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シニアー個人旅行のかわら版

国内・海外旅行の話題を中心に、アップデートな情報とともに、シニアーのための手作り旅行を発信する。

フランスに出かけたら、ぜひ、マルシェ(市)を訪れてください

2011-02-26 09:48:42 | Weblog
モーパッサンの短編「ひも」は市の日(jour de marché)の光景から始まります。
ちょっとだけオシャレをして、牛やアヒル、鶏を町のマルシェへ運ぶ貧しい農民の姿を描いています。モーパッサンは19世紀のマルシェを描いていますが、現在でもフランスでは市の日の伝統が続いています。

訪れたプロバンスでも毎日のようにどこかの町でマルシェが開かれていました。開催される曜日がそれぞれの町で決まっており、日曜日にマルシェがあるリル・シュル・ラ・ソルグ(L'isle-sur-la-Sorgue)に出かけました。







この町はカルパントラ(Carpentras)の南、アヴィニョン(Avignon)の東に位置し、どちらの町からも1時間のドライブです。世界5位の湧水量を誇るヴォクリューズの泉(Fontaine-de-Vaucluse)から流れ出るソルグ川沿いに開けたこの町は、かつては繊維業で栄え、現在では骨董市が開かれることでも知られています。



近隣から人々が買い物に集まり、大変な混雑で車をとめる場所を探すのに苦労しました。出店が川沿いの道、広場にと長年に渡り営業してきた場所で店を開きます。各地のマルシェを巡回しており、日没前には店を片付け、次の町へと移動していきます。




プロバンスには一週間の滞在でしたが、リル・シュル・ラ・ソルグの他にも、ルベロンのゴルド(Gordes, Luberon)、カマルグのエーグ・モルト(Aigues-Mortes, Camargue)、そしてカルパントラと四つの町でマルシェに出会いました。


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今年のスペインのセマナ・サンタは4月17日(日)から24日(日)です。

2011-02-04 14:26:25 | Weblog


5年前に出かけたアンダルシア旅行が、偶然にもセマナ・サンタ(聖週間)と重なりました。
予備知識のないままの体験でしたが、スペインが最も盛んで華麗といわれるこの宗教行事の中に身をおくことができたのは幸運でした。
マラガMalaga, グラナダGranada、バエサBaezaで行進 ・プロセシオンprocesionを観ることができ、有名なセヴィージャSevillaのセマナ・サンタもテレビのライブ映像で満喫しました。
(冒頭の写真はマラガでの行進を見ようと押し寄せた観光客です。マラガでは行進に軍楽隊が参加します)

セマナ・サンタsemana santaはキリストの 受難(Pasión)、死(Muerte )、復活(Resurrección )を再現する行事です。エルサレムに入ったキリストを人々が小枝を手に迎えた日曜日(Domingo de Ramos)から始まり、十字架に架けられた聖金曜日(Viernes Santo)、2日後の日曜日の復活(Domingo de Resurrección )で終わる8日間の祭りです。
 
 キリストとマリアのそれぞれの祭壇を台車に載せてコスタレロス(costaleros)と呼ばれる団員たちが肩に担いで運び、ドラムとトランペットの楽隊・先のとがったフードで顔を隠した悔悟者・正装した信者が行列を作って、教会から町の中に繰り出します。特に、セビージャSevillaの祭壇は豪華で、十字架を背負ったキリストを引き立てる馬に乗るローマの兵士が祭壇を飾り、40人ほどのコスタレロスが台車を運行します。
 (YouTubeに紹介映像があります)

ウベダUbedaのパラドールに向かう途中、人口1万6千人の小さな町バエサBaezaで見た行進procesionです。

















バエサはアンダルシア州ハエン県の県都ハエンJaenの北東50キロにあります。ハエンの地図を開き、ズームアウトするとA-316号線上に見えます。

隣町のウベダとともに16世紀に陶器と織物業で栄え、当時のルネッサンス様式の建築物群が世界遺産に登録されています。
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今年の会津地方は大荒れの年末年始となりそうです

2010-12-28 21:00:34 | Weblog

毎年、年末年始にスキーと温泉を楽しんでいた奥会津の天候が気にかかります。
12月23日の高畑スキー場開きは積雪ゼロで中止になってしました。
翌日からは雪が降り出しましたが、吹雪模様で危険ということで終了時間を早めました。
27日からは天気も安定、新雪の中でのすべりが満喫できるようです。



年末年始はどうなるでしょうか。西会津では300台の車が24時間も雪に閉じ込められ、奥会津の柳津町や昭和村では大雪のための停電で照明、暖房が一時使用できなかったというニュースを聞くと心配になります。


昨年の12月31日・352号中山トンネル(海抜975m)です




那須塩原ICから尾頭トンネル、山王トンネル、中山トンネルを越えて南会津に入りましたが、道路には積雪はありませんでした。地元の方は久しぶりに雪のない正月を迎えられると期待していたようですが、大晦日から本格的に降り始め、元旦の朝には車は雪に埋もれていました。

今年の1月2日の中山トンネル出口付近です



湯の花温泉から東京に帰るところで、午前10時頃、中山トンネルを抜けた地点で、反対車線の先頭の自家用車が立ち往生・・・たかつえスキー場方面に向かう車の渋滞が金竜橋先1キロくらいまで続いていました。
 道路管理事務所の係員がUターンをして田島回りで行くようにと運転手に指示していました。

那須塩原ICからは快晴でした



30日から雪が予想されます。年末年始は大荒れの天気予報です。お出かけになる方はくれぐれもご注意ください。

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墨東・砂町散策・・・永井荷風の「元八まん」を歩く

2010-12-02 04:14:52 | Weblog
 母校・第二砂町中学校の同窓会に参加しました。砂町を離れてから半世紀以上の歳月が経ちます。この機会に砂町を散策することにしました。

出かける前に、昭和43年に習志野市谷津に移転した仙気稲荷(正式には砂村稲荷神社)の荒井静寿宮司のお宅を訪れました。荒井宮司は92歳になられますが、仙気稲荷の移転の経緯や昔の砂町の様子など奥様もご一緒に話してくださり、お宅に祭られている御祭神、当時の写生画や江戸時代の古地図の写真撮影を許してくださいました。


 昭和8年、永井荷風は完成間もない葛西橋通りを通って深川から砂町へ足を伸ばし、「元八まん」を書き下ろしました。今回、荷風の足跡を追って歩くことにしました。荷風の随筆からの引用は斜体にしてあります。
(「元八まん」全文は青空文庫のサイトで読むことができます。)
http://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49667_38497.html

散策ルートです

1.東西線南砂町駅

  

 大手町から20分足らずで到着です。地上に出ると第三砂町中学校の門前に江東区が作成した案内板があります。南砂町駅はかつて運河であったこと、荒川堤近くに砂町海水浴場があったことが写真入で説明してあります。

古地図です。赤い縁取りで囲んであるのが元八幡、青い線は東西線、南砂町駅も書き込まれています。


2.日曹橋交差点

  

 「日曹橋」とは日曹製鋼(現・太平洋金属)に因んだ橋名です。昭和の新興財閥、日曹コンチェルンが、毛利家のお抱え屋敷跡を昭和10年頃工場用地として購入しました。現在の南砂3丁目全域がほぼ含まれる広大な土地でした。

3.仙気稲荷(砂村稲荷神社)



突然、行手にこんもりした樹木と神社の屋根が見えた。その日深川の町からここに至るまで、散歩の途上に、やや年を経た樹木を目にしたのはこれが始めてである

800坪の敷地の中に樹木に囲まれた社殿がありました。しかし戦災で壊滅、現在は史跡として仙気稲荷神社の小社が祭られているだけです。昭和40年頃、日曹製鋼が仙気稲荷(砂村稲荷)を含めて工場用地を売却したため移転を余儀なくされ、現在、習志野市谷津の荒井宮司の屋敷に祭られています。
(冒頭の写真です)
文化文政の頃から「仙気(下腹部の病)」にご利益があるということで、洲崎遊郭が近かったこともあり、参拝者が絶えなかった神社でした。落語「仙気の虫」はここ仙気稲荷に由来しています。

 戦前の仙気稲荷の写生画です。


4.旧市電(都電)停留所跡



道は辻をなし、南北に走る電車線路の柱に、「稲荷前」と書いてその下にベンチが二脚置いてある。また東の方へ曲る角に巡査派出所があって、「砂町海水浴場近道南砂町青年団」というペンキ塗の榜示杭が立っていた

 路面電車が錦糸堀から砂町を通り、洲崎、深川、日本橋に通じていました。専用軌道跡は南砂緑道公園となっています。写真には荷風も渡った小名木川貨物線が見えます。

 稲荷前停車場から元八幡を過ぎて20分ほど歩くと海水浴場でした。飛び込み台の櫓もある本格的な海水浴場で、名所・旧跡・行楽地を私鉄15社の路線図に組み込んで描かれた昭和4年発行の「東京郊外電車回遊図会」(東京博物館所蔵)にも、仙気稲荷と砂町海水浴場が載っています。
 運営・管理は南砂町青年団が行っていました。第三砂町小学校の児童には無料券も配られ、水泳教室も開かれていたようです。しかし昭和23年に閉鎖されました。

5.仙気稲荷通り

右側は目のとどくかぎり平かな砂地で、その端れは堤防に限られている。左手はとびとびに人家のつづいている中に、不動院という門構の寺や、医者の家、土蔵づくりの雑貨店なども交っているが、その間の路地を覗くと、見るも哀れな裏長屋が、向きも方角もなく入り乱れてぼろぼろの亜鉛屋根を並べている

 砂地は後に日曹製鋼の工場用地に、荷風が見た堤防は現在の東西線となっています。医者の家は柳田病院、不動院は延命子育地蔵尊ではないかと思われます。

6.元八幡通り

道の上には長屋の子供が五、六人ずつ群をなして遊んでいる。空車を曳いた馬がいかにも疲れたらしく、鬣を垂れ、馬方の背に額を押しつけながら歩いて行く

 荷風の文を読むと、貧しい下町の様子が描かれていますが、もし元八幡通りから一歩北に入ったならば、砂町の学習院と地元の人が自慢した建設間もないモダンな第三砂町尋常小学校を目にしたでしょう。
 馬が登場していますが、トラック輸送が取って代わる昭和20年代後半までは、砂町での輸送は荷馬車に頼っていました。

7.元八幡(富賀岡八幡宮)



 元八幡宮も砂村稲荷神社も代々荒井家が宮司を勤めておられます。元八幡の荒井宮司にお会いしましたが、荷風の「元八まん」をお読みになっており、元八幡に関する部分については作家の誇張があるのではないかと話されておられます。たしかに文化10年作(1813年)の屋根の上に鳳凰が羽を広げた御輿を荷風が目にしていたのなら、記述も異なったものとなったでしょう。
 写真左がその神輿です。



 元八幡は江戸時代にはさくら、松を合わせて3万本の並木道のある景勝地で、日本橋から一里半の道のりで、参詣者で大変賑わいました。歌川広重の「江戸名所百景・砂むら元はちまん」に当時の様子が描かれています。
http://hiroshige100.blog91.fc2.com/blog-entry-54.html 

次の写真は広重が[砂むら元はちまん」に描いた海辺の現在の様子です。東西線の高架から先が昔の海辺でした。第二砂町中学校は写真左手にありますが、昭和27年の開校当時、畑の中に校舎が建ち目の前の堤防の先には海が広がっていました。

 元八幡の境内には富士塚があります。江戸時代に盛んになった富士講の影響で富士山を象った塚を作り、それにお参りすることで富士山登山と同じご利益があると信じられていました。吉田口、大宮口、須走口を付け、宝永山まであるという本格的な富士塚です。荷風が築山と見たのはこの塚であったでしょう。



雑感です:

 「砂町」ではなく、「砂村町」とすべきでした

 <砂村は今砂町と改称せられているが、むかしの事を思えば「砂村町」とでも言って置けばよかったのである

 砂村稲荷の荒井静寿宮司もまったく同じご意見です。大正10年の町制施行の折、行政が安易に「砂村→砂町」としたことに今でも憤っておられます。
 万治年間(1658年ー1660年)、砂村新左衛門と一族が心血を注いで開拓し,農民たちが300年近くも耕し続けた砂村新田も、また、200年以上に亘って人々の信仰を集めた砂村仙気稲荷も、砂村の名が無くなり、記憶する人も少なくなりました。
 元八幡の境内にある砂村新左衛門の石碑です。

 
 第二砂町中学校校歌と佐藤春夫

 同窓会の最後に校歌斉唱となりましたが、 卒業後に校歌が作られたため一期生である私たちは歌詞も曲も知りません。体育館の壁面に掲示されている校歌を見ながらの校歌斉唱となりました。



 「田園の憂鬱」や「西班牙犬の家」を読んだこともあり、佐藤春夫の作詞であることを知って感動いたしました。
 佐藤春夫は校歌の作詞を承諾してから一週間にわたり砂町を訪れたそうですが、当時は地下鉄もなく都心からの交通の便は良くありませんでした。しかし、荒川堤に立てば視界を遮るものはなにも無く、袖ヶ浦の海を見渡すことができる自然が残っていました。昭和30年代の砂町の様子がよく歌われています。
消費の都心遠くして
世の奢侈より逃れたり
荒川堤 袖ヶ浦
建設の野をわれら行く
 」

ところで、学校の隣にある元八幡を佐藤春夫は訪れたのでしょうか。慶應義塾大学の学生であった頃、教授であった永井荷風に学んでいますし、荷風主幹の三田文学で活動し、「小説永井荷風伝」を書いていますから、荷風の随筆「元八まん」を読んでいたに違いはありません。
当時、芥川賞選考委員で多忙であった佐藤春夫が校歌作詞を承諾した背景には、荷風の「元八まん」の地を訪れたいという気持ちがあったのではないでしょうか。


 宮部みゆきの「砂村新田」       

江戸下町を描いた宮部作品の中でも評価の高い作品です。NHKテレビ「茂七の事件簿 ふしぎ草紙」で「ならず者」というタイトルで最終回を飾りました。また、青少年向けの「はじめての文学」(文芸春秋)でも宮部みゆきはこの作品を選んでいます。

『12歳のお春は砂村新田の地主の家に下働きの女中として奉公に通いますが、ある日声をかけてきた、母親の知り合いらしい、やくざだが純情な男をめぐる心温まる物語です。
深川から砂村新田まで一里の道のりを、梅雨に濡れながら、12歳のお春が初めての奉公に出かける心細い心情を描く場面から物語は始まります。』

宮部みゆきは深川育ちの作家です。父親の曽祖父の代に砂村から深川に移ってきたとのことですから、「砂村新田」には作者の砂町への思いが込められているのかもしれません。



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奥久慈の秘境を往く

2010-11-19 15:01:52 | Weblog
 

久慈川とJR水郡線に沿って走る国道118号は茨城県の主要道路の一つで、袋田の滝に行かれる方は必ず通る道です。この東側の南北に連なる山々を隔て、118号とほぼ並行に走る道路があることをご存知でしょうか。それが、県道常陸太田・大子線です。

秘境といわれる奥久慈の村々と常陸太田市とを結んでいます。かねてから一度はドライブしたいと考えていましたが、ようやく友人と出かける機会ができました。常陸太田・大子線沿いには、大きな集落はありません。過疎の村々が点在するだけです。信号がほとんどないこの県道は、ツーリングを楽しむ人々にも人気の的です。紅葉の日曜日に出かけたこともあり、多くのライダーに出会いました。

 ようやく長年の夢がかなったのです。一泊二日のプランを立てました。
 常陸太田が実質的な出発点です。せっかくですから水戸黄門の隠居所・西山荘に立ち寄り、茨城県民の人気スポット・竜神大吊橋を渡り、朝日新聞選定の「にほんの里100選」に選ばれた秘境・持方(もちかた)に足を伸ばし、さらに福島県に入り藤田東湖が湯治したことで知られる山の中の湯治の宿・湯岐(ゆじまた)温泉で泊まるという奥久慈70キロのドライブです。

ルート:

1.常磐道・日立南太田IC
   インターを降りて、日立方面へ。次の交差点を常陸太田へ左折
2.常陸太田市内
   西山荘の案内標識を見て進む
3.西山荘
  http://tokugawa.gr.jp/seizansou_info.htm
4.県道・常陸太田・大子線
   西山荘を出て左に。竜神大吊橋の標識に従って進むと常陸太田・大子線に。
5.竜神大吊橋  http://ohtsuribashi.ryujinkyo.jp/
   紅葉狩りの車で大渋滞。あきらめて常陸太田・大子線をそのまま直進
6.林道・武生線、安寺・持方線
   林道への入り口が分からずそのまま直進。林道は工事中で通行止めと入合(いりあい)で知る
7.にほんの里・持方
   入合にあるラーメン店前に持方への案内図。舗装路されているがまったくの山道
8.入合
   入合に戻る。下りなので対向車に注意。
9.福島県・県道下関河内・小生瀬線
   福島県に入る。常陸太田・大子線と別れる。山道を走る県道。対向車は殆どない
10.国道389号
   国道といいながら山道を走る県道と変わりない。
11.湯岐温泉・和泉屋旅館
  http://yujimata-izumiya.net/


西山荘 



水戸黄門のドラマで見る西山荘は、実に質素で光圀公の人柄が偲ばれます。そんな西山荘を想像しながら初めて訪れました。
 山の谷間を取り込んだ広大な敷地の中に、池を三つ、滝を二つ配置し、御前田あり、熊野杉、柳、浜梨、梅、紫竹などの銘木を植えるなど、京都な庭園を思わせる名園の中に、茅葺屋根の西山荘はありました。
 建てられたのは元禄4年(1691年)、光圀公は亡くなるまでの10年間をここで過ごされました。117年後に野火で焼失、翌年規模を縮小して再建、現在に至っています。

持方集落 
 






朝日新聞は「にほんの里100選」を発表、茨城県では持方(もちかた)集落を選んでいます。「山間の山里に隠れ里のような12戸の集落。在来の弾力あるコンニャクを作り、加工販売で地域の婦人部が活躍。古文書も残る歴史ある里」として紹介しています。
 200年前、持方と隣の集落安寺(あでら)を訪れた水戸藩士岡野逢原は「安寺・持方の記」を著し、文字を使わず、記号を使って年貢高を記していると伝えています。
 当時とほとんど変わらない戸数ですが、集落でお会いした年配の女性は、自宅を指差し、「今は空き家となっている。常陸太田に家を建て、孫と一緒に暮らしている。今日は、山仕事にきた息子にひさしぶりに連れてきてもらった」と話されていました。
 集落で出会ったのはこの方だけ・・・小さな牛舎では人恋しそうに子牛が近寄って来ました。 3年前にはなかった道路が、南斜面にある村の下部をダム提のように横切っていました。

湯岐温泉



 歴史ある由緒ある温泉。幕末から明治の初めにかけて湯治客で賑わいました。水戸藩の政治家・学者として活躍した藤田東湖がここに一ヶ月ほど逗留、高血圧の湯治をしたことで知られています。
 旅館は3軒しかなく、周りにまったく人家のない山中にあります。宿泊した和泉屋旅館では、岩盤の割れ目から湧き出る源泉をそのまま浴槽に引き入れ、「鹿の湯」と称しています。湯温37度のぬるい湯で、1,2時間の長時間浴を1日3,4回繰り返すという入浴法を薦めています。無色透明のアルカリ性の湯は、身体にまとわりつく感触で、湯温が低いのが気になりません。
 「鹿の湯」は伝統的な混浴湯で、男性4人、女性3人が入浴していましたが、そこは年配者同士、話に花が咲き時間がたつのも忘れました。私たちは1泊でしたが、同宿者は3,4泊のリピーターばかりでした。
 初めての本格的な湯治体験でしたが、ぬるいお湯の良さを実感できました。






 
 
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月居山と袋田の滝に秋を訪ねました

2010-11-16 13:58:02 | Weblog
11月15日、月居山に登り、袋田の滝を訪れました。ハイキングの後半には雨が降り出すあいにくのハイキングとなりました。平日でしたが、紅葉の袋田の滝を求めて、バスツアーの観光客でにぎわっていました。

 月居山に登り、袋田の滝に下るというルート取りは正解でした。月居山の頂上から下りながら、ゆったりと紅葉に映える生瀬(なませ)の滝と袋田の滝を満喫できた2時間のハイキングでした。
 今年は猛暑の影響で紅葉は遅れ気味という情報でしたが、落葉も始まり、はや秋から冬へと向かう袋田の滝周辺でした。

ハイキングルート:

大子町公式ホームページの地図をご参考に・・・)


 1.10時に町営無料駐車場に到着。数台が駐車しているだけ。
 2.右手に双耳峰の月居山、右の峰の頂上が月居城址、二つの峰の鞍部が峠。



 3.袋田の滝に向かう。観瀑台へは右岸(写真では左側)へ、登山道は左岸を進む。



 4.月居山への登山口。近道(新道)。


 
 5.杉林の中の階段状の道を登りると、明るい広場に。



 6.再び、杉山の中を進む

7.旧道と合流し、直ぐに峠に。月居城址へは右へ(写真左へ)、袋田の滝へは左に



 8.城址がある頂上まで、落葉樹の明るい疎林の中を上る。頂上直下は急峻で補助ロープが何本も置かれている。



 9.頂上には最近立てられた立派な石碑がある。石碑裏は建立に協力した旧佐竹家家臣団の子孫の方々の名前が記されている。



10.峠に戻る。落ち葉が覆う道は滑りやすい。下り始めにあるロープは助かる。



11.峠に戻り、月居観音を通り、前山へ。境内には石仏が並び、月居峠が要衝の地で あったことが偲ばれる。



12.前山の頂上正面に生瀬(なませ)富士が聳える



13.袋田の滝への鉄製の階段を下る。途中、生瀬の滝への道があるが、現在閉鎖中。



14.生瀬の滝が遠望できる



15.四度の滝とも言われる袋田の滝が上部から次々と姿を見せる。



16.袋田の滝に到着



17.12時に市営駐車場に戻る。観光バスの駐車スペースは満車だが、一般車両は20台程度でガラガラであった。


ルート情報:

○2時間のハイキング。各所に案内板があり安心できるが、階段状の上り下りの連続でかなりしんどいルートである。
○今回は新道を月居峠まで登ったが、旧道を利用すると30分よけいにかかるが、歴史の道を歩く楽しみがあったかもしれない。
○鉄製の手すり、一部ロープもあるので、軍手を持参すること。
○月居山から南下し、奇岩、絶壁の名勝男体山への縦走ルートがあるが、初めての方には薦められない。
○袋田温泉には立ち寄り湯がある。
○袋田付近は、幕末の水戸藩内乱での、尊攘改革派の天狗党と反改革派の諸生党の激戦地。詳しくは吉村昭「天狗争乱」を・・・
○袋田は江戸時代にコンニャク生産で繁栄した。「桜田門外の変」の関鉄之助に、資金援助をしたのが袋田蒟蒻会所の桜岡源次衛門であった。




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早慶戦一色の一週間となりました

2010-11-04 06:53:59 | Weblog
我が家は90歳で亡くなった父の代からずっと早稲田フアンでした。しかし、今年、孫が慶応高校に入学、しかも体育系の部活です。早稲田一辺倒の応援というわけにもいかなくなりました。そこで、今年の早慶戦はどちらが勝ってもよい、できたら何回も早慶戦を見たいという気持ちに変わりました。



初戦は、甲子園からのフアンでありドラフト1位の斉藤投手の好投を祈りながらのテレビ観戦でしたが、斉藤投手が2点を失い敗れ、早稲田のこの時点での優勝はなくなりました。
 第二戦は神宮球場に出かけ、慶応を応援することにしました。連勝すると、早慶両校同率首位となり、優勝決定戦が行われるのです。しかもこれが50年ぶりの早慶優勝決定戦となることをあとで知りました。

第二戦見学記です



 月曜日にもかかわらず、地下鉄外苑前駅構内から熱気で溢れています。待ち合わせをする学生など、神宮球場へ向かうファンで、駅の階段から混雑しています。歩道は人で溢れ、車道側にカラーコーンを並べ、一車線を歩道としています。球場近くでは昨日の早慶戦を報じる両校の大学新聞を立ち売りする学生が目立ちました。当日券があるかどうか心配でしたが、慶応側の内野席が買えました。
 試合開始の30分前には内野席は満員となりました。年配のOBたちが同期生の姿を探しあったり、80歳を超えているだろうと思われる方も多く見られ、まさに慶応の同窓会という雰囲気でした。
 
 試合は、3回にはドラフト1位の福井投手から3点ホームランで逆転、4回からリリーフした同じドラフト1位の大石投手からなんとラストバッターの福谷投手が2点ホームラン・・・「信じられない!」「どうなってんだ!」と喜びの声が聞こえてきました。8回に追加点をあげると、「前売り券を早く買わなくては・・・」と勝利を確信したOBが席を立つのが目立ちました。

優勝決定戦見学記です



前日に前売り券を買おうとネットを開きましたが、午前8時時点で内野席はすでに売り切れでした。
当日、30分前に神宮球場に着きましたが、テレビレポーターがインタビューしているや、上空にはヘリコプターが何機も飛んでいるやという大変な騒ぎです。
 外野席に入って驚きました。第二戦ではガラガラだった外野席が超満員、立ったままの観戦となりました。第二戦では慶応側の内野席でしたので、決勝戦では早稲田側の外野席に立ちました。

 試合は一方的な展開になり、斉藤投手がノーヒットノーランを達成するかどうかが話題にのぼり始めていました。ところが、8回に一死後波乱がありました。初安打に続いて慶応が4安打を集中、一気に5点を斉藤投手から奪いました。この間、慶応側の内野席、外野席の応援団が地鳴りをするようにうねりました。
 結果は一方的な試合となりましたが、あの8回の20分間が50年ぶりの早慶戦にふさわしい盛り上がりとなりました。

両校のエール交換には感動しました





決勝戦では内野応援団に2本、外野応援団に2本の大応援団旗が掲げられ、それぞれ二回ずつのエール交換があり、相手校のエールに対して拍手と応援旗を倒して答礼する様は感動的でした。
 また、両校のチアリーダーの洗練された応援にも感心しました。振り付けに早慶にそれぞれの特徴があり、試合の合間に両校の応援を楽しめました。
 
 エールの交換から始まって、エールの交換で終わるまでの、濃密な5時間となりました。

神宮球場には、60年前、父に連れられて来たのが最初です 
大正2年生まれの父の自慢は沢村栄治投手の伝説的な日米対戦の試合を草薙球場(静岡)での見たということでした。静岡県出身の父は高校野球なら「静岡商業」、都市対抗なら「大昭和製紙」を応援、六大学では「早稲田」、プロ野球は巨人ファンでした。後楽園球場が完成する前の洲崎球場(江東区)にも足を運んだという根っからの野球ファンでした。
 戦後の物資のない時代、グローブを買ってくれましたが、それが布製であったことが思い出となっています。
 
 先月に父の七回忌の法要があり、父の供養を兼ねての早慶戦の観戦となりました。

 

 
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NHK朝ドラ「てっぱん」に、尾道への思いを募らせています

2010-10-01 07:30:17 | Weblog
ドラマが始まってから一週間・・・ストーリーとともに尾道の美しい風景を毎回楽しんでいます。
尾道には2度訪れたことがあります。しかし、いずれも会合があり、十分尾道を楽しむことができませんでした。それでも、会合が始まる前の早朝、1時間30分ほど、早足で町を回りました。

 尾道水道と向島を結ぶ連絡船が、車、自転車、通勤客を乗せ、あわただしく行き来しています。古くからの出雲、松江方面と尾道を結ぶいにしえのメインストリート長江通りの緩やかな坂を、自転車通学の高校生たちがサドルから腰を浮かして息せき切って登って行きます。



尾道の魅力的な小路、石畳の坂、数多くある寺院を訪ねる散策、そして文学館・映画資料館・歴史館見学・・・次回は丸二日を掛けてゆっくりと尾道を探訪する予定です。

 なぜ尾道はこれほどまでに他の都市にない雰囲気を持っているのでしょうか。それはわが国では数少ない商人の街であったことと関係しているのかもしれません。記録によると江戸時代半ば人口1万の都市であったのにもかかわらず、支配層である武家の割合はわずか1パーセント・・・江戸の50パーセント、大阪の10パーセントと較べても、商人・職人などが築いた街であったことが分かります。


 応永26年(1419年)、朝鮮使節が尾道へ来航、当時の様子を「人家岸に沿いて密集し寺院は山上に連なり巡る」と記しているとのことですが、山陽本線が街を分断、海岸の改修が進んでいることを除けば、その描写は今の尾道にそのまま当てはまります。
 長い年月の中で、幸い、戦火に会うこともなく、太平洋戦争での空襲も免れたことが、日本の心を今に伝える街となっているのでしょう。



港町の尾道:
戦国時代、ここから遣明船が銅や日本刀を載せて中国に渡りました・・・石見銀山から陸路、三日を掛けて運ばれてきた銀の荷駄はここから大阪へと運ばれました・・・北前船を受け入れる中継地として繁栄、上り荷に鰊・塩鮭・諸国産の米、下り荷に塩・酒・綿・酢・畳表を全国に送り出したのもここ尾道でした。

歴史の街尾道:
建武3年(1336年)九州より攻め上った足利尊氏は浄土寺に参詣、ここから船団を率いて、京都に向かいました・・・幕末、長州征伐の諸藩の兵が西に、三年後、今度は逆に、意気高らかに長州兵が東へと、ともに尾道の峠を越えて進軍していったのです。

文化の町尾道:
海が見える 海が見えた 五年振りに見る尾道の海は懐かしい」の一節で有名な「放浪記」の林芙美子が青春時代まで暮らした町・・・志賀直哉が東京から逃れるようにして一時期住んだ町・・・小津安二郎監督の「東京物語」の舞台になった町、尾道生まれの大林宣彦監督の数々の作品が撮影され、「尾道の風景は、いつかどこかでみた映画のシーン」と言われる映画の街なのです。



東京から尾道へのアクセス
新幹線で・・・
 新尾道はこだま号しか停車しません。また、市内へは路線バスで20分掛かります。
 こだま号への乗り換えの待ち時間や新尾道からの路線バスの本数が少ないことを考えると、福山駅で山陽本線に乗り換え、尾道駅に向かう方が良いでしょう。車窓から尾道水道の景色も楽しめます。
 料金:「のぞみ早特往復きっぷ」利用で29,000円(往復、福山も同一料金)
    路線バス280円
    山陽本線 福山駅―尾道駅400円 
飛行機で・・・
 広島空港から到着便に合わせて三原駅まで連絡バスで40分、到着便が遅れてもバスは定時に発車しますので、待つ場合もあります。三原駅から山陽本線で尾道駅まで10分です。割引運賃を利用すれば、新幹線早特往復料金より安く上がるケースもあります。所要時間はほとんど同じです。
料金:「旅割(ANA)」12,100円~14,100円
    連絡バス 空港―三原駅820円
    山陽本線 三原駅―尾道駅230円
高速バスで・・・
 夜行高速バス「京浜吉備ドリーム号」で倉敷駅北口まで行きます。そこで山陽本線に乗り換え、尾道まで1時間です。
最近、高速バス利用者が増えています。3列席のリクライン席で慣れると快適です。
料金:「東京・横浜―倉敷駅北口」10,200円(片道) 16,900円(往復)
    山陽本線 倉敷駅―尾道駅950円

パック料金で・・・
 二人旅なら、1泊2日で3万円(一名)の新幹線+ホテルのパック料金があります。
「乗換案内トラベル」のサイトをご覧ください。
http://travel.jorudan.co.jp/biz/r_1q_tyoomc_jrc.html


 泊まる:
  グリーンヒルホテル尾道をインターネット予約、シングル8,032円でした。新しい瀟洒な建物で、中年の夫婦連れの観光客の利用が目立ちました。尾道駅前の尾道水道に面しており、朝夕の向島と尾道を結ぶ連絡船が尾道水道を行き来する風景を部屋から眺めることができます。山側の部屋は7,087円です。
 尾道駅自体が尾道の街の外れにありますが、観光散策ではそんなに苦になりません。タクシーもワンメーターの範囲内で観光名所に行くことができます。

 食べる:
  夕食はオコゼの唐揚げで知られている尾道の食事処「青柳」の7,400円のコースでした。自慢のオコゼの唐揚げは流石でしたが、値段も高く、以前食した熊本のオコゼ料理には及ばないというのが私の印象です。

 おみやげ:
 尾道在住の知人からいただいた「ちりめん」は絶品でした。瀬戸内海の自然の恵みだと標榜しているだけあって「ちりめんじゃこ」と「自然海塩」の絶妙なバランス、綿々と尾道で引き継がれた匠の技が感じられる味わいです。
 お茶漬けやおにぎりに入れたり、パスタや炒飯、卵焼きにも相性の良い、子どもにも喜ばれる安全な自然食品です。


 
 関連リンク:
尾道観光協会http://www.ononavi.jp/グリーンホテル尾道http://www.gh-hotel.co.jp/onomichi/index.html
尾道散策コースhttp://bonfa.hp.infoseek.co.jp/inf/inf_chug.htm







 
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ぶどう狩りと梨狩りに電車で出かけました

2010-09-16 17:20:09 | Weblog
8月中旬から始まったぶどう狩り、梨狩りも9月末には終わりです。
訪れた加藤ぶどう園では今週で巨峰が、26日頃まででブラックオリンピアが終了、隣にある石川梨園では、豊水が今週で、新高が今月いっぱいで終わるだろうとのことでした。

加藤ぶどう園047-388-3578
石川園047-387-3458

アクセス
 上野駅(常磐線快速)→松戸(新京成電鉄)→常盤平 35分 460円

1. 常盤平駅の北口を金ケ作方面へ


2. 駅の階段を下りたところに「加藤ぶどう園」の立看板。矢印の方向へ。


3. 熊野神社・・・入り口に「石川園」の立看板

ここ金ケ作は川越藩の飛び地であり、江戸時代の中頃、藩士が開墾に入りその歴 史が始まった。熊野神社の石碑に由来が記されている。

4. 信号で左折、先方の木立は、左が「祖光院」、右が「金ケ作自然公園」

祖光院は川越藩士とともに当地に移転して来た古刹。最近では彼岸花の寺として知られる。平成5年、寺内の竹やぶを整地、500株を植えたのが始まり。お彼岸の頃には赤や白の彼岸花が咲き乱れる。近縁種の黄色のショウキズイセンも見られる。





5. 信号を右折、自然公園隣が「加藤ぶどう園」、その先左に「石川園」


*常盤平駅から15分、立看板が設置されているので迷うことはない。しかし、この付近は昔の村道が道路となっており、まっすぐだが狭く、歩道はない。交通量も多く、子供連れの場合は注意。



遠足と梨狩り
 半世紀前、私が小学校の頃に、遠足で梨狩りに出かけたことがあります。梨もぎと言っていました。小田急線に乗り、稲田登戸駅、現在の向ケ丘遊園駅で降りて、近くの梨園まで歩いていきました。
 当時はまだ誰もが貧しく、家族で梨狩りに出かけるなどという余裕はなかったのです。遠出するのはもっぱら学校の遠足だけ、市川での芋ほり、船橋での潮干狩りなどが懐かしく思い出されます。
 梨やぶどうの観光果樹園が各地に見られるようになったのは1960年頃からで、モータリゼーションによって自家用車の普及が始まった時期です。

 ところで、千葉県の東葛飾地区の梨の生産の歴史は古く、船橋市川は江戸時代から梨の産地として知られていました。
 明治になり、松戸で偶然発見された‘青梨が評判を呼び「二十世紀」と命名され、神奈川県の川崎の‘赤梨長十郎」と共に全国に生産が拡大しました。
 その後、品種改良が進み、早生種の「幸水」、中生種の「豊水」、晩生種の「新高」などが作られ、今では夏から初冬まで、長い期間梨を賞味できるようになりました。

梨の四方山話です 
その一
梨は、100%国産ではありません
実は、受粉させる花粉は中国からの輸入に頼っているのです。
なぜでしょうか?
○ 梨は同一品種の花粉ではうまく結実しません。
○ 他の品種の花粉で、効率よく受粉させるには、人手で行わなければなりません。
○ 受粉のための花粉を採取する手間までかけられません。
○ そこで、和梨に相性のよい中国梨の貯蔵花粉が輸入されるのです。

その二
二十世紀梨を発見したのは、13歳の松戸覚之助少年でした。」
明治21年、 覚之助はゴミ捨て場に発芽している梨の芽を見つけました。
 持ち帰って大切に育てること10年、ようやく実ったのは緑色の「青梨」でした。今まで味わったことのない、上品な甘さとしたたるほどの水気・・・やがて評判を呼び、「青梨新太白」と呼ばれました。各種の品評会で次々と優秀賞を獲得、二十世紀時代を背負う品種として「二十世紀梨」の名称が与えられたのです。明治43年には、ロンドンで開かれた日英大博覧会で東洋種の梨として最高名誉賞を受賞しました。
 
 松戸覚之助は、「二十世紀」の苗木を、毎年数千本を生産、ある時は無料で、各地に送りました。松戸覚之助が始めた梨園は、太平洋戦争時に、旧日本陸軍の工兵部隊近くにあったため、空襲を受け廃園、昭和22年には天然記念物の指定を受け大切にされてきた覚之助の原木も枯死してしまいました。

 松戸覚之助が設立に関わった、わが国唯一の旧高等園芸学校は、千葉大学園芸学部として100年の歴史を誇り、覚之助少年の夢を現在に伝えています。



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東京から奥日光へ日帰りハイキング

2010-08-14 10:32:53 | Weblog
東武鉄道の電車と路線バスを利用して、
東京から日帰りハイキングをいかがでしょうか。
赤沼を基点とした戦場ヶ原や小田代原をめぐる初心者コース(約3時間)から、
湯元温泉を出発して秘境切込湖・刈込湖を巡り光徳牧場に至る上級者コース(約5時間)まで変化に富むコースを日帰りで楽しむことが出来ます。

アクセス

東京から片道150キロもある奥日光です。特急やバスの便は沢山あるのですが、日帰りとなると往路で利用できる電車は次の3本(実質2本)しかありません。

往路①:北千住駅6:31(快速日光行―普通)→8:25東武日光駅
   東武日光8:37(路線バス)→滝上→赤沼→光徳牧場→10:02湯元温泉
往路②:北千住駅7:21(快速日光行―普通)→9:20東武日光駅
往路②:北千住駅7:42(特急けごん)→9:16東武日光駅
   東武日光9:32(路線バス)→滝上→赤沼→光徳牧場→10:57湯元温泉

復路のバスの便は一時間に1~2便あり、コースに合わせて利用できます。なお、光徳温泉に寄らないバスがあり、その場合は光徳温泉入口まで歩くことになります。
 湯元発日光行き バス時刻表
http://www.tobu-bus.com/pc/search/bs_tt.php?key=43044_12

交通費

路線バスの乗り降り自由の「まるごと日光東武フリーパス」4、520円を利用します。特急料金は北千住・日光間(片道)は1,440円です。

ハイキング

次のサイトのハイキングマップをご覧ください。
http://www.yutaki.com/hikingmap.html

切込湖・刈込湖コースは次のサイトをご覧ください。
http://www.tobu.co.jp/playing/hiking/shizen/kirikomiko/ 

    標識や案内板は完備しています
熊の生息地域を歩きます。少人数のグループの場合は、鈴などを用意します。
秋のハイキングは、4時までには歩き終えるようにします。
紅葉のハイシーズンには、いろは坂が大渋滞し、路線バスが大幅に遅れるため、土曜日・休祭日の日帰りハイキングプランはお勧めできません。

ハイキング報告です

  7月に光徳沼、小田代原、戦場ヶ原、赤沼、三本松へと、花の写真を撮りながらの4時間のハイキングを楽しみました。



 写真は光徳沼です。50数年前、友人と何度かキャンプを張った場所です。バス停留所「光徳沼」で降りる観光客はいないようで、沼までの小道は、草で覆われていました。
  50年前ぶりの沼との再会でしたが、かつて水量豊かであった沼はほとんで草で覆われ、湿原に変わりつつあり、沼の片隅を、清冽な水が流れているだけです。あと、50年もすれば、「光徳沼」という名前だけの湿原となっているでしょう。
 沼の周辺のズミの木々も一段と大きくなり、時の流れを感じました。

  戦場ヶ原の入り口として賑わいを見せる赤沼バス停留場近くにもかつては「赤沼」という沼がありましたし、光徳牧場奥の山王峠の下には「涸沼」という名の草原があり、長い年月を経て、沼地→湿原→草原と変わっていた過程が見て取れます。



光徳沼から流れ出た「逆川」は、戦場ヶ原に流れ込んでいますが、この川沿いのハイキングコースを歩くと、ウラジロモミの原生林が見られます。写真は、ハイキングコースの途中にある樹齢数百年はあろうかと思われるウラジロモミの巨木です。
ウラジロモミの樹皮はシカが好んで食べるため、シカの食害を受けやすい樹木です。これを防ぐため、ウラジロモミに高さ2メートルほどの鉄製の網を巻きつけ、保護しています。

また、川沿いに植林した若木も食害を防ぐための網を被せてありました。



 湯の湖と中禅寺湖の間の高原に広がる海抜1,200m~1,300mの戦場ヶ原と小田代原は高原植物の宝庫です。特に、桃色のホザキシモツケ、紫色のニッコウアザミ、白色のイブキトラノオの群落は戦場ヶ原と小田代原を代表する花です。
ここもシカの食害が著しく、現在では主要な湿原を電気柵で囲み込んで、シカの侵入を防いでいます。将来、シカの数が減少して、食害の恐れがなくなった時点で、電気柵を撤去、もとの自然の姿に返す予定です。

光徳沼、小田代原、戦場ヶ原と3時間のハイキングで撮影した花々です。




湯元温泉の情報は次のブログを・・・
秋晴れの10月12日に奥日光へ日帰りハイキングに行ってきました
電車で行く奥日光





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電車と路線バスで行く奥日光・湯元温泉

2010-07-31 11:27:14 | Weblog

ドライブでは何度も訪れていますが、電車と路線バスの旅は50年ぶりです。
 東京・浅草・北千住から特急電車1時間30分で日光へ・・・
 ゆったりとした特急の座席に座り、会話が弾みます。
 日光から路線バスで1時間15分、湯元温泉へ・・・
 いろは坂、中禅寺湖、竜頭の滝、戦場ヶ原、湯の湖、男体山、日光白根山の山々を
バスの車窓から心置きなく眺めることができます。
 車社会にどっぶり浸かって、ずっと忘れていた昔の旅の良さを再発見いたしました。

アクセス
 :浅草・北千住⇔東武日光駅 {東武特急けごん}
    * 鬼怒川温泉行の{東武特急きぬ}の場合は{下今市駅}で乗り換え
    * http://www.tobu.co.jp/special_express/timetable/special_ex.html
 :東武日光駅⇔湯元温泉
    * 1時間に1~2便
    * http://www.tobu-bus.com/pc/area/nikkou.html
料金:7,000円      
    *まるごと日光東武フリーパス4,400円+特別料金2,600円
    *http://www.tobu.co.jp/riding/docs_tobu/a02.html

湯元温泉の紹介です



 東武日光駅前のバス停留所から湯元温泉行のバスに乗車、1時間15分で終点の湯元温泉に到着・・・バスを降りるとゆで卵の腐ったような硫黄泉独得な匂いで、温泉地に入ったことが実感できます。しかし、遊技場やみやげ物店が並ぶ温泉地らしい雰囲気は、まったくありません。我が国最初の国民保養温泉地に指定された指定された静かな温泉地なのです。
 緑の中の静かな「湯の湖」にボートを浮かべて釣りを楽しむ人がおり、ウダイカンバなどの広葉樹と、ナナカマドなどの落葉樹、コメツガ、ウラジロモミなどの針葉樹の原生林の中に、ホテルや旅館が点在、屏風のように立ちはだから日光白根山の前山と荒々しい山容の金精山、その裾野にスキー場とキャンプ場が広がっています。

小学生が林間学校を楽しんでいます

 夏休み直後の一週間は首都圏の小学生で賑わいます。古くから当地の旅館・ホテルは林間学校と一般観光客の両方を受け入れてきました。
 湖あり、滝あり、牧場あり、湿原ありと変化に富んでいながら、高低差の少ないハイキングやオリエンテーリングを楽しみながら自然の中で身を置くことができ、疲れた体を温泉で癒し、海抜1470メートルの、真夏でも25度を越えることのない澄んだ大気の中での2泊3日を過ごす林間学校は、首都圏の子供たちに貴重が体験となっています。
 また、冬休みには中学生のスキー学校が開かれます。まさしく、我が国最初の「国民保養温泉地」と指定された温泉地であることが納得できます。



奥日光高原ホテルに泊まりました
http://www.okunikko-kougenhotel.com/
 
 林間学校の生徒と一般客の両方を受け入れています。二泊しましたが、ちょうど林間学校の東京の小学生70名と一緒になりました。ロビーで開かれた開校式に居合わせましたが、ホテル側から一般客が70名ほど同宿しているとの連絡が子供たちにありました。
林間学校の生徒は2階に、一般客は3階に宿泊、物音などはほとんど聞こえてきませんでした。食堂はアコーデオンカーテンで分けられ、子供たちが食事をする姿を見ることはありませんが、声は聞こえてきます。「静かにしてください!いただきます」の声で子供たちは食事を始めますが、この時、一般客も一瞬食事の手を休め、静かになるというほほえましい場面もありました。

 部屋は林間学校の生徒も収容するため、広めで簡素な作りになっていますが、清掃は行き届いており、快適でした。従業員が部屋のドアのノブを一つ一つ丁寧に拭いている姿に、徹底した衛生管理がされていることが分かります。
 一緒に旅行した孫娘が到着早々発熱・・・二日間寝ていましたが、アイスノンを準備したり、氷水やお粥を部屋に運んでくれるなど配慮をしてくれました。三日目にようやく元気になった孫に、客室係、食事係、売店係からも声を掛けていただき、従業員全員が顧客の情報を共有している姿にホテルの経営方針の確かさを感じました。

 このホテルで最も快適であったのが風呂場と温泉です。よく清掃された浴室で、加温・加水なしの掛け流しの硫黄泉で森林を眺めながら、至福のときを過ごしました。
 食事については、日本人の口に合うようサラダ油で揚げるフォンデユは楽しみながら頂きました。ハイキング用に作って貰ったおにぎり弁当は、竹かご風の入れ物がシャレていて、味・量とも満足しました。

天皇陛下は皇太子時代に湯元温泉で疎開生活を過ごされました

 太平洋戦争が激しくなり日本国内への空爆が現実味を帯びるようになると、東京など大都市の小学生は学校ごと地方に避難する学童集団疎開が始まります。学習院初等科の児童であられた皇太子殿下も学友とともに静岡県沼津御用邸に疎開されます。しかし、海岸にある沼津は艦砲射撃の危険もありましたので、日光市の田母沢御用邸に再疎開されます。
戦況はさらに悪化、連日のように日本の各都市はB29の空爆にさらされ、昭和20年7月12日には宇都宮、鹿沼が空爆を受け、600名の死者、1万軒の家屋が焼失します。日光市も安全とは言えなくなり、殿下とご学友は7月21日、湯元温泉の南間ホテル(2003年廃業)に移動され、終戦もここで迎えられ、11月になってようやく帰京されています。殿下はイチゴ摘みを楽しまれたという記録があります。戦場ヶ原農園でしょうか・・・
 
三本松と開拓集落

 昭和29年の夏、高校の友人と光徳沼でテントを張ろうと、湯元温泉手前の「三本松」でバスを降りました。現在ではお店が並ぶ三本松ですが、当時は文字通り背の高い松が3本だけの原野でした。だれ一人歩く人のいない光徳牧場への道を進んでいくと、追いつこうとする足跡が聞こえます。振り返るとねんねこで幼児を背負った女性が近づいてきます。「熊が出るので、途中まで一緒させてほしい」とのことでした。途中で女性と別れましたが、「牧場の人ではなさそうだし、どこに住んでいるのだろう」と不思議に思ったのを覚えています。
 今回の旅で、「戦場ヶ原農場」を訪ねましたが、ここは昭和21年に旧満州からの引揚者の開拓地からその歴史が始まったことを知りました。あの時の女性は、開拓集落の方だったことを50年以上経った今、ようやく気づきました。

戦場ヶ原とイチゴ



 8月から9月にかけて戦場ヶ原でイチゴの苗を育て、それを下界の農家に運ぶという映像が、よくテレビで放映され、この時期の風物詩となっています。
イチゴは通常5,6月頃の収穫ですが、高冷地の低温に晒した苗をビニールハウスで栽培すると、冬でも収穫できるのです。その「山上げ地」(高冷地にいったん苗を運ぶこと)が、戦場ヶ原農場であることも今回初めて知りました。
現在の私たちが口にするイチゴは江戸時代に南蛮船で日本に到着、そのため、当時は「オランダイチゴ」と呼ばれていたそうです。栃木産のイチゴにも「日光イチゴ」という呼び名があったそうですから、戦場ヶ原から降りてきて育てられたことに由来しているのでしょう。

「戦場ヶ原農場」は三本松の駐車場から5分ほど山よりに入ったところにあります。関係者以外の入場は禁止されているようですが、入り口から、広大な農園を見渡すことができ、入植者の方々のご苦労に思いを馳せるのもよいでしょう。


 
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雲南省・昆明で出会った人々

2010-06-12 15:25:06 | Weblog


 

 日本語ガイドの陸さんはイ族出身で、昆明中国国際旅行社日本部に所属、昆明で日本人旅行者のガイドだけでなく、中国人の日本旅行にツアーコンダクターとして出かけることもが多く、日本に50回も行っており、日本語が完璧な理由がわかりました。

 昆明2日目は陸さんとガイド契約は結んでいませんでしたが、夜遅くは治安がよくないからと、雲南映象劇場からホテルまで送ってくれました。ガイド料を申し出ましたが、日中友好の仕事だからと受け取りませんでした。
 
 陸さんから多くのことを学びましたが、中国人の反日感情の話は有益でした。

 ホテルで家内に中国語で話しかけてきたマレーシア人のグループがあり、オートバイで雲南省をツーリングしているとのことでしたが、この話題から、レンタカーで外国を回るという私の旅行スタイルを紹介、中国でのレンタカー事情を尋ねたときのことです。
 陸さんの、呆れたという表情が忘れられません。

 日本企業は中国国内で日本人社員の車の運転を禁じているところが多いとのこと・・・もし交通事故を起こしたなら、大変なことになるからだそうです。
 かつて日本は100万の軍隊を中国本土に送り、その国土の40パーセントを支配ていたことは知っていましたが、我々日本人にとっては70年前の出来事という理解ですが、中国では決してそうではありません。

 広州に着いたその夜、なにげなく、テレビのスイッチをつけると、日本兵が登場するドラマでした。
 陸さんによると、抗日戦争時の愛国ストーリーは人気番組の1つで、ちょび髭で眼鏡をかけ「バカヤロ」「ミシミシ(めし、めしの中国風発音)」を連発する中国人俳優が演ずる日本兵が悪役として毎週のようにテレビに登場するというのです。

 先週、日本人が自動車事故を起こし、相手の中国人に暴力を振るったという間違った情報が中国のネットであっという間に広がりかけました。なにか起きれば反日感情が一気に爆発・・・そんな事情を知らない私の無知さ加減に、なかば軽蔑のまなざしが、あの陸さんの呆れたという表情にあったような気がしました。

 ところで、陸さんの口から「松山戦役(中国側の名称)」という言葉が出ました。ここ雲南省でも日本軍との戦いがあったというのです。
 帰国してから、調べてみました。雲南省には激流として知られる「怒江」という川が北から南にまっすぐ流れています。橋を掛けることが出来ず、村人が怒江の谷に張ったワイヤーを滑車で滑り渡ることで知られますが、下流は保山市から40キロ南を流れています。その西岸一帯をビルマ(現ミャンマー)から越えて進出した約3,000名の日本軍が占領していました。
 三ヶ月を越える戦いの末、武器・弾薬・食料の支援を得られなかった日本軍は玉砕・・・生存者は連絡要員として脱出した3名のみ・・・「拉孟・騰越の戦い(日本側の名称)」として戦後日本でも知られることになります。




 ドライバーの陳さんは、一番長い時間・・・二日間をご一緒しました。物静かな、落ち着いた、魅力的な女性でした。写真左が陳さんです。
 
 石林の食堂での昼食の時のことです。昆明の次に大理古城に3泊すると話すと、陳さんの表情がパッと輝いて、自分が大理出身の白(ペー)族であること・・・大理は大変美しい街であること・・・祖母が住んでおり、昆明にいる母と春節には大理を訪れることを話してくれました。
 イナゴを食べる私たちが、食道楽と思ったのか、「再回首凉鸡米线三分店 特色菜:砂锅豆腐、木瓜鸡、砂锅鱼酸辣鱼大理海菜汤、青蛙皮」と大理古城の食堂名と名物料理をメモして渡してくれました。最後の青蛙皮はどんなものなのか尋ねると、食堂の厨房に入り、持ってきてくれました。まさしく蛙の皮そっくりの食材で、茸類でしょうか・・・



 北京ダックの夕食にお誘いしたとき、日本語ガイドの陸さんと私たちは色々な話題で盛り上がっていましたが、日本語の分からない彼女は食事の合間に、紙面になにかを一生懸命に描いています。見せてもらうと、幾何学的な模様でした。
 白族の女性は、白い上着にピンクや赤など、色とりどりの刺繍を施した民族衣装を身に着けるそうで、彼女の故郷・大理の刺繍は有名です。陳さんは自分の民族衣装の刺繍のデザインを考えていたのでしょうか。

 夕食の最後に、「陳さんから聞いたのですが、石林の食堂で‘虫’を食べられたそうですが、大理には生の豚皮を食べる料理がありますが、危険なので絶対にチャレンジしないでください」と陸さんから念を押されました。
 帰国して、ネットで調べると、それは大理生皮という料理でした。





 雲南料理・福照楼汽鍋鶏飯店の純朴な店員さんです。
 無愛想な表情・・・声を掛けないと寄ってこない・・・客を無視して店員同士でおしゃべり・・・そんな店ばかりでがっかりしていたときに出会いました。

 担当のテーブルから少し離れて物静かに待機、声がかかるとメニューを持ってきます。まず、ビールをというわけで「ピージュウ」と家内が注文しましたが、通じません。北京語が通じない少数民族の店員が昆明には多いと陸さんから聞いていましたから、彼女もその一人かもしれません。そういえば、彼女の持ってきたメニューは料理の写真入です。男性店員の助けで、ようやく、ビールを持ってきてくれました。
 
 続いて、「シャオシンジュウ(紹興酒)」を頼みましたが、これもダメです・・・酒を飲む真似をしましたら、頷いて持ってきてくれた小瓶は透明な酒・・・「チャーサア(茶色)」と家内が言うと、そのビンを戻し、茶色の酒が入った別の小瓶を持ってきてくれました。ふたを開けて、一口・・・強烈なアルコール度数です。ラベルを見ると、白酒に10種近い薬草が入っている度数36度の薬用酒でした。

 注文に応じようと一生懸命の努力する姿に好感が持てました。食事が終わり、食べ残した豆のごはん持って帰るかというジェスチャーです。丁重に断り、その代わりに一緒に写真を撮りたいとカメラを向けましたら、恥ずかしそうにもう一人の店員を呼んできました。

 料理はおいしく、値段は安く、そして純情な店員さん・・・昆明滞在中で出会った最高の店となりました。




 普洱茶の店を母親と経営する漢族の何さんです。
 土産にプアール茶を買おうと立ち寄った私たちのために、お茶を淹れてくれました。

 プアール茶の淹れ方には手順があるようです。
 円盤状に硬く圧縮されたプアール茶を包装紙から取り出します。細長いナイフ(プアール茶刀)で、丁寧に茶葉を少し崩しながら、並行して湯を沸かし始めます。フラスコのようなガラスの茶壷に湯を注ぎ(盪壺―とうふう)、次いで、ウイスキーグラスのような小さな茶杯にお湯を注ぎ暖めます(盪杯―とうはい)。その湯をすぐに捨てます(倒水―とうすい)。ここで茶壷に茶葉を入れ(置茶―ちちゃ)、お湯を茶壷にあふれるくらいに(冲水―ちゅうすい) 、茶壷を揺すりながら茶葉を洗い、一滴残らず、お湯を捨ててしまいます。茶葉の不純な匂いを流すためです(洗茶―せんちゃ)。再度、茶壷にお湯を入れ、蒸らします(泡茶―ぽうちゃ)。
 これで準備完了・・・各自の茶杯に三分の一ずつ順次にお茶を入れていきます。茶の濃淡をどの茶杯も一定にするためです(倒茶―とうちゃ)。

 茶壷も茶杯もガラス製なので趣がないなと思いましたが、プアール茶の色合いを楽しむにはガラスが一番よいとのこと、また、茶杯が小さいのは煎じるたび微妙に変わるプアール茶の味を少しずつ、何杯も楽しむためだそうです。2ないし3煎目が一番おいしいとされています。

 私は途中で店を出ましたが、家内は更に何種類もプアール茶をご馳走になり、何さん親子と意気投合したようです。母親は50歳、自慢の息子と一緒に働いている喜びが伝わってきます。何さんは、茶杯を、まず、母親に手渡すという孝行振りでした。
 
 家内は土産用に26元のプアール茶を10缶、自宅で飲もうと165元の餅茶を一つ購入しました。
 餅茶ですが、日本ではあまり見かけません。プアール茶の茶葉を、保存のためと持ち運びやすさから平らな円形に固められたものです。その昔、雲南からチベット高原までプアール茶を運ぶ際、餅茶を七つ重ねて竹の葉で包んで一荷として、馬の背にいくつもくくり付けて、茶馬街道を運びました。これが雲南七子餅茶の由来です。




 雲南映象劇場で観客を迎える少数民族の団員たちです。
 昆明を訪れることがあったら雲南映象で少数民族の歌と踊りを見ようと決意したのは、雲南映象のサイト「雲南映象」 HTTP://WWW.DYNAMICYUNNAN.COM/で楊麗萍(ヤン・リーピン)の活動(英語版)を読んだからです。

「踊ると神様と話ができるのだと祖母がよく言っていたのを思い出す。私は歌と踊りが海原のようにあふれている雲南に生まれたことを本当に幸せに思う。孔雀の舞で内なる熱情を踊り上げ、大地を踏み鳴らしながら踊り収穫を喜び、恋を求めて太鼓を打ち鳴らす・・・神が私の手を握り、私の心は肉体から離れ空を飛ぶ。」

「雲南省で歌われる少数民族の歌と踊りを求めて、山々や村々を訪ね歩いた。旅は10,000キロを越えたであろうか・・・・。布郎族の村を訪れたとき、一人の少女が私を呼びとめ、ぜひ踊り手として一座に入れてほしいと言うのだ。身体が小さすぎて踊りはまだとても無理だと断ったが、400元を貯めて水牛を家族に買ってあげたいと懇願する・・・年収わずか150元の村でである。私は村の貧しさに涙し、彼女を受け入れたのである。」

 楊麗萍(ヤン・リーピン)は大理の白(ペー)族出身、現在、国家一級舞踊家です。彼女の踊りを継承した妹が月光と孔雀を舞うことが多く、彼女の姿を見ることは出来ませんでしたが、舞台に流れる重厚で、憂いを帯びた彼女の歌声は聞くことができました。

 若い少数民族の団員たちの笑顔いっぱいの歌とダイナミックな踊りの中に、民族の伝統と文化を継承する誇りと、貧しさから開放された喜びが満ち溢れ、楊麗萍の思いが確実に実現していると感激しました

(了)

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昆明3日目で旅行を中断、急遽、帰国することになりました

2010-06-09 05:03:42 | Weblog
 



 ベッドに入ったのが0時過ぎ、雲南映象のミュージカルの興奮が覚めやらず、なかなか寝付けません。しかも、今日は5時起床、大理行7時20分発の便に乗るために6時にホテル出発です。今後の旅に思いをはせている内に、咳が出始めました。石林の2時間のハイキングで汗をかいたのがよくなかったのかもしれません。持病の喘息持ちである私は、咳から喘息発作につながることがよくあるのです。
 主治医からの処方された特効薬プレドニン30ミリ服用しました。

 大理に3連泊、麗江にも3連泊、その後、広州市内に連泊・・・ゆとりのある旅行計画ですが、大理は海抜2,000M、麗江は2,400Mです。しかも昆明に比べると小さな都市、どちらの空港も市内から1時間ほど離れ、昆明と広州への便も合わせても一日数本です。幸い、咳だけで喘息の発作は薬の効果で起きてはいませんが、不安があります。
 決断を迫られました。

午前3時、相変わらず咳が止まりません。目を覚ました家内が、熱がありそうだと言うので、受付に電話、私の英語と家内の中国語でようやく体温計を借りることができました・・・38度です・・・旅行の中断を決意しました。

 この時点から、成田で借り出したドコモ携帯が命の綱となりました。
 すぐに、24時間対応の日通ペリカントラベルネット社に電話、以降の旅行予定のキャンセルと帰国便の手配を依頼、午前9時の出社と同時に手配するので、折り返しの連絡を待つようにとの助言です。

 解熱剤を服用、ウトウトしている内に午前6時になりました。大理空港での午前8時の出迎えを依頼してあったガイドの劉さんの携帯にキャンセルする旨を伝えました。

 午前7時になり、熱が下がったようです。咳も治まってきました。食欲はありませんでしたが、無理に朝食はとりました。連絡のある9時まで時間がありましたので、ホテルのコンピューターで、昆明―広州間は1日12便、午後だけで8便あることを確認しました。広州で一泊すれば、次の日には帰国できます。

午前9時過ぎに日通ペリカントラベルネットから連絡が入り、「航空券が取れ次第、電子チケットで発行するので、空港カウンターではパスポートの提示だけでよい・・・広州から成田までは、ANAよりも中国南方航空のほうが2,000元(1名)安い・・・3日前に泊まったプルマン広州白雲エアーポートが取れないので、広州空港近辺のホテルを探す」との連絡があり、昆明空港で再度の連絡を待つことにしました。

 土曜日であったからでしょうか、渋滞に巻きもまれることもなく、20分足らずで昆明空港に到着、出発ロビーは活気にあふれています。コーヒーショップに入り、テーブルの上にドコモ携帯を置き、連絡を待ちました。2度ほど日通ペリカントラベルネットからのメール着信がありましたが、メールを開くことができません。

 帰国して分かったことですが、海外仕様携帯は不要なメールを受信してバスケット通信料が高額になるのを避けるため、メール選択受信設定をONにしてあり、メールを自動的に受信することが出来ない設定になっていたのです。

日通ペリカントラベルネットとは音声でのやり取りとなってしまいました。困ったのはホテルの名称、住所の筆記です。ホテルに行くには、タクシー運転手にメモを見せる必要があります。ホテルは「広州広厦大酒店・・新白雲国際机場空港三四路横一路交界処」、漢字の書き取り試験を受けているようでギブアップ、家内に代わりました。

 中国南方航空広州行14:05発で昆明出発、16時に広州空港に到着しました。
 帰国してから写真を整理しましたら、この間一枚の写真も取っていないことに気がつきました。海外旅行30年で初めて体験する旅行中断・・・緊張と不安でいっぱいだったことがよくわかります。冒頭の写真は、広州空港のホテル周辺の風景です。

  ここで、今回の旅で記憶に残る体験をすることになります。
  空港のタクシー乗り場には客が20人くらい、タクシーが30台くらい、列をなしています。順番が来たので、トランクにスーツケースを二つ入れ、車内に乗り込み、運転手に「広州広厦大酒店」のメモを見せました。その瞬間、運転手は「ジン(近い)!」と舌打ちをするのを家内は耳にしています。
 
 車は走り出しましたが、運転しながら、盛んに何かわめいています。その上、20キロのノロノロ運転、思わず「Go back to the airport!」と怒鳴りましたが、もちろん通じません。しばらくすると、ようやく空港に戻ってきました。停まるのかと思いきや、到着ターミナルのタクシー乗り場をそのまま通過、また空港の外で再びノロノロ運転、それから空港の3階出発ターミナルに戻り、また、空港の外に・・・30分位走ったでしょうか、「広州広厦大酒店」の看板が見えるようになり、私たちが車内から看板を指し示すと観念したのか、ようやくホテルの玄関口で止まりました。メーターは18元です。


 
  荷物を取り出す最中も、運転手はわめいています。ホテルの受付係が車に近づいきたので、渡した20元を手に、しぶしぶ去っていきました。家内によると、「2倍以上貰わないと、割が合わない」と言っていたようだとのことでした。

  翌日、ホテルの送迎バスを待つ間、日本のビジネスマンの方と一緒になり、昨日の体験を話しましたら、あの運転手の反応が理解できました。
  広州空港周辺はもともとまったくの原野、あるのはホテルと空港関係の建物だけ・・・しかもすべてワンメーター(8元)以内の近さです。そこで、空港でタクシーに乗車する際、広州市内に行く場合を除いては、ホテル名を運転手に告げ値段を予め交渉し、タクシーに乗り込むのがトラブルを避けることになると教えてくれました。因みに、その方は30元だったそうです。
 
  スーツケースを二つ持ち乗り込んできた客を、空港から1時間の広州市内に行く上客と思い込んでいたところ、メーター最低料金内のホテルを指示され、途中で降ろすわけにもいかず、頭に血が上った運転手があの行動に出たのでしょう。

  宿泊した広州広厦大酒店は、ホテルというより学校といった造りで、ホテルらしい装飾はまったくなく、ただ泊まるだけ・・・ただし、ダブルベッド・シャワー・朝食付で400元、この内、押金120元が次の日に戻されましたから、実質280元(4,000円)という格安料金でした。ホテルの無料送迎バスで空港まで5分でした。

 成田までの中国南方航空の飛行機は、快適そのものでした。前席との空間も十分で、隣の方が立ち上がらなくとも移動ができ、窓側の席は2席配列・・・ビジネスクラスかと思える余裕がありました。往路のANAと比べて、料金が安いうえに、快適なフライト・・・マイレージが付かないとしても、こちらを選んで正解でした。

  旅行中断以降の費用(2名)ですが、帰国のための昆明→広州(2,700元)、広州→成田(8,020元)の航空運賃・クレジット手数料3%と広州の宿泊費用(280元)など合計で約153,000円、旅行中断によるキャンセル料を差し引いた返金が約158,000円とほぼ同額・・・自分で購入した成田―広州の往復割引航空券154,000円の復路分が無駄になりましたが、無事に帰国できたことでよしとしなければならないでしょう。







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世界遺産・石林風景名勝区と少数民族ミュージカル・雲南映象・・・昆明の2日目

2010-06-06 11:21:54 | Weblog





午前7時頃からの昆明のラッシュアワーはすさまじい・・・11階の部屋まで車の騒音が上がって来ます。下をのぞくと、ホテル下の東風東路の上下線とも自転車、オートバイ、車でギッシリ・・・午前7時から9時までは、普段15分の空港までの時間が1時間半はかかると陸さんが言っていたのが納得できました。

1.高速道路で石林へ




9時に陳さんが到着、80キロ南東にあるカルスト台地へ、片道1時間30分のドライブです。市内を抜け、高速道路に入ると周辺にマンションが目に付きます。古い五階建ての建物はかつて無償で住民に与えられたもの、建設中の新しい近代的なマンションは日本円で5百万円もするそうです。

昆明近郊では野菜畑も見られますが、郊外に抜けると、赤茶けた荒涼とした大地が広がります。山の上まで耕地となっておりますが、植えられた樹木はまばらで、貧弱です。雲南省は中国国内でも最も貧しい地域で、タバコ・とうもろこし・茶が主な農作物、その収穫で主食の米を賄っています。
今年はひどい旱魃で収穫が半減、灌漑は雨水に頼るため、農業用水のみならず、飲み水にも事欠く事態に、働き手は急遽都会に出稼ぎに、農村には年寄りと子供だけが取り残されていると中国日報(英字版)が報じていました。


石林近くの村で、山の頂からひとり牛を追いながら降りてくる老人の姿が印象的でした。

石林地区は、海底が隆起した石灰岩のカルスト台地で1,000平方キロに及び、雨水、地表水、地下水などで複雑に侵食され、特有の風景です。
10メートルから20メートルの石灰岩が林立し、独特の姿を見せる350平方キロを自然保護区として整備して、石林風名勝区(入園料175元)としています。石灰岩の狭い空間を縫うように歩道が作られています。長い年月を経て、岩の間の僅かな隙間にも樹木が茂り、木々の緑と石灰岩の巨石が美しいコントラストを醸し出しています。ところどころにあるわずかな広場に出店があり、また、鉄製のトイレも設置されていました。広場の一つでは20名くらいナシ族の男女が民族舞踊を観光客に披露していました。



独特の形状の場所を、「蓮花峰」、「剣峰池」、「危機一髪」、「極狭通人」、「象距石台」、「幽蘭深谷」、「鳳凰が翼をとく」などと名づけ、歩道で結んでいます。案内板も整備され、ときどき迷いながらも2時間の散策は楽しいものでした。これで、大石林の10分の1程度の面積を回っただけ、その広大さも実感できました。

石林公園を出て、5分ほどで陳さんが待つ、テーブルが5つだけの家族経営の小さな食堂に入りました。散策でのどが渇き、まずビールを、そして昼食の注文です。メーニューを見ながらの注文でしたが、用意していない食材も多く、陳さんが家内を調理場に案内していきました。
選んだ料理は軽くゆでた山菜とイナゴの炒め物、そして定番の麻婆豆腐です。山菜は、陳さんによると、馬が好んで食べる種類だと笑っていました。旅では野菜が不足がちです。少し粘り気はありましたが、癖のない山菜は新鮮な味でした。イナゴは陳さん(ペー族=白族)は食べる習慣がないらしく、おいしそうに食べる私たちに怪訝な視線を送っていました。日本ではイナゴは甘辛く炒めますが、ここでは唐辛子と胡椒と独特の調味料でカラリと炒め、イナゴの香ばしさを見事に引き出していました。食べ残したイナゴをパックに詰めてもらい持ち帰りました。麻婆豆腐は、今回の旅で食べたうち、この店の味付けが一番おいしいと思いました。料金は145元・・・昨夜の福照楼に比べると5割高、観光地なので仕方がないでしょう。

2.買い物と両替に街に出ました



ホテルに戻ったのが午後3時、雲南映象のミュージカルは夜8時の開演です。夕方5時に陸さんと陳さんがホテルに迎えに来てくれ、夕食後に出かけることにしました。
ホテル「桜花酒店」は隣にスーパーを併設しています。その一角に店を構える雲南普耳茶(プーアール茶)の店にまず、出かけました。

古来から雲南の茶はチベット高原に運ばれ、チベット高原の馬と物々交換されてきた歴史があります。チベット高原は寒冷高地になるため、野菜類がまったく栽培できず、雲南普耳茶はビタミンを補給する必需品であったのです。また、肉を主食とするチベット族の人々の体内脂肪を下げる健康食品でもあったのです。茶と馬が雲南省とチベット高原を行き来した中国最古の交易路が、茶馬古道で大理からチベットまでの間に現在でも、その一部が現存しています。

家内は試飲を勧められ、また、店の方と話が弾み、しばらく店にいるようです。私は銀行に出かけ、円を元に替えることにしました。
成田空港、昆明空港、中国銀行の3ヶ所で両替しました。銀行は手数料(50元)なしで当日の相場で両替でき割り得ですが、サインを何回も求められること、円札も含めて偽札チェックがあるなど、時間が掛かるのが欠点です。陸さんの話ですと、キズのある円札は拒否されるとのこと、また、いわゆる街の両替店では、偽人民元札を渡される危険性があるとのことでした。
中国銀行では、ヘルメットをかぶり、完全武装(?)の警官(警備員)が入り口とカウンターに配備されているのには驚きました。受付と窓口の係員は英語を話しました。受付番号の呼び出しは中国語と英語でした。

3.夕食は北京ダック



夕方5時に、注文した土産品を持って陸さんと陳さんがホテルに、夕食に出かけました。店は北京ダックの陸さん推奨の店で、昆明では最も大きいレストランだということです。北京で消費される北京ダック用の家鴨は、ここ昆明近郊で飼育されているとのことでした。
街の東、円通寺と動物園近くにあります。この辺りは13世紀に元の行政府の拠点があったところで、円通山の麓にある緑豊かな地は、現在でも昆明の高級住宅地となっています。程なく、店に到着、100席以上はあると思われる大型レストランで、5時半でしたので、私たちが最初の客となりました。



中年の店員が注文を取りに来ましたが、なにやら様子が変です。昆明では昼から飲酒をする人も多く、酔っ払っているのだと陸さんが言っていました。やがて、北京ダックが焼きあがり、丸ごと一匹を客の目前で捌きます。削いだ身を薄い小麦粉で焼いて作った薄餅に包み、ねぎやキュウリを挟み、麺醤(中華甘みそ)につけて食べますが、小さな万頭も出され、それにはさんで食べるのが昆明風なのでしょうか。鶏がらで作った白濁したスープが続きました。
7時を過ぎた頃には、ほぼ満席となりました。支払いは201元(3,500円)、信じられないほどの格安な値段です。午後8時開演の雲南映象に向かいました。

4.憧れの雲南映象・ミュージカルへ

雲南映象については、中国のネットで知りました。昆明中心部に専用劇場を持っており、舞台、照明、音響など世界的な水準に達している立派な劇場です。座席も幅が広く、ゆったりと贅沢な造りとなっています。料金は2階席で220元、一階正面の最も高い480元(7,000円)の席を陸さんにとってもらいました。
上演時間は1時間50分の通し公演、途中で座席を離れる観客はほとんどいないということで、陸さんがまずトイレに、それから正面中央の席まで案内、終了したら席まで迎えに来るから離れないようにと念を押して戻っていきました。観客が続々、席に着きます。ほとんどが団体客・・・中国人、欧米人、日本人のツアー客も入ってきました。

1時間50分は長いと開演前は思っていましたが、異次元の歌と踊りの世界に引き込まれた時間となりました。中国では京劇が有名、雲南省隣の四川省・貴州省で演じられる川劇(せんげき)がありますが、雲南映象のミュージカル自体は歴史は浅いですが、何千年も少数民族に伝えられた音楽と舞踊からなり、ほかの芸術に比べて遜色はありません。

雲南映象を創設した楊麗萍(ヤン・リーピン)は現在、国家一級舞踊家の名声を得、国内はもとより世界各国で活躍しています。彼女は雲南省大理の少数民族ペー(白)族出身で、幼い頃より貧しい生活のなか舞踊に熱中、正規の舞踊教育は受けることはありませんでしたが、その才能を見いだされ、1971年雲南省の歌舞団に入団、中央歌舞団を経て、1986年、彼女自身の創作・主演によるソロ・ダンス「孔雀の精霊」で一躍中国のトップダンサーになります。
それを機に、彼女が長年にわたり抱いていた夢の実現に向け、雲南省少数民族の文化の象徴である歌と踊りを各地の村々を尋ねながら収集、同時に、歌と踊りに才能ある若者を見出し団員に採用、雲南映象というミュージカルに集大成し、昆明市に専用常設劇場を持ち、活動を確固たるものにします。



私たちが鑑賞したミュージカルは「創世・太陽・大地・故郷・火・巡礼・孔雀の精」の7部構成・・・各少数民族の歌と踊りをテーマごとに取り上げ、各民族の太鼓62個とそれぞれのリズムを効果的に組み合わせ、衣装は言うに及ばず、使用するお面などの小道具も民族の生活や祭祀で実際に使われるもの、そして、出演者の7割が少数民族の若者です。
舞台の両脇の壁面には、大型のスクリーンがあり、シーンごとの説明が中国語と英語で交互に表示されます。民族歌謡となると、その歌詞の意味が表示されますが、少数民族の言語で歌われるため、大多数の中国人観客にも内容を理解できず、そのためのスクリーンでもあることに、後で気づきました。

民族舞踊ですから多くの出演者が同時に舞台いっぱいを使って踊りますが、第1部太陽の「月光」とフィナーレの「孔雀の舞い」は独舞(ソロ・ダンス)です。指の関節一つひとつから、手足、体全体をしなやかに揺らし、女性の美しさの根元を演じきる舞(ダンス)は圧巻・・・楊麗萍(ヤン・リーピン)が生み出し、現在は実妹に引き継がれ、彼女たち二人しか演じることはできません。ミュージカルの中で、一人だけ6、7歳の少女が若者に混じって懸命に演技していますが、この子こそ楊麗萍の実の娘・・・将来は叔母に続いて、門外不出の「月光」と「孔雀の舞い」を引き継ぐことになるのでしょう。
幕間を暗転でをつなぎますが、その合間にため息とともに歓声がどよめきのよう響きます。文字通りあっという間の1時間50分でした。

陸さんと陳さんがホテルまで送ってくれ、別れたのは午後11時近く・・・お二人の2日間の昆明での誠実なガイドぶりに別れ難く、夜の街に消える二人の車を見送りました。

日通ペリカントラベルネット社との昆明2日目の契約は、車チャーター代の155US$(14,600円)だけでしたので、追加のガイド料金を支払おうとしましたが、陸さんは受け取りませんでした。

「雲南映象」 HTTP://WWW.DYNAMICYUNNAN.COM/
* 中文版と英語版だけですが、写真を眺めるだけでも、ミュージカルの素晴らしさが伝わります。


 

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西山森林公園と雲南料理・・・昆明の1日目

2010-06-03 05:09:26 | Weblog





7時40分広州発中国南方航空(2名430US$=40,500円)で昆明へ・・・1時間前までのチェックインなので、空港に隣接しているホテルでしたが、宿泊代118US$(ツイン11,100円)に含まれる朝食を取る時間がありませんでした。
 広州白雲空港は中国が威信をかけて建設しただけあって、その巨大さに圧倒されます。空港内の食堂で、初めての中国での朝食、牛肉と青梗菜をのせた汁の少ない麺でしたが、口に合いました。家内は、テーブルの間を巡回するカートいっぱいに載せられた万頭の1つをとりました。

2.昆明空港



2時間弱で昆明空港に到着です。写真は乗ってきた飛行機です。シャトルバスから撮りました。シャトルバスは満席でしたが、私たちが乗り込むと、若い女性二人が、席を譲ってくれました。「謝々」とお礼を言い、好意に甘えました。続いて、年配の中国人の夫妻が乗り込みましたが、やはり、席を譲られ、無言で座りました。
 中国では、年配者に席や、列の順番を譲るということが当たり前のことだと日本語ガイドの陸さん(男性)が教えてくれました。譲られた年配者は当然のこととしてその行為を受け入れ、お礼などは言わないそうです。

空港で待っていた陸さんとドライバーの陳さん(女性)とさっそく西郊外15Kほどにある西山森林公園に向かいました。車はドイツ車でどっしりとした足回りで、30キロのスーツケース2つ、大人4人が乗っていても加速十分です。
西山森林公園は雲南省最大の湖・滇池(デンチ)に沿うように海抜2,000M~2,500Mの山々が南北40キロにわたって連なりますが、昆明市自体が海抜1,900Mにありますから,町から見ると高山という感じはしません。

 空港を出るとすぐ市内に入ります。開いた窓から埃や車の排気ガスが舞い込んできます。出発前に読んだ観光案内書には、「海抜約1900メートル、三方連山に囲まれ、街の南は滇池(デンチ)と呼ばれる湖水に面している。気温22度。空気は清涼で誠に心地よい。中国の省都の中でも屈指の生活環境を誇る」とありましたが、それは人口400万当時の昆明の話・・・現在では人口600万に膨れ上がり、交通手段は自転車、オートバイ、車、バスで飽和状態・・・道路改修、地下鉄新設、市街地再開発など街のあちらこちらで工事中・・・すべてが終了し、再びかつての美しい昆明を取り戻すことを願っています。

3.西山森林公園・竜門へ



 西山森林公園地区には20以上の仏教、道教、チベット教の寺院があり、竜門石窟(道教)と華亭寺(仏教)に向かうことに・・・空港から30分足らずで松や杉の原生林の中の坂道を登り始めます。雲南省は世界最大の松茸産地、ここの原生林でも採れるのでしょうか。昆明にはキノコ料理専門店もあり、豊富なキノコ類に恵まれています。
 
 ウオーキングを楽しむ人の姿も見られ、高地トレーニングに昆明に来る日本のマラソン選手も同じ道を走るのかなどと考えているうちに駐車場に到着、10元の遊覧車にのり「竜門」に、40元の入園料を払い、くぐると願い事が叶うと言い伝えを信じて、「登竜門」に向かいます。
300年前、14年の歳月を要して、道士が、垂直に落下し滇池に没する崖をくり貫いて作ったという人ひとりがやっと行きかうことができる狭く急な曲がり石段を登ります。ここは海抜2,000M・・・息が切れます。ガイドの陸さんの話ですと、高山病にかかる観光客もいるとのこと、また、雨天の際には滑りやすい石段は危険なので登竜門までとなるそうです。






 頂上のお堂からの風景は絶景ですが、残念ながら眼下に広がる滇池は水質汚染で緑に変色、陸さんが子供の頃にはよく泳いだという面影はありません・・・その向こうに広がる昆明の町はスモッグで霞んでいました。
 陸さんが、遠くにある陸上競技場の屋根を指差し、高橋直子選手がそこを出発し、滇池を横切る橋を渡り、ここ西山森林公園周辺で高地トレーニングしていたと説明してくれました。
帰りの遊覧車に乗り込むと、売り子が何人もみやげを売ろうと近づいてきます。無視しても、動き出すまで離れようとしません。陸さんによると石林も同様だと言っていましたが、翌日の石林ではこれほどではありませんでした。

4.華亭寺へ



 次に訪れた華亭寺は、静けさに包まれていました(入場料6元)。観光客は私たちだけではなかったでしょうか・・・雲南省最大規模で,往時には境内に200あまりの建築物があり、900年の歴史のある寺院で、植栽豊かな原生林の中に佇んでいました。近年、火災により多くの建造物を失いましたが、民衆の協力や観光客の売店の売り上げで復興したと陸さんが話していました。
静かで、緑豊かな境内・・・奈良を思い出させる亀が泳ぐ池・・・いろいろな表情を見せる仏像・・・殊に五百羅漢は圧巻でした。



 中国絵画、刺繍、壷などを販売して華亭寺の運営を担っているという境内の売店に案内されました。客は私たち夫婦のみ、ボランテイアだという日本語を話す女性が一人で待っていました。お茶を入れてくれて、展示される絵画や刺繍の案内をしてくれましたが、私の家には飾るスペースもなく、購入しませんでした。落胆の表情を見せる店員には気の毒なことをしました。ガイドの陸さんからの連絡で待機していたのでしょうが・・・  

5.昆明市内へ



 午後1時を過ぎ、昆明に戻り、昼食を取ることになりました。中心街に入りましたが、市内の主要道は、交差点以外での左折(中国は左ハンドル)を避けるため中央分離帯があり、また、一方通行の道路も多く、渋滞とひっきりなしの車のホーンが耳につきます。
 陸さんがよく出入りするという「老東粥皇金尼店」に入りました。大衆的な感じのレストランで、店員は若く、お客が入ってきても、店員同士は雑談で夢中・・・陸さんが大声で呼んでいます。注文したのは5品、最も高い麻婆豆腐が20元、飲み物も入れて総計90元、1,300円(1元=14.3円)に過ぎません。麻婆豆腐というと四川省が本場ですが、隣接する雲南省でもよく食べられるようで、どのレストランにもあり、店ごとに味付けが異なり、日本のものよりずっとおいしく、三日間連続しては食べていました。

6.ホテルへ   
 ホテル「桜花酒店」に向かいました。ホテル近くの民生局という政府機関の入り口で10人くらいの初老の人々がスローガンを掲げて座り込んでいました。働いていた会社が年金を支払わないことに抗議しているのだそうです。周囲には銀行が並び、大型高級ホテルの昆明飯店が西隣にあります。



7.夕食は雲南料理店で




 夕方5時、今日のハイライト雲南料理の名店「福照楼汽鍋鶏飯店」に出かけることにしました。インターネットで名前を知り、昆明ではぜひ、訪れようと決めていました。
 汽鍋(チーコー)は素焼きの鍋で、中央に蒸気を通す煙突状の円筒があります。その鍋ごと蒸し、中央の穴から出てくる蒸気が具材の上に落ち、エキスを抽出してスープとなっていきます。本来は水を入れないでスープを作る調理法で、少々の塩と僅かな薬味の生姜だけの素朴なスープは透明、鶏のうまみが凝縮されています。この肉とスープを取り出し、雲南料理の特色である柑橘・薬草・香料などが入った独特のタレで食します。滋養食で薬膳料理の一種です。

 ホテルでタクシーを頼みましたが、桜花飯店ではタクシー会社との契約がないらしく、ベルボーイが道路に出て車をつかまえます。夕方のラッシュアワー、来るタクシー、来るタクシー、すべて乗客が乗っています。待つこと20分、ようやく空車です。ホテル備え付けのカードに、福照楼汽鍋鶏飯店の名前を書いてベルボーイが運転手に渡しましたが、道が分からないようです。やがてホテルのコンシェルジェがやって来て説明、ようやくの出発となりました。
 
 夕方の昆明の町は活気にあふれ、ネオンサインと街路樹がマッチします。あのスモッグに覆われた街は、夜になると本来の輝きを取り戻すのでしょう。乱暴な運転にひやひやしながら30分、ようやく福照楼汽鍋鶏飯店に到着、メーターは14.8元、15元を渡しました。陸さんから悪徳運転手だとあちらこちら回って30元にすることもあると聞いていましたから、良心的な運転手に出会ったようです。




 テーブルに着くと、三七とハマナスの花を加えたお茶が出されました。このお茶はかすかな苦味と甘みがあり、料理に合います。少しでも飲むと次々と注がれます。早速、28元の汽鍋鶏(小)とユリ根、胡瓜、トマト、かぶの生野菜一皿を注文しました。日本なら生野菜にマヨネーズとなるでしょうが、ここでは2種類のタレに漬けながら食べます。写真の上から二つがそのタレ、下が汽鍋鶏のタレです。どうやら、雲南料理はこのタレに秘密がありそうです。

 伝統の汽鍋鶏は絶品でした。薄味で雑味がまったくありません。中国料理というと濃い味というイメージですが、雲南料理はまったく異なります。最後に注文したグリーンピースの蒸しご飯は、日本の懐かしい味そのものでした。ジャポニカ米に似ていて粘りと甘みがありました。ビールと白酒も含めて、わずか105元!でした。
 
 大満足の食事を終え、タクシーを頼みました。ボーイと鍵を腰にぶる下げた男性が二人でタクシーを呼んでくれました。この男性はマネージャーの許濤さんで、英語を話します。名刺を貰い、この店の紹介記事をブログに書いたら送ることを約束しました。 

 途中の公園では数百人の人々が踊っているのに出会いました。初夏の夜を楽しむ人々で賑わいを見せる昆明の夜の街をホテルに向かいました。帰りのタクシーは11元でした。

福照楼汽鍋鶏飯店・北大門店 昆明市朕盟路393号 電話0871-5710/158




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