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シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

スコットランドとスカイ島 the Isle of Skye

2007-09-24 15:21:04 | Weblog
英国人の豊かな暮らしぶりを紹介する「ミスター・パートナー mr partner」という雑誌の広告に‘スカイ島’の名前を見つけ大変懐かしくなりました。英国観光協会の冊子で、「霧と山に閉ざされたスコットランドの秘島」と紹介された記事を読んで心引かれ、出かけたのが20年前、そして再度10年前に家内を伴ってスカイ島訪問・・・当時の思い出が蘇ってきました。しかし‘スカイ島’ではどうもピンと来ません。やはり‘Isle of Skyeアイル・オブ・スカイ’でしょう。スコットランドでは‘島’は‘island’でなく‘isle’と言いますが、羽田空港に行く途中のモノレールの駅名‘天王洲アイル’もスコットランド方言にあやかっているのでしょうか・・・。



 最初に出かけたのは所用でロンドン滞在中、単身レンタカーを借り、途中スコットランド南部の美しい町モファットMoffatに一泊、そして‘Isle of Skye’にフェリーで渡り一泊、次の日インバネスInvernessでレンタカーを返却、北海油田で繁栄するアバデイ―ンAberdeen回りの寝台列車でもロンドンに戻りました。
二回目は成田からロンドン経由で、直接インバネス空港へ、そこのB.B.(ビー・アンド・ビー bed and breakfast朝食付き民宿)に一泊。次の日にレンタカーでネス湖Loch Ness(lochはlakeのスコットランド方言)を訪れ、その日の内にスカイ島に渡りました。(現在ではスカイ・ブリッジが完成しています。)島の中ほどの海岸にある一軒宿のスリガッチャン・ホテルSligachan hotelに二泊、最初の日はスカイ島を象徴する霧と風雨に閉ざされましたが、次の日は奇跡的な快晴に恵まれ、ホテル脇の登山道からクイリン山the Cuillinの一つBlack Cuillinに登ることができました。

スカイ島はどこにある?
スコットランドの地図のサイトを開いてみましょう。イングランドとスコットランドの間には川とか山脈とか明確に区切る地理的な特徴がありません。西暦43年から4世紀にわたってローマ帝国がブリタニアBritannia(イングランドのローマ名)を統治していた時代、北方のケルト民族の南下をくい止めるために250キロに亘り築いたハドリアンズ・ウオール(Hadrian’s Wall)以北がスコットランドとされており、この遺跡は現代でも一部残っています。エジンバラEdinburghが首府、グラスゴーGlasgowが最大の工業都市です。




最北のインバネス空港から西方約50キロに半島のように大西洋に突き出た大きな島がIsle of Skyeアイル・オブ・スカイで、現在ではスカイ・ブリッジで本土と結ばれています。島内最大の町ポートレエPortreeでも人口二千人強で、私が滞在したスリガッチャンSligachanは地図では町として記載されていますが、実質的にはホテル一軒だけの村といった感じです。スリガッチャン周辺の風景を六枚のスライドでご覧下さい。写真でお分かりのようにスカイ島は荒野と山岳、そして入り江が複雑に入れ込んでいます。低地は泥炭層に覆われ、ヒースの紫の花が咲く頃は美しい風景を見せますが、海抜2,3百メートル以上は草木が全く育たない岩石地帯の荒涼とした風景が特長です。

スカイ島とスコットランド民謡「マイ・ボニー」
My Bonnie lies over the ocean
My Bonnie lies over the sea
My Bonnie lies over the ocean
Oh bring back my Bonnie to me
Bring back, bring back
Bring back my Bonnie to me, to me
Bring back, bring back
Bring back my Bonnie to me

この哀愁を帯びたスコットランド民謡を耳にしたことはありませんか?・・・この歌の中のmy Bonnieとはスコットランド王国の再興を夢見て、スコットランドの人々を率いてイングランド王国軍と戦ったBonnie Prince Charlie ことジェームス二世の孫Charles Edward Stuartのことです。しかし戦いに利なく、1746年、インバネス近郊のカロデンCullodenで敗北し、スカイ島に逃れます。この時、島の娘フローラ・マクドナルドFlora MacDonaldはチャーリー王子を洗濯娘に変装させてイングランド兵士の追及から逃します。やがて王子はフランスに亡命、二度とスコットランドの土を踏むことはありませんでした。



私の美しい人は海の彼方にいる・・・私のところに連れ戻しておくれ」という反復されるフレーズの中にはフローラやスコットランドの人々の思いが込められているようです。
1962年にビートルズのバックバンドでトニー・シェリダンが歌い、大ヒットしました。当時の英語の教科書にも採録され、歌った記憶のある方も多いでしょう。

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富良野・日高の原生林・そしてサラブレッド銀座へ・・・

2007-08-25 10:46:43 | Weblog
今回紹介するドライブルートは通常の観光ルートから外れています。しかしアイヌの人々の生活を偲び、北海道開拓の歴史を触れることのできる最も北海道的で、究極のドライブルートと言っても過言ではありません。



 石狩山地と夕張山地の狭間に広がる盆地、それが富良野です。広大な農地が広がる雄大な風景は開拓者の血と汗が作り上げたものです。メインの国道237号はその狭間を流れる空知川沿いに走りますが、そこを外れ十勝岳、富良野岳の眺望を楽しみながら富良野盆地の東の縁を真っ直ぐに走る通称斜線道路と呼ばれる県道298号のドライブはいかがでしょうか。


 そして、日高山脈の南に広がる原生林に覆われた、アイヌの人々の故郷とも言える丘陵地帯を延々80キロに渡って走るのが幻のルート・県道71号線です。この道路沿いには、入植者たちが切り開いた小さな集落が点在するのみで、キタキツネやエゾシカに出会うことがあっても、人に出会うことは希であろうと思われる原生林の中を走ります。ルート最後には名だたる牧場が10キロに亘って連なる、サラブレッド銀座と呼ばれる牧歌的な風景の中のドライブが待っています。



出発:旭岳温泉
    旭川旭岳温泉線を20キロ走行。
 志比内小学校
 213号線はここで左に。道なりに10キロ走行。
 北美瑛駅
 富良野線を渡り、237号線に左折する。20キロ走行。
上富良野駅
    富良野線を渡り、自衛隊駐屯地に脇を通り、県道298号線(斜線道路)を直進する。直線道路。富良野岳の裾野を走る18キロ走行。途中、小学校、中学校があるのでスピードの出しすぎに注意。
 鳥沼公園 
 東九線に。


    ここから県道253号線となり、直ぐに右に国道237号線方面へ曲がるが、そのまま直進、狭い一車線道路の東九線に。根室本線線路沿いを進み、県道544号線に入る。14キロ走行。
 国道38号・237号交差点    
国道38号・237号へ左折、8キロ走行
東山やなぎ
    信号を右折、橋を渡り38号線と分かれる。28キロ走行
占冠
    14キロ走行。
 日高
    日高峠を越え、14キロ走行。
振内
    (そのまま237号を行けば10キロで二風谷)信号を左折、橋を渡り。県道797号線に。狭い一車線の山道。対向車に注意。6キロ走行
10貫気別小学校
    交差点を直進し県道71号線に。71号線旭・三和・正和(33キロ)、新和・美宇・太陽・若園(35キロ)キタキツネやエゾシカの姿を見ることがあっても、人に出会うことはまずないというドライブとなる。
11若園
ここで71号は左に折れ、新冠川を渡るが、直進して新冠川沿いに進む。やがて左右に連続して牧場が連なる。北海道の牧歌的な風景に感動する。9キロ続く通称サラブレッド銀座を左右の牧場の間を走る。振り返ると幌尻岳を中心とした日高山脈が連なる。






12 新冠町



    国道235号線を右折。35キロ走行。
13日高町
沙流川橋を渡り、国道237号線に右折、1キロ走行。
14日高富川I.C
    日高自動車道を35キロ走行。
15 沼ノ端東I.C 
   苫小牧フェリー36号を8キロ東に。千歳空港へは日高自動車道、千歳I.Cを経て。
到着:苫小牧フェリー港
到着: 千歳空港 

参考情報
*シャクシャインの戦い
日高山脈の緩やかな裾野が太平洋岸まで広がるこの地域は沙流川、新冠川、静内川などが太平洋に注ぎ、大量の鮭が遡上し、昆布などの海産物に恵まれ、丘陵の原始林には熊、鹿、鷲などの獲物が豊富で、アイヌの人々が豊かな生活を送っていた。また、余分に取れた海産物を小船に載せ、南部藩、津軽藩、久保田(秋田)藩まで出かけ、米、漆器、鉄製品などと物々交換をしていた。松前藩は、アイヌとの交易権を家臣の知行として与え、アイヌの人々が他藩と自由に交易することを禁止した。一方的に定められた当時の米と干し鮭の交換レートは、蝦夷俵(本土の半分30キロ)一俵に干し鮭100匹、現代の市場価格、米10キロ3,000円、干し鮭一本3,000円で換算比較してみると、30,000円の米を購入するのに、アイヌの人々は100,000円相当の干し鮭を支払っていたことになる。
ところが、1669年に財政が窮乏した松前藩は、この交換レートを一挙に3倍に上げた。これがアイヌウタリ(同胞)の激しい怒りを巻き起こし、静内地方のアイヌの長シャクシャインに率いられたアイヌと松前藩との戦いが勃発した。戦い当初はアイヌ勢優勢の内に進んだが、弓矢、刀で戦うアイヌたちに対して鉄砲を備えた松前藩の武士団に圧迫されるようになり、講和を持ちかけた松前藩の謀略でシャクシャインは暗殺され、この戦いに敗北した。
*北海道開拓
吉永小百合主演の映画「北の零年」には明治5年北海道開拓に将来を託した徳島藩の武士とその家族592名の苦難が描かれているが、彼らが上陸したのが新ひだか市(旧静内町)で、その跡地が県道71号線に面する静内にあり、史跡となっている。これが北海道開拓の始まりと言われている。日高山脈の南麗に広がるこの地域は、雪が少なく、冬は比較的温暖で、夏は涼しく北海道では住みやすい地域といわれる。また、静内には宮内庁御料牧場があり、終戦後樺太から本土に引き揚げた人々に御料牧場周辺の国有地を開放しことが、この地区に牧場が集中している理由である。「ナリタブライアン」をはじめ、日高は「優駿のふるさと」として全国に名を馳せているが、競走馬の70パーセントを生産している。



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旭山動物園、大雪山国立公園を訪れる・・・北海道ドライブ(3)

2007-08-18 05:54:09 | Weblog
オロロンラインをドライブ



旭山動物園が注目を集めるようになり、大雪山国立公園方面への旅にもう一つの魅力が加わりました。今回は留萌で一泊、そこからの旭山動物園を訪れ、旭岳温泉(旧涌駒別温泉)に一泊するルートを紹介します。深川留萌自動車道が留萌近くまで延長され、無料で供用されていますので、道央道を使わないでも、国道12号線経由で二時間少々で旭川まで行けるようになりました。  
深川市は北海道有数の米作地帯、深川留萌自動車道からの景色も、北海道のイメージとは異なる稲作地帯の中のドライブです。国道12号線に面している道の駅「ライスランドふかがわ」は名前が示すように北海道の銘柄米「ほしのゆめ」や「きらら397」をはじめとして、近隣の農作物が並び、食堂も完備、観光客だけでなく、地元の買い物客で賑わっている大型店舗です。
 
12号線を旭川へ向かい、並行する道央道と別れると直ぐ、アイヌの聖地、神居古潭(かむいこたん)があります。大きな駐車場があり、一見の価値のある景勝地です。歩道を巡ってアイヌが聖地として崇めた渓谷美を鑑賞しましょう。ここから30分足らずで旭川です。旭山動物園へ行くには、道央道旭川北I.Cで降りるのが一般的なルートですが、下に紹介した一般道を利用するルートも十分その価値があります。



出発:留萌
    233号線を5キロ走行。
 深川留萌自動車道を40キロ走行。片側一車線の自動車専用道路。
 深川西I.C
直進すると道央道に合流するので、深川市内に降り、深川駅に向かって6キロ。駅前通を右折、3キロ走行。
 道の駅「ライスランドふかがわ
    国道12号線を旭川方面へ9キロ走行。
 神居古潭    
神居古潭見学後、12キロ走行。12号線はバイパスに分かれるが、本道を進む。


 旭川大橋手前の台場4乗通信号
    旭川環状線(県道90号)へ右折、道なりに進む。動物園作成の動物園にくるにはを参考に。市内を大きく迂回するが、旭山動物園への標識が完備して、分かりやすく、市内渋滞を避けることができる。6キロ走行、最初の橋「雨紛大橋」(美瑛・富良野方面へ向かう237号線と交差)」を渡り、3キロで二番目の橋「ツインハープ橋」を渡る。2キロ走行。
 旭川旭岳温泉線交差路
    交差点を直進、3キロ走行。
 県道140号
    右折して、4キロ走行。
到着:旭山動物園
    往路を戻る。
 二つ目の信号
    左折し、県道37号を6キロ走行。
 東旭川町旭正
    信号で左折して、旭川旭岳温泉線に入り、道なりに約30キロ。人造湖を過ぎ、深い樹木の中をカーブの連続する急坂を上るが、ドライブは快適。キタキツネの姿も見ることができる。海抜1000メートルの旭岳温泉に到着すると、旭岳が正面にその山容を見せてくれる。
到着:旭岳温泉

 北海道最高峰「旭岳2,290m」に登りました。冒頭の写真は頂上からの風景です。90キロ先に暑寒別岳が写っています。旭岳温泉駅から終点姿見駅までロープウエイが15分おきに運転され、1700メートル付近の姿見の池周辺の散策を楽しむ方を多く見受けました。姿見駅から旭岳山頂まで登り2時間30分、降り1時間30分で、ガレ場の連続なので完全な登山準備が必要です。










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札幌と留萌を結ぶオロロンラインを往く・・・北海道ドライブ旅行(2)

2007-08-12 15:13:37 | Weblog
フェリーで行く思い出の北海道旅行



日本海の夕日が見事な道、断崖絶壁を縫うように走る道、オロロン鳥が住む天売島を望む道、ニシン漁で賑わった道、そして江戸時代に秋田藩士が辛苦を重ねながら辿った道・・・北海道でも最も遅く開かれた秘境の道でもあり、北海道の歴史を刻む道でもある国道312号線を往くドライブを紹介しましょう。 今年の7月に出かけたルートを逆の行程で推奨します。



2013年6月、滝川付近を走る列車の車窓から増毛山地を撮った写真と合わせてご覧ください。オロロンラインはこの山々が日本海に落ち込む険しい断崖に沿って走ります。





出発:苫小牧フェリー港
 フェリー乗り場から36号を8キロ東に。
 沼ノ端西I.C(日高道)
    日高道から4キロで道央道へ。
 東苫小牧I.C(道央道)
    千歳空港を右手に見ながら12キロ走行
 千歳I.C (道央道)
    空港から4キロでI.Cへ。北広島市を経て、札幌市内を43キロ走行
 札幌北I.C (札幌道)
    I.Cを降り、創成川通り(231号線)を9キロ北上


 茨戸橋 (231号線)
    橋を渡り、337号線と合流。左に曲がり、直ぐに花畔大橋で右折、8キロ走行。
 石狩川河口橋 (231号線)
    丘陵地帯を北上。海水浴場を通りすぎる頃から、民家が少なくなる。22キロ走行。
    海水浴シーズン中の休日は渋滞。
 厚田村 (231号線)
    増毛山地の南端にかかり、海岸沿いに六つのトンネルを通る。27キロ走  行。毘砂別展望台へは送毛トンネル手前で旧道に。
 浜益村 (231号線)
    ここから暑寒別天売焼尻(しょかんべつてうりやぎしり)国定公園の一角  となる。増毛山地最高峰の暑寒別岳1,491mが日本海に落ち込む海食崖が増毛まで40キロのわたって連続する。20キロ走行。
 雄冬(おふゆ)(231号線)

    陸の孤島と言われた小さな漁村。白糸の滝の先に雄冬岬展望台への取り付け道路がある。夜間は通行禁止。22キロ走行。
10 増毛町 (231号線)
    市街地townマップを参照。19キロ走行。
到着:留萌 (231号線)
    留萌観光案内ホームページを参照。



オロロンラインのドライブでは、留萌で新鮮な寿司を味わうこと、増毛の秋田藩元陣屋を訪れ幕末の歴史に触れること、雄冬岬展望台から夕日をみること、という三つの目的がありました。しかし、当初、予期しない出会いや感動、収穫があるのが旅の醍醐味です。現地に行って初めて知ること、体験することもありました。これが再び、同じルートへの新たな挑戦となるのです。

○ 留萌の寿司は期待以上のものでした。
7月は留萌ではウニの収穫の最盛期であること・・・留萌の寿司組合のホームページで知っていましたが、立ち寄った丸喜寿司のカウンターでご主人と関西からやってきた若い夫婦のウニ談義から、ばふんウニの方がむらさきウニより味が濃厚であること、生ウニを少し焼くことで風味がガラリと変わるということ、ウニを鍋物に加えると更にウニの味を引き出せることができることを知りました。
カウンターで食べた握りは、ウニ2貫、ヒラメ、赤貝、蛸、アワビ、エビを1貫ずつ、留萌近海の地のものへのこだわりが、味・香り・食感の全てに凝縮されていました。最後に出された魚のあらの吸い物も薄味の塩味にあらの味がよく引き出されていました。これで2,500円、大満足でした。ドライブ途中の立ち寄りでしたので、酒とともに味わえなかったのがくれぐれも残念、来年もう一度留萌に来て、酒とすしを賞味しようと丸喜のご主人にホテルも紹介してもらいました。

○「元陣屋」のニシン漁関係の資料も充実していました。

増毛町の文化交流施設内に郷土資料室として設置されている「元陣屋」は秋田藩の元陣屋関係の資料だけでなく、ニシン漁関係の展示も数多くありました。増毛の日本海沿いの海岸は権利関係が細分化した漁場になっていたこと、場所により当たりはずれがあったことを知りました。印象的だったのは、ニシン番屋に飾られていたという「定め」と書かれたそこで働くヤン衆の名前一覧を記した一枚板の看板です。毎年、漁期が始まると表面を削り、新たなヤン衆の名前と役割分担を記して番屋に掲示していたとのことですが、この昭和31年の日付の「定め」は二度と更新されることなく、今は資料館に飾られているのです。
 しかし、これらの情報は案内をしていただいた資料館の学芸員の方のご説明がなかったら知ることなく見過ごしたままになったでしょう。

○ 増毛の造り酒屋に小学生の団体客が訪ずれていました。


日高にいる親戚から増毛には有名な酒蔵があると聞いていましたが、丸喜寿司のご主人から「國稀(くにまれ)」という銘柄だと教えらました。留萌からは20分足らずで増毛に到着です。國稀酒造に行くと、駐車場には車が一杯、観光バスまで停まっています。店の中に湧く暑寒別岳の伏流水を汲み入れる大きな空ペットボトルを手にした地元の方、酒の試飲に列をなす観光客、そして上下白の服装をした恰幅のよい男性に率いられた社会見学の小学生の一団がテレビのクルーに取り囲まれるように酒蔵に入っています。小学生を引率していた男性に見覚えがあり、しばらく経ってからフランス料理人の三國清三氏であることを思い出しました。NHKテレビのインタビュー番組で北海道増毛出身であること話されていたことを思い出したからです。地元紹介の番組を撮影されていたのでしょう。

ところで、ここの酒が、髪が薄くなった酒好きの上司への土産として人気があるということを知りました。増毛を「マシケ」と読まず「ゾウモウ」と読んだシャレからでしょう。

参考情報
*元陣屋の歴史
 安政年間、幕府の命令でロシアの南下政策に備える軍事施設として蝦夷(北海道)に東北各藩が各地に陣屋が造営した。秋田藩はマシケを中心として周辺に出張(でばり)陣屋、マシケに元(もと)陣屋を設け、200名近い、藩士が任務についていいた。文久2年に赴任した水谷勝職は久保田(秋田市)から30日間の道中記を家族に残している。シラオイ(白老)を出発してマシケまで六泊して到着したが、その道程はほぼ今回のドライブルートと重なっている。当初予定していた濱マシケ(浜益)からの海路が風向きが悪く使えず、仕方なく選んだ暑寒別岳の山越えの道を、刀を背負い、熊の足跡に怯えながら越えた苦労を語っている。

*ニシン漁の変遷

秋田藩士松田伝十郎は「北蝦談」の中で「ここの産業として・・・鮭、鱈、鮑、海鼠(なまこ)、鱒、その他雑魚が多く・・・」と述べているが、この中に鰊(にしん)の文字はない。実は江戸時代にはニシンは雑魚の中に含まれ、重要な魚とは考えられていなかった。明治になり、富国強兵の近代化政策の中で食糧増産の必要性から、農作物の肥料としての鰊粕が脚光をあびるようになり、数の子や身欠きニシンが食料として地位を得ていくことになる。ニシン漁は明治、大正時代に最盛期を迎えるが、昭和20年頃から漁獲高に変調をきたし始め、やがて昭和30年を境に日本海沿岸からニシンは姿を消してしまった。現在ではニシンや数の子を扱う留萌の水産会社は海外から輸入に頼っており、数の子は高価な貴重な食材となっている。

*陸の孤島・・・雄冬

 美しい海岸美の誇る231号線の中でも最も代表的な雄冬地区は長い間陸の孤島と呼ばれていた。物資は一日一回の増毛からの海路を頼るほかはない地区であった。昭和56年に19年の年月をかけた工事が完了し231号線が全線開通したが、開通祝賀会を開いた40日後にトンネル崩落事故が起き、更に完成まで3年を要した。
 平成4年に新トンネルが完成し、現在のルートが供用されているが、今なお落石などの災害防止工事が行われている。詳しくは「陸の孤島物語・・・幻の国道231号」を!





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プロヴァンス・城塞都市と美しい漁村へ―南フランス・ドライブ旅行(4)

2007-07-31 10:59:32 | Weblog
 (南フランス・ドライブ旅行(4)

ドライブでなければ決して行くことができない二つのコースを紹介します。
AvignonアビニオンやArlesアルルからわずか40~50キロしか離れていない町や村を訪れるルートですが、フランス政府観光局の案内書には「公共交通機関はない」と書かれています。ツアー旅行はもちろんのこと、個人旅行者も行きにくい地で、訪れた日本人はそんなに多くはないでしょう。両コースとも、雨天では魅力が半減します。滞在型の旅行スタイルのメリットを生かし、晴れた日に出かけましょう。出発地はプロヴァンスのどの町や村でもよいのですが、本ブログではカルパントラCarpentras近郊からの出発する行程を考えます。
「フランスの道路地図を読み解く」で紹介したミッシュランのサイトを利用して説明します。



 ローヌ川の河口のデルタ地帯にある大湿原カマルグCamargueが広がります。ここに二つの魅力的な町と村が存在します。中世の城塞都市として知られるエーグ・モルト Aigue- Mortesと美しい漁村サント・マリー・ド・ラ・メールSaintes-Maries-de-la-Merです。

 カルパントラからアヴィニオン、アルルと南下して、アルルでローヌ川の西に渡り、再び南下して河口に広がる大湿原カマルグに入ります。出発地のカルパントラから100キロ、2時間のドライブです。
  
 サント・マリー・ド・ラ・メールに向かってドライブしますが、12キロ手前で西へ、19キロ先にあるエーグ・モルトに立ち寄ります。
 カマルグの農村地帯を行くこのルートは稲作地帯を走る平らで直線道路を走ります。農産物の販売所がところどころにあり、Riz(米)の看板が多くなり、日本の田園地帯を行く懐かしさがあります。快適なドライブですが、単調であること、濃霧が発生しやすいことに注意します。
 
ミッシュランのサイトを開きます。(操作方法は前回のプログを参考にしてください)。出発地Carpentras,到着地Saintes Maria de la Merを入力、検索を押します。次のページで注意します。実はSaintes Maria de la Merという名前の村は、フランスの各地にあります。その候補地が示されますので、Bouches du Rhone県のSaintes Maria de la Mer、この場合は先頭の1を選んでクリック、カマルグのSaintes Maria de la Merへのルートが表示されます。

緑旗  出発地点はカルパントラ中心街 
  カルパントラを出ます
  ラウンドアバウトで二番目の道路D942を進む
  D225に入る
  D570Nに入る
  アヴィニヨンを通過
  N570に入る
  Rognonasロニョーナ通過、Arlesアルル通過
  高速道N113・E80 でローヌ川を西に渡り(3.5k)、SORTIE 4でSaintes-Maries-de-la-Merサント・マリー・ド・ラ・メール方面へ降りる
  ラウンドアバウト4番目出口をD570で一路サント・マリー・ド・ラ・メールへ。
10 35キロ走行、サント・マリー・ド・ラ・メールに
赤旗  到着です。中心部地図が表示されています。



 MICHELIN Provence Camargue 113 ZOOM(紀伊国屋書店新宿本店1680円。TEL03-3354-0131 FAX03-3354-0275)で確認します。D570に入って25キロ進むと、右にAigue- Mortesの標識があるD38/D58があります。19キロ走行すればAigue- Mortesエーグ・モルトに入ります。城塞は町の南です。エーグモルトを見学し、そこからサント・マリー・ド・ラ・メールに回るようにします。復路は往路を戻ります。


エーグ・モルト Aigue- Mortes



 12世紀に建てられた中世の城塞都市エーグ・モルト Aigue- Mortesは1248年に第7次十字軍として、この港から1500隻の艦船と35,000の兵員が出帆しています。しかし海岸線の後退で港としての機能を失ない、砂地の中に取り残され、それが幸いし、昔のままの姿を現代に伝えています。
 城塞は中世のそのままの姿を留めています。城塞の中に町があり、現在も多くの人が住んでいます。町を囲む城壁は40分くらいで一周でき、町の家々を見下ろしながら、人々の生活を垣間見ることができます。


 エッグ・モルトの城壁には三つの見所があります。北西の角の搭は昔の牢獄で、宗教戦争の際、ここに新教徒が幽閉されましたが、女性マリー・デユランは解放されるまで実に38年間ここに幽閉され、彼女が彫ったと伝えられる「Register抵抗せよ」という文字が今でも残っています。
塩Sel」に因んだ二つの場所をぜひ訪れてください。北面中央の塔は、宗教戦争の時に、兵士達の死体を放り込み、大量に塩で保存したところです。また、南の城壁から地中海方面を眺めると、盛り上げられた塩の山が望めます。この塩田で作られた塩は、「フランスの天日塩」として日本でも販売されています。

サント・マリー・ド・ラ・メールSaintes-Maries-de-la-Mer



 カマルグの湿地帯の先端にあり地中海に面する美しい漁村であり、同時に観光の中心地。聖母の妹マリアに由来する伝承の地で、巡礼の祭りの際にはたいへんな賑わいとなります。

 ここの教会はこの小さな町の中心にあり、まるで城のような造りとなっています。中世は海賊等が横行した時代で、ここに村人が避難する城としての役目を兼ねていました。窓のない厚い壁で覆われた教会内は、聖母マリーを祀る蝋燭の火が、わずかな明かりとなっており、厳粛な雰囲気を醸し出しています。細い階段を上がると、教会上部に上がることができ、ここから地中海と村を一望できます。

 
 海岸にはメーンストリートの海岸側にインフォメーション・センターがあり、町やカマルグに関するパンフレットが置かれています。この前からは遊園地で見かける観光用の路面電車(バス?)が出ています。メインストリート沿いにはレストランが数多くあり、ムール貝とブイヤベースのスープなどの海鮮料理は日本人の口に合います。








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安全なフランス・ドライブを楽しむには――南フランス・ドライブ旅行(3)

2007-07-19 15:00:56 | Weblog


今回はフランスでのドライブ事情を紹介します。フランスに観光ドライブに出かける外国人の数はイギリス人が圧倒的に多いでしょう。そのため、イギリスにはフランス旅行関係のサイトが数多くあります。
 では、イギリスのサイトを参考にして、フランス・ドライブで気をつけたいことをお話しましょう。




 あるイギリスのサイトでは、次の言葉で始まっています
The rumours you heard about driving in France are all true!(あなたがフランスでのドライブに関して耳にしている噂は、すべて真実です)」
 ではどんなうわさを耳にしているのでしょうか。
フランス人は制限速度を守らない
フランス人は道路をラリーに使っている
フランス人は車間距離を守らない
フランス人はやたらにホーンを鳴らす
 
 映画「プロヴァンスの12ヶ月」を見られた方は、老婦人が猛烈なスピードで田舎道を飛ばすシーンを覚えておられるでしょう。あのシーンは決して映画だけのことではありません。中央線の引かれていないそんなに広くない田舎道で100キロ近いスピードの対向車とすれ違う恐怖をなんども経験しました。右に寄せすぎて側溝に脱輪しないように、運転席から自分の車のボンネットのどの位置の延長線に右側の側溝の位置があるか絶えず意識して走りました。
 
 ルベロンドライブの帰り、ミュールMur越えでカルパントラに戻るとき、カーブというカーブはタイヤのブレーキ痕で真っ黒・・・前日の日曜日、滞在するSt. Didier(サン・デイデイエ村)の小学生が猛スピードで村を通り抜ける何台もの車に声援を送っていましたので、その時のラリーまがいの運転をしていた車が付けた痕跡でした。決して土日や休日には山道を走らないことです。

 フランスの農村地帯のブドウ畑やひまわり畑、牧場の間を走る道路は、快適です。周りの景色を楽しみながら制限速度で走っていると、いつの間にか後ろにビッタと車を付けられてしまいます。また、ラウンドアバウトでモタモタしようものなら、すぐホーンを鳴らされてしまします。まさしく“The rumours you heard about driving in France are all true!”なのです。
  

 もうひとつ注意したいことは、フランスの”priorité a droite゛というルールです。‘右側に優先権あり’というこのルールは、都市の信号機のない十字路では右側から入る車に優先権があるということですが、見通しのよい田舎の道などを走行しているとき、右側の細い道から突然、この優先権を主張して飛び出す車があり、これが多くの事故の原因となっています。前方に右側から近づいてくる車を見ましたら、スピードを緩め、いかなる場合にも対応できるようにすることが大切です。
 
 しかし、感心したこともあります。フランスではサイクリングを楽しむ人が大変多く、ドライブをしているとカラフルな服装で走るサイクリストによく出会いますが、どの車のドライバーも彼らには敬意を払います。山道でゆっくり登るサイクリストがいれば、かれらの合図がなければ、決して追い抜こうとしません。これは、第二次世界大戦でフランスが占領された時、サイクリストが国内中からドイツ軍の情報を集めていたという歴史があるからでしょうか・・・。



 最後にイギリスのサイトのアドバイスを記しておきます
速度制限を守る
地方道を運転するときは、十分ドライブに注意する
判断に迷ったら、スピードを落とすか、停める
ホーンを鳴らされても決してパニックに陥らない
ドライブ前には地図でルートを確認しておく

なお、日本にはないために、通行にまごつくラウンドアバウトの通行方法を、イギリスのWIKIPEDIAにリンクを貼っておきますので、ご覧下さい。ページが開いたら、ラウンドアバウトを通過する車の様子をカラー動画で表示しています。但し、イギリスは日本と同じ左側走行ですから、フランスの右側走行に置き換えて見ましょう!

文字標識の例:
・ Aire – サービスエリア ・Aire de Repos – 休息エリア(トイレ) ・Bouchon – 渋滞・ Cèdez le passage -道を譲れ ・Centre ville – 市内 ・L'essence – ガソリン・  Gazole –軽油 ・Gendarmerie –警察 ・Route barrèe – 通行止め・ Toute Droit – 直進 ・Travaux –工事中・ Vous n’avez pas la priorité – 優先権なし(ラウンドアバウトでー他車に優先権あり)





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プロヴァンス観光のプラニング――南フランス・ドライブ旅行(2)

2007-07-13 14:33:38 | Weblog


プロバンス滞在型のドライブ旅行では、どこに滞在するかどこからドライブを開始するかどこを訪れるかを決めなければなりません。
 では、私のプラニングを紹介いたします。写真は滞在したカルパントラCarpentras近郊のブドウ畑です。


滞在地はカルパントラCarpentras近郊に
 一週間のプロヴァンス滞在の拠点として、カルパントラ周辺を考えました。プロバンス地方観光の足場として、どの観光地にも一時間半のドライブで行けること、シャトーヌフ・デユ・パッフ゜Chateauneuf-du-Papeに代表されるコート・デユ・ローヌ・ワインのブドウ畑が周辺に広がる田園地帯にあり、人口が少ない村々が点在し、また、そして標高1,909mのヴァントー山Mont Ventouxが北東にそびえているロケーションは、山がドライブの道標となります。
カルパントラ周辺、南にある町ペルネ・レ・フォンテーヌPernes-les-Fontaines周辺のホテルやコッテージをインターネットで調べ、ペルネの隣村、人口500人ほどの小さな村サン・デイデイエSt. Didierのコッテージを借りることにしました。



出発はリオン市内 パル・デユ―(Part Dieu)駅
 エールフランスでシャルル・ドゴール空港に到着、当初は国内線に乗り換えてリオン近郊のサン・テグジュペリ空港からレンタカーで出発することを考えましたが、エールフランスの航空券で高速鉄道TGVが利用できることを知り、風景を楽しみながらの快適な列車の旅を選びました。
リオン到着は夕方なのでその日は1泊し、次の日にレンタカーをパル・デユ―駅で借り出し、プロバンスへ・・・一週間滞在後、リオンへ戻り、2泊し市内観光、パリから帰国という11日間(機中1泊)のプロバンス・ドライブ旅行です。
(ホテル、TGV、レンタカーの借り出し、リオンからのドライブルートなどは次回詳しく報告します)

訪問する観光地は、1日2ヶ所に限定 
ゆっくりとプロバンスを楽しむ・・・これが今回の旅のテーマです。訪問する場所は隣り合った2つの観光地を1日のコースに組み込むだけ、歩きながら、買い物をしたり、見学したり、食事をしたりと、ゆっくりと、時間を十分かけて、思い出が残る旅行にしたい・・・それがプラニングの方針でした。

プロバンス地方は、ローヌ川の河口に広がるカマルグ(Camargue)地方も含めて、見所がたくさん在り、フランス政府観光局で頂いた「FRANCE フランス旅の手引き」「PROVENCEプロヴァンス」、そして東京で購入したミッシュランの道路地図MICHELIN Provence Camargue 113 ZOOMを見ながら、次のAーFの6つの組み合わせを考えました。(この道路地図については次回に触れます) 
ホームページや写真にリンクを貼っておきましたので、ご覧ください

 Aコース



△ オランジュ Orange
ローマ時代の古代劇場Theatre antiqueが有名。ほぼ当時の姿と機能を伝え、音響効果は現代の劇場にも匹敵する。七月にここで開催される音楽祭には世界中から音楽ファンが集まる。
△ ヴェゾン・ラ・ロメーヌVaison-la-Romaine
 フランスのポンペイといわれるローマ時代の町の遺跡が数多く残る小さな町。ローマ橋は現在でも使われている。中世の廃城から町を一望できる。

 Bコース



アヴィニオンAvignion

ヴォークリューズ県の県都。アヴィニヨンの演劇祭などが開かれる文化の中心地。14世紀には法王庁が一時置かれていた。ローヌ川に架かる橋は童謡「アヴィニオンの橋の上でSur la Pont de Avignion」で世界中の子どもにも知られている。
     △ ポン・デユ・ガールPont du Gard
 ヨーロッパ各地に現存するローマの水道橋の中で、ガール川を渡るために立てられた橋はほぼ原形を留め、周辺の風景とマッチして美しい。

 Cコース




△ アルルArles
ローマ植民地時代には首府となり、円形闘技場、古代劇場、浴場など多くの遺跡が残る。ゴッホがここに滞在、「跳ね橋」「夜のカフェ・テラス」などの作品を描いた。
レ・ボ・ド・プロヴァンスLes Baux-de Provence
白っぽい石灰岩でできた大地にある人口500人ほどの小さな村。特異な風景と村にある有名レストランに魅せられ、多くの観光客が訪れる。

 Dコース



△ エーグ・モルトAigue Morte
ローヌ川の広大なデルタ地帯カマルグに隣接する12世紀の城塞都市。地中海に面した都市が海岸線の後退で港としての機能を失ない、砂地の中に取り残される。それが幸いし、往事のままの姿を現代に伝える。
△ サント・マリー・ド・ラ・メールSaintes-Maries-de-la-Mer
  カマルグの湿地帯に先端にあり地中海に面する美しい漁村であり、同時に観光の中心地。聖母の妹マリアに由来する伝承の地で、巡礼の祭りの際にはたいへんな賑わいとなる。

 Eコース



△ リール・シュル・ラ・ソルグL’Isle-sur-la-Sorugue 
ソルグ川の中州に発達した町。水車を動力とした製紙、革製品で栄えた。アンテイ―ク市場でも知られる。毎日曜日に開かれる市(いち)の日jour de marcheには近隣からも買い物客が集まる
△ フォンテーヌ・ド・ヴォクリューズFontaine-de-Vaucluse
「ヴォークリューズの泉」。世界第五位の涌水量を誇る。標高230メートルの断崖の下から忽然と湧き出す涌水はエメラルド色で、神秘的。廃城が背後に聳え、みやげ物店、レストランも川沿いに建ち並ぶ。

 Fコース



「プロバンスの十二ヶ月」で描かれたルベロン地方周回山岳ドライブ
ゴルドGordes
 城壁が山頂にある急峻な斜面に階段状に家々が建てられ、政治家、文化人の別荘も多く、オリーブ、アーモンドの木々に囲まれた美しい村。
また、フランス人の祖先が住んでいた石の家「ポリーの村」も訪れたい。
 
△ ルション Roussillon
オーク採掘で栄えた村、家々がオークで作られ、黄色や鮮やかな赤色で村全体が絵の具で描かれたよう。

セナンク修道院Abbaye de Senanque
1148年創立のロマネスク様式の修道院。簡素で厳粛な建物は、夏になるとラベンダーに囲まれる景観は見事。ゴルドの北の渓谷にある。





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プロヴァンスの七日間――南フランス・ドライブ旅行(1)

2007-07-08 16:44:08 | Weblog



 
 ずいぶん前のことですが、前英国の作家ピーター・メイルの「 A Year in Provence-プロバンスの12ヶ月」が人気を博し、映画化もされ、日本でも放映され、ご覧になった方もあるでしょう。プロバンスのリュベロン地方の小村に移住したイギリス人が、カルチャーショックを村の人々とのふれあいを通して乗り越えている様子を、ユーモアーたっぷりなタッチで描いていました。
 温暖な気候、美しい自然、おいしい食事とワインがあるプロバンスはイギリス人にとって憧れの地、ここに別荘を購入することがステータスシンボルになっており、南フランスの物件をイギリス人に紹介する不動産季刊誌もあるくらいです。


 フランス・ドライブ旅行は、一回目は各地を渡り歩くワンダーフォーゲル(渡り鳥)型のドライブ旅行、二回目は一箇所に居を構え、その周辺の観光地を訪れるという滞在型の旅行スタイルでした。「A Week in Provence-プロバンスの7日間」を紹介しましょう。
 先頭の写真は7日間滞在したSt. Didier(サン・デイデイエ村)、遠くに見える山がMont Ventoux(ヴァントー山-1909m)です。



滞在型ドライブ旅行のメリットは?
滞在型のドライブ旅行は次の5つのメリットがあります。
☆ 荷物は滞在ホテルに置き、空の車で気軽に旅行できます。観光地での車上荒らしに会う危険性が少なくなります。
☆ 一週間だけですが、それでもその滞在地で生活するのですから、現地の方と交流でき、町や村を深く知ることができます.
☆ 滞在地から同じ道路を何回も通ります。道路の運転にも慣れ、安心安全なドライブとなります。
☆ リュベロンやカマルグを訪れるには晴れた日のドライブが理想です。一週間の中で、天候に応じて、コースを組み替えることができます。
☆ プロバンスの最大の見所、マルシェ(Marche)を堪能できます。マルシェ(マーケット)は町や村によって開かれる曜日が決まっており、色々な町・村のマルシェで買い物を楽しめます。

まず、NHKラジオ講座で初級フランス語の勉強
 最初のフランス旅行では日仏旅行会話の本を手に、カタカナ発音で大丈夫だろうと気軽な気持ちで出かけましたが、まったく通じず、道もまともに尋ねられなかったという失敗を経験しました。殊に困ったのが、地名の発音です。文字を見てもまったく音に出せないのです。パリ市内にレンタカーで乗り入れ、道路地図頼りにホテルに行こうとしましたが、道に迷いお手上げ・・・通りかかった女性に地図とホテルの住所を示して尋ねましたが、私の英語も通じず、業を煮やした女性は私の車に乗り込んで、「A droite! (右へ)A gauche!(左へ) 」と指示を出しながら、一緒にホテルまで行ってくれました。

 毎回フランス人の好意に甘えてばかりはいられません。前回のドライブ旅行では一年前からNHKラジオ初級フランス語講座で学習することにしました。NHK講座は四月から九月までの六ヶ月で終了します。そして十月から翌年の三月までは、新たな内容で、指導陣も代わり、再び初級講座が始まります。出発までにこの初級講座を2度聞ききました。・・・その結果、カタカナ表示の旅行会話をフランス語に近い音で発音できるようになり、地名もほぼ読めるようになりました。



 NHK講座と並行して、出発直前の二ヶ月前からは、日本語⇒英語⇒フランス語という対訳旅行会話読本を覚えました。勿論、全部はとても覚え切れませんので、必要になるであろうと思われる会話表現だけを選び、場面を想像しながら口ずさみ、暗唱しました。学生時代に「Learn a little, and use it a lot.(少なく覚えて、たくさん使え)」というのが外国語習得のコツだと聞いたことがありますが、それを実践したわけです。



フランス地図を眺める


 地図を眺めるのが趣味だという方が旅行好きの方には多いようです。私もそんな一人で目的地が決まると、暇さえあれば地図を眺め、夢を膨らませます。フランス全国地図で南フランスの全体を把握、大まかな訪問地を確定していくというのが私の手順です。

 フランス全国地図でお勧めしたいのは、Logis de France(ロジ・ド・フランス)の Carte routiere(道路地図)です。Logis de Franceは個人経営のホテルが加盟する上部団体で、そこが発行する道路地図を東京港区にあるにフランス政府観光局http:/jp.franceguide.com/)で手に入ります。無料サービスの上、道路だけではなく、加盟ホテルがアイコンで示されていますから、宿泊施設を決める際にも参考になります。広大なフランス全土を一枚の裏表の紙面に収めているので鳥瞰的に位置関係を把握するのには便利ですが、主要道路しか表示されていません。



Logis de Franceのホームページを覗く
 Logis de France は加盟ホテルの案内と予約をインターネット上でできるサイトを持っています。地図も組み込まれているので、フランス地図が手元に入るまでご覧になってはいかがでしょうか。
 ではホームページで今回の目的地南フランス・プロバンス地方を見てみましょう。http://www.logis-de-france.fr/fr/index.htmで開きます⇒フランス語版です。ページ右上の小さな国旗のアイコンをクリック⇒英国国旗(英語版)に。{FIND A LOGIS}下のヨーロッパ地図をクリック⇒フランスを選び、クリック→地方名が入った地図に替わります。{P.A.C.A}(Provence Alps Cote d'Azur)をクリック⇒{Vaucluse}をクリック⇒ここでようやく地図が表示されます。
 この地図の中に今回紹介する「プロバンスの7日間」の旅で訪れる主な場所の全てが入っています。地図を拡大・縮小したり、移動したりして、楽しんでください。また、Vaucluse県内にあるLogis de France加盟ホテルの位置がアイコンで示されていますので、アイコンをクリックして加盟ホテルの紹介を読むのも楽しいものです。宿泊料金、部屋の様子、アクセス、周辺の見所などが分かります。


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火山ルートをドライブ・・・草津温泉から軽井沢へ

2007-06-19 11:05:54 | Weblog


草津温泉から白根山、万座温泉、嬬恋村鎌原(かんばら)観音堂を訪れ、浅間山の裾野を周り、白糸の滝への往復のウオーキングを楽しんだ後、軽井沢を経て、東京に帰るドライブを報告します。

白根山は活火山 
 草津温泉から白根山を目指します。シラカバの新緑を楽しみながら気持ちよいドライブを20分ほど楽しむと、前方に火山特有の山容の白根山が見えてきます。スキー場を通りすぎると緑の木々は姿を消し、荒涼とした山肌を登っていきます。車の右側には黒い岩石が折り重なった黒々とした白根山の山頂からの尾根が続いています。
二ヶ月前にスペイン・アンダルシア・シエラネバダ山脈をドライブしましたが、幾重にも谷が重なった広大な山容のシエラネバダは小さな村を受け入れる包容力がありましたが、この白根山の風景は人が近づくことを拒絶する、まさに鬼気迫るものがあります。シエラネバダとは全く異質の火山地帯の風景に圧倒されるだけです。それもその筈で、白根山は
1882年から活動を始めた新しい火山1939年噴火では草津温泉は降灰に覆われ真昼でもランプを点ける(当時は電気ではなかった)という事態になったそうです。最近では1982年 にも活発な活動が記録されるなど、まさに現役の活火山なのです。

駐車場から湯釜へ
 頂上の駐車場(有料)からは山頂の湯釜までは立派な歩道が伸び、登り降りする観光客の列が見えてきます。二十分足らずで噴火口の縁まで往くことができ、湯釜を覗くことが観光ルートとなっており、老若男女の観光客で賑わっています。登山道の脇にはコンクリート製の火山弾を避けるための小屋があり、活火山であることを思い起こさせてくれます。1970年にはスキーヤーや登山者の亜硫酸ガスによる死亡事故があり、今日でも監視人が観光客がコースから外れないよう警戒にあたっていました。



万座温泉から嬬恋村へ
 駐車場から渋峠へ向かって10分足らずで、万座温泉への道を示す道路標識があります。左折して10分も下ると万座温泉です。冬はスキーヤーでたいへんな賑わいを見せる万座温泉ですが、訪れた6月は観光客の姿も疎らで静かなたたずまいです。草津温泉と違い、民家はなく、ホテル、旅館だけが点在する温泉地です。白根山真下に位置し、白根山の活動の際は、火山弾の被害が考えられる地域だそうです。
 万座温泉から嬬恋村まで下る道路は万座温泉を訪れるスキー客のために作られた有料道路です。バブル真っ盛りの時代に作られた有料道路で、通行料金が高いのが難点ですが、これから訪れる浅間山を彼方に見ながらのモミの林を下るドライブは快適です。下るにしたがってカーブが多くなり、やがて嬬恋村に入ります。

浅間山の天明3年の大噴火の地 
 直ぐに吾妻川を渡ります。今では静かな渓流のこの一帯は、浅間山の1783年噴火の際、土石流が鎌原(かんばら)村を飲み込み、流れ込んだ場所なのです。土石流は更に下って、利根川と合流、前橋付近でも高さ10メートルの厚さの土砂が積みあがったと言われています。利根川の下流にあたる江戸川岸にある柴又村の人々が、天明の火砕流で流れ着いた人馬を葬った慰霊碑が、映画「寅さんシリーズ」で一躍有名になった柴又帝釈天に残っています。

鎌原(かんばら)観音堂
 嬬恋村から浅間山へは国道と有料道路が伸びています。有料道路を浅間に向かうと10分ほどで左側に嬬恋郷土資料館があり、その隣が鎌原観音堂です。火砕流が押し寄せたとき、この観音堂に難を逃れるため、駆け上がったという石段は火砕流に埋め尽くされ、わずか数段を残すのみです。鎌原地区をドライブするときには天明三年の噴火で命を落とされた村人への祈りを忘れないようにしています。

浅間山の鬼押し出し
 有料道路を進むと、休憩所、火山資料館を備え、鬼押し出しに遊歩道を巡らせた鬼押し出し園にでます。初めて訪れた50年前は、この一帯は黒々した溶岩の岩山でしたが、今では草木が育ち、岩があまり目立たなくなり、月日の移り変わりを感じます。あと50年も経つと、周辺と同様すっかり高原に生まれ変わってしまうのでしょうか・・・。 ここから軽井沢の方向に進むと、食堂やみやげ物店が並び観光牧場となっている浅間牧場に出ます。ここから浅間山の裾野を登り切ると、146号線と合流、左に下る白糸ハイランドウエイとの三叉路で、ここに峠の茶屋があります。



遊歩道を歩く
 峠の茶屋から白糸の滝までの往復2時間、1万5千歩のウオーキングを楽しみました。峠の茶屋の前の10台位の車が置ける無料駐車に空きがありましたので、そこへ車を停めました。遊歩道の入り口に熊注意の立て札があり、熊避けの鈴も携帯ラジオも持っていなかったので、家内とできるだけ大きな声で話しながらのウオーキングです。途中、紫色の山ツツジが咲いていたので写真を撮ろうと林に入ったところ、動くものがいます。思わず「熊だ!」と妻に知らせましたが、カモシカであることが分かりました。向こうも慌てて、遊歩道を横切り林の中に消えていきました。それにしても熊と同じくらいの大きなカモシカでしたが、カメラを手にしていたにもかかわらず、シャッターを押すことは出来ませんでした。
 この歩道は最後の白糸の滝への降り口が急坂ですが、往路も復路も所要時間はほぼ同じ時間で歩けます。途中、私たち同様にウオーキングを楽しむカップル5組と出会いました。
 なお、峠の茶屋に駐車できない場合には白糸の滝の駐車場を利用します。



ドライブコースの所要時間
草津温泉9:30⇒10:00白根山10:30⇒万座温泉⇒11:00鎌原観音堂⇒鬼押し出し11:30⇒12:00峰の茶屋(昼食)12:30⇒13:30白糸の滝14:00⇒15:00峰の茶屋⇒中軽井沢⇒16:00碓氷軽井沢IC
(注:鎌原観音堂と鬼押出し園は時間短縮のため今回はパスしました)


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草津温泉旅館とロンダのパラドールを比べる

2007-06-11 17:59:42 | Weblog


前回、赤城山へのドライブを報告しましたが、帰りに草津温泉に一泊しました。
草津温泉を訪れるのはこれで三度目、しかし泊るのは初めてでした。
 4月のスペイン旅行から帰ってきてから最初の国内旅行でしたので、どうしても日本の旅館とスペインのパラドールの比較をしてしまいます。全くの個人的な感想に基ずく私見としてお読み下さい。
 それぞれ宿泊した大阪屋旅館パラドール・ロンダのホームページにリンクを張っておきました。ご覧下さい。

インターネット予約
 旅行の立案、予約はすべてインターネットを活用するというのが私の旅行スタイルです。大阪屋旅館もパラドール・ロンダも各部屋・施設の写真紹介、料金体系の説明などホームページの内容は大差がありません。予約後にメールで予約確認が送られてくるシステムも同じです。なんのトラブルもなく、安全確実に宿泊できました。
 パラドールの予約方法については本ブログ2010・これでスペイン・パラドールの全てがわかりますをお読み下さい。

料金
 (費用は一泊二人分、パラドール関係は1ユーロ165円換算です)
わが国の旅館の宿泊料金は一泊二食付一人分の料金が表示されますが、欧米ではツインでの一泊分の部屋代が表示されます。大阪屋旅館は季節割引料金、ロンダはパラドール五泊チケット利用の特別割引料金です。
 大坂屋旅館は、消費税、入湯税、飲み物(ビール1本、地元産ワイン小1本、酒3合)を加えては41,794円、パラドール・ロンダは税金、チップ、レストランでの飲み物(ビール2グラス、リオハワイン1ボトル)と夕食で42,500円でした。なお、朝食は近くのバールで済まし1,320円でした。
(大阪屋の料金は2007年のものです。パラドール・ロンダは当時の1€=165円換算から現在1€=115円と円高ですので大幅に安くなっています。)

食事
 日本旅館は部屋食が基本、料理はコースで運ばれてきます。コースも種類も客が選択することはできません。一方パラドールではレストランで食事を取ります。宿泊客だけでなく、一般のお客も受け入れる高級レストランが多く、メニューをじっくりと眺めて注文します。勿論、レストランで食事をしなくともそれは客の自由です。
 大阪屋旅館京懐石のコースが特色、冷たい料理は冷たい内に、暖かい料理は温かい内にと三回に分けて運ばれてきました。盛り付けと色合いの組み合わせに日本料理の特色が出ています。
 パラドール・ロンダアンダルシア地方の料理、特にRabo de Toro(ラボ・デ・トロ)という雄牛のテイルの煮込みは絶品でした。なお、スペイン料理に限らず欧米の料理は分量が多く、私たち夫婦は、スープは二人分注文しますが、その他の料理は二品、一人分を二人で分けてちょうど良い分量でした。

サービス
 大阪屋旅館の部屋担当の若い女中さんに、かねてから興味のあった江戸から草津温泉までの湯治客の行程を訪ねたところ、翌日には調べて「中仙道を経て増渕村大戸の関を通って、馬か駕籠で草津にやってきた」と教えてくれました。
 客に対するサービスはパラドール・ロンダも同様です。レストランでの夕食時、夕日を背景にした真西にある山の山頂が富士山に似ていたので「ロンダ富士だ」などと家内と山を指差しながら話していましたら、担当のcamareroカマレーロ(ウエイター)が「San Cristobal 」と書いたメモを渡してくれ、一年に2度、山の真後ろに日が沈むのだと教えてくれました。カメラを持ち合わせていなかった私にメールでサン・クリストバルの写真を送ってくれました。
(1MByteを越えているのでブログに載せられないのが残念です)

 草津温泉と言うと、メジャーな観光温泉地というイメージを思い浮かべますが、実は東京から200キロも離れた標高1200メートルの山間にあり、湯量は豊富、加熱なし、加水なし、かけ流しの、自然湧出温泉でまさしく正真正銘の温泉です。海外旅行の添乗員の多くが帰国してまず最初に考えることは温泉に入ることだそうですが、草津の湯に浸かりながら日本人であることの幸せをつくづくと感じました。 
 一方、ロンダでは素晴らしい眺望を眺めながら楽しむレストランでの夕食は忘れがたいものがありました。ロンダというと町の南にある深く切れ込んだ狭い渓谷が有名ですが、西側に広がる谷間とその奥の山々の景観も、夕日を背景にした時には、感動的な風景となります。




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☆アンダルシアへの玄関口、国際都市マラガ

2007-06-03 11:26:36 | Weblog
 日本からアンダルシアへ個人で入るにはマラガ空港利用が便利です。日本からの国際便はパリ経由でも、ロンドン経由でもマラガ到着は夜間となり、その日の泊まりと出発日前日の二日間はマラガで過すことになります。
 この美しい国際都市の情報をお知らせしましょう。マラガ紹介のホームページの写真をご覧になりながら、お読み下さい。



(パラドールから港を望む)

マラガ空港情報:
 アンダルシア個人旅行の玄関口となるマラガ空港は改修中で、雑然としています。レンタカー会社のカウンターも、ガレージに仮住まい、混雑を避けるために設けた仮のレンタカー専用レーンも分かりにくく、車も工事中で仮舗装の曲がりくねった道を走っていくという感じです。
完成は2年後ということで、当分はこの状態が続きそうです。私は空港でレンタカーを借りましたが、返却の際に専用レーンが分からず、苦労しました。市内で借りたほうが良いでしょう。レンタカー会社も営業所を市内に開設し始めました。
 また、マラガ空港の荷物受け取り用ターンテーブルがEC 在住者用、非在住者用と分けてありました。工事中のための措置か、今後も恒久的にそうなるのかは分かりませんが、在住者用は通常のターンテーブル、非在住者はガラス張りの隣接する部屋に設置してありました。

パラドール情報:
 マラガには市内に「Parador Gibralfaro」、郊外の海岸に「Parador de Malaga Golf」の二つのパラドールがあります。両者とも観光タイプの新しいパラドールですが、ヒブラルファーロはイスラム教徒の城塞に隣り合っていますから、伝統的なパラドールと言えるかもしれません。
 ここからのマラガ港、マラガ市内の眺望は天下一品で、ぜひマラガに訪れたら泊まりたい所です。このパラドールまでのタクシー料金は空港から25€位(夜間、スーツケース2個)です。タクシーの運転手に「Parador Gibralfaro パラドール ヒブラルファ-アロ」と強調してください。もう一つの「Parador de Malaga Golf」と間違われないように念を押すためです。

ホテル情報
 パラドールでの宿泊が不可能な場合は、カテドラル周辺のホテルをお勧めします。私たちが宿泊したDon Curroドン クロは三ツ星ホテルでしたが、部屋の広さは十分でなかったものの、清潔でした。観光に便利、食事は近くにバールもあるということでお勧めです。
ただし、中世の町並みが残る中心地、ホテル周辺は道路も狭く、歩行者優先で、通行禁止や一方通行規制が行われています。この狭い一方通行道路に面したホテルの玄関口にはタクシーの乗り入れも禁止されています。
交通整理の黄色い服装をしたホテル専用の係が常時ホテル前に待機して、車や客の整理に当たっていました。



(パラドールから闘牛場を写す)
 
マラガ観光情報:
 マラガの港を望む小高い丘の上に建てられたイスラム城塞alcazabaアルカザバからは丘の峯伝いに城塞が伸び、頂上にはヒブラルファーロ城があります。城は夜間照明されます。ここからは港と市内が一望でき、観光バスが訪れるここはマラガ観光の象徴と言えます。 
 車で行く場合には、丘の後ろ側に広がる市街地の複雑に曲がりくねった道路を登りますので、お勧めできません。港に隣接した公園から頂上にある城まで立派な歩道があり、20分で行けますので、こちらを利用しましょう。ここからの夜景は特に素晴らしく、市民の観光スポットになっています。
 マラガの紹介パンフレットにはここからの写真が必ず使われています。なお、パラドール・ヒブラルファーロはこの城横の林の中にあります。
 城塞周辺は公園として整備され、私が訪れた4月初旬にはブーゲンベリアをはじめ草花が咲き始め、オレンジの木が整然と植栽され、鳥が実を啄ばんでいました。
パラドールから城塞に沿った歩道を下れば、観光中心地のカテドラルやピカソの記念館(生家)までは徒歩15分です。

観光馬車に乗る 
 休日にもなるとカテドラルの前には数十台の観光馬車がでます。30分で周辺を案内してくれいます。物は試しと乗ってみましたが、車で混雑する大通りを「そこのけそこのけお馬がとおる」という感覚で闊歩していき、車のほうが避けてくれる優越感はなんとも言えませんでした。但し料金の34ユーロが高かったのか適正であったのか分かりませんが、値切ってみればそれも経験になったかと今では反省しています。



土産を買う
 カテドラル周辺にはみやげ物店が軒を連ね、バールが何軒もあり、観光客で賑わっています。リオハワインはフランス空港内に持ち込めず、スペイン名産のハム類も成田空港で認められていない現状では土産の選択に困りました。
 帰国して評判がよかったのはマラガの食料品店で買ったイチジクのドライフルーツでした。マラガは昔からドライフルーツの産地だったということを後で知りました。ただ、意外に重いのには閉口しました。

バールで食べる
 カテドラルの正面の小さな広場に面した小さなバールでは二日連続で朝食・昼食をとりました。並んでいる六種類の料理からおいしそうな4種類を選び、一番小さい皿で注文、付け合せのパンで二人で丁度良い分量でした。これにコーヒー代も入れて14€です。
 一人前14€のパラドールの朝食はバイキング方式、内容も豊富でしたが、バールのスペイン家庭料理の味付けの7€の方が、私たちの口に合いました。


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☆ 7月上旬出発、8日間、34万円の個人旅行プラン・・・ドライブ・in・スペイン(3)

2007-05-26 13:25:10 | Weblog


このドライブ旅行の特長は
まず、次のサイトを開いてください。ウベダの南端からセグラ自然公園を望んでいる写真です。まじかに見えますが、80キロ先に山脈があります。「見渡すかぎりオリーブが茂る大地をドライブ、世界遺産でありながら観光客が訪れることが少ない中世の町にタイムスリップ、スペイン最大の自然公園内にあるテンプル騎士団やイスラム教徒の城塞を持つ町や村を訪れる・・・帰路にアルハンブラ宮殿見学」という欲張った旅を実現します。
宿泊は憧れの国営宿泊施設パラドールに5泊、tarjeta de 5 noches (5 nights card―5泊カード)を使用して割引料金で泊まります。
 

日程は・・・
7月2日)成田出発11:10⇒シャルル・ドゴール空港⇒マラガ空港着21:20 (マラガ泊)
7月3日Malagaマラガ⇒Jaenハエン⇒Ubedaウベダ⇒Cazorlaカソルラ  (カルソラ泊)
7月4日Parque Natural de Cazorlaカソルラ自然公園ドライブ  (カルソラ泊)
7月5日Cazorlaカソルラ⇒Ubedaウベダ             (ウベダ泊)
7月6日Baezaバエサ・Ubedaウベダ歴史地区(世界遺産)散策 (ウベダ泊)
7月7日Ubedaウベダ⇒Jaenハエン⇒Granadaグラナダ・アルハンブラ宮殿見学
         ⇒Malagaマラガ             (マラガ泊)
7月8日マラガ空港10:00⇒シャルル・ドゴール空港⇒
7月9日成田着7:55

費用の内訳は・・・
1. 航空運賃 エール・フランス航空(7月2日成田発、7月8日マラガ発)  321,120円
2. 宿泊費用 (税込み)                       112,000円
内訳  パラドール・ヒブラルファーロ 155€(7/2) パラドール・カソルラ 180€(7/3,7/4))
        パラドール・ウベダ   180€(7/5,7/6) ホテル・ドン・クロ  120€(7/7)
3. レンタカー関係 (マラガ市内営業所で)            72,500円
        レンタカー代金(任意保険込み)  60,000円(概算)   
        燃料(ジーゼル)         10,000円(概算)
        駐車料金(5€×3ヵ所)     2,500円
4. 食事代(ワインなど飲み物、チップも含む)              139,600円
        朝食(20€×6日)       19,800円
        昼食(20€×6日)       19,800円
        夕食(100€×6日)       100,000円
5. タクシー代                         11,550円
        マラガ空港⇔ホテル(25€×2回)    8,250円
        レンタカー借用・返却⇔ホテル(10€×2回)3,300円
6.入館料  40€                            6,600円
7.雑費   100€                           20,000円 

                  683,370円 (一人当たり 341,685円)
平成19年5月24日の時点での資料に基ずくプランです。それ以降、航空運賃、パラドールの宿泊可否、料金には変動がありますので、本プログ2008年・これでスペイン・パラドールの全てがわかりますでエール・フランス航空、宿泊はパラドールのホームページでご確認ください
* 為替は1€=165円で計算してあります



ドライブ・ルート・・・
Malaga Airport Mapsを使ってルート全体を把握します。(このブログを初めてお読みになる方は、このプログの「私のスペイン・ドライブ旅行のプラニング法」でMalaga Airport Mapsの活用法を詳しく解説してありますので必要があればお読みください)
Malaga Airport Mapのページが開いたら、左側にあるMalaga Informationの項目のうち、下から5番目のMalaga Airport Maps をクリック⇒空港地図が開きます。地図左の{-}を5回クリック⇒この縮尺でMalagaマラガを左下、Googleの文字に重なるように地図を調整、更に少々下にずらすとJaenハエンが、右上(北東)にBaeza, Ubedaバエサ、ウベダが、その右下(東南)にCazorlaカソルラを見ることができます。マラガ⇒グラナダ⇒ハエン⇒バエサ・ウベダ⇒カソルラが往路です。ウベダから直ぐのTerroperogilテロペロヒルを右折してカソルラに至る道路はこの縮尺地図には出ていませんのでズームインしてください。
 復路はGranadaグラナダでアルハンブラ宮殿を見学後、地中海まで南下、Motrilモトリルから地中海沿いをMalagaマラガまで戻ります。
 なお、更に詳しいルートはAirport Mapsのズームインの機能を使い、確認してください。但し、Parque Natural de Carzola, Segura, y las Villas(パルケ・ナトウナル・デ・カルソラ・セグラ・イ・ラス・ビジャス)カソルラ、セグラ、ラス・ビヤス自然公園内の道路はカソルラのパラドールに用意してある地図を参考にしましょう。

訪れる町や村の詳しい情報を・・・
 今回のドライブで訪れる主な町や村の紹介するホームページにリンクを張ってあります。クリックして、周辺の道路地図、写真を参考にしてください。



Jaenハエン県
町の周辺からはるか彼方の山々の麓まで見渡す限りのオリーブ畑です。5000万本といわれるオリーブ畑の中に町や村が点在する風景がマラガ県なのです。オリーブは植栽されたもので、雨の少ない乾燥した荒地でも育つ特性がこの県の大地に根付かせたのでしょう。オリーブの実から精製されるオリーブ油はハエン県の経済を支えています。県庁所在地は人口11万のJaenハエンです。

UbedaウベダとBaezaバエサ
 アンダルシアで最もルネッサンス様式の建物が多いこの二つの町は、まるで中世の建物の展覧会場といえる雰囲気を持っています。
ハエンから県道を東に進んで行くと、やがて数十キロ先に二つの集落が丘の上に見えてきます。右側がバエサの町で、小さな町ですが大聖堂は特に有名です。その周辺には現在アンダルシア国際大学となっている旧神学校など、品格ある建物が配置されています。
バエサの東8キロがウベダです。ウベダの町の南端にあるサンタ・マリア広場を取り巻く建物は、アンダルシアで最も壮麗で風格のある歴史的地区といわれており、世界遺産として登録されています。この建物の一つが3番目にパラドールとなったParador Ubedaがあり、世界遺産に宿泊する贅沢を味わえます。この広場に通ずる石畳の道の両側には建物が連なり、中世の町並みそのままです。
この二つの町バエサ、ウベダは、観光客もあまり多くなく、治安も良い地域です。ゆっくりと徒歩で散策するのに適しています。但し、夏季には暑さが厳しく、午後の散策は考えものです。スペインの人々と同様にしっかりとシェスタ(昼寝)を取って、夕方に出かけることをお勧めします。



カソルラ、セグラ、ラス・ビイヤス自然公園 
小川が流れ、木々に覆われた山々、スペイン最大の自然公園です。アンダルシアの大河グアダルキビール川の源流がここです。イヌワシ、ハゲタカやイノシシ、クマジカ、スペインアイベックスの生息地です。
 ウベダの東隣の町Terroperogilテロペロヒルから右折して70キロで公園入り口の町カルソラに到着です。今回の旅ではのパラドールに二泊滞在しながら、この自然公園内の点在する23の町や村のいくつかを訪れます。
カルソラ地区ではテンプル騎士団の城塞があるLa Irueraラ・イルレラ,Puerto de las Palomasuパロマス峠近くにあるArroyo Frioアローヨ・フリオ、ビジターセンターがあるCoto-Riosコト・リオス村が観光客がよく行くところです。
 セグラ山脈の西側に位置するトランコ貯水池を通り、イスラム教徒が築いた城塞のあるHornos de Seguraオルノス・デ・セグラSegura de la Sierraセグラ・デ・ラ・シエラも人気があります。湧き水の豊富なSantiago-Potntonesサンテイアゴ・ポトンエスも夏に訪れたいところです。
グラナダ・アルハンブラ宮殿 
 本プログ「歴史とともに(上)」を参考にしてください。

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☆シエラ・ネバダ南斜面にあるアルプハラスの村々を訪ねる・・・ドライブ・IN・スペイン(2)

2007-05-20 16:44:11 | Weblog
 
 イギリスのAA(Automobile Association-自動車協会)が出版している explorer SPAINという旅行案内書にアンダルシアでのドライブコースとして  White Towns(白い村)ルート(マラガ県)とともにAlpujarras(アルプラス)ルート(グラナダ県)が推奨されています。このルートについて「beautiful美しい・strikingきわだった・ rustic田園風の・lovelyすばらしい・ magnificent雄大な・fascinating魅惑的な」とあらゆる賛辞を送っていますが、「 fairly arduous driving(まったく根気がいるドライビングだ」と運転に注意を促しています。



1492年にアルハンブラ宮殿を明け渡し、この地アルプハラスに追われたボアブデイル王一族が幾多の抵抗もむなしく、1609年にこの地から北アフリカに追放された悲劇の歴史を刻む土地です。イスラム文化の彩を残す村々シエラ・ネバダ山脈南面の幾重にも重なる深い谷間が独特の風土を醸し出しています。
標高1000メートルを越える交通不便なこの地は今でも車が唯一の交通手段です。中央線も引かれてない、狭く、急坂で、曲がりくねった道のドライブには神経を使いますが、疲れを吹き飛ばす景観の素晴らしさと彼らを迎えてくれる美しい村々の存在がドライバーを引き寄せるのでしょう。

Malaga Airport Mapを使ってルート全体を把握します。(このブログを初めてお読みになる方は、このプログの「私のスペイン・ドライブ旅行のプラニング法」でMalaga Airport Mapsの活用法を詳しく解説してありますので必要があればお読みください)
Malaga Airport Guideのページが開いたら、{-}を4回クリック⇒この縮尺でMalagaマラガを左下、Googleの文字に重なるように地図を調整、OrgivaオルヒバがGranadaグラナダへ向かうE-902の途中、右側に見えてきます。
 今度は地図をOrgivaを中央になるよう動かします。Parque Nacional de Sierra Nevadaシエラ・ネバダ国立公園の大きな山脈が緑色で表示され、Ugijarウルヒルの町がOrgivaと向かい合うように見えます。この二つの町に挟まれた渓谷が今回のドライブコースです。
上部中央のボタンをクリックして航空写真に切り替えます。⇒雪を頂くシエラ・ネバダの下に細長く、アルプハラス渓谷を見ることができます。更に{+}をクリック、ズームインすると更に鮮明に見ることができます。左ボタンを押し、道路地図に戻ります⇒A-348の道路しか表示されませんが、この上に見える村々を結ぶ山岳道路があります。{+}をクリックしていくと、表示されます。これが今回のドライブ・ルートです。
 
この地図ではMotrilモトリルからGranadaグラナダに向かうE-902は未完成のまま表示されていますが、現在はほぼ開通しています。モトリルから北上して途中でオルヒバへの県道A-348に右折せず、そのまま直進し、LanjaronランハロンからOrgivaオルヒバに入るようにします。Lanjaronへは高速道路に標識があります。、地中海の町モントリルからE-902を北上するにつれ、標高がどんどん上がり、右手の山腹に風力発電の大きな風車が何本も見えてきます。そこがランハロンで、アルプハラスを防御するため、イスラム教徒が最後の城砦を築いた町です。ランハロンは温泉地(飲料用)として名高く、ここのミネラルウオーターはスペイン全土で販売されています。

アルプハラス地方はシエラ・ネバダ山脈の南斜面とその前衛の山々の間に挟まれた幅7~8キロ、長さ60キロ渓谷です。西端に位置する政治・経済の中心地Orgivaオルヒバからは、北側に山岳道路A-4132が、南側に県道A-348が、アルプハラス渓谷を挟むように伸びています。この二本の道路は60キロ先で合流しますが、45キロ先の間道を除けば、この二つの道路を結ぶ道や橋はありません。したがってドライブルートは同じ道をUターンするか、大きく周回するかどちらになります

四つのドライブコースを紹介します。




A.45キロコース(Uターン)
Barranco del Poqueiraボケイラ峡谷の緑に包まれた丘陵地にアルプハラス地方で最も有名な三つの村があります。
最初の村はイスラム教の文化のお影響が残っているPampaneiraパンパネイラです。明るい広場、小道に立ち並ぶterraosテラオスと呼ばれる白壁の平屋根住宅が並び、屋根からはスレートを被せた煙突が突き出ています。
A-4132をしばらく進むとこの道には似つかない立派なロータリーにでます。ここには土産店、バールがあり、公衆トイレもあります。ここを左折して間もなく、美しい屋根の教会があるBubionブビオンと民族博物館のあるCapileiraカピレイラへと続きます。前方に雪を頂く山々がまじかに迫り、雪解けを待ってMirador de Trevelezトレベレスの展望台に通じる道が開通します。

 B.70キロドライブ(Uターン)
 Aルートに加えて、海抜1476mに位置し、スペインで最も標高が高い村として知られているTrevelezトレベレスへ向かいます。ブビオン、カピレイラの村から下り、ロータリーでA-4132に戻り、先に進みます。イベリア半島最高峰のムラセン山から続く長い斜面の中腹にあり、19世紀の旅人が好んで訪れた村、Pitores ピトレス、Portugosポルトウゴス、ウオーキング愛好者の拠点になっているBusquistarブスキスタールを過ぎていきます。やがてマス漁の盛んなRio Trevelezトレベレス川沿いの道を上ります。カーブが連続する急峻な道を登りきると、Trevelezトレベレスに至ります。この一帯で乾燥・熟成されるハムは厳しい品質管理の下、el Jamon de Trevelezのブランドで最高級品のハムとしてグルメには珍重されています。
 トレベレスの村からUターンで往路を戻ります。そのままA-4132を直進するとCコースに入ります。

 C.100キロドライブ(周回)
 トレベレス村からトレベレス川の東岸沿いをA-4132は下っています。通行量がぐっと減ります。多くの車はトレベレスから引き返すようです。対岸に見える先ほど上ってきた道に渡る間道はありません。
 しばらく下るとA-4130があり、左折します。(A-4132を直進すると幾つかの村を経て、A-348に行くことが出来るようですが、旅行冊子にはドライブコースとして紹介されていませんので、四駆以外の車でも行けるかどうか不明なので、ここでは触れていません。
昔のままの建物が多いJuvilesヒュビレスBerchulesベルチュレスを過ぎて分岐路に出ます。A-3127に右折し、間もなくA-348 に合流します。右折して美しい村Cadiarカデイアルは直ぐです。ここからTorvizconトリビスコンを経てオルヒバまでは50キロ、一時間の走行です。

 D.120キロドライブ(周回)
  CコースBerchulesベルチュレスを過ぎて分岐路で、左へA-4130をそのまま進みます。アルプハラス渓谷の全景を望めるMecina Bombaronメシナ・ボンバロン、20世紀のスペイン文学研究者であり「グラナダの南へ」の著者でもあるイギリス人作家Genard Brenanジェナルド・ブレナンが住んでいた家があるYegenイエヘンを過ぎ、いにしえのキリスト教徒イスラム教徒戦いを再現する祭りで知られるValorバロールの町を訪ねます。
 更にA-4130を南に下るとUgijarウヒハルの町を過ぎA-348に至ります。右折してオルヒバ方面に向かい、しばらく走るとYatorヤトール村があります。ここからはCコースのA-348への合流点までわずかです。

 以上のルートの中で、A、 Bのルートはマラガからグラナダへの1日ドライブコースに組み込めますが、C、Dの二つのコースはアルプハラス内で一泊することが必要でしょう。
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☆支倉常長とアンダルシア・・・歴史とともに(下)

2007-05-11 15:53:22 | Weblog
 Sevillaセビーヤが世界に誇る大聖堂,その中央礼拝堂の祭壇飾りに圧倒され、コロンブスの柩の前でアメリカ大陸発見の偉業に触れ感動、その鐘楼であるGiraldaヒラルダの塔の上層部からの360度眼前に広がる景観に歓声を上げる日本人観光客の中で、400年ほど前、同じようにヒラルダの塔からの景観を楽しんでいた30名近くの日本人がいたという事実に思いを馳せる人は決して多くないでしょう。


 
 教科書にも慶長遣欧使節としての支倉常長の業績は記載されていますし、宮城県の方ならきっと石巻市月の浦に浮かぶサン・ファン・バウチスタ号(復元)を見学されたことがあるでしょう。しかし、支倉常長の使節団の存在は300年近くに亘り、わが国の歴史から忘れ去られていたのです
 岩倉具視欧州視察団の一行が明治4年 、ローマに赴いた際、天正遣欧少年使節団の展示物の中に支倉常長の手紙を見つけますが、手紙の日付が天正と慶長と30年も差があり、なぜこのような文書がここにあるのか分からず、支倉常長とは関が原の戦いで滅亡した豊臣秀頼が再興を目論んで送った武士に違いないと使節団の話題になったくらいでした。

 伊達政宗の命を受け、支倉常長一行がサン・ファン・バウチスタ号で太平洋をメキシコへ渡り、陸路でメキシコを横断、スペインの艦隊の船で大西洋を越えて地中海Guadalquivirグアダルキビール川河口の町Sanlucarサンルカールに到着したのは、月の浦を出航してから一年後1614年10月5日でした。
 一行はグアンダルキビール川を遡り、Sevillaセビーヤに到着、歓迎を受けます。セビーヤに一ヶ月滞在中、今は世界遺産になっているAlcazaresアルカーサルが宿舎となります。写真を見てください。この一角は支倉一行が滞在した当時とほとんど変わっていないはずです。ヒラルダの塔からは今よりずっと、眺望が開けていたに違いありません。はるか東の方角を眺めながら、支倉たち一行はこれから向かうローマへの夢を膨らませていたに違いありません。しかし、はるばる出かけて行ったローマでは歓迎されたもののローマ法皇から返書をもらえず、往路と同じ道をセビーヤに戻り、西12キロにある修道院で一年以上、届けられることがなかった法皇からの返書を待つだけの日々を送らなければならなくなるとは、思いもよらなかったでしょう。失意のうちにセビーヤを去ることになるとは、夢にも思わなかったに違いありません。
 
 セビーヤ、マドリッド、バルセロナとスペインを横断、海路ローマへというのが常長一行の行程です。現在の日本人観光客のアンダルシア観光ルートには必ずセビーヤの大聖堂、アルカーサル、CordobaコルドバのMezquitaメスキータ大聖堂という世界遺産を巡るコースが含まれます。この二つの市を結ぶ道こそ、支倉一行が通った道なのです。途中、CarmonaカルモナEcihaエシハという古い町がありますが、支倉一行はここに宿泊しています。観光バスの車窓から見える風景は農場と牧場ばかりですが、400年ほど前は、森林に覆われた風景が続いていたことでしょう。

 今回のスペイン・ドライブでは、エシハの町に立ち寄りました。カテドラルを中心に11の教会を持つ旧市街は中世の面影が残ります。カテドラル前の広場は大改造中、古い建物を壊し、その跡地に地下六階の駐車場を建設中でしたが、古い町並みと新しい町並みがほどよく調和しています。真新しい瀟洒な市場に隣接する役所のショウールームにエッチングで描かれた中世のエシハのパノラマが飾ってありました。絵には騎士らしい人物が描かれています。常長一行にも警護のために騎士が同行したことがあったようですが、日本刀を差している武士と長剣の吊るしている騎士とが並んでいる光景は当時の人々の話題になったことでしょう。



 旅行から帰ってエシハのホームページにたくさんの塔が残る街の全景写真が乗っていました。  支倉常長が訪れた頃のスペインは1588年無敵艦隊がイギリス・オランダに敗れ、以降、国力が低下、支倉使節団が訪れたフィリッペ三世の時代には財政が危機的状況にありました。また、日本ではキリスト教徒に対する弾圧が激しくなっていることもローマには伝わっており、使節団を派遣した伊達政宗はキリスト教徒でもなく、日本の一領主に過ぎないという情報も支倉常長に災いしました。
 やがて、支倉常長使節団は追われるようにセビージャを後にしたのです

後日談があります。帰国せずに、セビージャに留まった日本人が何人かいました。
支倉常長に随伴していた若い武士たちの中にはスペイン語を話せるようになっていたと記録に残っていますが、帰国を目前にして、日本への長い航海への恐怖感、無事帰国できても祖国が彼らをどのように迎えるか分からない不安感から、スペイン残留を選択しても不思議ではありません。セビージャ南部の水田地帯の風景と陽気で親切な地元の人々と交流できるようになっていたことが故郷への執着心を薄めたのかもしれません。

 彼らが残留したセビージャ南方の当時の港町Coria del Rioコリオ・デル・リオには「Japonハポン(日本)」という姓を持った家族が何組もおり、支倉使節団の武士の子孫である信じているそうです。当時のスペインには多くの外国人が住み、彼らの通称名に国名を使うことがよく行われていました。因みにトレドで宮廷画家として活躍したエル・グリコの名前も「ギリシャ人」という通称名です。武士の子孫が「ハポン」姓を名乗っていたとしても不思議ではありません。
 今日、コリオ・デル・リオの人々はこの逸話をどのように思っているのでしょうか。コリオの町のホームページにその回答が得られるかもしれません。



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☆歴史とともに(上)・・・スペイン・ドライブ旅行

2007-05-06 18:07:22 | Weblog
 旅の喜びの一つに、過去の歴史に触れることがあります。歴史は旅のポートフォリオに欠かせない要素なのです。歴史の中でも、争いに敗れ歴史から退場して行った人々・辛苦の努力を続けたのにもかかわるず歴史から忘れ去られた者たち・・・言わば日のあたらない歴史の裏側に惹かれる方も多いのではないでしょうか。
 そんな旅を今回目指しました。

悲劇の地、Alpujarraアルプハラの村々を訪ねる
 我々には聞きなれない地方ですが、どんなところなのでしょうか。
NHKテレビの世界遺産シリーズ「アルハンブラ宮殿」では次のようなナレーションがありました。「スペイン南部アンダルシア地方のグラナダは、8世紀から約800年間イベリア半島を支配したイスラム勢力の終えんの地です。キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)によって覇権を奪われていったイスラムの王国が、丘の上に築いたのがアルハンブラ宮殿。イスラム建築の最高峰と呼ばれ、滅び行く王国の最後の栄華を伝える宮殿です。」 


 
 しかし、これには補足説明が必要です。20代続いたイスラム王国のボアブデイル王がフェルデナンド王・イザベラ女王にアルハンブラ宮殿を譲り渡した後も、80年近くアラブの人々はアルバイシン地区や周辺の地に住み続けたのです
 アルハンブラ宮殿の写真を見ましょう。アルハンブラ宮殿の背景にMulhacenムルアセン山(3,481m)を主峰として雪を頂くSierra Nevadaシエラネバダ山脈が見えています。この山々の向こう側こそ、Alpujarraアルプハラの地なのです。
ボアブデイル王に連なるリーダーに率いられたイスラム教徒たちがSierra Nevadaシエラネバダ山脈の南側の海抜1,000mから1,400mの急峻な谷沿いAlpujarraアルプハラに点在する10以上の村を作り、70年に亘りスペイン王国に抵抗を試みた地なのです。そして1570年のアルプハラでの最後の戦いに敗北、イスラム教徒が800年も住み続けたイベリア半島から去っていった終焉の地なのです。
この地には次のような言い伝えが残っているそうです。1570年の最後の激戦の時、双方の多くの兵士の血が流れましたが、「スペイン王国の兵士の血は谷の下に向かい、アラブの兵士の血は谷の上に向かった」というのです。キリスト教とイスラム教の二つが決して交じり合うことはないということを伝えているのでしょうか。



Trevelezトレベレスの風景を見てください。(下にある写真はクリックすると拡大)人口800人、海抜1476mこの村はスペインで最も標高が高い場所に位置する村でもあり、高級ハム"Jamon de Trevélez",の生産地として有名です。Trevelezトレベレス村を始め、アルプハラス地方に点在する村々は、アラブ人がイベリア半島を追われ、アフリカに去った後、周辺のキリスト教徒が移り住んで、現在に至っています。

 グラナダから車で2時間足らず、イスラムの人々の生活の跡が色濃く残る小さな村が点在する美しい渓谷美を楽しもうと、休日にはたくさんの人々がやってきます。
 私の訪れた4月6日は「Semana Santaセマナ・サンタ(聖週間)」の真っ只中、小雪の舞う生憎の天気でしたが、ここの山岳道路がどこも混雑、小さな村々の道路の両脇は、駐車する車でびっしり、通行もままならないという有様で、目的地トレベレスへ行くことを断念しました。


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