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人生、消去法
世捨て人のつぶやき




ノーベル賞のグラミン銀行については、なにやら絶賛組と
そうでもない派に別れているようである。

わたし個人としては、ま、感動するのが半面
そうでもなく、やはり仕組みづくりが巧みだったのね
という、否定ではなく、客観的な感心という思いが半面にある。

そんなところへ、内田樹氏のエントリ(http://blog.tatsuru.com/archives/001961.php)で
教育改革についてのなかなか含蓄に富んだ話を読んで、ちと書いておこうか、と。

まず、何よりも今回のグラミン銀行の件で思い到るのは
「がんばる」ということの重要性である。
それは個人的にがんばるかどうかという話ではなく
社会が現場にいる人々の「がんばり」を引き出すように動くかどうか、という話だ。

つまりは、単純なことである。
「現場でがんばった」ら、やっぱりうまく行くことが多いんだね、ということ。
全部がうまく行くわけではないだろうけれども、
「現場にいながらがんばりもしない」奴らの集まりからは出てきそうにない結果が
どうやら、「現場でがんばること」で、出てきそうだ、ということ。

そして何よりも大事なことは
そういった「がんばればうまく行くかも」という
何がしかの希望というか願望というものが
誰かの個人的な行動によって
じつは実現可能なものだったということ
このことではないか、と思うわけである。

なんか、ジョン・レノンのイマジンみたいな話になってきてしまったが
でも、結局はそういうことなんではないだろうか。

その意味でいえば、人が持つ信念というものは
良くも働けば、悪くも働く。
カルトとか、北朝鮮とか(公平を期すためにいえば、かつての日本とか)
悪い信念の例には事欠かないが、
こういったいい意味での信念の肯定というのは
久方ぶりのような気がする。

ま、このように、どちらかというと
今回のノーベル賞騒ぎについては
わたし個人としては、比較的肯定的である。

つまり、私は切に「たこ焼き基本法」の制定を憂慮する者なのである。

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私が大学を出たのは2000年である。
丸6年目ももう半ばを過ぎてしまった。
ひげにまで白髪が生え、腹まで出てきた。
むべなるかな、6年だもんな、などとつぶやこうとして
やっぱりやめる。

私が大学を出た2000年は就職氷河期のもっとも厳しい年だった。

私の世代は、子供の頃は世間での働き過ぎ批判を耳にして育ち
そんなにバリバリ働くもんじゃないんだな、というのと
もっと自分の時間を大切にするとか、そういうものに価値があるんだなと
なんとなく思わされて(あえて受動で書くが)きたように思う。

そしたら不況である。
しかし、まだ高校の頃は誰もまさかこんなに長引くとは思わず
まして、それが自分の人生に拭い難い暗い陰を落とすなどとは思いもしなかった。
高校のときある教師が
「君たちが大学を出る頃には不況はもう終わっているから安心して」
というような内容のことを言っていた記憶がある。
が、そうはならなかった。

私は田舎育ちで世間知らずで
親も同様に田舎でずっと暮らしてきたため
そんな激しい競争社会などというものに対する対策など
親子ともども何一つとってきていなかった。
(親は私に勉強しろとも言わなかった。
 ま、そこそこの大学でて地元に戻りゃそれでいい、そんな感じだった)

そこそこまじめにしていれば、おのずと誰かが世話してくれて
それなりのというか世間並みの生活ができるようになるものだと
思い込んできた節がある。自分で言うのもなんだが・・・

そして、ほんとに「どうにもならない」という現実がそこにあった。
キツかった・・・

即戦力?
なわけねーだろ、っていう。

いや、同じような思いを経験した人は掃いて捨てるくらいいるだろうが
私にはあとがなかったことが
(つまり親が既に高齢でかつ仲が悪く、引きこもれる場所はなく
 田舎の長男(つーか一人っ子)でフリーターなども選択肢としてなかったことが)
幸か不幸か、背に腹は代えられずというか
とんでもないドキュソなところに就職するという
一種の「荒行」(笑)へと私を導くことになった。

なんとかそこは抜け出した。
多少はマシな環境は手に入れることができた。

でも、やはりまだ将来への展望はない。
人と関わるのが苦手なシゾイド型であるのに、いまだに「調整系」業務だし
これが何か「経験」と呼べるほどのものにはなりそうにない。
何でも屋、それは何者でもない。不安だ。

時間が経つのが早い。
意味もなく疲れる。
音楽を聴いても、もう深く入ってこない。
小説も読み続けられない。

景気は戦後最長を超えたそうだが
正直その実感はあまりない。
若干近所の商店街の空気が軽くなった気がするが
それも景気というよりは私の気分次第なのだろうし。

ま、そんなとこ。

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といっても、大した思いつきもない。

ただ、放っておけば山奥で誰とも交わらずに
ただぼうっと静かにしていたであろう私のような人間が
こうやってほとんど誰に読まれるとも分からないブログではあっても
休み休みとはいえ、少しずつ書いているということは
やはり、昨今のIT革命とやらに負うところが多いのかな、と
まぁ、思っていたりするということである。

そんなこともあり、ITがらみのニュースには
だいたい目を通すようにしているのだが
そのなかでやはりと言うか、Googleはすげーな、と
単純に思っていた。

そして、いろんな記事に出てくるGoogleの社風というか
写真や動画を見ていると
なにかこう、楽天的な見方に少し触れられる気がして
なんとなく、こういうのもあるんだな、というか
ま、こういう世界もあるんだな、というか
とにかく悪い気分がするものではなかった。

で、今日、こんなニュースを見た。
http://japan.cnet.com/news/biz/story/0,2000056020,20276007,00.htm?ref=rss
なんでも社屋の上に太陽電池だそうだ。
すげーじゃねーか。
(ま、日本でも京セラとか三洋あたりがやってたような気がするが・・・)

エコな企業にもなっちまうのかよ、まったく、と。
これじゃハテナもスケールではかなわんよなー・・・
ま、それはいい。

明るいカリフォルニアの太陽のもと
さんさんと降り注ぐ太陽の光を受けて輝く太陽電池。
そして、その電力を使って全世界に向けて
無料の(!)ネットサービスが供給される、と。
(ま、最大で30%ですけど)

なんかすごいことになってきましたね。いやはや。
とかなんとか、思っていたわけだが
なんとない違和感というか
一種「不思議な」と言ってもよいような気分になった。

これはなんだろうな?と考えてみると
そこにあるのはものすごく一面的な「明るさ」なのではないか、ということだった。

それはつまりこういうことである。

これまでは確かに、IT革命とかいわれる世の中の変化によって
それまでの社会構造や経済構造が根本から変化していくという
ダイナミックな、そしてかつポジティブな意味付けがなされながら
Googleとかが躍進してきた。

しかし、その一方で、現在の世界はとても大変なことになっている。
しかも、それがなんとなく実感できないような仕方で、だ。
(それは単に私たちが現実から目を背けたがっているからだけかもしれないが・・・)

大きなところを見ても、9.11からアフガン、そしてイラクへの道程
そして、近隣では北朝鮮の核問題。とかとか。

くどいようだが、もう一度言うと
これらの事態に私たちはいま、とても鈍感になっている。
かくいう私だってそうだ。

で、ここでGoogleとの比較である。

なんなんだ、この落差は?
と、私は思わずにはいられないのだ。

かたや、カリフォルニアの温暖な気候と
おいしくて無料のカフェテリアにきれいなオフィス
やりがいのある仕事に優秀な仲間たち
そして、なによりもそんな場所で働けるというプライド。

その一方では、乾き切った大地に這いつくばり
汗まみれになりながら、そして時には人間性のスイッチを
いくつも、いくつも切りながら(=人を殺しながら)
運が悪ければ、死ぬことになるし、
生き延びたとしても無傷であるとは保証されない。
(身体的にも、精神的にも)

この差はなんなのだろうか。

同じアメリカ人でもこうであり、
全世界に目を向ければ、この程度では話は済まないことになる・・・

アフガンやイラク、そして各国で起きたテロによってなくなった人々
この差はなんなのだ?

話を簡略化するためにアメリカ国内に限定する。

一方で、快適な環境下で高い収入と充実した時間を送る人たちがいる。
そして、またその一方で厳しい環境下で過酷な時間を過ごす人たちがいる。
この差を分つものは何か?

一方は、優秀で頭脳明晰、新しいことを生み出せるクリエイティブな人材だ。
片一方はそれに反して、さほど優秀ではなく、
まぐれでもなけりゃ新しいことなんて生み出せやしない
アン・クリエイティブな人材だ。

この私の分析は、間違っているのか?・・・

もちろん難しい問題はある。
愛国心とか、そういうやつだ。
たとえ優秀であっても、愛国心から
進んでイラクに行ってるようなやつもいるだろうし。

しかし、だ。
私としてはここにある種の・・・暴言だが
「優生思想の現実化」を見る思いがする。
というか、これがそもそもの「現実」なんだろうな・・・

「優勝劣敗」
まさに資本主義であり、また同時に戦争の掟である。

本当に頭のいいやつは
進んでイラクに行ったりはしないのだ。

それはそういうものなんだろう。
私はそう認識している。

だけれども、何かそこにすっきりとはしないものが横たわっている。
うまくまだ言語化できないけれども
とてつもなく「グロテスクな」ものが
あまりにも平然と顔を出してしまっているような気がする・・・

私はその状態、すなわち
とてつもなく明るい面ととてつもなく暗い面との共存
それを「戦時体制」という言葉がもっともよく表しているのではないか、と
思いつきではあるが、思った次第なのである。

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このところ身体的にも精神的にも、なにか疲れがとれない感じで鬱々とした日々が続いている。
椅子に座っていても、まっすぐ姿勢を保つのが難しく、おなかの辺りからなんとなく「くずおれていく」ような感じがする。
さすがにマズいと思い、先々週の土曜に心療内科に行って薬をもらったが、効いているのかどうか分からん感じで、薬が切れたあとは「もういいか」とか思ってもう行っていない。

が、今日はやっぱり行くべきかな、とか思ったりした。
おまじないみたいなものかもしれないが、調子が悪いときに他人を頼るというのは、私のようなデタッチしまくり人間にとっては必要なのではないだろうか。
ま、よくわからいが、医者にかかったり、また散髪に行ったりとか、自分の意識ではあまり気が進まないのだが、行ったあとは不思議と調子が戻ったりするから、やはり無意識レベルでそういう「コミットメント」を私は求めているのかもしれない。
難しいもんですな・・・

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