人生、消去法
世捨て人のつぶやき




今日は一日雨。

雨って嫌いなんだな。
気分が滅入るから。

なんというか、インドア人間だけど太陽は好きで
男のくせに晴れの日に洗濯物を干すと
すがすがしい気持ちになる。

それが、今日は雨。

秋の気配もしてきて
ついに今エアコンをオフに。

なんだか、静かでいいんだけどさ。

明日、退職願を出す。。。

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哲学的な問題になってしまうが
心というものは、つまるところ一体何なのだろうか?

昨今の風潮からいえば、それもこれもすべて「脳」のなせる技であるということか。
ま、究極的には、なにがしかの形で
「脳」という物体と「心」というものの間に
何らかのつながりが見いだされるようになるであろうという予測は
確かに、私も漠然とではあるが、持ってしまっている。

しかし、やはりそれだけでは解決できない部分が残る。
私が今こうやって感じたり、考えたりしている、この状態
これは確かに脳の中での電気的・化学的変化の総体であるのかもしれない。
今こうやって、パソコンの画面を見、キーボードを打ち
次に書こうとする言葉を探しながら
論理の一貫性をチェックしている、この「私」。

この様々であるが、その一方でひとつに束ねられている
この「私」という現象。

事故などで脳に障害を負ったことで
特定の機能が失われるということがある。
失語症・失読症などなど。

そこで言われることは
脳はその部位によって機能を分担しており
ある部分が破壊されることによって
特定の機能が失われることになる、ということ。

たしかにそうであろう。

そのとき、それまでは当然のように私たちの中にあった感覚や認知が
突如として、消えてしまい、思い出すことさえかなわないのだ。
もはやそこにはかつて何もなかったかのように・・・

つまり、ここから言えることと言えば
我々の「意識」あるいは「心」というものは
無数の部品からなりたっており
その部品の一つで壊れてしまうと
その欠落を「客観的」には捕え返すことができなくなってしまうのである。

損なわれたある「入力」情報
それはあくまでも「外部」を指し示す。
その起源は究極的には外部であるが、
その実、それを一つの「情報」としてまとめあげているのは
脳のある部位である。

生の現実というのはどこにもないのかもしれない。

それでは、我々のさす「現実」とは一体何なのか!?

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わたしは子供のころ(小学生中学年くらい)から
ものの貸し借りが異様に苦手だった。

消しゴム一つ借りるのにも、異様な重圧感を感じたものだ。

人に貸す場合は、何ともない。
むしろ、気安く貸してやれる。

ところがなぜか、自分が借りる側に回ると
なんだか得体の知れないものが私を捕えて離さなくなってしまうのだ。

「借りを作る」あるいは「世話になる」ということが異様に苦手なのだ。

なぜだかは良くわからない。

こういう風にしか生きれないのだから。

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常々考えてきたことではあるが
やはり、快感の感受性というのは重要ではないだろうか?

気持ちがいい人は更なる行動に導かれるし
その結果として、そういう人が増える、と。

で、気持ちよくない人はそこから撤退する(笑)
だんだん体力もなくなってくるし(笑)

ま、SEXに限ったことじゃないかもしれないな。
何もかも楽しめないし。
かろうじて音楽ぐらいか。

娯楽と呼べるものがほとんどない。
これはいったい何のせいなのか?

正直良くわからない。

SEX話に戻ろう。

「人肌が恋しい」とはどういうことなのか?
私は子供の頃から、人に触れるのが苦手だった。
厳密にいうと、触れたいのだが
触れても何か違うものに触れているという感じがした。

たとえば、フォークダンスで好きな女の子と手をつなぐ場面
触れるまでは一応ドキドキするというか期待が膨らむワケだが
いざ、触れてみるとそれは、なにかこう
「触れたかったもの」ではなくて
ただの「モノ」に成り下がってしまうのである。
そこで私は失望し、落胆する。

その繰り返しだったような気がする。

で、いろいろと心理学関係の本を読みあさったりしているうちに
「自閉症なんじゃないか?」とか
「分裂病になるんじゃないか?」とか
そうこうしてるうちに、「シゾイド型人格障害」にぶちあたり、
「あぁ、これだったのか」と・・・



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シゾイド型の典型例としてキルケゴールやウィトゲンシュタインがあげられている訳ですが
もっとさかのぼって考えてみると
「隠れて生きよ」の言葉で知られるエピクロスに行き着くのではないだろうか?
↓参考
http://www.ne.jp/asahi/village/good/epikuros.html

さて、エピクロスの
「死はわれわれにとって無関係である。なぜなら、われわれが現在するときには死は現在せず、死が現在する時にはわれわれは存在しないから。」
という言葉は示唆的である。
というのも、おおよそ大部分の人間というものは、自らの消滅を恐れるのであり
その「未だ来らず」の「自らの消滅」=「死」を想起しては
恐れを抱かずにはいられないものだろうから。
そして、その基準を逸脱し、その恐れに対して距離をとり
それをもはや「リアル」とは感じないという感性
それを持ち得た人で初めて歴史に名を残したのはエピクロスだったのであろう。

私の感覚で言うと
「死」とは思い描けないものである。
この場合の「死」は「私の死」である。
これはどうやってもリアルには感じられない。
「消えるはずがない」などという不遜な感覚ではない。
「存在している」ということの確信が希薄なために
なにかこう、脅かされるはずのものが形成されていないという気がする。

それに比較して、他人の死というものは「リアル」である。

私は大学2回生のときに祖母を亡くした。
私は全く「おばあちゃん子」ではなかったし
そして、祖母も(基本的にはかわいがってくれていたにせよ)
そんなに気にかけてくれていた訳ではなかったと思う。

しかし、入院して具合が悪いということで病院に見舞いに行った。
ところが、そこで展開されるのは滑稽な(あるいは悲劇的な?)光景だけだった。
実の娘二人が甲斐甲斐しく世話をしている。
私の祖母は昏睡状態である。
呼びかけにも全く反応はない。

ところが、である。
私が声をかけたところ、祖母は反応を示した。
そこで、長姉であるおばは言った。
「私ではやっぱりあかんのや」と。
末妹のおばがまたこう言った。
「なんで私が呼びかけたときには反応してくれへんの!」

末妹のおばは明らかに怒りの感情を表していた。
姉のほうはなぜか自分が悪いんだ、自分が至らない所為なんだと
そういう感じを示していた。

私が健全さを感じたのは末妹のほうであるが
感覚として理解できるのは長姉のおばのほうであった。

二人のおばについて言えることは
どちらも「相手にされない」といことについて
なにがしかの感受性を持ち合わせているということ。
そして、それを根拠づける際に
「私のせい」だと思うかそうではないと思うか。

長姉は自分のせいだと認識し、
一方で末妹は、自分のせいではなく不当なものとして感じている。

どちらも、同じような境遇だった可能性はあるが
結果には決定的な違いが発生している。

これはいったいなぜなのか?

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資料にあった最低年収より低いということは
実質、不採用みたいなもんだ。
ま、「雇ってもらえるだけありがたいだろ、このボケカス!」ってなところなのかね・・・

足下見やがって、やりかた汚いねー。

役員の人とかは感じよかったんだが
これじゃ、また「団塊の世代の食い逃げ」に腹がたってくるな。
大した仕事してねーんだろうし。

実際、飲みニケーション中心とか抜かしてやがったしな。
仕事しろ。

愚痴ってばっかりも良くないのでこの辺で止めとこう。

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ひとは、その成育過程において様々なトラウマを被る可能性がある。
全く、そのような機会がない場合もあろうし、
またその逆に、トラウマまみれになることもあろう。

ここでは、私個人のトラウマになったのではないか?という出来事について書いてみることにする。

まずは母親の事例から
1. 私は頭の形が歪んでいるのだが、そのことについて何度も非難されたこと。
これは、私の母が美容師で、小学校の4年生くらいまで母に散髪をしてもらっていたことによる。
散髪のたびに、母は私の頭が歪んでおり、カットしにくいことを私に向かって話した。
プロの美容師が、結婚7年目にしてようやくもうけた、ひとり息子に向かって、である。
当時の私は、まぁ、「はぁ、そうですか・・」くらいの受け止め方ではあったが
今となっては、自己否定的感情の源泉のような気がする。

これについては、時の流れとともにというか
年を取ってきたせいとでもいうか
最近は幾分、ま、考慮してやろうか、という部分はある。

というのも、今やネットの力は偉大なもので
そのおかげで鉗子分娩というものを知ったことによる。
いまやこのような状況らしいですが↓
参考

このこともあり、今年に入ってからくらいではあるが
「ま、母親も傷つけられてしまったんだろうし、母親にとってもトラウマだったんだな」
というふうに思うようになった。

産気づいていると入っても
ステンレス製のこのような器具を子宮に押し込まれて
赤ん坊の頭をつかんで引っ張り出すというのは
やはり、それなりの(というかかなりの)ショックではあったであろう・・・

とはいっても、それについて非難された子供は
いったい、どう振る舞えばよかったのだろうか?

もう一度、おなかの中に戻って「普通に」生まれ直すことだろうか?
それとも、ただひたすら、そんな生まれ方をして親に迷惑をかけてしまったことを
いつまでもずっと謝り続けることだろうか?

私には分からない。

ただ、少なくとも今言えることは
「それは、私のせいではない!」ということだ。
私は、そんな生まれ方など望んではいなかったし
また、その責任を負わされる筋もない。

ただ、私はこういう風に生まれてきてしまったし
また、こういう風にしか生きることができないのだ。

また、母は私に向かってこういうことも言った。
「お父さんに似ればよかったのに、私に似て
 鼻は低いし、首は短いし・・・」

さらには、私は両脇に乳首の出来損ないのような印があるのだが
それを見て、「あ、いやらしい・・・。お父さんと一緒や。乳首やで、これ」と。
奇形児扱いである。
実際、いろんな意味で奇形児ではある訳だが・・・。

私は、望まれた生まれ方をせず
さらには、望まれたような姿ではなく
そして、誰からも愛されることはなかった。

そんな人間に居場所はあるのだろうか・・・

すべての人の期待を裏切り
そして、さらにその期待に応える見込みもない。
そんなやつに、いったい何ができるのだろうか・・・

できることがあるのなら教えてほしいと思いながら
ここまでずっと生きてきたような気がする。
愚かなことである。

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一つ前のエントリで「土の中の子供」について書いたんですが
そこにシゾイド型を思わせる描写があったので。

主人公が子供の頃に世話になった養護施設の長に
借金を申し込みにいって、そこで妄想にとらわれて叫び出す場面。

「彼は「落ち着け」と叫び、両肩を鷲掴みにし、私を酷く揺さぶる。
声が出ず、息が止まり呼吸ができなくなった。
彼は私を両腕で捕え、そのまま締め上げようとした。
彼の肌が、私の肌に重なる。
私は「他人だ」と叫び、逃れようとするが動くことができなかった。他人が、私に密着している。密着し、私の中に、入り込もうとしている。恐怖で身体が震え、肌の内側から染み出るような嫌悪感が、強烈な寒気となって私の身体を浸食する。「他人だ」「他人だ」視界が薄れ、喘ぐように叫びながらもがき続けた。
(P.74~75)

他にもなんかシゾイドチックな記述があり
そういうのに親和性のある性格なのだろうか、この著者。

しかし、こういう感覚、すごく分かるんだよな。

学生時代、哲学に興味を持ち、その中でも他者問題というのに惹かれた。
高校くらいから、他人というものが良くわからず
初めはコミュニケーションの問題かな、と思っていたが
しばらくすると、どうもそうではない、と思うようになった。

それで、予備校・大学と、それ系の本を読んだりしたが
どうもどれも私の関心とは直接つながらない感じがして・・・。
身体性とか、無意識とか、本能とか
どれも私が考えたい「他人」というものには
ヒットしないのだ。

フッサールの本なんか難しすぎてまともに読めんので
解説書ばかり読んだが
間主観性とか、他我の構成とか、感情移入とか
どれも、根本的に違う気がしていた。
しかし、まぁ、現象学は方向としては間違ってないんじゃないかとも思ったが。
(竹田青嗣の影響かな。結構読んだし)

で、人格障害の本を読んで、シゾイド型人格障害の記述を見て
「これだ!」と思ったという次第。

いままでは、音楽の歌詞とかで「これって俺のことだよな」というのを見つけると
なんか少し楽になれる気がしていたが、
だんだん、そんな曲も見つからなくなり
いつしかどうせ俺は変なんだよ、
どうにも分析できない特殊事例なんだよ、という
息苦しいけどあきらめるしかないんだ、みたいな気持ちでいたんだが
「まさに、俺」という描写がシゾイド型人格障害のところに出てきて
やっと、なんか、落ち着いたというか
説明がついてよかったという安心というか・・・

ま、だからって何も解決しやしないし
「人格障害の時代」岡田尊司(PHP文庫)にもあるように
統合失調症に似た特徴を持つ人格障害
妄想性・シゾイド・スキゾタイパルの3つは
「自我が侵害されやすいため、合わない環境で不適応を起こすと、
精神病状態に移行することもある」(P.50~51)そうで・・・

ま、私も前の部署で上司とけんかして、自律神経失調症となり
それと時期を同じくして、ただでさえ悪い人付き合いがさらに悪化し
いまでは、人とすれ違うときはほとんど顔なんて見れないし
挨拶もほとんどできない。
態度も周りからはかなり変なやつと見られているだろうし
ホント寸前って所にいるような気がする・・・
というか、周りからしたらもう病気だと思われてんじゃないかな。

果たしてこの状態で転職とかして大丈夫だろうか。
今の会社よりドキュンな会社ってなかなかないとは思うので
何とかましにはなると思いたいのだけれど。。。

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なんかタイトルに惹かれました。
芥川賞だからって理由で読んだことって今までないし。
あ、買ったのは単行本のほう。
短編が一つ追加されてる。

いっさい本屋では本を開かずに購入。
なので、1ページ目で「ダメだこりゃ」ってならないかちょっと心配でしたが
杞憂でしたね。

ま、私は結構初めのほうの文章の感触で
そこから後を読み続けられるかどうかが決まってしまうので
今回はセーフということで。

ま、なんとなく想像していたものに似ている内容でした。
既に広告に評が出ているが
確かになんか観念的で
それが、でも、暴力を介して
生々しい肉体性を宿すという感じは確かにある。

でも、ちょっとぎこちないというか
文章のリズムがどうも一定していない感じがして
あと、数カ所、表現としてこれは???というところがあった。
(私の日本語力がないだけかもしれんが)

全体としては、まだちょっとつたない感じは否めない。
なんというか、まだ自分の文体というものには至っていないというか。
個人的には、併録されている短編のほうがいい感じだった。

ま、芥川賞をウォッチしていないので何ともいえないけど
こんなもんなのか?というのが正直な感想・・・。
いえ、面白かったんですが、なんというんでしょうか
比較するのは酷かもしれませんが
村上春樹とかみたいに(彼は芥川賞、取ってませんよね)
読者の頭の中を一気に自分の文章リズムで支配する、みたいな迫力というか
なんなんだろーな、圧倒する力みたいなの
それがいまいち足りてない。

統一感はないわけじゃないはずなのに
なんかバラバラしている感じがして
なぜか分裂している印象を受ける。
途切れ途切れ、というか、そういう印象。

いろいろネガなことを言いましたが
そうはいっても
これから面白いものを書いてくれそうな感じはするので
期待していいいと思います。

こういう重くて暗いのは個人的に好きなので。

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本にも「孤独と清貧の人生」という書き出しで
その内容を読んでみても明らかに俺にぴったり。
仕事が休みの日などまず誰とも会わないし
仕事で仕方なく携帯は持っているが
これだってできることなら持ちたくないし
そもそもほとんど使ってない。

異性に対する興味も少ないとあるが
俺の場合はあるつもりだけど、他人から見たらないも同然なのかも。
「配偶者を得ることよりも、自分の世界を守ることのほうが優先課題なのである」
とかいてあるけど、これは分かる気がする。
別に結婚じゃなくても、普段普通に仲良くしなければならない場面とか
なんかこう、他人に自分のテリトリーを侵害されているような気がするんだよね。

もともと子供の頃から、孤独には強かったように思うけど
しかし、友達はつねにいた。
ま、クラスが変わったりするとそれだけで疎遠になってしまうんだけどね。
これも何か関係があるのかもしれないな・・・
で、いつ頃からかな、友達作らなくなったのは。
多分、高校2年くらいからだな。
厳密には、高1の3学期から。
いろいろ悩むこともあって
なんか周りの奴らと話が合わなくなって
というか、みんながおもしろがっていることが
とんでもなくつまらなく見えて、
そういう「楽しく・仲良く」みたいな空気が
異常に馴染み難いものに感じられるようになった。
考えてみれば、それまでは複数それなりに仲のいいやつがいたけど
それ以降は、自分と同じ感性があるやつとしか付き合わないな。
いまじゃ、大学のゼミ仲間だけだ。といっても2、3人だが。
それも距離の取り方は、慎重で、
後輩とかで、家に呼んでくださいよ、とか言われると
はっきりとイヤな感情がわいてきて
なんか、「いや、来てもいいけど、うち、何もないよ」みたいに
遠回しに拒否ってしまう・・・
やはり、親しみを表現されているというのは分かるんだが
それが、なんか「侵襲的」に感じられる。
これは、職場でも同様。
いつも親しげに挨拶してくれるある女性が、
たまたま彼女の知り合いの別部署の男性が
俺とも知り合いだと知って
「彼とは時々同期の飲み会してるんです。○○さんも来てくださーい!」
って、思い切り「親しげに」駆け寄られたとき
思わずのけぞって、引きつった顔をしてしまった(笑)
で、彼女のほうも俺の顔を見て顔を曇らせた。
「拒否られた」って思ったんだろうな・・・
ごめんよ、嫌ってるとかじゃないんだけど
あーあ、ダメだ俺は・・・と思った次第。

実際、そんな飲み会行きたくねーし
正直に気持ちが出ちゃっているとも言えるが
社会生活上は、結構死活問題。
で、現在は転職活動中と(笑)
転職したって同じなんだけどね。

しかし、シゾイド(統合失調質)って名前はイヤだな・・・
やっぱ発病の危険とかあるんだろうか。
その辺は何も書かれてないが。
いや、まぁ、その手のページで関係ないという風な感じで書かれてたんだけど
そうはいっても、名前が名前ですから・・・

いっそのこと、完全に狂っちゃえば楽になれるのにとかも
たまーに思うことがある。
中途半端に正常だってことにされていることが苦しい。
病気なんだ、だから仕方ないんだ、ってことにしてもらえたら・・・

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以前読んだ本で「パーソナリティ障害」「人格障害の時代」(岡田尊司)にあるのですが
いくつかある人格障害の中で、私はもろにこれなんですね。
哲学者でいうとキルケゴールかウィトゲンシュタインだそうで・・・
いやはや、そんなすごい哲学を作れたらいいんですけどね。

しかし、ネットで検索しても
あまりこのシゾイド型に関する言及ってないんですよね。
本でもR.D.レインの「引き裂かれた自己」くらいで(2chでこの本を教えてくれた人、サンキュー)
詳しい研究とかもほとんどないみたい。

ま、このカテゴリに入る人は人との接触を極力避けて
自分からいろいろと情報発信なんてしないタイプがほとんどだろうから
どうしても一部の変人学者(哲学以外を含む)とかの
ちょっとしたエピソードが残るだけなのかもしれない。

「隠れて生きる」
ギリシャ持代に既にいわれていた台詞だが
これってやはり、シゾイド型人間のつぶやきだったのではないだろうか・・・

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次は役員面接だそうで。
なんかだまされてる感じ・・・

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なんか、初めてのことなので緊張した訳だが
拍子抜けするくらい和やかな面接で・・・

ただ、「失礼ですけど、今の年収は入社してからずっとこの状態で・・・?」
いや、あの、それでも一応少しずつあがってきてるんですが(汗)
「あ、そうですか、それはそれは・・・」
あ、やっぱ、世間の人たちはもっともらってんのね。
はいはい、もっと出してもらえるなら喜んで!
って、この面接が通る保証はないわけだから
期待しない、期待しない。

世の中はもっと厳しいんだから・・・

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暑がりで汗かきの私には地獄の季節な訳ですが(笑)

今年の夏はどうも体質が変わってしまったのか
はたまた年のせ(以下略・・・
どうも例年に比べて汗をかかないことが多い。

ただ、この体質の変化と同時に
なんだか気分的にも調子が良くなっていたのだが
先週くらいから暑さが増してきたのと同時に
汗を例年並みにかくようになり
同時にそれまで調子の良かったところが悪くなり出している・・・

実は以前に、ちょっと自律神経失調らしきものになり
冬でも足の裏だけは汗が出っぱなしという状況が3年近く続いていた。
真冬に家にいるときなど靴下の汗を電気ストーブで乾かすと
水蒸気がブワーッと上がり
それを5分おきとかにしないと足が冷えて仕方ないという・・・

それがどうしたことか、今年のGWごろに突然パタッと治ってしまったんですね。
特に職場の人間関係とかにも変化はなく(むしろ悪化か(笑))
何がどうしたのかさっぱり分からないのですが
とにかく治ったんだからいいや、と思っていた。
で、なぜかその頃からそれ以外の部分でも
転職活動始めるだけの元気が出たりとか(これはこれでなんだかね、だが)
ま、なんかプラス方向に行っているなという感じがあった。
で、暑くなり出してから気づいたのが
どうも今年は暑さをあまり感じず、かつ汗もあまりかかない、ということ。
家を出て駅まで歩くだけで、いつもならもう汗でタオルハンカチがしぼれるくらいになるのに
今年は駅に着いてしばらくしてようやく鼻の頭にうっすら汗が出る程度。
逆にどっか体が悪いんじゃないかとも思ったり。
実際、会社の上司に「○○君、死ぬんちゃう?」と言われたり・・・

ま、そんなこんなで来た訳ですが
どうやら元の木阿弥のようで。

そんなもんですわな。

おしまい

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