分 浜田駅前
      午前7時38分 浜田駅発(JR山陰線特急まつかぜ6号)    1,440円
      
午前8時20分 仁万駅
      
午前8時30分 仁万駅発(路線バス)             370円
  午前8時45分 大森代官所跡着    
      午前9時~午後12時 町並み地区、銀山地区散策       900円

(石見銀山資料館見学、大森町並み地区、銀山地区、龍源寺間歩見学)
      午後12時45分 銀山公園出発(徒歩)
      
午後1時15分 石見銀山世界遺産センター
      午後1時15分~午後3時45分 大久保間歩一般公開ツアー  3,800円
(世界遺産センター、金生坑、大久保間歩(入坑)、釜屋間歩)

}大久保間歩ツアー記をお読みください。

午後4時34分代官所跡発(路線バス)         540円
      午後5時00分 大田市大正仲町
       (スカイホテル ℡085-482-6525)     5,250円
 
三日目 午前8時31分 大田市駅発(JR山陰線)      230円
      午前8時42分 仁万駅
      タクシーで馬路駅へ              (一台) 1,060円
       (銀山街道鞆ケ浦、琴が浜散策)
      

      タクシーで温泉津駅へ             (一台) 1,660円
       (銀山街道沖泊、温泉津散策、入浴、昼食)

      
      


      午後2時49分 温泉津駅発(JR山陰線)      650円
       午後3時26分 浜田駅
(浜田市内散策、夕食)
      午後6時55分 浜田駅前発(車中泊)            10,780円
 
四日目: 午前6時55分 新宿駅南口バスターミナル




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治31年発行の四万温泉案内木版画を読み解く

2009-03-06 04:13:11 | Weblog
宿泊した四万温泉積善館の廊下には明治時代の木版画が展示されており、明治時代の四万温泉の様子を知ることができます。その一つ、明治31年発行の「四万温泉乃眞景」には興味を惹かれました。なお、冒頭の写真は積善館様からご提供いただきました。

明治版の温泉案内パンフレットでした
この木版図の図案から推測すると、原版にはまず、外枠として「大日本鐡道線路略図」として国内の鉄道網を、上部に「諸国温泉一覧」として全国93箇所の温泉名を彫り、それから、別版で、温泉地ごとの様子を「眞景」として描き、重ねて印刷したのでしょう。

 因みに上州(群馬県)では「草津乃湯、伊香保乃湯、四万乃湯、川原乃湯、沢渡乃湯、花屋敷乃湯、老神乃湯、応徳乃湯」の八湯が一覧に載っています。恐らく、各温泉地にもこの「眞景」が残っているかもしれません。
四萬温泉入浴者道案内」として「高サキ―馬車鉄道五リ―渋川―馬車道四里半余―中ノ条―四リヨ―四万温泉」と紹介され、高崎駅まで鉄道で、そこから馬車鉄道で渋川へ、さらに馬車道を中之条へ、そこからは徒歩・かご・人力車などで四万温泉までくるアクセスが記載されています。
 注:札幌・北海道開拓の村・馬車鉄道の写真です。


もう一つ、展示されている明治14年の「湯元関善平蔵元」の板図では積善館の当時の様子が描かれ、かごや人力車で積善館の門前に乗りつける湯治客の姿も描かれています。これは積善館の主人が発行したもので、湯治客にお土産として販売されていたのでしょう。
 江戸時代、江戸見物にやってきた人々には、江戸名所浮世絵と出身地の藩の上屋敷・下屋敷の浮世絵がお土産として人気があったそうですから、明治時代の温泉湯治客も訪れた温泉地の絵図が湯治記念として買い求めていたかもしれません。

「大日本鐡道線路略図」は正確、無比の出来栄えです
カタカナ交じりの小さな文字で、四隅にびっしりと書かれていますが、実に、正確に、明治31年当時の日本全国の駅を、網羅しているのは驚きです。発展途上にある当時の鉄道建設の様子をいろいろと知ることができます。

東京駅はまだできていませんでした。
上野駅は「東京・上野」として載っていますが、東京駅はありません。東京駅が開業したのはずっと遅れて大正8年です。東京市内は徒歩での移動が一般的で、船、馬車、人力車などの利用もあり、鉄道施設が遅れたのかもしれません。
現在の中央線は大正8年、山手線が大正14年に開通しました。

飯田橋駅が始発駅として載っています
国木田独歩は、明治28年に当時三崎町にあった飯田橋駅から国分寺駅まで出かけましたが、「武蔵野」にその記述があります。

上野・青森間はすべての駅名をのせています 
 東北本線の路線の敷設は、明治24年に完成しています。帝政ロシアとの対決を不可避と見た明治政府が北海道防衛のため建設を急ぎました。

秋田県、山形県には駅がひとつもありません
 斎藤茂吉明治29年14歳で故郷上ノ山から上京した時の様子を書いていますが、父親に連れられて提灯を手に、午前1時に出発、山形、天童と北上、関の山峠を越えて秋保温泉に一泊、仙台市内でもう一泊して上野駅に向かいました。

山陽線は宮島駅までしかのっていません 
 宮島駅が開業したのは明治30年下関駅まで開通したのは明治34年です。東北本線より10年も遅れていますが、瀬戸内海の水運が盛んであったことや、人家が密集している町が多く、鉄道建設が困難であったことが原因でしょう。
 因みに、尾道駅明治24年完成ですが、その当時の様子を「山陽鉄道敷設を巡り 町は二分、市内貫通の是非を問う。投石頻発、白壁は泥に塗れ、ついに警官隊出動。この時の立退き、民家四〇六四坪、寺院一五〇坪、神社六四坪」と玉浦絵巻に紹介されています。尾道駅は人家三軒しかなかった町のはずれに作られました。

まだまだ、この「大日本鐡道線路略図」からは学ぶことができます。興味がおありの方は、ぜひ、四万温泉積善館にお出かけください。


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津・冬の生活の救世主(2)・・・スクールバス

2009-02-06 08:39:07 | Weblog
昨年12月、南会津町舘岩・松戸原で乗用車と30名近い生徒が乗った登校途中のスクールバスが正面衝突・・・乗用車が凍結した路面でのスリップしたのが原因でした。子どもたちには大きな怪我はなかったようですが、地元では何台もの救急車が駆けつける大騒ぎとなりました。当初、軽傷と報道されたスクールバスの運転手は腰骨の圧迫骨折の重傷と分かり、入院されました。



多くの子どもがスクールバスで通います
 奥会津の町や村は、広い範囲に集落が点在している山村であり、子どもたちは町や村の中心地にある小学校・中学校に通学してきます。
旧舘岩村(現南会津町)を例にとって見ましょう。旧舘岩村では24の集落が点在して、総戸数813で、平均すると1集落40世帯で、集落間の距離は平均1.3キロ、徒歩で20分もかかります。(平成16年度資料)
 西根川の渓谷にある宮里集落からは10キロ、湯ノ岐川上流の水引集落からは6キロの道のりを、中心地松戸原にある舘岩小学校舘岩中学校にスクールバスで通学しています。

昔は徒歩通学しました
 スクールバスがなかった36年前までは、徒歩通学の子どもも多かったのです。
宮里集落や水引集落にはそれぞれ舘岩小学校の分校がありましたが、高学年の児童と中学生は本校まで通っていたのです。
 大晦日、水引集落を訪ねましたが、今年初めての雪下ろしをされている73歳の男性の方が手を休めて、話し相手になってくれました。「学校まで一里半、片道一時間半、当時は草履(わらじ?)で、往復でダメになり母親が毎晩作ってくれたものだ。学校はただ通うだけ、勉強どころではなかった。夢のような話だ」と思い出すように話されていました。

冬は寄宿舎生活でした



 奥会津は特別豪雪地区に指定されています。今でも一晩に1メートルの雪が降ることがありますが、昔はそれが当たり前でした。当然、徒歩通学はムリ、学校近くの冬期寄宿舎で集団生活をしました。寮母として学校近くの方が生活の世話をしてくれました。土曜日の午後にようやく帰宅、しかし月曜日は再び寄宿舎へ向かうという生活が小学校6年から中学校卒業までの4年間続いたのです。
 写真は旧舘岩村の冬期寄宿舎です。昨年の夏に訪れた柳津町西山温泉には「西山寄宿舎前」という名のバス停があり、コンクリート作りの旧寄宿舎が残っています。奥会津には、当時の旧寄宿舎が今でも幾つか見られます。

親は雪道作りが大変でした
 子どもが帰宅する土曜日の午後と、学校へ送り出す月曜日の朝は、親たちは子どもたちが通る雪道を開かなければなりません。当時は除雪車が村まで入ってこなかったのです。水引集落では、隣の集落、湯の花まで3キロの雪道を確保しなければなりませんでした。
 前回紹介した鈴木牧之は「北越雪譜」中で雪道について「健足の飛脚といえども雪途を行は一日二三里に過ず。かんじきにて足自在ならず。雪膝を越すゆゑ也。これ冬の雪中一ツの艱難なり」と記しています。

スクールバスは昭和48年に開通しました
 舘岩小学校の沿革史には「昭和48年 水引分校、本校と統合、スクールバスによる通学開始」と述べられています。この頃には除雪が昼夜を問わず行われるようになり、スクールバスが各集落まで通じるようになりました。
 子どもたちは親元を離れての寄宿舎生活から、親たちは通学のための雪道作りの苦労から、ようやく開放されたのです。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津・冬の生活の救世主(1)・・・ゴム長靴

2009-01-30 04:58:32 | Weblog
今年の正月も湯の花温泉で過ごしました。ところで、湯の花温泉は「奥会津」なのか「南会津」かいつも迷います。集落の中を歩くと、昔ながらの看板には「奥会津」の文字が目立ちます。昨年からは湯の花温泉がある旧舘岩村は「南会津町」に変わりましたので、宿の主人に尋ねると、「どちらでもいいのでは・・・」という答えです。
観光協会などは、南会津町に入らない只見町桧枝岐村なども含めて「南会津」と宣伝しています。しかし特別豪雪地帯に指定されるこの地区は、殊に冬には、「奥会津」の名称がピッタリです。





昔は藁沓(わらぐつ)を履いていました。
旅館の玄関に入るとずらりとゴム長靴が並んでいます。これが冬の奥会津の風物詩です。先日、新聞の投稿欄におなじ雪国の新潟・湯沢町の65歳の女性の投稿が載っていました。
雪国の冬はゴム長靴が必需品。そろそろ雪の季節になると、新しいものに買いそろえる。朝は雪の始末から、出かける時もほとんど毎日使う。だから、春先にはすり減ったり、水がしみてきたり、農作業や山菜取り用にして履きつぶす」とありました。

ゴム長靴が普及する前は、藁沓(わらぐつ)や深沓(ふかぐつ)でした。子どもも大人も履いていました。どこの家でも主婦が家族の分を作っていたのです。昔は大人数の家族が多く、しかも一冬で一人がなん足も履きつぶします。「母親が夜なべ仕事で、毎日のように藁沓や藁ぞうりを編んでいた」と湯の花近くの角生(つのう)集落の80歳代の女性が懐かしそうに話してくださいました。「濡れた藁沓を囲炉裏につるした火棚(くど)に載せて、乾かしたものだ」とのことでした。

どのようにして作ったのでしょうか。越後塩沢の文人・鈴木牧之が天保六年(1836年)に世に出した「北越雪譜」の中で藁沓・深沓の図とその作り方を記しています。
「○藁沓(わらぐつ)・・・藁ひとたけにてあみたつる。はじめはわらのもとを丸けてあみはじめ、末にいたりてわらをまし二筋にわけ折りかえし、をわりはまん中にて結びとむる。是雪中第一のはきもの也。童もこれをはく也。上品なるはあみはじめに白紙を用い、ふむ所にたゝみのおもてを切入る。」「深沓(ふかぐつ)・・・是はうちわらにて作りあむ。常のたびのまゝ是をはきて雪中に歩行しても、他の座につく時足をそゝぐにおよばず。あみようは甚だむずかしきものなり」(岩波文庫版より

ゴム長靴は大正時代に作業用として都市で使われ始め、その後、昭和30年代までには雪国の一般家庭にも普及、ようやく雪国の主婦は藁沓作りから開放されたのです。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉香公園・城山を散策する・・・岩国・錦帯橋への旅

2008-11-29 22:16:35 | Weblog
 10月、尾道に一泊後、次の日は岩国の錦帯橋近くのホテルに泊まりました。映像では馴染みとなっている錦帯橋を実際に見てみたいというのが長年の夢でした。
 錦帯橋は岩国城主の館とそれを取り巻く武家屋敷を防御する外堀の働きをする錦川に架けられています。日本三名橋の一つに数えられる有名なこの木造橋は、架橋されてから昭和25年の台風で流されるまで、実に276年に渉り、その姿を保ってきたという5連のアーチからなる歴史的な木造建造物です。300年以前の架橋技術の高さに驚かされるばかりです。
 橋の途中で川底を眺めるとアユが何匹も見えました。川石のはみ跡を見たのは何十年ぶりでしょうか・・・清流・錦川に感動です。

 国木田独歩の碑を訪れました
 川を渡ると堤よりやや低い土地にかつての武家屋敷があります。多くの家は建て替えられていますが、敷地は広く、面影を残しています。現存する武家屋敷が文化財として観光客に紹介されています。
 一番奥まった場所が城主の館跡で、公園として整備されています。中を散策すると国木田独歩の石碑がありました。独歩は子どもの頃父親の勤務地である岩国で過ごしています。石碑には「欺かざるの記」の中の一節が刻まれていました。独歩といえば、大分佐伯で教師をしていた頃の思い出を書いた作品が有名ですが、その中の一つ「春の鳥」の舞台となった佐伯の城山と独歩が下宿していた武家屋敷を今年の2月に訪れていますが、岩国の城山と独歩の石碑がある場所のそれが、あまりにも似ているのには驚きました。天守閣が建てられた城山とその下の武家屋敷というシチュエーションが同じこともあるのでしょう。

「美しき天然」の作曲者・田中穂積
 公園を散策していると、田中穂積の碑がありました。田中穂積が岩国の人であることを知りました。1899年、佐世保海兵団の軍楽長であった穂積が滝廉太郎の「花」の作詞家としても知られる武島羽衣(又次郎)の詩に感動、佐世保の九十九島の美しい風景のイメージを日本最初のワルツに載せ、佐世保女学校の生徒のために作曲しました。それが「美しき天然」で、当時の女学生の愛唱歌として歌われました。今でもチンドン屋の奏でる曲といえば、メロデイを思い出す方も多いでしょう。

 田中穂積は長州藩の少年鼓手でした
田中穂積は1855年に岩国藩の下級武士の家に生まれます。14歳の時、下級武士で編成された長州藩日進隊の鼓手として戊辰戦争に加わります。当時の錦絵には行進する新政府軍の行列の先頭に鼓笛手が描かれていますから、田中穂積も同じように行軍したのでしょう。
 演奏されていたのは日本最初の軍歌といわれる「トコトン節」です。

♪♪宮さん宮さん御馬のまえに ひらひらするのはなんじゃいな
トコトンヤレナトンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの 錦の御旗じゃしらないか
トコトンヤレナトンヤレナ♪♪


長州藩品川弥次郎作詞、大村益次郎作曲と伝えられ、民謡調ですが、それを西洋式の鼓笛に合わせて意気高らかに歌いながら行進したのでしょう。「安芸は朝駆け 三原は三日 備前岡山通り駆け」を合言葉に長州兵は京都に向かいました。

 「美しき天然」のメロデイが今でも歌われている国があります
 日本でも歌う人がほとんどいなくなったこの曲を、大切に歌い続けている国があります。それは中央アジアのウズベキスタンやカザフスタンの朝鮮系のロシア人の人々です。

 田中穂積が生まれた19世紀中頃に朝鮮半島北部の朝鮮の人々は困窮した祖国からロシア沿海州への移住を始めます。1910年明治政府の強引な日朝合併で朝鮮が日本の支配下に置かれます。そして、朝鮮へは日本から人や物資が入っていきますが、朝鮮半島を巡業するサーカス団も現れます。当時、サーカスのテーマ曲として必ず演奏されたのが「美しき天然」のメロデイで、これが朝鮮の人々の間にも広まります。

 1937年、スターリンは中国に進出した日本軍が沿海州の朝鮮族の人々を利用することを恐れ、全員を6000キロ離れた中央アジアへ強制移住させます。その数20万人に上ると言われています。
 それから70年、その子孫は50万にも達していますが、その人々が今でも歌う歌が「故国山川コグサンチョン」です。

 ♪♪コグサンチョンヌル トナソ スチョルリ タヒヤンエ・・・♪♪
(故国の山川を離れて 何千里・・・)


老人から口伝えで伝わったコグサンチョンは韓国や北朝鮮の標準語とはかなり違う19世紀の高麗語の語彙やロシア語も混じる詩だそうですが、この詩を、100年前田中穂積が佐世保と九十九島の美しい自然をイメージして作曲したメロデイそのものに載せて大切に歌っているのです。

城山に登る
 ロープウエイを利用せず、武家屋敷から登ろうと決めていました。ホテルの受付で登山道を尋ねると紅葉谷を登るコースを紹介されましたが、それ以外に歩道がある筈だと探していると登山スタイルの地元の方に出会いました。「一緒に行きますか」という誘いに、同行させていただくことにしました。ロープウエイの索道下から登り始め、踏み跡を登っていきます。定年後、週三回は城山周辺の山に登ると話されるその方の後を追いますが、息が切れる私を途中で何回となく待ってくれました。

 急峻な斜面の樹木で覆われた斜面は、眺望はまったくききません。ただ登るだけです。40分ほど登ると巨岩がありそれが目印となり、あとわずかだと言う言葉に励まされ登ると、北の丸の南面にある400年前の岩国城北の丸の石垣です。あまり崩れておらず、近年に補修がされているのかと思うほど堅牢な造りです。
 ここから北の丸を一周するハイキングコースです。東側に回ると、風景が一変、石垣がものの見事に斜面から崩れ落ち、あちらこちらに散乱しています。

 後で知ったことですが、岩国城は築城後わずか7年で幕府の一国一城令で破却することになりましたが、北の丸の南面の石垣だけは下の城主の館を直撃する恐れから、破却を免れたということを知りました。それにしても東側の散乱した石垣の積み石の様子は400年たった今でも破却当時の様子を伝えています。
 もう一つ貴重な史跡は頂上の空堀です。幅20メートル、深さ10メートルの空堀が頂上に掘ってあるというのは、関が原の戦い以降主要な武器となった鉄砲を防御するためで、現存する最大の空堀だそうです。
 その近くにかつての天守閣の跡があります。現在の岩国城の天守閣は昭和37年に観光用に作られたものです。 

関連サイト:
 岩国観光協会http://www.iwakuni-kanko.jp/
 岩国城 http://www.iwakuni-kanko.com/kikko/shiro/around.php
 田中穂積http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/katari/0610/kt_610_061007.htm
佐伯の国木田独歩
尾道を訪れる



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津の旅(3)・・・昭和村をふたたび訪れる

2008-10-12 10:34:52 | Weblog
 8月末に友人と出かけた奥会津柳津町までのレポートは「奥会津への旅(1)」で報告しましたが、その時は通過するだけだった昭和村に9月中旬再び訪れました。十数年前のことでしたでしょうか、NHKテレビで放映されたある葬式に取り組む昭和村の村人の姿を追ったドキュメンタリーに深く惹かれ、いつの日か訪れたいと思っていたからです。昭和村を散策、南会津町湯の花温泉に宿泊するという一泊二日の旅でした・・・。


 昭和村は福島県有数の高齢化率の高い地区です


 昭和村までは8月とまったく同じ経路でした。南会津町田島で289号線へ左折、橋を渡ってすぐ400号に右折、右手に立派な南会津病院があります。そこを過ぎ高野集落に入ると国道とは思えない一車線の狭い道、未完成のトンネル手前から山道に入ります。前回恐れをなした国道でしたが、今回は二度目、周りの様子に目を走らせる余裕があります。

 舟鼻峠を越えるこの山道を、軽四輪トラックを運転され田島方面に向かう夫婦連れの高齢者の方の車2台とすれ違いました。南会津病院に通われるのでしょうか・・・。26年前、旧舘岩村湯の花温泉に滞在したとき、当時10歳の息子が発熱、舘岩村の小学校近くの診療所で診察を受けたことがありますが、舘岩地区の方も診療所で手に負えないときは、自分で車を35キロも運転して田島の南会津病院に通っていることを思い出しました。路線バスがほとんど走っていないため、通院するのに高齢者も車は必需品、その日の福島民友新聞によると奥会津地方は福島県で最も高齢者が占める割合が高い地域であることを知りました。因みに昭和村では12歳以下の子どもの数は120名、90歳以上の方は43名(平成19年7月1日時点)だそうです。

昭和村は自然豊かな村です

舟鼻峠に登るに連れて、ブナ林が多くなることに気がつきました。かなりの大木もあり、紅葉の頃は400号のドライブは最高でしょう。後で調べると「奥会津のブナ林は、規模的にも白神山地を上回り、原生林に極めて近い状態で残っている世界的にも極めて貴重な自然である」ことを知りました。
 峠を下り、昭和村に入ります。両原集落手前に一ヶ月前にはなかった小屋があります。きのこを売っているのです。ブナ林はきのこの宝庫、さっそく覗いてみました。三種類ほどの採りたてのきのこがあります。シーズン初めで種類がまだ少ないとのこと・・・マツタケも取れるとのことです。居合わせた福島から来たという方は一かご5,000円という珍しいきのこを買っていきました。シメジを買おうとしましたら、今日中に食べなければ味が落ちるとのこと、1本500円のビン詰きのこ勧められました。美味しいきのこご飯の作り方の説明を受け、お土産用も含めて6本購入しました。

昭和村はからむし織の里です

 野尻が昭和村の中心部です。昭和2年旧野尻村と旧大芦村が合併して、昭和村になりました。ここに「からむし織の里」という瀟洒な建物があります。自家用車なら50台、観光バスも駐車できる広いスペースを持った観光物産施設です。この中にある「からむし工芸博物館」を訪れました。昭和村は本州唯一のからむし(多年草のイラクサ科植物)の生産地で、600年の昔からここの農民たちはからむしの栽培、糸づくり、手織りをおこなってきました。現在では貴重な工芸品という扱いですが、かつては家族の衣類として農家の主婦が日夜編んで作っていたのでしょう・・・乳を子に含ませながら、背に子を背負いあやしながら、子を寝かしつけてから夜なべ仕事で、からむしを編んでいた・・・と紹介されていました。また、ここで栽培されたからむし(原麻)は、只見を経て六十里峠を越えて、越後(新潟)に運ばれ、越後上布や小千谷縮の原材料にもなりました。
 「からむし織の里」には「郷土食伝承館」も併設されています。漬物を販売していましたので立ち寄ると、キムチが並んでいました。売っている女性が「本物だ」といっていましたが、口調から、韓国出身の方であることが分かります。過疎に悩む奥会津は、外国人花嫁を迎えている地域でもあります。

一昔前まで土葬の風習が残っていました

 「からむし工芸館」の男性職員の方と話を交わしました。NHKテレビのドキュメンタリーの話題から、土葬の風習に話が移りましたが、現在では火葬で、その方の父親の埋葬が昭和村の最後の土葬であっただろうとのことでした。土葬は現在使われている寝棺でなく、樽や桶に死者を入れる坐棺で埋葬します。死者の再生を祈って母体の中の胎児と同じ姿勢で葬ります。男性のお話ですと、死が近づくと棺桶を作り用意、その中に遺体を入れるのが一苦労であったと語っておられました。死後硬直を起こした遺体は湯潅したとしても、座位の姿勢で桶の中に安置するのは難しかったのでしょう。
 NHKのドキュメンタリーでは、村中の方が葬儀にかかわったことが紹介されていました。死装束を縫う人、湯潅の準備のため湯を沸かす人、墓を掘る人、棺おけを運ぶ人、食事の支度をする人、記録をつける人・・・120名の村人が葬儀にかかわったとありました。印象的だったのは、村を離れ千葉県に転居された方も葬儀に加わっていることでした。助け合いの結いの制度が綿々と村の絆を結んできた証です。

会津戦争で最後の激戦地となりました

 次に3キロほど南にある大芦に向かいました。ここは昭和村の中では野尻に次ぐ大きな集落で、昔は鳥居峠を越えて南郷村に出て、桧枝岐、尾瀬沼を経て沼田に通じる沼田街道があり、会津と沼田を結ぶ交通の要でした。ここは戊辰戦争で会津戦争と呼ばれる最後の戦場となったところで、若松城開城で戦いが終わったことを知ることなく戦死した兵士を祭る「官軍戦死九人墓」を訪ねました。墓標を見ると、戦死者の氏名と「高崎藩」「加州藩」の文字が刻まれています。沼田街道を進軍して会津に向かおうとしていたのでしょうか。この時、大芦村では29戸の民家が焼失しています。
 「九人墓」が祭られる墓地を見つめていて、NHKのドキュメンタリーの中の墓地の映像を思い出しました。あのドキュメンタリーは大芦地区で撮影されたものであったのではないかと思ったのです。

昭和村から沼田街道を辿りました

 ここから県道会津若松・南郷線に入ります。県道といっても林道と変わらない狭い山道です。旧南郷村までの間、一台の車とも出会いませんでした。ブナ林の中の渓流に沿っているこの道は、紅葉の頃はさぞかし美しいでしょう。途中、駒止湿原への林道が分かれていました。新鳥居峠を越えると、南郷スキー場に出て、国道401号と出会います。ここを左折、桧枝岐方面へ進みます。10分ほど走ると山口の交差点があり、左折すると289号線で、駒止トンネルを抜けて田島まで30分です。首都圏から只見方面に向かうにはこの289号利用が最も便利な経路です。
 南郷、伊南、桧枝岐を結ぶ401号はかつての沼田街道、伊南川、桧枝岐川沿いの平坦な道です。周囲は田んぼと民家が点在し、トマト栽培が盛んでビニールハウスが目に付きます。やがて、内川の交差点で左折、伊南川を渡り、352号へ。舘岩川を遡っていくと本日の宿泊予定の湯の花温泉まで30分です。

参考までに:

*「奥会津」と「南会津」とはどこの地域を指すのでしょうか。両地区とも会津地方の南西に位置しますが、奥会津とは、只見川、伊南川流域に点在する柳津町・ 三島町・金山町・只見町・南会津町(田島町・南郷村・伊南村・舘岩村が合併)・昭和村・檜枝岐村の総称です。一方、南会津とは只見町・南会津町・桧枝岐村・下郷町を指します。したがって、只見町、南会津町、桧枝岐村は両方の地域に含まれることになります。

*9月28日に甲子トンネルが開通、東北道白河インターから下郷町までが結ばれました。下郷町にある大内宿への観光が首都圏からぐっと便利になりました。






 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奥会津を訪れる(1)・・・・南会津町・昭和村・金山町を経て柳津町へ

2008-09-09 16:45:43 | Weblog
 キャニオン会というグループを作っています。30年前、17日間のアメリカ西部ドライブ旅行をした仲間で、毎年夏に国内旅行を楽しんでいます。今年は30回目の記念の年ということで、最年長のNさんが、昭和6年、小学校の一年生の時、父君の転勤で4ヶ月ほど居たことのあるという柳津を探訪しました。土木技師であった父君が温泉関係の仕事で、一家全員で東京から柳津に転居した思い出の地です。

アクセス:
 (首都圏から南会津・田島までのアクセスは高畑スキー場のアクセス略図、Google Mapをご覧ください
   http://takahata-ski.ina-area.co.jp/modules/guide/index.php?content_id=18
南会津町田島から289号に入ります。阿賀川を渡ったところで400号に右折、直ぐに1車線の狭い道となります。トンネルが工事中で旧道へ入りますが、狭く、カーブの多い、樹木で見通しの利かない山道・・・時々車とすれ違い、国道であることを知らされます。舟鼻峠を越えたのでしょうか、下りになり直線が多くなりホッとできます。

 昭和村に入ると、川沿いの直線道路、左右に大きなトタン張りの屋根の民家が点在します。かつては茅葺屋根だったのでしょう、昭和村は奥会津でも秘境といわれた村、昔からの文化風俗の色濃く残こる魅力的な村ですが、今回は通過するだけです。村の中ほどの集落喰丸(くいまる)から右折して山中に入る県道で、宿泊する西山温泉を抜けて柳津に向かう方がずっと時間が短縮されるのですが、雨模様の天候と先ほどの舟鼻峠の国道の様子に恐れをなし、そのまま400号を直進、金山町から三島町を経て只見川沿いの252号を柳津まで行きました。
 
柳津町:
 日本三大虚空蔵のひとつである福満虚空蔵圓蔵寺が最大の観光スポットです。以前訪れたことがありますが、今回は柳津町の観光ボランテイアガイドの方に案内をお願いしてありました。約束の午後3時を30分ほど遅れての到着でしたが、雨の中、境内で私たちを待っていてくださいました。
 断崖の上に建てられたお堂は会津地方で最大の木造建造物で、境内は一万坪もあり、200年前の火災後の再建であるとのことでした。六月堂の内部は広く、高く、テレビでもよく放映される裸祭りで若者が競って登る大綱が印象的でした。
 
 六月堂の舞台に出ると柳津の町と水を満々と湛えた只見川が眼下です。ここからの景色は絶好の撮影ポイントといえます。ここでガイドの方から、戊辰戦争の際に打ち込まれた鉛弾が食い込んでいる柱の弾痕を教えていただきました。会津城を目指す政府軍が打ち込んだものでしょう。奥会津の町や村には戊辰戦争の痕跡があちらこちらに残っています。また、慶長会津大地震では、山崩れの出水で、眼下の前方の小山まで只見川の水位が上がったとのことでした。
 
 Nさんの父君が働いていた昭和6年前後の土木工事について尋ねましたが、戦前のことはご存じないようでした。Nさん一家は、柳津の中心街で借家し、Nさんはそこから高台にある小学校へ通ったのだろうとのことでした。
 旅から帰って来てからネットで調べたところ、柳津町の隣・会津三島町の齋藤茂樹町長の次の文に出会いました。

今年は、宮下発電所が只見川電源開発の先鞭を切って昭和16年(西暦1941年)に工事が着手されてから65年の節目の年となります。当時、国鉄只見線が会津宮下駅まで延伸開通したのも同年であります。当時の発電所工事は、日本発送電という会社で日本が国の発展のため水量の豊富な只見川を選んだのです。私の家にも、昭和12年頃より発電工事関係者の家族が間借りしていたことを母から聞きました。私が小学校の頃には社宅に移り住み、時折遊びにいった記憶があります。」

 当時の工事関係者が家族ぐるみで現場に来ていること、社宅が出来るまでは、付近の民家に家族で間借りであったことが、Nさんの記憶と合致します。また、柳津からNさんの父君が仙台の日本発送電株式会社に勤務されていますから、温泉関係の仕事が終わり、発電所の関連工事に移られたのでしょう。
 
 尾瀬沼を水源とする豪雪山岳地帯を水源に持ち、阿賀野川との合流地点まで渓谷が続く只見川の電源開発は明治時代から注目され、当時の半官半民の電力会社である日本発送電はここに階段式にダム式発電所を建設する計画を立てました。
 昭和4年から水利権関係の交渉が始まり、現地調査を経て、昭和16年から只見川最初の宮下発電所の工事が始まったのです。Nさんの父君は昭和6年に温泉掘削関係の技師として柳津で働き、やがて急成長する日本発送電に勤めることになったのでしょう。なお、同社は戦後分割され、現在の電力9社として発展していきます。

西山温泉:
 柳津から西山温泉までは30分です。西山には地熱発電では日本一の発電量を誇る東北電力地熱発電所があります。しばらく走ると地熱発電所の蒸気が山の中から空中に噴出しているのが見えると西山温泉は直ぐです。
 温泉地といっても、個人経営のこじんまりとした一軒家の旅館が点在しているだけです。そのうちの一つ旅館滝の湯に泊まりました。清流沿いにあり、小さな滝が向こう岸に流れ落ちています。明治の中頃に営業を始めた旅館で、学校の寮のような造りです。建物の周りには自家用の畑があり、そこで栽培された手作りの野菜が食卓に並びます。
 温泉は塩分が含まれた温まる湯で、加熱なし、加水なし、掛け流しの正真正銘の温泉です。

 翌朝、散策している時、宿の方と話をしました。同年輩の女性で、西山での生活について色々と話をしてくださいました。滝の湯の後ろの高台に二階建ての、今では使われていない、鉄筋コンクリートの建物がありますが、これはかつて冬季に子どもたちが生活した寄宿舎とのことでした。西山地区は広い範囲の山中に集落が点在し、降雪で徒歩通学が困難になる冬季には、子どもたちがここで生活、隣にある学校に通ったとのことです。
 また、旅館滝の湯には戦時中、180名近くの学童疎開の子どもたちが東京・台東区からやってきて10ヶ月ほど過ごしました。はるばる上野駅から東北線で郡山駅へ、磐越西線、只見線を乗りついてやってきたのです。
 集団学童疎開を話題できる人は年々少なくなっていくのも時代の流れでしょうか。



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

普通列車で行く日帰りの旅・・・東京から伊香保温泉へ

2008-08-31 14:42:33 | Weblog
天気は晴、ふと思いついて、伊香保温泉に出かけました。

今、流行の鈍行列車での旅です。
高崎線、上越線で出かける普通列車の旅は、学生時代に沼田から尾瀬に出かけた時以来ですから、50年振り・・・。
高崎線で高崎まで行き、そこから上越線渋川駅、路線バスに乗り継いで伊香保温泉へという行程です。
出発点は埼玉県大宮駅・・・高崎線は勿論のこと、東北線、埼京線、京浜東北線、新幹線も乗り入れている首都圏の交通の要です。

アクセス:
往路 大宮(高崎線)7:52→9:09高崎(上越線)9:17→9:42渋川
復路 渋川(上越線)14:58→15:23高崎(高崎線)15:31→大宮16:47
交通費(往復)JR3,240円+路線バス1,100円 合計4,340円
*JR渋川駅と伊香保温泉バスターミナルを結ぶ路線バスはほぼ15分ごとに出ています。

 往路は平日ということもあり、ラッシュアワーで混雑、自宅から大宮駅まで武蔵野線、京浜東北線で大宮駅に・・・下りなので空いているだろうと思った高崎線は、通勤客、通学の学生でほぼ満員、熊谷駅までの40分、立ち詰めでした。高崎駅で上越線に・・・ここでも遠足の中学生が2両編成の車両を占有、女子生徒が席を譲ってくれました。
 渋川駅前のバスターミナルから伊香保温泉へ・・・バスは町の中を榛名山へ緩やかに登っていきます。観光客らしき人はわずか、地元の方が利用する路線です。市内を抜けて緑の濃い郊外へ、水沢入口ビジターセンターで左手に水沢街道が分かれていきます。ここから上り坂がきつくなり直ぐに伊香保温泉バスターミナルです。

歩く:
 バスターミナルは伊香保温泉のほぼ中心にあり、伊香保温泉を象徴する石段街は徒歩5分です。海抜800メートルにある伊香保温泉は、真夏でも日陰に入ると意外に涼しく、旅館街の細い路地を散策、木造四階建ての趣のある旅館が目に付きました。この旅館が横手館で、細い路地と大正時代からの木造4階の建物は、伊香保温泉を代表する風景で、伊香保温泉紹介のポスターにもここの写真がよく使われます。
 
 直ぐに石段街の中ほどにでます。一番上にある湯元の伊香保神社からほぼ直線に南斜面を下っています。午前中の10時半でしたが、かなりの数の観光客が上り下りしています。夏休みということで、子どもが目に付きますが、お年寄りも若者の姿も多く、人気のある観光地であることが分かります。
 神社付近の湯元から温泉を石段に沿って流し、石段左右に旅籠を配置し、温泉を引き込むという合理的な設計・・・これが400年前のことだというから驚きです。武田勝頼が戦いで負傷した将兵の療養のために、上州を治める真田家に命じて作らせたという伝承があるようです。


 急坂の石段左右には、射的場や土産店、食堂が並び、大変風情ある温泉地です。全国各地の温泉地を訪れていますが、伊香保温泉の石段街は、その中でも最も絵になる温泉地でしょう。石段街の中ほどのわずかな広場で大道芸人が芸を披露していました。一日3回、定期的に公演しているようで、石段街の雰囲気に華を添えていました。(冒頭の写真)

温泉に入る:
  伊香保温泉は数年前、泉質偽装がマスコミに大きく取上げられましたが、石段街の中ほどにある立ち寄り湯「石段の湯」は正真正銘の茶褐色の「黄金の湯」です。建物は最近建て替えられ、石段街にマッチした造りになっています。露天風呂がないというところが、かえって「黄金の湯」を大切に扱っているのだと好感が持てます。
 「黄金の湯」の湯量が年々減少し、最近掘り当てた無色透明の「白金の湯」も引湯されていますが、これが水道水を沸かすだけという偽装につながったようです。
 私が立ち寄り入浴をしたホテルでは、「黄金の湯」は小さな欲槽ひとつだけで、他の風呂や露天風呂はすべて加熱、循環の「白金の湯」でした。しかし、きちんと浴槽ごとに泉質表示がされていました。

食べる:  
 石段を一番上まで登ると右手が湯の花饅頭発祥の勝月堂です。午前中にもかかわらず店先で食べている人、土産に買い求めている人で賑わっています。初代が東京上野の風月堂で修業し、明治の中頃に開業したとのこと・・・始めの頃は黄金の湯で饅頭の茶褐色の色を出していたとのことです。当時、伊香保に在った天皇家御用邸に饅頭を納めたことから、伊香保を代表する土産物となりました。勝月堂の名前の由来ですが、初代の名前の一字と修業をした風月堂を組み合わせたのでしょう。
 
 昼食には水沢うどんを味わわれたらどうでしょうか。日本三大うどんといえば、香川の讃岐うどん、秋田の稲庭うどん、そして群馬の水沢うどんです。群馬県はわが国有数の小麦の産地、本州では第一位を誇ります。夕食としてうどんを食べる家庭が多く、群馬産100パーセントのうどんを学校給食で出す取り組みもされているとか・・・呼び名の由来ですが、伊香保温泉近くの水沢観音への参詣者に提供したのが始まり、400年の歴史があります。刈り入れは梅雨直前の6月・・・これも群馬の風物詩です。
 伊香保温泉バスターミナルから水沢観音までは、本数が少ないですか、路線バスが出ています。なお、水沢観音から渋川駅へは水沢入口ビジターセンター前まで20分ほど歩き、そこからバスを利用します。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閲覧数

閲覧、ありがとうございます