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シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

電車で行く奥久慈・男体山への日帰りハイキング

2010-05-01 09:17:57 | Weblog
 奥久慈といえば、袋田の滝が有名ですが、もう一つの景勝地男体山があります。
 黄門様こと水戸光圀公も参詣登山をしたという茨城県では由緒ある山です。
 標高は653メートルと決して高い山ではありませんが、山頂に男体権現を祀り、奇岩・怪石・断崖からなる山容は古くから信仰を集めていました。明治・大正時代に日本各地を旅行し、数々の紀行文を残した大町桂月は「久慈の奥男体山を仰ぎ見て画を学ばんとおもいけるかな」と書き残しています。



 初夏の新緑、秋の紅葉がベストシーズン、男体山を麓の集落古屋敷から仰ぎ見たときの初めての感動は忘れがたいものとなるでしょう。しかしながら、数年前の山火事の影響で、山の岩肌がところどころ露出し、以前の美しさは写真に残るのみとなってしましました。元の男体山の姿を取りも戻すのにままだまだ年月を要すでしょう。

                   男体山写真のサイト

行程
上野駅発  8:00  JR特急スーパーひたち7号 4,950円(上野―西金)
水戸駅着   9:19
水戸駅発  9:23 JR水郡線
西金(さいがね)駅着
        10:21  
 男体山ハイキング
  西金駅⇒大円地集落⇒大円地越え⇒男体山 約3時間
  男体山⇒男体神社⇒滝倉東集会所⇒滝倉入口⇒上小川駅 約2時間30分


               ハイキングコース地図のサイト

上小川駅発 15:48 JR水郡線 4,950円(上小川―上野)
水戸駅着  16:55
水戸駅発  17:27  JR特急スーパーひたち50号
上野駅着  18:35  

注:大円地集落までタクシー利用の場合は手前の山方宿駅からのタクシー利用がお勧め。前日に連絡すれば駅で待機してくれる。一台4,000円位,山方ハイヤー℡0295-57-2404
ハイキング途中からの携帯の電波状態が良くないので、待ち合わせ場所とおおよその時間を決めて迎えに来てもらうのがよい。

 ハイキングコース
 駅からのハイキングコースは所要時間4時間50分の健脚コース。50分短縮するために、大円地の登山道入口までタクシーを利用するハイキングコースを紹介します

西金駅から大円地へ:
 西金駅から国道118号を水戸方向へ戻り、橋の手前を左折、湯沢川に沿って進みます。急峻な崖に沿って切り開かれた道で、ようやくすれ違い出来るような細い道が続きます。まもなく湯沢温泉が右側に、かつて温泉旅館が2軒ありました。
 狭い道路に沿うようにところどころ民家が点在、途中、二箇所ほどわき道があるが直進すると、やがて左の急坂を登り古分屋敷集落を通ると、高台に茶屋と小さな駐車場があり、ここが展望台、正面に忽然と男体山が聳えています。
ここの坂を下ると、10数台を停めることができる駐車場があり、やがて数軒からなる大円地集落が見えてきます。

登山道を大円地越へ:

 正面に男体山を望む、茶畑の間のあぜ道を登ります。ここは茶の栽培の北限地、久慈茶として知られています。地元の方の話によると、この道は古くは奥州街道の一つであり、これから登る大円地越は山の鞍部であり、水場もあることから関所が置かれ、男体山頂上の見張り台から、麓から登る旅人の監視をしていたと伝わっているとのことでした。
 直ぐに標識があり、左手が健脚コースで、鎖場のある急峻な道ですが、変化に富んでおり頂上へ距離が短いため、こちらを選ぶハイカーも多いようです。一般道はここから杉林の中に・・・砂岩の巨石があちらこちらに露出している間を縫うように登る道は道幅も十分ですが、日差しは杉にさえぎられ、昼でも暗い道です。しかし、初夏には二輪草などの草花、山つつじの花がところどころに咲き、目を楽しませてくれます。

杉林を抜け、クヌギやもみじの木が目立つようになると、大円地越はもう直ぐ、山の鞍部で広場になっており、東屋が立っています。男体山は左の道へ、直進すると持方集落に至ります。この辺りから男体山頂上までは数年前に山火事があったところですが、その影響も年々薄らいでいるとのことです。



大円地から男体山へ:

 男体山頂上へは尾根道の明るい道で、坂もきつくなく、快適な道ですが、左側には数百メートルの断崖絶壁が続いていることを忘れないように・・・特に頂上直下の登りに注意!1996年10月にロッククライミング中の登山者の滑落死亡事故が起きています。
頂上はちょっとした広場になっており、男体権現からの眺望がこのコースのハイライトです。ここで昼食休憩を取ると良いでしょう。電波中継塔が少々風情を壊しますが・・・



男体山から男体神社・滝倉・上小川駅へ:
頂上からは北へ月居山(つきおれさん)を経て、袋田の滝までの縦走路を伸びています。間もなく左手から大円地からの健脚コースが合流、ここを過ぎると右手に持方への道があります。やがて左手に滝倉へ降りる道があるので、ここへ入り、潅木の中の明るい急斜面の道をジグザクに降りていきます。
頂上から30分で男体神社に到着、ここから平坦な村道を行くだけです。滝倉東集会所を経て、1時間30分で国道118号滝倉入口に到着、国道を北へ向い、大きく蛇行する久慈川を二度渡ると15分で上小川駅に到着です。
                    
 ポイントごとの説明と写真のサイト      

ローカル線水郡線の旅
春夏秋冬を問わず、風景がたいへん美しい路線です。久慈川沿いを走る単線路線で、西金近くになると渓谷となります。無人駅が多く、乗客も少なく、静かな旅を楽しめます。いばらきネットテレビの製作の水郡線紹介番組をご覧ください。  

「水郡線の車窓から」

茨城の山々
 茨城県には高い山がありませんが、福島県白河付近から筑波山まで八溝山地、久慈山地が延びています。最高峰が福島県との県境にある八溝山(1,022m)です。
砂岩を中心とする古い地層の山が多く、巨岩、奇岩、奇峰が連なり、八溝山近くの袋田の滝から男体山に至る西側は断崖絶壁が連なり、東側は平坦な山地が広がるという独特の景観を見せています。

盲帖の里:安寺・持方
 今回のハイキングコースの大円地越の東側に持方(もちかた)そして安寺(あでら)の二つの集落があります。ここは江戸時代初期に遡る歴史を持つ集落で、200年前、ここを訪れた水戸藩士岡野逢原が「阿(安)寺持方の記」を著し、文字でなく符号で年貢の台帳を記した盲帖(めくらちょう)の存在に触れています。昭和30年代にようやく電気が通じたという僻地ですが、旧家には古文書も多く保存され、南に開けた谷間の斜面に田畑を開き、200年前とほぼ同じ戸数の10数軒の農家が生活しています。
 持方集落までは男体山から30分で行けますので、男体山からの復路に組み込み、昔ながらの静かな佇まいを見せる持方集落を訪れるのも良いでしょう。この場合、大円地越で西金へ戻ります。



 
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農家を借りて、自然と向き合う

2010-04-25 20:29:37 | Weblog
スキーサークルの仲間と一緒に竹の子狩りに出かけました。
写真の森の中に竹林があります。
ここは都心から80キロ・・・
江戸時代、元禄の頃から続く旧家にメンバーであるHさんが案内してくださったのです。


Hさんは友人たちと共同で借りています
定年を控えた頃、大学時代に活動したサークルの同窓の友人たちと農家を借りて畑作りをしようと計画を立てていましたが、なかなか適当な物件が見つかりません。そんな時、Hさんの奥さんの友人が、今は住む人がいないままになっていた実家の提供を申し出てくれたのです。

母屋は明治時代の地主の住まいです
元禄時代から続いている旧家は、築70年の母屋、樹齢百年以上はあると思われる屋敷林、300坪の自家畑、少し離れた場所に竹林、農作業に必要な器具がそのままの小屋・・・全部が3,000坪に達する敷地の中にあります。



母屋に入りました。土間の下足入れには10足ほどの長靴が整然と並び、「汚れた軍手は洗いますので、ここに置いて下さい」という張り紙の下に、たくさんの軍手があります。整然と管理されている様子が伝わってきます。

部屋に上がりました。回り廊下が部屋の南側と西側に配置され、普段は使われることのない正面玄関口には、歴史を感じさせる二つの石像が家を守るように置かれています。
部屋を結ぶ欄間は、全て手彫りの透かし彫りの一枚板・・・明治時代の旧家に相応しい品格のある彫刻が欄間を彩っています。

台所は、最近になって改築されたのでしょう、20畳の広さがあり、バーベキューの食材を調理するメンバー三人が並んでも、余裕のある広さの洗い場です。テーブル、食器入れ、冷蔵庫など、すべて完備しています。トイレはウォシュレット、風呂も新しいものです。

畑仕事が主体、泊まることはめったにありません
 自家畑での農作業を楽しむことがメンバーの方々の生甲斐です。住まいがある首都圏から、車での日帰りでやってきます。そういえば、母屋の床の間に農作業の年間行程表が張ってありましたが、これならブラリと訪れても、やるべき仕事の内容が一目瞭然です。
 バーベキューが終わってから、物置への機材の収納を手伝いました。炉、鉄網、鉄板、椅子、テーブル、一輪車、リアカーなど所定の位置にHさんはキチンと収納しました。メンバーの誰かがいつ来ても、作業に直ぐに取り掛かれるよう徹底した物品管理です。
 バーベキューセットの鉄板には驚かされました。Hさんが現役時代に取引のあった洋食器や金物で有名な新潟県三条燕の業者に設計図を送り注文したという本格的なものです。

 Hさんは退職後、自家用車をハイブリッド車に乗り替えました。自宅から週に数回は畑仕事に出かけるため、走行距離が長くなり、ガソリン代の節約を考えてのことです。購入直後のガソリンの急騰にも対応できました。先見の明があったわけです。

畑は、まるで、ボタニカル・ガーデンです

 

 300坪の自家畑は、すっぽりと、防鳥ネットで覆われています。畑は作物ごとの区画が整然と分けられ、畝の高さも作物ごとに違いを付けています。苗床もあります。圧巻なのは、白い可憐な花を咲かせているとちおとめの畝です。高さ30センチの高さのある板で微妙な傾斜を付けて、畝を両側から押さえています。苺が地面に着かない工夫だそうです。これなら、排水、保温にもよいでしょう。昔、訪れた静岡久能山の石垣イチゴを思い出しました。



畑というよりも、雑草一本も生えていない庭園風農園という美しさがありますが、勿論、最初からこうであったわけではありません。
 当初、草ぼうぼうの荒地に返っていた自家畑の草取りから始まりました。次から次へと出てくる雑草・・・最初は草取りのために通ってくるという日々が続いたことでしょう。それと並行して、土地を耕し、畝を作り、苗を植える・・・そして待ちに待った収穫・・・ところが、鳥が来襲!・・・それまでの努力が徒労に終わりました。

そこで畑全面を、防鳥ネットで覆おうことにしたのです。無駄な経費を抑え、作業能率を上げるため、まず、図面を起こすことからはじめました。支柱は、ふんだんにある竹を使い、鳥よけネットは、ホームセンターで安く購入、ネット張りは9人のメンバーが一日で一気に仕上げました。

経費節減で感心したことがあります。野菜の苗の購入は割高につくため、今では種から苗を育てているとのことでした。
また、農作物への散水は、水道を使用していましたが、一年前から掘り始めた深さ2メートルの井戸がようやく完成しました。ここでも工夫がありました。汲み上げ用のモーターは物置に使われないまま放置されていた中古品を修理して使っています。

長年の会社勤めで培ったノウハウが随所に生きています
設計図を起こす・・・作業の行程表を作る・・・インターネットを活用し情報を集める・・・価格を比較検討、経費を最小限に抑える・・・豊富にある竹材などの材料を利用する・・・野菜造りには土壌がカギ、堆肥確保も怠らない・・・作業の山場では人材を集中投入する・・・。
畑仕事というより、農場経営であるという印象を持ちました。

地元の方への配慮も忘れません



 バーベキューが終わって、片付けとなりました。生ゴミは堆肥として利用、焼却できないプラスチックトレイや発泡スチロール製品、ポット類・ビン・缶は、すべて分担して車に積んで自宅まで運びました。
近隣の住民に負担をかけない、迷惑をかけない、自然環境を汚さないという徹底した自己管理です。タケノコ狩りの際、Hさんは隣家の方に挨拶をされていましたが、その方の畑の一部も防鳥ネットの中に取り込んでいるのです。
このようなきめ細かい配慮が、集落の方々との円満な交流を可能にしています。





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栃木の小京都・足利へ日帰りハイキング

2010-04-15 14:31:35 | Weblog
東京から東武鉄道に乗り、2時間弱で足利市へ・・・
7キロ・4時間のハイキングと8キロ・2時間の市内散策を楽しみました。



 日光連山からの山々が南に向かって下ってきますが、ちょうど足利付近で関東平野に消えていきます。まるで半島のように足利の街に下りてきた山の尾根を歩く「歴史のまちを望むみち」コースです。
 海抜30mの足利市駅から出発、229段の石段を登り織姫公園に、251mの両崖山を経て、441mの行道山に登り、浄因寺へ・・・緩やかに下る足利の街を2時間かけて足利市駅まで戻りました。
 浄因寺はお釈迦様祭りで集落の方が集まっていました。昔は暦どおり4月8日に行われていましたが、今は4月の最初の日曜日となっているとのことでした。




ハイキングコースは・・・

左右に足利の街が広がり、小さな山々が足利の街の中にポツリぽつりと点在・・・「陸の松島」と称される美しさです。
ハイキングコースの尾根沿いには、珍しい山頂古墳、室町時代、戦国時代の城址が連なり、足利が古代から関東平野を一望する要衝の地であったことわかります。
春は桜、初夏の山つつじと新緑、秋の紅葉、冬は澄んだ遠望の景色・・・四季折々に楽しめるコースです。
関東の高野山と称される浄因寺・・・参道から山頂まで3万3千体といわれる大小の石仏に囲まれ、切り立った断崖と杉の谷間にひっそりと佇み、葛飾北斎も描いたという、まさに南画さながらの世界にあります。
標識も整備され、ビューポイントにはテーブルとベンチが置かれ、要所にトイレも設置・・・コースにはゴミ一つ落ちていませんでした。



(お釈迦様祭りが終わり、浄因寺の石段を下り、家路につく家族)

次のサイトにこのコースが紹介されています。
http://www.pref.tochigi.lg.jp/eco/shizenkankyou/shizen/resources/ashikaga02.pdf

アクセス:
○ 東武伊勢崎線は一時間に2本、特急「りょうもう」が運行。
○ 足利市駅から生活路線バス(やまなみ号9:35・13:10発)かタクシーで行道山下車、浄因寺からスタートすると家族向けのハイキングに最適。

見る:
○ わが国最古の大学・足利学校、足利家の菩提寺・鑁阿寺が有名。
○ 月谷町には谷文晁作庭、渡辺崋山命名といわれる名園・巌華園がある。
○ 4月から5月にかけて、織姫公園のつつじ、光明寺のぼたんが見頃に。

食べる:
○ 足利は蕎麦処として知られる。鑁阿寺(ばんあじ)周辺に門前そばがある。
○ 足利はお菓子の街でもある。羊羹、せんべい、最中、ケーキなど専門店が多い。


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初めての中国への旅・・・雲南省12日間の個人旅行プラニング

2010-04-02 16:09:17 | Weblog
中国へはツアーでなけれは無理・・・と決めつけていました。
しかし、ネットを見ると個人旅行に出かけた方の旅行記がかなりあります。
年齢を考えると、最後の海外個人旅行となりそうです。しかも、初めての中国旅行・・・
この半年間、「お気に入り」に登録した中国関連のサイトが45件・・・
安全な旅と個人旅行の楽しみのバランスを考えて次の方針を立てました。
○ 日程と行程の立案、見学地の選定は自分で
○ 効率的で安全な旅とするために、車をチャーター、日本語ガイドを同伴
○ 中国内航空券、ホテル、車、日本語ガイド手配を広州日系旅行社に依頼
○ 道中は、英語と初級レベルの中国語でサバイバル

中国の秘境であり、25の少数民族が暮らす雲南省を訪れることにしました。
○ 成田からの乗り入れ中継地として「食在広州」(食は広州に在り)と名高い広州に
○ 広東料理と雲南料理を食べつくす
○ 雲南省の茶とチベットの馬を交易した「茶馬街道」を現地の乗合バスで走る
○ 昆明市で雲南省・少数民族舞踊団のミュージカルを鑑賞する
○ 世界遺産の石林と麗江へ
○ 少数民族の村々を訪ね、人々の文化生活を垣間見る
○ 雲南省最後の秘境・瀘沽湖とモソ族の村に泊まる

日目 :成田広州(全日空)
      広州空港ホテル



日目 :広州昆明(中国国内航空)
     車チャーター、日本語ガイドとともに西山森林公園周辺観光
     昆明市内ホテル



日目 :車チャーター、世界遺産である石林風景名勝区観光
     雲南民族舞踊鑑賞・昆明公会堂
     昆明市内ホテル






日目 :昆明大理(中国国内航空)
     タクシーで大理古城へ、古城内散策と三塔文化旅遊区観光
     大理古城内客栈(中国式旅館)
日目 :車チャーター、日本語ガイドとともに、調草イ族の村を訪ね、巍山古城へ
     大理古城内客栈
日目 :車チャーター、日本語ガイドとともにぺー族のマーケット、回族の村を巡る
     大理古城内客栈
日目 :大理麗江(現地の乗合バスで旧茶馬街道を辿る)
     世界遺産の町・麗江古城を散策
     麗江古城内客栈
日目 :車チャーター、日本語ガイドとともに秘境・瀘沽湖へ
     瀘沽湖客栈に
日目 :車チャーター、日本語ガイドとともに麗江へ
     麗江古城内客栈
日目 :麗江広州(中国国内航空)
     車チャーター、麗江近郊観光(午前中)
     広州市内ホテル
日目 :広州1日ツアーに参加
     広州市内ホテル
日目 :広州成田(全日空)

来週には、広州の旅行社からの見積りが届く予定です。

この旅行・・・出かけましたが5日間で中断いたしました。その顛末記をお読みください。

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足利を訪れ、例弊使街道・日光杉並街道を経て、鬼怒川温泉へ

2010-02-22 14:09:00 | Weblog
知人から鬼怒川温泉の宿泊券を頂きました。
鬼怒川まで高速道路で直行するだけでは工夫がありません。
そこで、一度は訪れたいと願っていた足利に立ち寄り、日光連山に連なる山々の裾野を走る293号線を北上、鹿沼から芭蕉一行も通った例弊使街道の杉並木を30年ぶりにドライブして、鬼怒川温泉に向かうことにしました。


 
足利は陸の松島とも称される落ち着いた魅力的な古都でした

関東平野を北に向かって一般道を走りました。久しぶりに晴れた関東平野は朝方霧が出て、高速道路には霧注意報が出されていました。利根川を横切り、渡良瀬川を渡ったところで、霧が晴れ、突然、小山に行き当たりました。東京からずっと平坦な道を走ってきましたので、新鮮な驚きでした。
後で調べると、この山は大坊山(285m)、その東隣に大小山(313m)、足利中心街の背後に両崖山(251m)、行道山(441m)、そして西に石尊山(486m)、深高山(508m)など、足利は低い山が点在する中にあり、まさしく「陸の松島」でした。

あしかがフラワーパークには冬牡丹が咲いていました


世界屈指の陶器美術館として知られている栗田美術館がある大小山の麓にフラワーパークがあります。もともと湿地であった当地に周辺から300本もの藤を移植し、4月中旬から5月中旬は多くの藤を目当ての観光客がバスを連ねます。訪れた二月は閑散としていましたが、冬牡丹と福寿草を見ることができました。鉢植えの牡丹を雪囲いの中に置き、園内のあちらこちらに展示してありました。
写真はフラワーパークから栗田美術館を撮ったものです。

足利市内を散策しました

市内に入ると、中心道路は広く、電線を地中に埋めてあるため、空が広々と明るく感じます。街灯のデザインも古都の雰囲気を出しています。
「足利学校」の向かい側の観光インフォメーションがある太平記館駐車場に車を置き、蕎麦処足利の老舗である「門前そば」に向かいました。香り豊かな、のど越しのさわやかなおいしい蕎麦でした。
鑁(ばん)阿寺へ向かい、石畳の大門通りに並ぶ店で買い物、足利学校を見学・・・1時間の散策を楽しみました。

鑁(ばん)阿寺


堀がめぐらされている変わった寺ですが、ここは、もともと、鎌倉幕府の有力御家人であった足利家の屋敷跡なのです。足利家はその後鎌倉に移り、再び、当地に戻ることはありませんでしたが、足利家の菩提寺としての鑁(ばん)阿寺は残りました。
足利市=足利尊氏というイメージで訪れましたが、「太平記館」という観光施設以外、尊氏を思い出させるものは何一つありません。室町幕府を開いた足利家7代目の足利尊氏が当地を訪れた記録はありませんし、また、戦前の歴史観では、天皇に反旗を翻した武将として足利尊氏は逆臣扱いでしたから、それが微妙に影響しているのかもしれません。

足利学校 


足利市民の最大の誇りは、日本最古の学校といわれる足利学校でしょう。1549年にフランシスコ・ザビエルが「日本国中最も大にして、もっとも有名な坂東の大学」と紹介、それ以前からも、諸国から学徒が集まり学問に励み、野山に働く人々も漢詩を口ずさむ風雅の都会として足利は知られていたようです。
その起こりは諸説があるようですが、室町時代に時の管領上杉憲実が、現在国宝に指定されている書籍類を寄進したことで、その基礎が確立しました。
今でも、地元の方は足利学校を「学校さま」と崇め、子供たちが方丈で書初めに励む姿がテレビでよく放映されています。現在の建物の多くは、1980年代に再建されたもので、それ以前の地図では「足利学校跡」と表示されていました。

293号線を鹿沼に向かいました。

日光連山に連なる山々の裾野を走る293号線沿いには石灰石鉱山多く見られます。セメントの材料となる石灰石を運ぶトラックが多いと聞いていましたが、日曜日のドライブであったためか、快適なドライブでした。
採掘で山肌が剥き出しになった山々ですが、ここに全国的に珍しいセツブンソウの自生地があります。石灰岩地質の北斜面にしか生育しないという、環境省レッドリストにも准絶滅危惧種として登録されているセツブンソウが日本一の規模で見られる「四季の森 星野」です。
今回は足利で時間を取り過ぎ、星野まで入ることができませんでした。

鹿沼から例弊使(れいへいし)街道が始まります


日光東照宮に毎年朝廷から派遣された例幣使が通行した道であることから名づけられました。初めて通ったのは30年前の夏、杉並木の中の運転には気を使った記憶があります。今回は前日降った雪がシャーベット状に残る路面で、幅員は狭く、昔の旅人が歩いた道に中央線を引いただけの車道です。対向車がはみ出したら正面衝突・・・緊張の連続でした。その上、空を覆うばかりに茂った杉の枝から、前日の雪の塊りが落下します。ワイパーはフル稼働です。
文挟(ぶはさみ)から板橋にかけては大木となった日光杉並木街道のハイライトです。杉の根元は道路より一段と高くなった土手となり、道路はその間に沈みこみ、まるで溝の中を走っているような感覚でした。

文挟・板橋は芭蕉一行も通りました

元禄二年(1689年)のことですから、例弊使街道という呼び名もなく、杉並木があったかも定かではありません。曾良随行日記では「火バサミ」と「板橋」の地名が記録されています。曾良は「ふばさみ」を「ひばさみ」と聞き間違ったのでしょう。

今市で例弊使街道と別れ、鬼怒川温泉までは15分でした。

帰路は、今市から県道鹿沼・日光線で山中に入り、1300年の歴史を持つ古刹・古峯神社を参詣、鹿沼に出るルートを考えていましたが、雪が残る山道ということで断念、次回に期すことにしました。
なお、芭蕉一行の足跡を辿るなら、鬼怒川温泉近くの高徳三叉路で船生へ、矢板を経て黒羽に向かうと奥の細道ルートです。
 
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酒田・冬の旅

2010-02-10 14:08:29 | Weblog

冬厳しい日本海側の町の生活を実感したい・・・
昔栄えた街の今の姿を見たい・・・
そして、冬の一時期しか味わえない寒鱈を賞味したい・・・

というわけで、友人と1月末に出かけたのが最上川河口の町・山形県酒田市です。
 根雪となって街を覆う雪・・・どんよりとした雲に覆われる街・・・そんな期待(?)を抱いて出かけた酒田でしたが、到着した日は雪こそちらついていましたが町にはほとんど雪がなく、翌日は快晴・・・鳥海山がその全貌を見せてくれていました。地元の方に尋ねると、冬に鳥海山が見えるなどというのはほんの数回、こんな日はめったにないとのことでした。
 

1日目
東京駅 Maxとき309号   8時24分⇒10時38分新潟駅
新潟駅 特急いなほ3号  10時59分→13時7分酒田駅
相馬楼見学・舞娘演舞  13時30分~14時30分
            (タクシー)
日和山周辺散策後、繁華街仲町を通りホテルへ 14時30分~16時

仲町「八月」で寒鱈料理  18時~20時
      
2日目   
土門拳記念館 9時~10時45分
         (るんるんバス駅前8時20分発で)
散策:山居倉庫~山居橋~本間家旧本邸 11時10分~12時30分
         (るんるんバス土門拳記念館10時56分発で)
昼食・買い物:さかた海鮮市場     12時45分~14時
       (タクシー)

本間美術館              14時30分~15時30分

酒田駅いなほ12号 15時52分→18時03分新潟駅着
新潟駅 Maxとき340号   18時38分⇒21時東京駅着       

 ◎ 酒田市内の移動は基本的にはタクシー、流しはないので迎車で。
 ◎ るんるんバスは100円均一だが、本数は極端に少ない。
 ◎ 酒田東急インに荷物を預ける。


本間家と酒田
本間様にはおよびもないが、せめてなりたや殿様に」と詠われた本間家は、三代目本間光丘(みつおか)が基礎を作りました。その財力だけでなく、農民や庶民の立場にたった政治力・行動力が人々の尊敬を集めたことを示しています。

 古物、薬、瀬戸物を扱う商人から始まった本間家は、光丘の頃になると金貸業を営みます。当時の貸し金業者は、土地を担保に、年利6割以上という高利で貸し付けるのが当たり前でしたが、光丘は破格の1割という低利で貸し付け、凶作の時には5分まで下げ、農民の生活を支えました。しかし、それでも耐えられず、農民が放棄した田畑が自然と本間家に集まり、日本一の大地主となっていくのです。

 光丘から代々伝わる本間家家訓があります。儲けの4分の3は酒田のために使え・・・というものです。事実、光丘は最上川の改修、長さ2キロ幅500mにわたる防風林の植栽、飛び砂・塩害を防ぐため日和山という砂山を築くなどの事業を行いましたが、これらは、主として、冬期に行われました
 冬になると日本海が荒れる日が多くなり、北前船が酒田湊に入港できません。100軒近くの船問屋、北前船の人足や荷物を運ぶ丁持、最上川を行き来する川舟船頭などは失業状態になります。そんな彼らに仕事を与えるという一石二鳥の公共投資でもあったのです。
 本間美術館となっている本間家別荘も、四代目本間光道が、光丘の家訓を踏襲して建設したものです。

酒田甚句
 江戸時代の北前船交易による酒田湊の繁栄ぶりがよく表されているのが酒田甚句です。「日和山」、「飛島」、「最上川」、「鳥海山」と美しい自然を織り込み、「今町」「船場町」「高野の浜」と当時の賑わう場所を紹介、「お米」「お酒」に恵まれ、「おばこ節」を歌いながら、「毎晩お客はどんどんしゃんしゃん」と宴会三昧、そして歌詞の最後に「ホンマに酒田はよい港」「繁昌じゃおまへんか」と京言葉で終わる歌詞は江戸時代の酒田湊の様子をよく表しています。
 相馬楼の舞娘演舞では「おばこ節」と「酒田甚句」を踊ります。


酒田湊の衰退
 現在の相馬楼の前身・相馬屋で明治26年正月に開かれた大宴会が酒田湊の最後の饗宴となったでしょうか・・・
 酒田の豪商17名が宮中の御宴を真似た新年会を相馬屋の二階で開き、これが不敬罪の罪に問われた相馬屋事件です。なにしろ京都から衣装を取り寄せ、天皇役と皇后役まで決めるなど贅を尽くしたお大臣遊びが、不敬罪に問われ、出席者が逮捕されたのです。
 ビックリした一同は、高額な謝礼を払い、東京から高名な弁護士を呼び寄せ、お雛様の真似事であったという弁明で、ようやく放免されました。

 翌年、明治27年に庄内大地震が・・・戸数4000の町・酒田では、死者162人、傷者223人、全焼家屋1,747戸、倒潰家屋1,558戸の壊滅的な被害を受けます。幾たびかの災害を乗り越えてきた酒田湊でしたが、このときはそうはいきませんでした。
 明治政府の近代化政策で鉄道敷設の機運が高まり、時代は水運から鉄道輸送の時代に移っていたのです。

明治36年には新庄まで奥羽線が開通、最上川水運の米や紅花の集積地であった新庄からは鉄道輸送に・・・最上川水運時代は終わりを告げ、酒田湊の繁栄に終止符が打たれました。大正8年に新庄・酒田間の鉄道が開通しましたが、その輝きを再び取り戻すことはありませんでした。

散策ルート①山居倉庫から本間旧本邸へ 
ケヤキの美しい山居倉庫から歩行者専用橋の山居橋新井田川を渡り、本間家旧本邸に歩くルートがお勧めです。山居倉庫は明治になり酒田米穀取引所の倉庫として、当時、最上川の中州であった当地に建てられました。大火にたびたびあった酒田ですから、類焼を避けようと、中洲に立てたのです。地盤軟弱地の土台には、油分が多く、腐食しにくい松の木材を井桁に組んで、その上に砂をかぶせる、それを何層にも固めて土台としました。また、米穀の保存倉庫ですから、土台に接する木材部には傾斜をつけて、ねずみ返しとしました。
 テレビドラマ「おしん」の撮影が行われたことでも知られています。

散策ルート②日和山公園周辺
日和山周辺は公園となっています。相馬楼光丘文庫海向寺旧白崎病院など酒田の古い良き時代の風情が色濃くの所です。相馬楼から日枝神社へは石畳の緩やかな舞娘坂など、市内から日和山へは坂道になり、酒田の古名・坂田はここから来たという説もあります。
アカデミー外国語映画賞の「おくりびと」は庄内地方が舞台ですが、日和山周辺もロケ地となっています。


土門拳記念館
山形県出身者は、人生で成功すると自分の遺産を郷土に寄贈するという伝統があるそうですが、土門拳は全作品70,000点を郷土酒田市に贈りました。
酒田市はそれにこたえ、1993年に個人の写真記念館として世界で唯一の写真専門の美術館を完成しました。

アプローチの長い広大な敷地・・・見事なデザインの建物・・・飯盛山と名峰鳥海山を借景・・・白鳥も訪れる広い池・・・素晴らしいシチュエーションです。
館内はひろびろとゆったりした配置で、入場者がゆっくりと時間をかけて写真の前に歩を進めます。疲れたら、高級感あるアームチェアに座りながら鑑賞できるよう配慮してあります。池越しに鳥海山を望む一角に休息できる空間もあります。
「古都巡礼」「筑豊のこどもたち」「ヒロシマ」など一枚一枚の写真をどのような思いでシャッターを押したのだろうか・・・カメラの後ろにいる土門拳の息遣いを感じながらの鑑賞となりました。


個人旅行格安パック17,200円を利用しました:
 新幹線とホテル料金をセットとしたパック料金の旅をネットで見つけ、料金が格安であることに驚きました。
東京・新潟間の新幹線+新潟・酒田間の特急列車+酒田東急イン(ツイン利用)1泊2日18,400円です。ホテル宿泊代金を5,200円として、交通費は往復12,000円!・・・高速バス東京・酒田往復料金14,170円よりも安いのです。
 但し、制約があります。詳しくは[乗換案内トラベル]のサイトを・・・

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東京下町散歩・・・隅田川(向島)七福神めぐり

2010-01-26 13:42:47 | Weblog
正月に隅田川七福神めぐりを楽しみました。
1月5日朝日新聞夕刊に七福神ランキングが紹介されていましたが、東京からは浅草名所七福神(2位)、柴又七福神(5位)、谷中七福神(6位)、深川七福神(7位)、亀戸七福神(8位)、隅田川(向島)七福神(9位)がベスト10入りしていました。
同紙で俳優の小沢昭一さんは向島の七福神を推奨しておりました。

向島七福神めぐりは、正月だけでなく、普段の東京下町散歩の絶好のルートになります。ゆっくり歩いて半日の散策ですが、最大の特徴は、国指定名勝及び史跡「百花園」が含まれることです。春夏秋冬、いつでも季節の草花が咲き乱れる百花園は東京下町散歩の絶好ポイントです。
(次のサイトの地図を参照しながら、お読みください。)http://members2.jcom.home.ne.jp/sirahige/images/chizu15.jpg

出発浅草

1. 鐘ヶ淵駅


 浅草から東武線で四つ目、10分、160円です。
写真は踏み切り脇の交番から撮りました。商店街の路地を進みます。

下町の雰囲気が濃密な道です。人家が重なり合うように密集、ところどころ路地が交差します。正月には「七福神巡回路」の大きな看板が要所にありますが、普段は見通しの利かない迷路・・・親切な下町の人に道を尋ねたほうがよいでしょう。

2.多聞寺毘沙門天


 下町の民家に割って入ったような小さな寺と想像しながら到着・・・まず、茅葺屋根の山門には驚かされるでしょう。今まで歩いてきた街の様子とのあまりの違い・・・しずかな佇まいの中にある多聞寺・・・異次元の世界に出会った驚きです。

東京下町は、関東大震災東京大空襲と二度の災害で多くの建物が焼失しましたが、多聞寺はいずれの災害からも逃れ、300年前の面影を今にとどめている数少ない建物です。
 明治の初めまで、この辺りは隅田村と呼ばれ、田んぼや畑、蓮田に囲まれるように点在する人家の周りに竹やぶ、松、ケヤキがあるという風景でした。多聞寺隣には丹頂池があり、鶴の姿も見られました。多聞寺だけが、江戸時代そのままの姿を残しているのです。
 旧幕臣であった榎本武揚は、隠居した後、この地を散策することを殊に愛し、多聞寺の七福神碑は彼の書です。

 多聞寺の次は白鬚神社へ・・・浅草方面にかつての隅田川の堤であった墨提通り沿って下ります。墨提通りは街並みよりわずかながら高くなっており、昔の堤のなごりが残っていますが、今は交通量の多い幹線道路・・・ここを歩くのはあまり快適とは言えません。墨提通りから一段下がった横丁を浅草方面へ歩きます。

3.梅若小学校


 多聞寺から白鬚神社への中間点にある小学校です。校名に注目してください。歌舞伎、文楽、清元で演じられる「隅田川」で登場する悲劇の梅若伝説の梅若丸に因んだ校名としています。
 江戸が東国の寒村に過ぎなかった頃、室町・鎌倉時代に京と東国を結ぶ鎌倉街道奥羽街道が、この辺りで隅田川を渡っていました。
 在原業平が「名にし負はばいざこと問はん都鳥わが思ふ人はありやなしやと」と詠ったのもこの渡しでした。
 梅若小学校を紹介するサイトにこの地の変遷が詳しく紹介されています
http://id30.hp.infoseek.co.jp/umewaka-shougakkou.htm
 梅若伝説については次のサイトをご覧ください。
http://japanese.hix05.com/Noh/4/yokyoku410.sumidagawa.html

4.白鬚神社寿老神


永井荷風が終戦間もない昭和23年に白鬚神社から鳩の街までを歩いています。

昭和二十三年一月十日。晴。暖。来訪者を避けむとて午下市川駅前より発する上野行のバスに乗り浅草雷門に至る。歩みて言問橋をわたり白髭に至る。白髭神社蓮華寺共に焼けず。外祖父毅堂先生の碑無事に立てるを見る。地蔵坂下より秋葉神社前に出る横町にもと玉の井の娼家移転せり。この辺も焼けざりしが如し。向嶋は災を免れし処随分あるやうなり」。

 しかしながら、戦火を逃れた白鬚神社ですが、平成2年に放火により江戸時代から続いた社殿と周囲の名木が焼失・・・荷風の祖父の碑も含めて、そこに立つ数多くの石碑が往時の姿を伝えるのみです。

 江戸時代、ここ寺島村は風光明媚な行楽地として知られ、また、周辺の農家は野菜を江戸市内に出荷していました。特に茄子は品質が良く、「寺島なす」として江戸の人々に賞味されていました。

 5・百花園福禄寿


 墨堤通りから別れる数十メートルの通りが昔の隅田川の土手で、面影が残っています。ここを離れ、南に200mほど町中を進みます。
突然、緑豊かな庭園、百花園にぶつかります。この庭園は、戦災で被害を受け、一時はグランドにしようという意見もでましたが、昭和24年から復興作業を始め、かつての美しさを取り戻しました。今では四季折々の草花を楽しむ人々の来園が絶えません。

 二百年前、佐原鞠塢(きくう)という骨董屋がここにあった旗本屋敷跡を買い取り、庭園を作り百花園と称しました。ある時、風流文雅の通人が集まった席で、鞠塢が愛蔵している「福禄寿」に因んで、向島にも七福神を作ろうと、周辺の寺や神社を探し始めました。隅田村の多聞寺に「毘沙門天」、須崎村の長命寺と弘福寺にそれぞれ「弁財天」「布袋尊」、小梅村の三囲神社に「大黒神」と「恵比寿神」があることまでは分かりましたが、どうしても「寿老人」が見つかりません。そこで、百花園と同じ寺島村にある白鬚神社に目をつけ、鬚を生やした「寿老人」にかかわりがあるに違いないと機知をはたらかせて、向島七福神を完成しました。

6.鳩の街


 百花園から再び墨堤通りに近づくよう浅草方面に向かいます。地蔵坂通りを横切り、墨堤通りの寄りの道を行くとかつての遊郭・鳩の街入口に至ります。この地域も空襲で焼け残り、永井荷風の「墨東綺譚」で知られる遊郭・玉の井が焼失したため、戦後、この通りが遊郭街となり、吉行淳之介が「原色の街」で描いた鳩の街となります。
500メートルの真っ直ぐな狭い路地は、映画のセットのような昭和の初め頃からのレトロな雰囲気が色濃く残る通りとなっています。

7.墨田公園
墨堤通りは隅田公園で終わります。ここには280年の歴史を持つ「長命寺桜もち」と180年続く「言問団子」の二つの和菓子屋があり、散策疲れを癒す観光客の格好の場所となっています。
 交差点を直進すると見番通りに入り、直ぐに長命寺、弘福寺、300メートル先に、三囲神社があります。

8.長命寺弁財天
 

 三代将軍徳川家光が、鷹狩の帰り腹痛に襲われ、ここの井戸の水で服薬、快癒しました。家光は、その井戸を長命水と名づけ、それが寺の名前となります。関東大震災で焼失、現在の本堂は戦後の再建です。
 境内に芭蕉雪見の句碑があり、当地は雪見を楽しむ江戸の風流人が訪れたところであることが分かります。

9.弘福寺布袋尊
 

 17世紀末建立の禅宗の寺です。本堂の重厚な屋根や山門など威厳に満ちた風格があります。関東大震災後の再建で、幸いにも東京大空襲の被害には会いませんでした。
境内に祭られる「セキの爺婆尊」から咳止めにご利益があると信じられ、せき止飴が土産として売られています。

10.三囲(みめぐり)神社恵比寿神大黒神


 徳川家康が江戸に入った慶長年間から当地に鎮座する古社。創建時に、一匹の白狐が神像の周りを三度回って何処へかけ去ったという故事に因んで名づけられました。
 俳人宝井其角の句碑、14歳で亡くなった囲碁の天才・中山善吉の墓があります。

11.向島の花街
 長命寺、弘福寺、三囲神社が連なるこの辺りは、今まで散策してきた墨田、寺島地区の人家が密集していた雰囲気とは異なり、料亭の看板が目に付くようになります。花街の伝統を引き継ぐ高級料亭が数多くあり、夜ともなると、政財界人が宴会を開くところでもあります。

 江戸時代には須崎村小梅村の2村があり、浅草から隅田川を渡ればすぐのこの地は、風光明媚なことから水戸徳川家の下屋敷や武家屋敷も多く立てられました。
 森鴎外が石見・津和野から11歳の時、一家揃って上京していますが、津和野藩主の御典医であった父と居を構えたのが小梅村ですので、明治維新後に残っていた武家屋敷の一つに住んだのでしょうか。

12.東京スカイツリー


 三囲神社脇から、250mまで伸びた東京スカイツリーを間近に見ることができます。2年後完成時には、450mの展望台の真下に、向島の七福神のルートを一望できることになるでしょう。

13.桜橋
三囲神社からは、隅田川沿いを戻り、隅田川唯一のX字型をした歩行者専用橋を渡り、浅草側の隅田公園に出ます。公園を歩いていけば、浅草です。

到着浅草


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電車に乗って、東京見物・・・表参道からの一日の旅

2009-12-04 20:37:40 | Weblog

表参道に11年ぶりにイルミネーションが復活・・・
来年の1月10日まで、表参道の並木道を飾ります。
そこで、表参道から始まり、表参道へ戻る一日東京見物の旅はいかがですか・・・
これから紹介する旅は、3年前の旅です。
来年もイルミネーションが続くなら、もう一度、このルートを辿りたい・・・
そんな思いに駆られています。

五五会と銘打った65歳から83歳までの高齢者グループです。昭和55年にヨーロッパ視察に出かけた同期会の仲間が年一回国内各地に集い、再会を楽しんでいます。年々参加者が少なくなり、10年ほど前から夫婦同伴の、奥様を亡くされた1人と7組の夫婦の会となり、尾道、小松、水戸、十和田、山形、宮崎、松江、松山と続いた会が、今年は東京で開かれました。住まいは九州から東北までの各県に散らばっており、集合するのに1日掛り、もう1日で観光という2泊3日の旅となります。お互いの健康状態をいたわりながら、年一回の交流を続けており、今では遠い親戚といった関係です。

宿泊は表参道に・・・

 東京見物の拠点として、表参道を選びました。宿泊ホテルはホテルフロラシオン青山」、公立学校共済組合の宿泊施設で、組合員以外でも宿泊できます。今風の基準から言うと、施設も古く、各部屋も決して広くはありませんが、何よりも表参道駅から徒歩5分という地の利と、1泊1万円前後という料金で宿泊できるのが魅力です。2泊しましたが、ビジネスマンや外国人も利用しているようでした。

東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線が利用でき、JR山手線渋谷駅・原宿駅からもタクシーでワンメーター、地方から上京する高齢者にも便利なところです。全員、途中迷うことなく、夕方までに到着しました。早めに到着した会員は、荷物を預け、早速、表参道ヒルズに出かけたり、軒を並べる海外ブランド店のウインドウ・ショッピングを楽しみ、目の保養になったようです。
 初日は一年ぶりの再会を祝って宴会、ホテルの宴会席を予約、料理は5,700円、食通が多い会員も満足できる内容でした。

明治神宮に参詣・・・

 翌日は東京見物です。午前9時、三台のタクシーで明治神宮へ。ワンメーターの距離ですが、歩くことが多い本日の日程を考えてのタクシー利用です。
 快晴の天気でしたが、参道は鬱蒼とした樹木に覆われて、日差しがまったく入りません。寒さに震えながらの散策ですが、きれいに掃き清められた参道を歩くのは気が引き締まります。時間が早いのにもかかわらず、観光客が目に付きます。しかし、中国語や外国語を話すグループが多いようです。本堂に近づくにつれて参道両側には奉納される菊の展示が整然と並べられています。本堂周辺は、広い空間となっており、日差しが十分差し込み、秋の陽だまりとなっていました。
 参詣後、横綱の奉納土俵入りが行われる一角で、記念撮影です。



原宿駅から「お年寄りの原宿」巣鴨駅へ・・・

 毎年大晦日から正月4日までの5日間だけ開放される特別ホームと臨時改札口を左手に見ながら、原宿駅に出ます。山手線16分で、巣鴨駅に到着です。
10時30分駅に到着すると、私たちを含めて、年配の方で混雑しています。皆とげぬき地蔵尊高岩寺への参詣者です。駅前の白山通りを渡り右へ、すぐに白山通りから旧中仙道が左に別れ、ここから200mほどが巣鴨地蔵通り商店街で、いわゆる「お年寄りの原宿」となります。

 高岩寺の境内は、境内というより商店街の小さな広場という趣です。片隅に洗い観音が安置され、聖観世音菩薩に水をかけながら、自分の具合の悪い同じ部位をこすると、病気が治るという信仰が今でも信じられており、順番を待つ参観者が列をなしています。水をかけながら「たわし」で擦るのが流儀、そのため菩薩像の磨耗が進み、二代目の菩薩像からは、「タオル」に代わりました。



 商店街では、お年寄りに必要な品物は、なんども手に入ります。お土産類も、昔懐かしい大福もち、せんべい、佃煮、昆布製品、ふりかけなどがあり、商品を売る口上も寅さん風で下町の風情があります。ガイドに引率され買い物をするシニア団体も目にしました。
 お参りをして、買い物をすると一時間はかかります。高岩寺隣の地蔵そば屋さんと交渉、11人の席を確保、昼食となりました。

上野公園から鈴本演芸場へ・・・

 再び山手線に乗り、上野へ向かいます。巣鴨駅から12分ですが、途中の「日暮里」の駅名で盛り上がりました。地方から来た者には「にっぽり」とはとても読めないとのこと・・・そういえば、魯迅の「藤野先生」の中にも「そこで私は、仙台の医学専門学校へいくことにした。東京を出発して、まもなく、ある駅に着いた。『日暮里』と書いてあった。なぜか、私はいまだにその名を記憶している」とあります。

 上野駅では「公園口」から上野公園に向かいましたが、警官の姿が多いので尋ねると、天皇皇后両陛下が上野の森美術館で開かれているシャガール展をご覧になり、丁度お帰りになるとのこと、お見送りしようと5分ほど待っていると、白バイに先導された車列が近づき、紅の地に金の紋章が描かれた天皇旗を飾られた御料車が近づいてきます。寒い日であったのにもかかわらず、窓を開けられ、陛下が手を振られて通り過ぎていかれました。



 不忍池(しのばずのいけ)を散策しながら鈴本演芸場へ。昼の部の途中2時から1時間30分の落語鑑賞でした。落語の合間に三味線漫談、漫才、奇術を挟み、退屈しないプログラム構成、平日の月曜日でしたが約八割の入り、全席自由席のため、土・日ともなると順番を待つ列ができるほどです。65歳以上はシニア割引2,400円、しかし入場者のほとんどが該当するのではないかと思われました。

湯島天神から神田神保町へ・・・



 鈴本演芸場から徒歩十分で湯島天神へ。泉鏡花の「女系図」で知られていますが、我々の年代まででしょうか。女坂から上りましたが、時刻は4時30分、境内は薄暗く、閑散としていましたが、菊花まつりの最中、境内一面の菊の陳列は見事、テレビドラマ「風林火山」にあやかった菊人形もありました。

 ここからタクシーワンメーターで神田神保町へ・・・学生時代ここの古本屋街を散策した思い出を語りながら、夕食会の会場新世界彩館」に到着。意外に知られていないのですが、明治時代、日本に留学するため来日した中国の学生たちは、神田神保町にあった中国留学生会館や周辺にある日語補習所で学びました。孫文、魯迅、周恩来もそんな若者の一人でした。宴席の壁には孫文直筆の書が飾ってあります。新世界菜館は東京で最初に上海蟹を輸入した店で、上海蟹が入るコースという注文で、7,000円でした。



 神保町から東京メトロ半蔵門線で表参道まで15分、ホテルに着いたのは午後8時半でした。青山通りにある日本最古の高級スーパーといわれる紀ノ国屋で入荷したばかりのボジョレ・ヌーヴォー(3,800円)を購入、来年の旅行までのお互いの健康を祈念して、乾杯しました。

今回の東京旅行では宿泊料・都内交通費・食事・飲み物・入場料などすべて込みで、一人42,500円の旅でした。

 
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九州・冬の旅・・・黒川温泉・竹田・佐伯・臼杵

2009-11-26 09:15:48 | Weblog
九州・冬の旅1日目

 大分空港からレンタカーを借り出し、二泊三日の九州旅行を楽しみました。大分空港からのレンタカーの旅は2度目となりますが、前回訪れなかった名所旧跡を訪れるのが今回の旅の目的です。
 その二日目の報告です。

9:00 黒川温泉
9:30 瀬の本高原(海抜1,000m)通過。やまなみハイウエイと交差
10:30 道の駅に立ち寄る。竹田市通過
11:00 緒方町で原尻の滝見学
12:00 佐伯到着 国木田独歩館、城山、平和記念館見学
16:00 佐伯出発
16:40 津久見市通過
17:00 臼杵着(宿泊)


人気の黒川温泉に泊まる:
 大分空港のレンタカー会社の受付で、先客は若い女性二人ずれでした。それとなく係員との会話を聞いていると、私たちと同じ黒川温泉へ出かけるようです。
 黒川温泉は海抜700メート、阿蘇くじゅう国立公園の山間部にあります。一番便利な車で出かけても、どの地点からも2時間は掛かってしまうという、アクセスに難がある温泉地です。それが、今、人気は急上昇中、全国人気温泉地ランキングで上位にランクされるようになりました。

 地元の人の話ですと、以前は近隣の人だけが湯治に訪れるような鄙びた温泉地・・・それが、この十年で様変わり、国内だけではなく、海外、特に韓国からの観光客も増えているとのこと・・・宿泊した旅館山河でもメニューは日本語、ハングル、英語の3ケ国語表示・・・仲居さんに尋ねると、即座に「アンニョンハセヨ」が口から出てきました。簡単な韓国語の挨拶なら仲居さんの多くはできるとのことでした。

 由布院温泉の取り組みを範として、若手の旅館経営者が一致団結したのが、現在につながったとのことです。30軒近い旅館が黒川温泉ホームページに結ばれ、全旅館の一週間の予約状況が瞬時に分かるなどインターネットを利用しての利便性が抜きん出ています。各旅館の装いも、それぞれ特色を持っていますが、湯治場としての鄙びた風情を大切にしており、温泉地としての集落全体が統一されているのが心地よい印象です。湯に入って良し、泊まって良し、散策して良し、買い物して良し、写真を撮って良し・・・ということで冬場でも土曜日、日曜日は、30軒全館が満室状態です。

 

 一つだけホームページを改善してほしい点があります。それは「アクセス情報」、特に積雪があった場合の対応が示されていないことが残念です。私が到着した夕方にも雪がちらついていました。ホームページの写真にも10センチ近い雪景色の黒川温泉が紹介されています。しかし、冬のドライブ情報は、まったくありません。降雪時の除雪はどうなっているのか、スタッドレスタイヤの装着なら大丈夫なのか、温泉地内の細い道路の通行は可能なのか、また、通行止めされることはあるのか、その場合の迂回路はどうなのか・・・など大分空港レンタカー会社では黒川温泉周辺の主要道路の状況は教えてくれましたが、ホームページで詳しい積雪情報をリアルタイムで提供できるはずです。今後のサービスを期待しています。

黒川温泉から竹田市まで:
 442号線を竹田に向かいます。海抜700メートルの黒川温泉から1,000mの滝の本高原へ登りです。20分ほど走るとオートキャンプ場です。ここでやまなみハイウエイと交差、直進します。右折すれば阿蘇です。ここは九重の山々の裾野に当たるところで大草原・・・草地が波打つ高原が続きます。天気がよければ大変景色の良い所です。442号はさらに高度を稼ぐように高原を登ります。側溝には一昨日の雪が残り、路面を粉雪が流れています。慎重に運転、442号の最高地点久住高原を通過、牧場が左右に広がり、「久住山登山口」の看板が見え、ようやく出た晴れ間に雪景色の久住山の東の斜面が見えました。



 ところで、「くじゅう」は「九重」でしょうか「久住」でしょうか。帰宅して調べましたら、1,700m級の山々を有するこの火山全体の総称が「九重山」、主峰を「久住山」と呼び、国立公園としての名称はひらなが表示で「阿蘇くじゅう国立公園」、町名は「九重(ここのえ)町」と「久住(くじゅう)町」となることが分かりました。
 久住高原から竹田までは下り一方の道、途中、道の駅に立ち寄りましたが、観光客用というより地元の方々のスーパーという風情で、数人の主婦の方が買い物をしていました。昨夜、黒川温泉の夕食に出た熊本名物の「ずいき」、そして珍しい「カチ栗」を買い求めました。

 442号は竹田市会々(あいあい)まで、信号を右折して平トンネルを抜け、二つ目の交差点を左折して502号を臼杵方面へ進みます。竹田にも、もう一度立ち寄りたいところですが、今回の旅では佐伯訪問がメイン、「荒城の月」のモデルと言われる滝廉太郎ゆかりの岡城を左手に見ながら502号を進みました。

竹田から佐伯へ:
 竹田からは緒方町を目指します。ここに日本の滝100選にも選ばれている原尻の滝があります。



真冬のこと、観光客は誰一人いませんでした。北風にあおられた水しぶきが飛んできます。観光用に架けられたつり橋を中ほどまで歩き、揺れる中で写真を撮りましたが、風が強く、寒く、早々に退散、車に戻りました。
 502号線は清川村、三重町を通り、野津町で国道10号線日向街道に出ます。ここを右折し佐伯に向かいます。途中日本で一番美しいとされる風連鍾乳洞が左手にありますが、佐伯での滞在時間を確保するためにパス、佐伯の市内に入りました。大手前で「歴史と文学の道」に左折、正面に城山(佐伯城・鶴屋城)の三の丸櫓門が見えます。左手に御殿跡である広い市営駐車場に車を停めました。

国木田独歩館を訪れ、城山に登る:



 今回の九州旅行の最大の目的は、国木田独歩が佐伯で教師をしている間、下宿していたその部屋を訪ねること、何度となく独歩が散策した城山に登ることです。
 写真は城山の頂上、本丸から佐伯市内を撮ったものです。独歩が見た田んぼや畑の中に点在する民家、町の近くまで入り込んだ海岸線の風景とは大きく異なっているでしょうが、遠くに見える山や海、島、そして海に流れ込む番匠川の流れなどはそんなに変わっていないはずです。
  20分ほどで天守閣跡に着きました。独歩が目にしたタキギ拾いの小娘たちの姿はありませんでいたが、ウオーキングを楽しむ中高年の方々と出会いました。佐伯に着いた頃から天気が回復、頂上までの20分で、汗びっしょりです。独歩が「春の鳥」に書いている通り「冬ながら九州は暖国ゆえ、天気さえよければごく暖かで、空気は澄んでいるし、山登りはかえって冬がよいのです」という城山散策となりました。
 
 八ヶ月という短い佐伯滞在でしたが、その間、独歩は佐伯の山野を歩き回り、佐伯を舞台にした小説を書きました。その中で最もよく読まれているのは知恵遅れの子ども六蔵と城山を描いた作品「春の鳥」でしょう。初めて読んだ時の感動は、いまだに忘れることができません。同じく子どもを題材としたモーパッサンの美しい短編小説「シモンのパパ(LE PAPA DE SIMON)」を読んだ時と同じような感動を覚えたのです。(独歩は、島崎藤村、田山花袋らと並んで自然主義の旗手、当然、モーパッサンの作品を読んでいるはずですから、その影響もあったかもしれません)

 それにしても、114年前、独歩が下宿していたその家と部屋がそのままの佇まいで、同じ場所に現存していることが信じられないことです。独歩が暮らした渋谷道玄坂や新宿大久保付近は、当然のことながら、あまりの変貌にその所在地さえ特定できないのです。
 国木田独歩館となっているその部屋で誰もいないのを幸いに、胡坐をかいてしばらく思いを114年前に馳せていました。東京に戻った独歩が、その翌年、恋の逃避行で滞在した塩原温泉上会津屋の前を、先日の南会津への旅で通過したばかりですから、ことさら独歩への思いを強くしていました。
 


平和記念館と真珠湾攻撃:
 城山からの次の目的地は「平和記念館」と名づけられた建物がある旧日本海軍佐伯航空隊の基地跡です。城山から海岸方向へ車を走らせましたが、見つけることができません。下校途中の女子中学生の二人連れに道を尋ねましたが、首を傾げるばかりです。ようやく犬を連れて散歩中の年配の女性が教えてくれました。
 
 訪れたのは閉館まじかな午後三時半、館内には見学者は誰もいません。外には米軍の航空機の残骸が、また日本軍の航空機を格納していた掩体壕が周辺に見えます。佐伯湾は、水深が深く、大型艦船も停泊できる良港です。このことが、佐伯が太平洋戦争時に旧日本海軍と深い係わりを持つことになります。
 真珠湾攻撃を想定した日本海軍は、この湾を真珠湾に見立てて、日夜訓練を重ねました。そして、連合艦隊はここ佐伯湾から三々五々出航し、択捉島単冠湾に集結、そこから真珠湾に向かったのです。

 記念館では佐伯航空隊の基地の様子、将兵の写真や関連する品々を展示、また佐伯空襲の様子が当時を知る人々のインタビュー映像で説明してあります。展示物の中で最も感動したのは、矢野龍渓が大正9年に佐伯市長に宛てた手紙です。佐伯に軍港を誘致しようとする動きがありましたが、矢野龍渓はこれを諌め、平和の時代を目指す民生用の港として発展すべきだと旧知の市長に宛てた手紙です。矢野龍渓は国木田独歩を鶴谷学館に招いたその人であり、軍国主義の風潮に惑わされることなく、遠い未来の日本のあり方を見据えていた姿勢に、深く感激しました。この手紙を読んで、本館を「平和記念館」と名づけた佐伯の人々の思いがようやく分かりました。

佐伯から臼杵へ:
 平和記念館を出たのは午後4時です。ガソリンスタンドで臼杵への道を尋ねると、地元の人なら40分ほどの道程だとのこと、暗くなる前に到着できそうです。国道10号線に戻り、川沿いをしばらく走り、弥生町で右折、カーナビの指示通りに走りました。床木ダム沿いの道は、右手の山間部に建設中の高速道路工事の関連で通行量が多く、またカーブの多い一車線の道路をスピード制限を越えて追い抜きをかける車もあり、後続車にも視線を走らせながらの運転でした。
 彦岳トンネルを越えると下り坂、両側にミカン畑が連なります。濃い緑の葉に包まれるように黄色のミカンが鈴なりになっている景色に津久見に入ったのだと実感できました。臼杵に通じるトンネル手前の左の山々全体が頂上までも削られ白い地肌を見せています。鉱山であることは分かりましたが、それが小野田セメントの工場であることを後で知りました。
 
 トンネルを抜けると、直ぐの信号を右折、臼杵市内のホテルに到着したのはちょうど午後5時、100キロのドライブでした。










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自然首都・只見のブナの森を訪ねて

2009-11-01 14:02:19 | Weblog
只見町の中学生たちが五能線を走る観光列車「リゾートしらかみ橅(ぶな)編成」を、只見線で走らせるアイデアを提案したニュースが飛び込んできました。世界に誇る日本のぶな林を有する白神と只見の村々を同じ列車が走る・・・ぜひ夢が実現することを祈ります。


10月上旬にブナの黄葉を訪ねようと、世界遺産・白神山地に出かける計画を友人と立てていましたが、用事で行けなくなりました。そこで、「奥会津のブナ林は、規模的にも白神山地を上回り、原生林に極めて近い状態で残っている世界的にも極めて貴重な自然である」という奥会津・只見町に変更したのです。

東京23区とほぼ同じ面積の自然の中で生活する住民はわずか5000人、町が標榜する「自然首都」という標語にぴったりの町です。
ブナの見所として、「山神杉のブナの森」「大久保沢のブナの森」「癒しの森」「六十里越雪わり街道・ブナの森」「恵みの森」の五箇所を町では推奨、その一つ、浅草岳の裾野にある「山神杉のブナの森」を訪れました。

宿泊した民宿から車で10分、叶津川沿いの289号の終点近くにある浅草岳登山口に20台ほどの駐車スペースがあります。登山口には登山者数カウンターが設置され、町の自然保護の姿勢が伝わってきます。
登り始めてすぐに、ブナの木が登山道の周辺に見られるようになります。登るにつれて、数も増え、木もだんだんと大きくなります。一時間少々で、浅草岳の頂上に通ずる尾根の鞍部に到着、そこに立派な杉の巨木がそびえています。山神杉です。この周辺が「品格・規模・美しさのいずれをとってもトップクラス」と言われるブナ林です。



登っている途中で、ブナの写真を撮影するために一人で登られてきた方が私たちに追いつきました。お話を聞くと、日本の山岳だけでなく、アルプスやヒマラヤなど世界の山々に登られておられるとのこと・・・あのマッターホルンにも単独登頂されているというお話には驚かされました。
山神杉の先までご一緒させていただき、ブナの話をいろいろと聞かせていただきました。そして、山神杉のブナの森でもっとも巨木であるという樹齢300年前後のブナまでわざわざ連れて行ってくださいました。この方の案内がなければ、あの巨木に出会うことはできなかったでしょう。

只見町観光まちづくり協会http://www.tadami-net.com/)ではブナの森探勝にはガイドの同行を勧めています。安全面からだけでなく、ブナを知り尽くしている方の案内と説明があってはじめて、ブナの森の本当の姿を知ることができ、後世に伝えなければならない貴重な自然遺産であることを実感できるのです。
ガイド料金は半日5,000円、一日10,000円です。三日前までに協会に連絡します。

アクセス
400号・塩原温泉⇒尾頭峠(トンネル)を越え、121号・旧会津西街道を北上、山王峠(トンネル)を越え、田島へ⇒289号で駒止峠(トンネル)を越え、南郷へ⇒伊南川沿いを只見町へ下る

西那須野塩原I.C.から100キロ、2時間30分のドライブ、三つの峠を越える山間道だが整備されている。南郷からは伊南川沿いの平坦の直線道路。ただし、特別豪雪地帯なので、冬期のドライブは細心の注意が必要。
○ 電車利用の場合は、浅草駅or北千住駅から東武鉄道直通電車で会津田島駅へ。只見町に通ずる路線バスはないので、タクシー利用。レンタカーで向かう人も多い。
○ 只見町を走るJR只見線は1日3、4本の列車しか運行されていない。ただし、「紅葉が美しい鉄道路線日本第1位に選ばれている。

泊まる
 電源開発の町であったことから、町の規模に較べて、旅館の数が多い。いずれも木造建築の、歴史を感じさせる風格がある。
民宿も多く、新潟の魚沼に隣接していることもあり、只見川の名水で育てられた地元産コシヒカリのご飯がおいしい。地元産の手打ち蕎麦を出す民宿もある。
 秋にはブナからの贈り物・きのこ料理が食卓を飾るが、今年は大不作。春から大切に保存してあった山菜が添えられていた。

街の様子は次のページで・・・
http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/82690d4c8651c8468aad19e555240a8f





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秋の奥会津・只見町を歩きました

2009-10-25 13:44:06 | Weblog
奥会津にある只見町に秋を訪ねました。
昨年の夏は通り過ぎるだけでしたが、今回は民宿に一泊しました。
早朝から、只見の町を散策しました。


せせらぎの音がどこからも聞こえてきます
 町の中で半日ほど過ごしましたが、どこにいても、水の流れが聞こえてきます。厳冬期でも8度、真夏でも20度という水温の清冽な水の流れが、町に張り巡らされた水路を流れています。
 JR東日本只見線の只見駅前にある観光案内図には、町の中だけで10ケ所の名水が湧き出ていることが記されていました。「第10回水の郷サミット」が開かれた町であることが納得できました。

 民宿で出されたご飯のおいしかったこと・・・新米のこしひかりで、六十里越向こう側の新潟魚沼産こしひかりに遜色ない風味で、これも只見町の水が作り出した賜物でしょう。
 また、町にそって流れる只見川の水流の豊かさにも驚かされます。源流は尾瀬沼で、年間雨量が多く、日本有数の豪雪地帯の山々から急峻な渓谷に流れ出る只見川の流れは、奥只見ダム、大鳥ダム、田子倉ダム、只見ダムと只見町の上流に四つのダムがあり、電源の町でもあります。

家々は早くも雪囲いの支度です


 写真は庭木の雪囲いが終わったお宅です。今では少なくなった奥会津を代表する曲家で、かつての茅葺屋根ではありませんが、よくその姿を残しています。街の中を散策しましたが、只見町では数軒の曲家しか目にしませんでした。

 庭木の雪囲いが済むと、次は家の番です。一階の窓に落とし板をはめて、窓が雪の圧力で壊されないようにします。家の雪囲いを始めたお宅はまだ見受けませんでいたが、中学校ではピロテイ部分は終わっていました。26箇所の柱の間にそれぞれ9枚ほどの板を落とし、板の数は200枚以上はあります。板の一枚一枚に方角と番号が書かれ、毎年雪囲いをする苦労が伝わってきます。

 もう一つの冬支度があります。融雪池の設置です。昔は家の脇に池を作り、屋根から落ちる雪をそこで溶かしていましたが、最近の家では屋根の下に組み立て式のプールを冬期だけ設置して、融雪池としています。宿泊した民宿ではそのための機材が用意されていました。



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英国で最も美しい村:バイバリーBiburyのフットパスを紹介します

2009-08-31 12:50:28 | Weblog
新たな情報を追加しました
http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/2529d0431ba589ec245c868a066cd3d2


日本フットパス協会が発足したというニュースを新聞報道で知りました。
フットパスでゆったり観光」という見出しで、「英国発 あぜ道や農村の集落をそぞろ歩き」という運動を、長野県栄村の取り組みを中心に、紹介していました。

栄村の観光名所秋山郷を観光バスでやってきて、ほんのさわりを見て帰っていく人がほとんど・・・」と栄村観光課長さんの談話が載っていましたが、私も三回ほども秋山郷を訪れていますが、村の中のあぜ道をゆっくり歩き、村の生活や環境を楽しめるプログラムが用意されれば、ありがたいことです。
長野県栄村http://www.vill.sakae.nagano.jp/

 フットパス発祥の地英国でフットパスfootpathのウオーキングを楽しんだことがあります。
 英国で最も美しい村と言われるバイバリー村Bibury)での体験です。15年前に一度しか訪れたことがないのにもかかわらず、今でもはっきりと思い出すことができます。自分の足で、バイベリー村のフットパスfootpathをゆっくりと歩いた思い出が印象的だったからでしょう。

バイバリー村の写真を見てみましよう。



ロンドン北西100キロ位から、なだらかな丘が続き、英国らしい田園や家並みが残る一帯はコッツワルドCotswolds)と呼ばれていますが、その一角にあるバイバリー村は、鱒が泳ぎ、白鳥がやって来る清流コルン川( River Coln)が村の中を流れ、牧場や麦畑に囲まれた人口1500人の小さな集落です。
 正確にはコロン川の北側がBibury,南側がArlingtonで、わが国の民芸界にも大きな影響を与えている英国の詩人・小説家・建築家・デザイナー、ウイリアム・モリスWilliam Morrisが「the most beautiful village in England」と紹介した村でもあります。
 17世紀の村の織工たちが住んでいた石造りの長屋「Arlington row」が現存、最大の見どころとなっています。
それでは、次のサイトでバイバリー村の写真をお楽しみください。
ヤフー写真集http://uk.images.search.yahoo.com/search/images?_adv_prop=image&fr=yfp-t-702-s&va=bibury&sz=all

バイバリー村を航空写真で見てみます。
ドライブルート検索のroute-plannerを利用します。ヒースロー空港からバイバリーまでレンタカーで出かけることにして、このサイトの衛星写真を利用して、村を上空から眺めることにします。
 村を取り囲むように牧場や耕作地が広がっていますが、それぞれの区画が生垣(hedge)や溝(ditch)土手(bank)で区切られているのが見て取れます。これらの生垣・溝・土手に設けられた「あぜ道」が「footpath」となっており、ここを歩きながら村の周辺のウオーキングを楽しむのです。
では、手順です。
route-plannerを開きますhttp://www.theaa.com/route-planner/index.jsp
出発地{From:}欄にHeathrow airportを、目的地{To:}欄にBiburyを打ち込み、{Get route>>}をクリック
ヒースロー空港からバイバリーまでのルートが示されます。小村であるバイバリーの文字は現れません。
目的地バイバリーを示す記号を画面中央にスクロールします。バイバリー村を中心にズームインするためです。
ズームイン{+}を何回かクリック、アーリントンArlington,続いてバイバリーBiburyの地名が中央に現れます。
コルン川がはっきり地図上にあらわれる縮尺で、{map}の隣の{衛星写真}欄をクリックし、上空からの写真映像に替わります。

県道B4424がバイバリーとアーリントンを結んでいるコルン川に架かる橋の脇にあるスワンホテルSwan Hot(衛星写真からも見えます)に泊まり、次の日、牧場と麦畑を囲むあぜ道を歩き、森に入り、白鳥や鱒が遊ぶコルン川の清流沿いを歩き、バイバリー村を思う存分たのしみました。

フットパスのルールです。
フットパスのウオーキングは、英国では通行権(right of way)として公共の権利として認められていますが、当然、ルールがあります。
地図を入手して、そのルートに従って歩かなければなりません。地図はホテルか観光案内所tourist information(筆記体のiがトレードマーク)で入手します。
ウオーキング専用ですから、自転車は入れません。なお、犬は飼い主の責任で一緒に連れて行くことができます。
農場の牛・馬・羊などの家畜が外に出ないようにフットパスに扉が設けられている場合は、開けたら必ず閉めるという暗黙のルールがあります。

 英国に出かけたときには、ぜひ、footpathをお楽しみください。




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世界遺産・カタルーニャ音楽堂でコンサートを楽しむ

2009-07-26 11:07:06 | Weblog



さあ、世界遺産カタルーニャ音楽堂の映像の旅をしばし楽しみましょう。

Palau Musica Catalunaのホームページhttp://www.palaumusica.org/を開きます。
映像の右、2番目の{Visites Guiades 案内}をクリック、
映像下、一番右の{Visita virtual 映像案内}をクリック、
映像での音楽堂の旅の始まりです・・・

スタートは、もちろん、カタルーニャ音楽堂を象徴する、天井からU字に垂れ下がる巨大なステンドグラスです。・・・続いて、ステージ正面を飾る薄紫のパイプオルガン、その下のカタルーニャ州旗の左右に、それぞれ自分の楽器を演奏する18人の女神、上半身はテラコットの彫刻、スカートからの下半身はモザイクが飾ります・・・そして、舞台天井の左右から、ワグナーの楽劇「ワルキューレ」の馬がせり出しています・・・

あの色合い、あのステンドグラス、そしてあの醸し出だされる雰囲気・・・これがカタルーニャ音楽堂を特別なものとしているのだ」という感想の一端が、この一連の映像からも伝わってきます。



建築家ドメネック・イ・ムンタールがデザイン、1908年に完成、1981年に改修、そして1997年に世界遺産に登録されたカタルーニャ音楽堂は、バルセロナの市民合唱団の練習場として建設されたというから驚きです。
ホールに入るとその明るさにまず、圧倒されます。天井のステンドグラスから光が注ぎ、木々を思わせるモザイクで装飾された柱、周囲のガラスからの採光、ホール全体が光溢れる庭にいるかのような錯覚にとらわれます。

ここは正しく音楽堂なのです。旧市街の狭い道に接する正面入口には、バッハ、ベートーベン、パレストリナ、ワグナーの彫像が・・・バルコニーの上には、モザイクのカタルーニャ州旗が・・・その下を男女の合唱団のモザイクが彩ります。14本の柱は、14種の花のモチーフで飾られています。

見学コースもありますが、時間は30分、あまりにも短すぎます。そこで、年に300回は開かれるというコンサートを楽しんだらいかがでしょうか。
 訪れた6月26日は11校の大学の合同管弦楽コンサート、といっても半分はプロの演奏家、半分が学生の選抜、最後は50人以上の合唱団も加わるという楽しい音楽会となりました。21時から23時30分、たっぷり世界遺産のカタルーニャ音楽堂での夏の一夜を過ごしました。

コンサートの入場券を買うには

カタルーニャ音楽堂の裏口にあるチケット売り場(Taquillesタキリャス)で、午前10時から午後9時の営業時間内に購入します。
8月は夏休みでコンサートは開催されません。
夏休み前後の7月下旬と9月上旬は購入しやすい。
コンサートの内容によっては当日でも購入できます。
空席数はインターネットで調べることができます。(後述)

確実に購入するためにはインターネット予約を



9月2日の公演に・・・ということで手順を説明しましょう。
サイトを開きます。http://www.palaumusica.org/
02set(9月2日)の日付と演目にカーソルを移動、クリックします。
コンサートホール(Sala de concerts)で,ギター演奏が木曜日(Dimecres ),21:00からです。なお、付属の小音楽堂(Petit Plauプチ・プラウ)で開かれる場合はホールに入れません。
Comprar 購入}のアイコンをクリック、
入場料(Preu )・ゾーン(Zona)・エリア( Area)・空席数( Disp. )・配置図(Mapa de situacio)
のページに変わります。ゾーンは文字で、エリアは色分けで、配置図に示されています。9月2日はほとんど予約が入っていないことが分かります。
購入希望のゾーンの一つにカーソルを移動、クリック
ホール内写真に該当のゾーン内の席が緑色Disponibles 空席)、青色Seleccionades 予約済)のドットで示されます。
希望の座席をクリック、
ドットが青色に変わり、座席の列(Fila)、座番号(Butaca)、料金( Euros )、手数料(Comissio)が表示されます。{Continuar→}をクリック
国内在住者用のサービスページに替わります。no(いいえ)にチェックが入っているのを確認して
Continuar→}をクリック
申し込みページです。受付番号は記入されています。名前、メールアドレス、電話(国番号81+先頭の0を取った自宅番号)を打ち込み、続いてクレジット情報(DADES TARGETA DE CREDIT)に・・・番号(Numero)有効期限(Data Caducitat)を記入します。
最後に、販売条件(CONDICIONES DE LA VENDA)です。「条件を読む{Llegir les conditiones}」をクリック
ここに述べられている主な条件とは・・・

メールで送られる承諾書とクレジットカードを入場券売り場(Taquillesタキリャス)で示して、入場券を受け取ること
営業時間午前10時から午後9時まで、コンサート開始1時間前まで
コンサート開始時間を厳守して入場のこと
ホール内での喫煙、撮影は厳禁

ページを閉じ、「条件を承諾します(Accepto les condicions)」欄にチェック入れ、
送付すれば終了。
承諾書(APROBADA)がメールで送られてくるので、プリントアウトして持参する



12月22日の公演に・・・ということで手順を説明しましょう。
以上9月2日のコンサート予約方法を説明しましたが、それ以降の予約はどうすればよいのでしょうか。12月22日で見てみましょう。
サイトを開きます。http://www.palaumusica.org/
写真下に{Veure mes→}の文字が見えます。「各月を見る」という指示です。
これをクリック、
2008年から2009年までの各月が出てきます。最後の{Temporada 2009-2010}をクリック、このシーズンの予定一覧が出てきます。
この中から12月22日(22 des)を選びます。
以降は、上記の9月2日と同じ手順です。

 12月はコンサートシーズン、12月22日の公演は、現時点の予約でも、すでに空席わずか、しかも料金は高額です。なお、12月19日、20日、24日、31日は他の団体主催です。カタルーニャ音楽堂では入場券の予約はできません。

 12月24日のコンサートへの入場券購入についての問い合わせ(コメント)をいただきました。発売同時に完売しているか、他の団体主催と思われますが、どうしても入手したい場合には、「カタルーニャ観光http://www.catalunya-kankou.com/」にメールで問い合わせてみてください。日本語で大丈夫です。ただ、入手できたとしても高額になると思われます。

NHKの音楽番組「Amazing Voice驚異の歌声」で紹介されました。


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スペイン国鉄renfe(レンフェ)に乗ってフィゲラスへ・・・

2009-07-18 15:20:20 | Weblog



ダリ美術館Teatre Museu Dali(写真)を訪れようとパセッジ・ド・グラシアPasseig de Gracia駅からrenfeに乗りました。往きは快速列車のカタルーニャ急行Catalunya Expresで1時間40分、復路は普通列車Regionalで2時間10分の列車の旅となりました。

RENFEレンフェとは「Red Nacional de Ferrocarriles Españolesスペイン国鉄網」の略語で通称名です。10年前の初めてスペイン旅行でマドリッド中央駅のアトーチャ駅にレンタカーを返すために駅隣接の駐車場に乗り入れたことはありますが、renfeには乗っていません。5年前のアンダルシアもレンタカーの旅・・・今回のバルセロナ旅行がrenfeに乗るのは初めての体験となりました。

サンツ駅がバルセロナの中央駅です
(サンツ駅の写真ですhttp://www.trenscat.com/renfe/barcelonasants_ct.html
renfeのバルセロナの始発駅はサンツBarcelona Santsです。マドリッドに向かうスペイン高速鉄道AVE(アーベ)もここから出ています。フィゲラスへはフランスとの国境の町ポルボウPortbouへ向かうrenfeに乗ります。
 混雑するサンツ駅を避け、隣の駅、パセッジ・ド・グラシア駅から乗りました。スペインでの初めての列車の旅、駅の様子も分からない上、切符の買い方にも不安があります。そこで、前日にグラシア通りを散策した折、世界遺産の一つガウデイのカザ・バトリョCasa Batllo前にある地下駅、metroとrenfeが交差するパセッジ・ド・グラシア駅の構内に入り、地下鉄は自動販売機で、列車は7つの窓口が並ぶ切符売り場で購入することを確かめておきました。

切符は窓口で購入します
ポルボウ行の列車は一時間に1本の割、快速と普通列車が交互に出ています。当日、7時51分発の列車で行くことにしました。往復切符(ida y vueltaイダ・イ・ブエルタ)で18.60ユーロ、クレジットカードを出しましたが、現金で支払うようにとのことでした。
 外国人であることが分かったのか、時刻表Horaris(オラリス)を出しくれ、発車時刻とフィゲラスの到着時刻に印をつけ、2の数字を書き込んで、二番線(via 2)から乗るように、更にFigueres発の3本の列車の発車時刻に印をつけて、このいずれかで帰るといいだろうと手渡してくれました。

車内検札があります
 親切な駅員にお礼を言い、自動改札口を通り、ホームに降りました。カタルーニャ鉄道もそうでしたが、スペインの地下駅は薄暗く、排気にも問題があるのではないかと心配になります。
 7時51分発はCE(Catalunya Expres)です。日本の客車より車高もあり、一回り大きい車両です。客席は片側2列で、日本の新幹線よりゆったりとしています。土曜日であったためか、当初の乗客は六人だけ、フィゲラスまでガラガラでした。
 快速列車は追加料金が掛かるとブログで読んだことがありますが、車内検札の際に、請求されませんでした。切符のI/VのI(ida 往き)の部分にチックを入れるだけでした。検札でちょとした事件がありました。ぐっすりと寝込んでいた若者を起こして、車掌が検札しようとしましたが、なにやら厳しい表情で若者を問いつめています。やがて、次の停車駅で若者が下ろされてしまいました。切符を持っていなかったのか短距離の切符で乗車していたのでしょうか・・・



車内アナウンスはなく、静かな旅を楽しめます
 過日の朝日新聞・天声人語は、過剰な車内アナウンスを取上げていましたが、スペインの車内アナウンスは次の停車駅名を直前にアナウンスするだけです。これはカタルーニャ鉄道でも同様でした。ただ、わずかな違いがあります。カタルーニャ鉄道では、「Proxima Estacion, Monistrol Montserratプロキシマ・エスタシオン、ムニストロ・モンセラット」と1回だけ、renfeでは「Proxima Parada, Figueresプロキシマ・パラーダ、フィゲラス」を2回アナウンス、estacion「駅」とparada「停車場」の違いが面白く、renfeの伝統を感じました。
 線路に並行して、ところどころで、新線が建設され、郊外ではかなり完成していました。おそらく、フランス国境に向けて、新しい高速鉄道を建設中なのでしょう。

車窓から風景を楽しむのもよいものでした
 バルセロナの地上に出ると、しばらく工場地帯を走ります。日産自動車のバルセロナ工場もあります。昨年、1,600名の従業員解雇への抗議デモが報じられていましたが、どうなったのでしょうか。
 郊外のマンションはバルセロナへ通う勤労者の住居、やがて戸建の住宅地が多くなります。30分も走ると田園風景の丘陵地帯です。駅はだいたい町外れにあり、駅前には駐車場があり、大木となった並木道が街の方角に伸び、renfeの歴史を感じさせる駅もありました。
 1時間を過ぎた頃、立派なカテドラルが聳え、石造りの家が連なる歴史を感じさせる街に停まります。ここがジローナGironaで、情緒豊かな中世からの街で、旧市街にあるユダヤ人の住居はヨーロッパ有数の保存状態の良く、迷路のような路地裏を散策は得がたい体験となります。

フィゲラスも町の東の外れにあります
 ダリ美術館は、街の中心にあって戦火で荒れ果てた市民劇場を、ダリ自身が設計して美術館として改修したものです。
 駅前の公園を通り過ぎ、北東へ徒歩で10分、市(マーケット)が開かれるカタルーニャ広場、子どもの遊び場となるランブラ広場を過ぎると、狭い石畳の通りが美しいフィゲラスの繁華街に出、教会の脇の坂を登ったところにTeatre Museu Daliがあります。
 訪れた日は土曜日、市が開かれ、近隣の何軒もの農家が果物や野菜を並べていました。フィゲラスはフランス国境まで40キロ、フランス・プロバンスの市(いち)、マルシェ(marche)を思い出しました。

 
ダリ美術館見学記です



  ダリ美術館は中庭を取り巻くように三階まで回廊がめぐらされ、展示室になっています。階段を登りながら、次々とダリの作品を見学できるようになっています。ある解説書に「・・・まるでビックリ箱をひっくり返したようなダリのトリックを楽しみたい」とありましたが、まさしく、次から次へとトリックの連続で、覗き込んだり、透かしたり、見上げたり、見下ろしたり、「精神医学のバラノイア(偏執狂)を芸術に取り入れた異端の画家」と称されるダリの真髄が示されています。作品を見ているうちに、展示室の消火器までもが作品に見えてしまいました。ダリの作品を見ているのか、ダリの作品に見られているのか、ダリの世界に引きずり込まれた2時間でした。
 美術館を後にして、土産物店や食堂が軒を連ねるサント・ベレ教会脇の坂道を下り、オープンカフェとなっている広場でアイスクリームを食べようやく現実の世界に戻りました。










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バルセロナからモンセラットへ

2009-07-12 09:15:43 | Weblog



個人旅行であれ、ツアー旅行であれ、バルセロナに行くことがあったら、ぜひ、モンセラットを訪れたらいかがでしょうか・・・。
 
 バルセロナの北西部50キロに位置するモンセラット(Montserrat・・・mont 山/serrat鋸で切られた)は海抜1236mの独特な山容の岩山で、そこにある大聖堂の礼拝堂に安置されている黒いマリア像は、カタルーニャの人々の崇拝を集めています。また、ガウデイなどの芸術家がインスピレーションを受けたといわれる奇岩からなるモンセラット山全体が聖地となっています。

 大聖堂だけの訪問ならバルセロナから半日コースですが、折角訪れるのですから、聖地モンセラット山のハイキングも体験する一日コースとしたいものです。

モンセラットは礼拝堂と修道院から成る小さな街です
 大聖堂は麓の町から600m標高差のあるモンセラットの中腹にあります。11世紀に建てられた小さな教会が始まりで、その後カタルーニャの中心的な大聖堂となります。19世紀初頭にナポレオン軍の侵攻で破壊されますが、修復され、以前の荘厳な姿を取り戻し、現在80名の修道士によって運営されています。
 礼拝堂と修道院の他に、修道士達の宿舎、美しい歌声をミサに響かせる少年聖歌隊の学校、観光客のためのホテル、レストラン、カフェテリア、バール、観光案内所などが一体となって小さな街という趣です。

NHKの音楽番組「Amazing Voice驚異の歌声」で紹介されています。
http://blog.goo.ne.jp/masa4439er/e/e2d44ccddf25cab802450b06b37c1d02

  ホームページhttp://www.abadiamontserrat.netを開き、{Visita Virtual}をクリック、周辺の映像をご覧下さい。

モンセラットとは「のこぎり山」のことです
 Montserratはmont「山」 serrat「鋸」の合成語です。太古の時代、周辺の土地が陥没し、高さ1200メートル、長さ10キロ、幅5キロの台地が取り残され、やがて長年の風雨に浸食され、現在の山容となりました。標高1000mから1236mの峯が連なる決して高い山ではありませんが、独立峰として君臨、またその独特の山容から人々の信仰を集めてきました。
  近くから見るモンセラット山は鋸で切り裂かれたように見え、朝や夕に裾野に広がる山容の影が鋸にそっくりであり、遠方からみるモンセラット山のシルエットは、地上に置かれた鋸のようにも見えます。

電車と登山電車を乗りついで行きます
 観光バスは山道を登って礼拝堂まで行きますが、バルセロナ・エスパーニャ広場の地下駅プラサ・エスパーニャPlaza Espanyaから出るバルセロナ公営鉄道FGCとロープウエイか登山電車利用が便利です。近距離電車など複数の行き先の電車が出ていますので、1時間に2本の割で出ているマンレサManresa行きのR5線に乗り、ロープウエイ利用ならモンセラット・アエリ駅Monserrat aeri, 登山電車cremalleraクレマジェラ利用なら1つ先のムニストル・ド・モンセラット駅Monistrol de Monserratで降ります。



 2004年に敷設された登山電車は、ムニストル・ド・モンセラット駅から海抜700mにある礼拝堂まで20分でゆっくり登り、途中の景色が素晴らしく、観光客を魅了します。往復切符で14.60ユーロでした。
Pl Espanya駅の改札口に切符の自動販売機(スペイン語・英語に切り替えられる)で{Montserrat}/{tren+cremallera}/{ida y vuelta(イダ・イ・ブエルタ往復)}を選んで購入します。自動販売機脇には、係員が常駐、観光客の切符購入を手助けしてくれます。
カタルーニャ鉄道の路線は次のサイトをご覧下さい。
http://www.fgc.es/downloads/linia/linia_llobregat.pdf

モンセラットへの車中、フィリピン人のシスターと同席でした
 朝8時16分発の電車に乗りましたが、モンセラット修道院のミサに通うフィリッピン人の若いシスターと一緒の席になりました。バルセロナに来て、それぞれ8年と2年になるという二人と、英語とスペイン語でのカタコト会話となりました。
フィリッピンの教会から派遣されてきたとのこと・・・フィリッピンという国名は、スペインのフィリップ2世に因んで付けられたもの、両国の間には植民地時代からの深い関係が続いているのでしょう。
 おしゃべりをしたり、飴を交換したり、写真を撮ったりしている内に、あっという間に1時間が過ぎ、彼女らはMontserrat Aeriでロープウエイに乗り換えるため降り、ホームから「Proxima Estacion!(プロキシマ・エスタシオン:次の駅よ)」と私たちに念を押し、「Cuidate!(クイダテ:気をつけて)」と手を振ってくれました。

大聖堂見学後、ハイキングに出かけました
 楽しみにしていたヨーロッパ最古の歴史がある少年聖歌隊のコーラスは、モンセラットに出かけたその日6月25日からEscolania(エスコラニア:聖歌隊の学校)が二ヶ月の夏休みに入ったため、聞くことはできませんでした。
 そこで大聖堂見学後、ハイキングに出かけることにしました。5つあるルートのうち、最長の3時間コース,最高峰Sant Jeroni(1236m)を目指しました。



 Information Centerで英語版のルート説明と地図「Itineraries from the Monastery」を貰い、funicular( フニクラ:ケーブルカー)のSan Joan線に乗り、一気に1000m地点へ・・・そこからSant Jeroniの頂まで、1時間ほどです。モンセラット山の絶景を楽しみながら整備された歩道を歩き、岩山までありながら、意外にも小さな森が点在し、日差しを遮ってホッとできます。
一番きついルートであると紹介されていましたが、ケーブルカー駅からなら、4キロをかけて300mを登るだけ、ほとんど平坦な印象です。標識も完備、地図と説明を参考に散策気分のハイキング、20名位のオーストリアからやってきた高校生の一団も登っていました。
 小さな木橋を渡ったり、お花畑に囲まれた小さな無人の教会が残されていたり、さらに頂上近くには暖炉と石垣だけが残る修道院跡があったりと、変化に富んだハイキングを楽しめます。



 Sant Jeroniはモンセラット山塊の北端にあり、ここから一気に下の平野まで1000m近く落ち込んでいます。ここはカタルーニャ地方全体、さらにフランス国境のピレーネ山脈まで見渡せるモンセラット山最高のビューポイントなのです。
帰路は復路の途中から、標高差500mを大聖堂まで1時間10分で降りる道が通常の経路ですが、雷雲が発生、大急ぎで往路と同じ道をケーブルカー駅まで戻りました。



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