私の大学での恩師のことをふと思い出した。
先生はまだまだ現役ではあるが、最近はご病気もされたとの由。
いちおうFacebookでは繋がってはいるものの、実質的に交流はもうない。
そんな私がまだ学生だった時代(四半世紀も前の話だ!)、なんの折だったか、ふと先生がこんなことをおっしゃった。
「やっぱりインテリは左翼じゃないとね」
ノンポリだった私は「あぁ、そっすかぁ」的な反応をしたと記憶している。
正直、よくわからなかったのである。
すると先生は、どんな言葉だったかは忘れてしまったが、「革命とか興味ないの?」という意のことをおっしゃった。
私の答えは「ないっすねー」だった。
高校や大学で、そういう左翼的な活動に触れることがあったでしょ?というニュアンスだったように記憶しているが、今となっては定かではない。
すると先生は少し不満そうに「ふうぅん」とおっしゃり、その話題はそこで終わってしまった。
先生としては、何か共感・共鳴のようなものを期待されたのだろうか。
それから時が過ぎ幾星霜。
いま私は、どちらかといえば保守寄りの思想に近づいている。
といっても、右翼思想に近づいたわけではない。
この辺の話も、いまの私の頭の中はこんがらがっているのだが、右翼と保守はおそらく違うものだ。
漠然としたイメージでの話になるが、左翼も右翼も革命的なのだ。
「現状を否定」し、共産主義だろうが天皇主義だろうが、とにかく世の中を「ガラガラポン!」するのだ!という、そういう勢力を左翼や右翼と呼ぶのだと思う。
(左翼も右翼も、本来、フランス革命後の議会から生まれた言葉なのだから、「革命」を前提とするのは当然なのかもしれない)
その両者から距離を取る立場、それが私の考える「保守」である。
あまり言及したくないので名前は伏せるが(察してくれ)、ある保守派の論者の一人が、「保守」を”conservative”ではなく、"maintenance"だと表現したのには一瞥の価値があると思う。
”conservative”=「守旧派」とすれば、それとは区別される形での、漸進的改善を志向する考え方。
ここで、「ん? それは生活保守か?」との疑念が湧いた。
調べてみると、生活保守とは次のようなものを指すらしい。
生活保守主義(せいかつほしゅしゅぎ)とは、消費社会に満足し、社会変革を望まない姿勢を指す。バブル期に盛んに使用され、1986年の第38回衆議院議員総選挙において、自由民主党に304議席を獲得させる原動力になったとも言われる。転じて、年輩者が家庭生活の安定を望み、冒険を望まないことも指す。 1970年代後半からの自民党の勢力回復と主権者の保守回帰に関連して言及されることが多い。
ちがう。そうではない。
漸進的改善を志向する態度。それが、いま私の考える「保守」だ。
悲しいかな、言葉というものには垢がついてしまうもので、こんにち「改革」という言葉を使うとき、そこにはなにか胡散臭いものが纏わりついてしまうようになった。
だから、「改革」ではなく「改善」とした。
本当は「改革」としたいところなのだが。
閑話休題。
「インテリは左翼じゃないとね」とは何だったのか。
もうすぐ五十に手が届こうという齢になって考えてみると、これはつまり、よく言ってノブレス・オブリージュ、悪く言うとエリーティズム=選民思想に基づくヒーロー願望(もっとひどい言い方をすれば妄想)なのではなかろうか。
そういえば、最近、重信房子の著作が発売されたそうである。
それを好意的に取り上げた書店のツイッターアカウントが炎上していた。
先生はFacebook上に重信房子について肯定的な文章を投稿されていた。
嗚呼。