白隠和尚のブログ

今日より明日が幸せでありますように。好奇心旺盛な70代のブログ。

またまた入院 "退院したよ"

2018-03-16 10:25:26 | 病気の話

退院の朝、娘は早めに迎えに来た。
私は娘に面と向かって言い難いので心の内で面倒をかけ続けてきたことを詫びた。

治療中は当然の事ながら、痛いこと苦しい事がたくさんあったが、
全て今日で終わった。まるで牢屋から出処するような清々しい気分だ。

病院を出たら足がふらついた。
日射しが明るい、病室にいる間に季節が動いたことを実感する瞬間だった。
娘が去年よりしっかり歩けていると言った。

もう入院は懲り懲り(確か去年もそう書いたような気がする)。
点滴針が二の腕の神経に触れるときの痛さを、
チューブを引きずり点滴棒を掴んで亡霊のように歩く己の惨めな姿を忘れまいぞ。

退院後はあまり外出しなかった。
知った顔に出会うのが照れ臭いから。
一方でご近所さんは何処で聞いて知ったのか、一様に事情を知りたがった。
わざわざ電話で様子を尋ねる人もいて、
そんな時はご近所ニュースにならない程度に病気の事を説明した。

退院して1カ月と少し経った。
昨日は1500歩あるいた。畦道を好きな時間、
好きに歩ける自由な解放感を手放したくないとつくづく思う。
歩き疲れたら杖を使えばいい、息がしづらくなったら酸素ボンベの世話になろうと思った。

という次第で強運にも私はまたブログが書ける体調を取り戻しました。
私の病気を案じてご声援下さった皆さまにこの場を借りてお礼を申し上げます。


白隠和尚


またまた入院 (6) 退院前夜の戸惑い

2018-03-13 08:24:24 | 病気の話

入院して10日位過ぎたある日主治医が回診にきて
「大分元気に成られましたね顔色も良くなったし、もう何時退院しても構いませんよ」
と言い残し去った。

しかし、当時の私の体調は肺炎の重篤患者のそれに近いもので、
食欲なし、血中酸素の値はベッドを乗り降りするだけで90を割り、
脈拍も瞬時に110を超えて呼吸が苦しくなるというのが日常だった。
本来なら嬉しい筈の退院の通知を喜びと不安がない交ぜになった複雑な気持ちで受け取った。

早速娘に「退院の許可が出た」ことを知らせたら
意外な返事が返ってきた。
なんと娘にも主治医から直接同じ連絡が有ったと言うから、これには更に驚いた。
しかし、いつも私に付き添い世話をしている娘の姿を見知っている主治医にしてみれば
当然の好意なのか。
私は主治医の優しい配慮に改めて感謝と信頼の念を深くした。

明日は退院という日、
漸くチューブと心電図モニターが外れて身体の自由を体感した。
試みに病院の廊下を歩いたら膝がガクッとなった。
まだ入院して10日程しか経っていないのにもう老いが忍び寄っている。

午後、シャワーが使えることになった。
ナースステーションの横を通り抜けるとき看護師に呼び止められはしないかと理由もなく不安だった。
病室に戻り私の部屋番号が512であることを初めて知った。

夜、どら焼を食べた。初めての間食、
退院の前祝いの儀式の積もりである。美味しいとは感じなかったが、
今まで全く見向きしなかった物に気持ちが動いた事に病気の回復を感じた。

明日は退院するのだ。


[最終頁]につづく


またまた入院(5) 拒食に悩む

2018-03-09 08:34:40 | 病気の話

昨日でインフルエンザの熱も下がり、今日から肺炎との闘いである。
その夜、食事が来た。しかし私の食欲はご馳走を目の前にしても全く不感症だった。
箸が動かないし食べたい物を見たときに感ずる筈のゴクリ感は全く起きないのだ。

〈ある日の病院食〉


それでも一通り箸を付けてみたが何れも味がしない、
味の違いが分からなくて、まるで木屑を噛んでいるようなパサパサした食感だった。
「とにかく食べなければ」と嫌がる喉を押し広げて少しお腹に入れた。

翌朝からお粥に変えた。
娘が買ってきてくれた[梅干しと振りかけ]の力を借りて流しこむ作戦だ。
お粥で身体を食に徐々に慣らしていこうという意味もあった。

しかし、お粥だけではカロリーの絶対的不足は目に見えていた。
看護師は毎食後「食べれましたか」と
殆ど手付かずのトレーのおかずと私を見比べたからなにやら記録していった。

3~4日過ぎた頃から少し味が分かるようになったが、
食欲は相変わらず無いままだった。
口にするのはペットボトルの緑茶だけで菓子やジュースの類いに全く関心向かなかった。

私は次第に痩せ細り、特に二の腕は茶色く萎びた山芋のような肌ざわりに変わった。
この結果、点滴針を打ち直す事が一層難しくなった。
悪いことは重なるもので、看護師は私の血管が細く弱くなっているといい、
注射を失敗した時の口実にした。
看護師が男性の時はその都度大袈裟に大きな声で「痛い」と悲鳴を上げた。

連日の苦闘にも関わらず私の病状は遅々としか向上しない。
食欲も無い。私はトンネルに閉じ込められたような鬱々とした気分で退院を待った。


(6) につ づ く


またまた入院(4) 熱は引いたものの・・・

2018-03-06 12:38:16 | 病気の話

徘徊騒動の翌日は疲労の極みだった。
インフルエンザの熱は引いたものの身体に力が入らず、ベッドの乗り降りも電動ベッドの力を借りた。

健康な人の血中酸素の値は95以上らしい。
入院した翌日の私の血中酸素の値は82前後と健常者のそれと比べてかなり低いものだった。
看護師は「息苦しくありませんか?」と繰返し私に聞いた。
通常の場合、血中酸素が85前後に下がると息苦しさを訴えるらしい。私は疲れはて
声を出すのも苦痛だった。

治療の内容は昨日の延長と言ってよく、点滴は抗生物質と大きな溶液、
酸素の補給量はダイアルを③にセットされた。
そして病名は「間質性肺炎」だと知った 。

私は点滴も酸素も嫌いだ。ただでさえチューブを引きずって歩く姿は重病人然としているのに、
今回は心電図モニターという重量物をぶら下げている。
トイレの行き帰りに厭でも目に入る鏡の己の姿は老いて痛々しく、
絵になるくらい哀れに見えた。

主治医は血中酸素の値が90前後に回復したら退院を考えましょうと言った。
私はその数字であれば4~5日の間、
真面目に点滴と酸素を続ければ容易に目標は叶えられそうだと思った。
〈血中酸素計、左側の数字が血中酸素〉


ところが直ぐ難題に気づいた。私はインフルエンザとの闘病で拒食症になっていたのだ。

(5) につづく


またまた入院(3) 初日の大失態

2018-03-02 17:19:49 | 病気の話

総合病院に入ると形式的な診察の後、用意された病室に入った。
病院衣に着替えてベッドに横になると直ぐに鼻に酸素ボンベのチューブが差し込まれて、
胸部には心電図のリード線の電極みたいな物があちこちに貼り付けられ、
最後は忌々しい点滴針を刺されて立派な入院患者が出来上がった。

こうした後漸くインフルエンザの抗生物質による治療が開始された。
外が暗くなった頃点滴は終わった。
私は検温に来た看護師に体温を尋ねたら39℃と返事があったことは覚えている。

突然、耳元で鋭い声がしたので目を開けると
「和尚さんどうしてこんなところに寝ているのですか?何処か痛むところは有りませんか?」
と叫んでいる二人の看護師の顔が目の前に有った。

私は回りを見回して自分が床で寝ている事を悟り仰天した。
しかも枕元から4m程離れた足元の通路だった。・・・
その後どうやってベッドに戻ったのかさえ未だに記憶がないのだ。

目が覚めたのは翌朝だった。
熱も下がり久しぶりに気分は爽快で
場合によると今日、明日にも退院許可が出るのでは胸算用もした。
私は昨夜の出来事の記憶をすっかり喪失していた。

朝の検温が始まると看護師が回ってきたが、
その内の何人かは「大丈夫ですか」言いつつ、私を物珍しげに見て納得して出ていった。

しかし、病院は私の昨夜の行動を見過ごす事は無かった。
直ぐに[徘徊第一種]という病名を私に付けて観察を強化する措置を取った。



空色の札がその印である。

私はさらに退院時期が延びることを覚悟した。


つ づ く