(酔ってます。念のため)
私はこの世界に触れることができない。
つまり私は真の意味で「生きる」ということができない。
私はこの場所で生きてはいる。
しかし、それは、生物学的にそうだ、ということに過ぎない。
私の意識は、いつもなぜか「何かの内側から」世界を眺めているようだ。
それは身体であり、世界と私の境界であり、そしてまた、それこそが私自身というものである、という意味もあろう。
すなわち、全ての自明性から断ち切られた、ある特異な地点、言い換えれば一種の病的な(といってもほんとうに病気の人の精神状態は伺い知ることもできないが)、精神の機能不全ということなのだろう。
私は、死にたいとは思わない。
ただ、生まれなかったことにしてほしいだけである。
それは叶わぬ願いだということも分かっている。
分かっているからこそ、それはひとつの「祈り」にならざるを得ない。
私が存在しなかった世界。それは可能世界のひとつに数えられるものなのだろうか?
端的に、ただ分からない。そう言うしかない。
生まれなかったことにしてほしい。
それは自らの死を願うよりもいっそう根源的である。
私は独我論者ではない。
しかし、同時に他者というものを理解し得ない存在でもあると感じている。
それはどういうことなのだろうか。
今さら死んでももう遅い。
ここまで生きてしまったのだから。
そしてそのことのうちに、世界の不可解さ、不気味さというのもが現れている。
私はつねに、そして既に生を与えられてしまっている。
しかし、それだけでは「生きる」ということにはなり得ない。
そこに何が欠如しているのだろうか?
それは世間で時々囁かれる「君はいてもいいんだよ」という言葉だろうか?
否。
「いてもいい」ものなのか「いなくてはならない」ものなのかは決定的に重要なことである。
<私>が「いなくてはならない」ということ。
それがそもそもの「世界」の「開け」であるということ。
そしてそのことの「無根拠性」こそが、ここで問われなければならない事柄であるということ。
<私>が「いてもいい」存在であるならば、そのとき<私>は「いさせてもらう」存在に成り下がる。
これは、いわば問題の先送りでしかない。
この「世界」が既にあり、そこに<私>もまた”既に”含まれている。
そこに「いさせてもらう」ということは、ただ、現状を追認したに過ぎない。
そこで真に「生きる」ということは一体どういった事柄なのだろうか。
私の存在、すなわち<私>というものが世界に先駆ける存在であるとしたら、「世界」は私に依存する。
その逆に、「世界」が<私>に先駆けるとしたら、<私>は「世界」に依存する。
しかし、ここで思い出されなければならないことは、どちらにしてもそれは「既に」という刻印を押されてしまっているという事実である。
その意味でいえば、これら両者は、互いに同値である。
いやむしろ、我々が逃れることのできない未知の、そして非知の「根源」がここに口を開けているのかもしれない。
「世界」からも<私>からも、説明し得ないということ。
根源的な我々の「なぜ?」には答えてくれるものが存在しないということ。
存在の無明。
それを受け止めること、そして引き受けるということ。
可能か否かではなく、それしか道がないということ。
受け止められないと言う仕方で受け止めるしかないということ。
引き受けられないという仕方でしか引き受けようがないということ。
既に消えてしまった「在れ!」という声をここで聞く気がする。
あくまでも「気がする」だけなのだが。
今ここで「在る」ことは、まさに「在れ!」と命じられるような経験である。
しかし、実際にはそうではない。
「既に在ってしまう」というそのことが、どこまでも「取り返しがつかない」というその意味において、そしてそれを引き受けるのは、この<私>をおいて他にはない、という意味において、それは「今ここでの」天命のように聞こえてしまうような気がするだけである。
あぁ、私は何を論じているのだろうか。
私が存在すること、世界が存在すること、そしてそれが私にとっての唯一の現実であるということ、さらにはそれがまるで「嘘」のようでもあること。
そのすべてをひっくるめて、「不可解」であるという仕方をおいては、他に「存在」はありえないということ。
「不可解」であるということこそが、存在することに触れる経験であること。
(改めて、酔ってるんです。すいません)
| Trackback ( 0 )
|