毎度のGoogleのロゴがこんなことに!
嘉納治五郎生誕106周年
柔道の方ですよね?
毎度のWikipediaによりますと・・・
嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日〈万延元年10月28日〉 - 1938年〈昭和13年〉5月4日)は、
講道館柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、
明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた。
「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる。別表記加納 治五郎。
1860年12月10日(万延元年10月28日)、摂津国御影村(のちの兵庫県神戸市東灘区御影町)で、
父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として生まれる。
嘉納家は御影に於いて屈指の名家であり、祖父の治作は酒造・廻船にて甚だ高名であった。
治郎作は幕府の廻船方御用達を務め、和田岬砲台の建造を請け負い、勝海舟のパトロンともなった。
柳宗悦の母は治五郎の姉である。
ほー! 柳宗悦は伯父さんなのね?
1877年(明治10年)に東京大学に入学した。
東京大学時代には中村正直や三島中洲に漢文学を学び、渋沢栄一の経済学の講義を受け、
またアーネスト・フェノロサの薫陶を受けその指導の下、
政治学、理財学(経済学)、哲学、道義学(倫理学)、審美学を学ぶ。
まさかのフェノロサや渋沢栄一に指導を受けたのね😲
育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い
非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、
親の反対により許されなかった。
当時は柔術は軽視されていたのだそう😢
1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。
磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。
柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。
1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の
12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。
1905年(明治38年)、大日本武徳会から柔道範士号を授与される。
1922年(大正11年)、講道館文化会を設立し、
柔道の理念としてそれまでの「柔の理」から新たに発展させた「精力善用」「自他共栄」を発表する。
と、かなり省略してますが、様々なことを学んだうえで、
柔術をもとに「柔道」を作り上げたということなのね😳
教育者として、スポーツ界への影響なども紹介されているけれど割愛
柔道家としては・・・
日本伝講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、武術に教育的価値を見出し整備した武道のパイオニアであり、
武術家としてその実績から「維新以降百年の柔術界の最高の偉人」
とも評される武術・柔術界の第一人者であった。
とのことで、スポーツの分野としては・・・
日本のスポーツの道を開き、
1909年(明治42年)には東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。
1912年(明治45年)7月、日本が初参加したストックホルムオリンピックでは団長として参加した。
1936年(昭和11年)のIOC総会で、
1940年(昭和15年)の東京オリンピック(後に日中戦争の激化などにより返上)招致に成功した。
と、やっぱり日本のオリンピックへの道を拓いたことが大きいでしょうかね?
「いだてん」でも重要人物として登場していたと思うけれど、
途中で挫折しちゃったんだよね😅
今回のロゴはスライド形式になっている
▶をクリックすると
体格の良い相手との柔術の試合?
簡単に投げ飛ばされてしまった💦
体の大きな相手に勝つための方法を調べる!
これは「背負い投げ」?を生み出したってことかな?🤔
講道館を開いた?
柔道を教える
そして柔道は世界に広がったって感じかな?
検索画面のロゴはこんな感じ
画面上ではこんな感じにデザインされている
お誕生日おめでとうございます!🎂
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