人生、消去法
世捨て人のつぶやき




カーストという身分制度のあるインドから見た日本の格差社会

上記のブログにこんな一節があった。
Q:どうして大変なのか?
A:下流に落ちて、それに慣れると上昇意欲がなくなる。決してそこから上がろうとはしない。彼らが頑張ることと言えば、政府からの援助を求めることだ。下流では被害者意識が充満している。彼らは被害者として当然の“もらう権利”を主張することに一生懸命になる。驚くべきことに、下流グループから抜け出ることに一生懸命になりはしないのだ。下流層にい続けることを望み、安心してしまう。下流層がグループ化、固定化してしまうことを懸念する。

これの「下流」を「地方」に変換してみる。
Q:どうして大変なのか?
A:地方に落ちて、それに慣れると上昇意欲がなくなる。決してそこから上がろうとはしない。彼らが頑張ることと言えば、政府からの援助を求めることだ。地方では被害者意識が充満している。彼らは被害者として当然の“もらう権利”を主張することに一生懸命になる。驚くべきことに、地方グループから抜け出ることに一生懸命になりはしないのだ。地方層にい続けることを望み、安心してしまう。地方層がグループ化、固定化してしまうことを懸念する。

地方の窮状やそれでも頑張る姿を伝える報道などで
感動させられる場合となんか妙にムカつく時があるのだが
この変換後の文章は、ムカつく場合の理由を少し言い当てているような気がする。

誰も住まなかったようなところに住み着く人もいれば
都市がやがて滅び廃墟となるのも、歴史を見れば当たり前のことだ。
そうやって歴史は作られていく。大げさだが。

なぜその田畑が放棄されたのか。
どうしてその村から人がいなくなったのか。

地方に人を呼ぶ魅力を生み出そうと努力している人の姿は感動を呼ぶ。
一方で、弱者ぶって「過疎地の保護」や「公共事業」や「補助金」の必要性を声高に叫ぶムネオのような輩には反吐が出る。

変化を恐れる人の姿は醜い。
かくいう私も変化は苦手だ。
しかし、変化は免れ得ないものだ。
こんな時代に生まれてしまったのだから仕方がないと諦めるしかない。
これは、弱音ではない。
腹をくくって、この荒波を乗り越えるしかない。
本当に変化したくないのであれば、そのことによるコストを自ら支払うしかない。
それがいやだというのなら、それは子供のだだっ子同然である。

確かに、大して努力する必要もなく、それなりにやっていける時代が長過ぎたために
急に自分で努力してなんとかしろと言われても困る、というのはあるだろう。
しかし、それはそんな生き方をよしとしてきたツケである。

私ももっと早く生まれていれば、と思う。
こんな時代には向いてないな、とも思う。
しかし、いくらそんなことを言ったところで、何も状況は変わりはしない。
生きれるところまで生きて、そしてその限りでの「世界の果て」を見届けてやるとでも、やさぐれて酔いながらつぶやくほかないのだろう。

ははは、だんだんいつもの調子に戻ってきたな・・・
ちょっと躁気味だったんだが。

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ちょっと前に書いた、橋爪大三郎の宗教講義の続きを見た。
今回は、ヒンドゥー教だ。

そのなかで、興味深い考え方が出てきた。
「ちがう考え方同士が触れ合えば、自ずとそこには争いの種がまかれる」
それゆえに、
「あえて、コミュニケーションしないという選択肢もあり合える」
というものだ。

これは、ちょっとした驚きだ。
昨今、ニートだ引きこもりだということで、
コミュニケーション力の重要性が叫ばれて久しい。
しかし、このような主張には、なにがしか馴染めないものがあった。
そして今日、その違和感がわかったような気がする。

我々は、お互いに独立した個人であり
それぞれにちがった考えを持ち
そういった独自の考え方をする「権利」を持つ。
こういう前提の上で、今の社会というものが構築されているわけだが
やはり、そこには矛盾が潜んでいたのだ。

コミュニケーション力の重要性を説くひとは
そのとき、前提として「話し合えば分かり合える」ということを認めている。
それも無前提に。

しかし、それは本当だろうか?

もし、その前提が正しいとしたら
今の世界の状況は一体何なのだろうか。
異なった文化、宗教、政治制度などなど
様々な軋轢が、これでもかとのしかかってくる。
そこここで争いがあり、無実の人が殺されていく。
こんな状況は、そもそも「望ましい」ものなのだろうか?
というより、理想的前提から帰結するものなのだろうか?

別に世界に目を向けるまでもない、
ごく身近なところで、不和は広がっている。
そして、その源は、
「みんな同じで、だから、分かり合える」という
何の根拠もない思い込みだとしたら・・・

もちろん、違うから分かり合えない、というのはひとつの絶望だろう。
しかし、それを絶望だと定義するような、なにがしかの「枠」を背負ってしまっているということはないだろうか。

ひとはこれを「退却」と言うかもしれない。
しかし、そこにはひとつの「知恵」がある。

私は、あなたを理解できない。
しかし、わたしはあなたを排除しない。
それは、究極的には理解できるという理由からではなく
まさに、理解できないという仕方でしか
触れ合えないということもあるのだということにおいて。

究極的な「慈悲」とは、こういうものなのではないだろうか。

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http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/

上記リンク先のリンク先のテストやってみた。

3点...

やばいか。やばいな。
ということで、もいっかい。
ちょっと修正してみる。

で、やっと9点。

上記ブログの筆者とようやく同じになった。
ふ~。

普通は25点くらいらしいが、ほんとか?
30点満点じゃん。
それで25点が平均なんて...

以前、ネットの心理テストみたいなヤツをやったら
(たしかエゴグラムだったかな)
「批判的な親の心」満点、「おおらかな子供の心」最低と出て
しかも、ご丁寧にコメントで
「自殺する危険性があります」
って、おい..._| ̄|○

今回のもなんかすごい結果になってしまったし
やっぱり私はかなり病的なレベルなのかなーとしばしたたずむ。

なんなんだろう。
自殺なんて全く考えていないんだが...
前にも書いたが、自殺で解決するならいいじゃん?簡単な話でさ、くらいのものだ。
というか、自殺で解決するくらいのことでいちいち自殺してんじゃねーよ、このタコ、とか思うワケで。

私の場合、自殺したところで何も変わらない。
だから、自殺ということに魅力が何もない。
前にも書いたが「今さら死んでももう遅い」のだ。
「生まれなかったことにしてほしい」のだ。
そして、それが叶えられない性質のものであることが、深く私を絶望させる。
死さえも私を救い出してはくれない。

なんか、まぁひとつの諦念、ということなのだろう。
思春期をなんとか終わらせることには、いちおう成功したのだ、とでも思っておくしかない。

そう考えると、なんか、もう私は私を既に殺してしまっていたのかもしれないとも思われ...以下略

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余丁町散人 5/21 Today 藤村操が華厳の滝に飛び込む(1903)

哲学者は自殺しやすいという先入観みたいなのが、世の中には広がっているように思う。
といっても、私の場合、高3のとき哲学書を読んでいたら父親に「そんなもの読んで、悩んで死なないでくれよ」と言われたことによる。
なので、そんなに一般的ではないかもしれない(どっちだよ)。

で、ここ最近ぼーっと「それって藤村操のせーじゃね?」とか思っていたら、上記のエントリに出くわし「おぉ、シンクロニシティ!」っていう。

前になんかの本で読んだのだが、それなりに名の知られた哲学者で自殺した人ってそんなにいないそうだ(ドゥルーズとアルチュセールくらいだったかな)。
そういやそうだなと思うと同時に、なんで私の父親はあんなことを言ったのかとか思ったが、その当時はよう分からんという結論だった。

で、その後、テレビだったと思うが藤村操の紹介を見て、その中でこの事件が当時大々的に報道され、こういう「哲学的自殺」が一時ブームになったとかいう話があった。
最近それを思い出して、これが連綿と今に続いて、哲学的なことを考えることは危険なことだ、という意識を人々(少なくとも私の父親)に植え付けることになったのではないか、と考えるようになった。

で、今日のひとつ前のエントリで紹介した橋爪大三郎の宗教講座の第十回を見て、そこで出てきた「日本教」云々のはなしに触発されるところがあった。
そこではオウムのような新興宗教が危険だというのを理由にして、日本人が宗教と向き合うことを避けるという話があったのだが、同様に宗教でのオウムのように藤村操の例を持ち出すことで、日本人には哲学的な事柄からも逃避しようとする傾向があるのでは、とか考えた。

なんか日本人論って、山本七郎とか河合隼雄とか、最近だと養老孟司とか、みんな「空気」とか「中空構造」とか「無思想」とか、似たようなタームになっちゃうんだよなぁ。
んでもって、これは日本人だけだ、みたいな。ほんまかいな。
あ、でも『文明の衝突』のS.ハンチントンも日本をひとつの独立した「文明」に分類してたっけな。
なんなんだろ、これ?

ま、仮に、その通りだとして、日本人以外のほかの文明とか宗教の人たちってのは、明示的な教義や言語的に表現された法といったものを生きる”よすが”としている。
そうするのは、人間が生得的に「生き方」というものを持たず(ま、岸田秀チックにいえば、本能が壊れている、と)、何がしかの人工的な「枠組み」を必要とする、ということなんだろう。
で、日本人はそういったものを持たない、というか、非言語の形でそういうものを持っている、ということか。う~ん。

・・・・・・・・・・・・

勉強したい気持ちが久しぶりに出てきた日曜。
ま、続かないんですけどねぇ・・・

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某ブログで紹介されていたが、興味深いので御紹介。

↓小室直樹先生がご登場。
http://www.tkfd.or.jp/division/public/nation/ibunka2.shtml#10

へ~。こんなのやってたんだ、と思って過去分を見たら
なんと2002年からスタート、と。
あらためて、へ~。
で、とりあえず第十回分(小室先生、所々何言ってるか分かんない・・・。神保・宮台のVideoNews.comでも出演してらして、同じような感じだったが、なんか心配になる。しかし、すごい人だなというのが伝わるので、ま、いいか、というところか)を見たあと、第一回分を視聴。

ちょっとずつ見ていくことにしようと思う。
最近テレビ見ないので、NHKとか時々いい番組してても、そういうの久しく見れてないんだよなぁ。

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(酔ってます。念のため)

私はこの世界に触れることができない。

つまり私は真の意味で「生きる」ということができない。
私はこの場所で生きてはいる。
しかし、それは、生物学的にそうだ、ということに過ぎない。

私の意識は、いつもなぜか「何かの内側から」世界を眺めているようだ。
それは身体であり、世界と私の境界であり、そしてまた、それこそが私自身というものである、という意味もあろう。
すなわち、全ての自明性から断ち切られた、ある特異な地点、言い換えれば一種の病的な(といってもほんとうに病気の人の精神状態は伺い知ることもできないが)、精神の機能不全ということなのだろう。

私は、死にたいとは思わない。
ただ、生まれなかったことにしてほしいだけである。
それは叶わぬ願いだということも分かっている。
分かっているからこそ、それはひとつの「祈り」にならざるを得ない。
私が存在しなかった世界。それは可能世界のひとつに数えられるものなのだろうか?
端的に、ただ分からない。そう言うしかない。

生まれなかったことにしてほしい。
それは自らの死を願うよりもいっそう根源的である。
私は独我論者ではない。
しかし、同時に他者というものを理解し得ない存在でもあると感じている。
それはどういうことなのだろうか。

今さら死んでももう遅い。
ここまで生きてしまったのだから。
そしてそのことのうちに、世界の不可解さ、不気味さというのもが現れている。

私はつねに、そして既に生を与えられてしまっている。
しかし、それだけでは「生きる」ということにはなり得ない。
そこに何が欠如しているのだろうか?

それは世間で時々囁かれる「君はいてもいいんだよ」という言葉だろうか?
否。
「いてもいい」ものなのか「いなくてはならない」ものなのかは決定的に重要なことである。
<私>が「いなくてはならない」ということ。
それがそもそもの「世界」の「開け」であるということ。
そしてそのことの「無根拠性」こそが、ここで問われなければならない事柄であるということ。

<私>が「いてもいい」存在であるならば、そのとき<私>は「いさせてもらう」存在に成り下がる。
これは、いわば問題の先送りでしかない。
この「世界」が既にあり、そこに<私>もまた”既に”含まれている。
そこに「いさせてもらう」ということは、ただ、現状を追認したに過ぎない。
そこで真に「生きる」ということは一体どういった事柄なのだろうか。

私の存在、すなわち<私>というものが世界に先駆ける存在であるとしたら、「世界」は私に依存する。
その逆に、「世界」が<私>に先駆けるとしたら、<私>は「世界」に依存する。
しかし、ここで思い出されなければならないことは、どちらにしてもそれは「既に」という刻印を押されてしまっているという事実である。
その意味でいえば、これら両者は、互いに同値である。
いやむしろ、我々が逃れることのできない未知の、そして非知の「根源」がここに口を開けているのかもしれない。

「世界」からも<私>からも、説明し得ないということ。
根源的な我々の「なぜ?」には答えてくれるものが存在しないということ。

存在の無明。
それを受け止めること、そして引き受けるということ。
可能か否かではなく、それしか道がないということ。
受け止められないと言う仕方で受け止めるしかないということ。
引き受けられないという仕方でしか引き受けようがないということ。

既に消えてしまった「在れ!」という声をここで聞く気がする。
あくまでも「気がする」だけなのだが。
今ここで「在る」ことは、まさに「在れ!」と命じられるような経験である。
しかし、実際にはそうではない。
「既に在ってしまう」というそのことが、どこまでも「取り返しがつかない」というその意味において、そしてそれを引き受けるのは、この<私>をおいて他にはない、という意味において、それは「今ここでの」天命のように聞こえてしまうような気がするだけである。

あぁ、私は何を論じているのだろうか。
私が存在すること、世界が存在すること、そしてそれが私にとっての唯一の現実であるということ、さらにはそれがまるで「嘘」のようでもあること。
そのすべてをひっくるめて、「不可解」であるという仕方をおいては、他に「存在」はありえないということ。
「不可解」であるということこそが、存在することに触れる経験であること。


(改めて、酔ってるんです。すいません)

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今年はじめにふと思ったことなのだが、書いてなかったようなので一応メモ。

最近は2007年問題とやらで全共闘世代の動向について、ま、いろいろ言われていたりする。
しかし、彼らの世代から隔たっている私なぞは、なんかよう分からん、というのが正直なところ。何が分からんのかと言えば、彼らのアクチュアリティ?ってやつですか。彼らはいまだにあの時代は意味があったと思っているようで、なんかそこんとこどうよ?とか思ったりするわけである。

ひっくり返してこうではないのか?
あれは、あの時代に措ける、もっとも効果的で、且つ、一過性の「通過儀礼」だったのではないか?

なんせ、あの世代の誰もが(というか私の知る範囲で、の話ではある。当然ながら)、なにやらあの時代の出来事に疑念を抱いていないのだ。これは一体どうしたことか?

これは私の世代の「愚痴」でもあるわけだが、結局、青年期に確固とした「敵」あるいは「壁」に立ち向かった、というそのことが、彼らの自己肯定感の源となっているのではないか。
だって、そうでしょ?なんかジタバタやった挙げ句、共産党かぶれだったヤツがみんなそれなりに民間企業に就職して、子供つくって、終身雇用で、右肩上がりで・・・。ぜんぶ結果オーライっつーか、これって一貫性あんのかよ?とか言ったところで、それなりにうまいこと生きれてきたこの世代の連中はなんにも疑問を感じないのな。

今の若いもんがなぜか反抗しないとかっていう議論もあるが、そりゃそうでしょ。アンチになりたくっても、アンチになる先がヌエのような「アンチ」じゃ。それじゃ、アンチを否定する自分が、自分が一番なりたくない「正当」になってしまうんだから。つまるところ、彼らが「普遍的アンチ」であろうとしたために、彼が次の世代に否定されるという余地を残さず、結果として今の世代は自分の立ち位置もわからず、そして途方に暮れるしかない、ということ。

あ、もうどうでもいいです。
早く死んでください。そうすりゃ自然と僕らのあとの世代が動き出すでしょう。
僕らも早く死ぬようにしますから。

では。

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小田嶋センセの本音トーク炸裂、ってか。↓
http://takoashi.air-nifty.com/diary/2006/05/post_5d72.html

ま、戸塚校長が釈放時に全く反省してない発言してて「なんだこいつ?」と思ったけれど、同じその記事には支持者が拍手で迎えたってのがあってそっちにもかなりぎょっとした。
んで、結局親の手に負えない子供ってのがある程度いて(だって、この事件は結構むかしの話で、ニートとか引きこもりとか言われ出す前だし)、そういう場合、その親はやっぱりその子供に対して「捨てたい」と(意識的にか無意識的にかはあるだろうが)思ってんだな、と。
で、これは小田嶋センセがかなり的確に言ってくれてるのでいい。

しかし、こういった「子捨て」というのは、というかそういう子捨ての「引受先」というのは必要悪なのだろうか。
そういえば最近こんな事件もあったな
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060503/K2006050300760.html
結局同じようなもんか、という感慨は否定できないが、なんかこう、むなしいというかなんというか、複雑な気持ちにはなる。

初めはなんかこういうのは近代の産物じゃないか、とも思ったが、そうともいえないのかもしれない。
参照するものが何もないので完全な妄想なのだが、いわゆる生産活動に従事できないいろいろな事情の人は、ある種の宗教的な職(巫女とか僧侶とかそういうの)につけない場合、つまるところ殺されていたんじゃないのか。
というのは、今でいえば精神病とかの人でも、むかしは聖なる存在として存在することが受け入れられていたという話があるが、あれもどこまでほんとうかと言えば、結構怪しいんではないのか。
現代でも反社会的で不適応を起こしていても、麻原彰晃みたいに自分の周りに自分に帰依する集団をこしらえたりできたわけで、で、その反対にそういうある種の「能力」がない場合、そういうやつは「死ぬ」しかなかったんではないか。
ここでいう「死ぬ」とは、飢え死にもあるし殺害されるという場合もあっただろうということ。

そういえばこれもそうかも。↓
http://www.asahi.com/national/update/0501/OSK200605010014.html?ref=rss
親が子を殺すか、子が親を殺すか、って違いだけ、なのか?

結局、「親」と「子供」という枠組み自体に問題があるんでは、なんて思ったりした。
誰の子供か、誰が親か、そういったことが何がしかの意味をもつとすれば、それは結局のところ、最近の言葉でいえば「階層の固定化」になるんじゃないのか。

とはいっても、そんなことを真顔で主張できるんだったら、そもそもこんな人間にはなってないわけでね・・・

ま、いいや、寝よう。

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考えてみれば(つーか考えずとも)今回、社会人になって初のGWというのを経験中である。
これまでは祝日いっさい関係なーし!という会社だったが、転職してようやくまともな生活になれたというわけ。
といっても、特段予定なぞない。

土曜は二日酔い、日・月で部屋の模様替え(実質的には大掃除。いっぱいものを捨てたのでかなりすっきりした)。
んでもって、今日は有給にしてあって、合計9連休の早くも4日目・・・もう半分かよ。はぁ・・・

朝から雨模様ですっきりしない。
行きたいところも取り立ててあるわけでないし(しいていえば人のいない山奥の寺・・・じじいみたいだな)、休みの日はこれまでもほとんど部屋にいることが多く、近所にもあまり自然に触れ合えるような場所はない。
もちろんだが、GWなんてどこ行っても人だらけだし、その意味では部屋にいるのが一番とも言える。

そうはいってもようやく長期の休みが取れるようになったのだから、少しくらいはどこかに行っとかないと損だし、また人から「どこ行ってたの?」とか聞かれるだろうから・・・と思うのだが、具体的な動きには入れていない。
なんかLet's be a Watsuji Tetsuro.的な気分でもあり、「古寺巡礼」でもすっか、みたいな気分だったりする。
でも有名な寺はみんな人でいっぱいだろうしな、と思うとやっぱり気が重い。

山に行きたい。
普通の雑木林とかの。単なる山。
誰もいなくて、道に迷ったらちょっとやばそ、くらいの。

車を買う経済的な余裕もない今、ちょっと町外れに行くことすらできないというのは、精神衛生上もよろしくないな、なんて前から思ってるが、こればっかりはどうしようもないというか。

明日とあさっては天気もいいみたいだし、がんばって(頑張らなきゃできないのが情けないが)ちょっくら遠出してみるかな。
で、遠出しても牛丼とか食っちゃうんだろうが(笑)
意味ね~。

まともなもの食わないとなぁ・・・

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