人生、消去法
世捨て人のつぶやき




終わりになるんだ

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言い訳だね。

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僕はもう疲れたよ

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よくわかないんだなぁ

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することができたらなぁ

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持てれば、それだけでいいのかもしれない。

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この世には相反する二つの観念がまかり通っている。
それはすなわち、「自ら死ぬべきではない」というものと
「生きているからには、なにがしか、役に立つ必要がある」というものだ。

この二つは、両立することは決してない。
なぜなら、生きているからには、なにがしか役に立つべきなのにたたない人間には
結局のところ居場所はないからだ。
この間隙にはまり込んでしまったものは
もはや、どこにも助けを求めることさえできない。

じゃあ、わたしが死にたいと思っているかだって?
思ってないさ。
痛いのも、苦しいのも願い下げだ。

だからといって、生きていたいとも思ってはいない。
そういうものだ。
結局のところはね。

はぁ、何故生きねばらんのだ?

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なんだか、世間ではニートや引きこもり問題を過大視しているようだ。
経済、財政、その他もろもろあるけれども
要するにさ、中毒性のない安全な覚醒剤を作りゃいいんだよ。
でなきゃ、抗鬱剤をばらまくことだな。
次世代の公共事業はこれで決まりだね!!

道路を造る代わりに、鬱な人たちを国の力でなんとかしましょう、っていう。
ははは、滑稽だけれども、笑ってもいられないか・・・

でもなんでそうしないのかね?
中毒にならなければ、そして、どの薬品会社も同等にその薬を作れたら
なんか、問題なんて全部解決するんじゃないの?

暴論だってのは分かってますけどね
なんで誰も言わないんだろうと・・・

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ミッドナイト ホームレス ブルー

上記のサイト、RSSリーダー(ってかAppleのSafariだが)でなんも更新ないなーなんて思って見てみたら
しっかり更新されてて、ありゃ?って感じ。
RSSフィード、吐いてないんだね。こっちの問題なのかな。ま、いいけど。

で、本題。
時々ニュースで、公園を不法占拠しているホームレスを強制退去!とかやっているけど
ま、確かに不法占拠なわけだし、彼ら(彼女ら)は税金も払ってないわけだから
当然っちゃあ当然と言えるかもしれない。
が、しかし、村上龍の「半島を出よ」ではないけれども
これからどんどんホームレスは増えていくんじゃなかろーか?
そしたら、今みたいな政策ではどうにもできなくなって
結局、公園とかを開放するしかなくなるんじゃなかろうか。

で、そこで思うのが、公園にいることを認める代わりに
公園の維持管理を任せ、それに対して給料を支払うという案だ。
暴論なのは分かってますよ。

賃金は低くていい。つまり、「場所代」天引きってやつ。
それでも、一日数百円あれば、まともなものが食えるでしょ。
ま、デフレの間だけだが・・・
でも、そうやって少しずつでも「役に立つ」とか「自分で稼ぐ」という経験を積めるのはいいことではないかと思うのだが、ダメかなー?
通勤電車の窓から河川敷にブルーシートで作った家々が見えるんだが
これがもっと過密になったら大変だぞーとか思う。
だって、いわゆる世捨て人達(俺もその予備軍)は
密集して暮らすのは耐えられないからだ。
だから逃げてきてんじゃない。
こんなところまでさ。

なので、この際、公園だけじゃなくって
すべての公有地について、そこに居座るのならそこをきれいにして
さらに、他の人の迷惑にならないようにしろ、
そのかわり飯代くらいはやるから、という政策はありではないか?
残飯でメシがまかなえるなら、その残った金を他のことに使うでしょうし。
それなりの経済波及効果もあるでしょうし。
専門家のみんさん、どーっすか?(見てねーっつーの)

あと、仕事のない人達が『ビッグイシュー』とか売っているのを見かけるけど
正直今まで買ったことはない。
買ってもいいかなーとは思っているが、なんか売ってる人がやっぱりちょっとやる気なさ過ぎ。
無言で雑誌もって突っ立っている人とか
それやるならテレクラか個室ビデオの看板持ってた方が割りいいっしょ!とか思ったり・・・
ちょっとは「いかっがっすかー」くらいの声は出してもいいのでは?と思うが
それまた、無理な注文ということなのだろう。

で、これまた暴論を承知で思うのだが
こういう人たちには、まず心療内科医に受診させて
抗うつ剤とかを処方した方がいいのではないか?
そのくらいは公費で負担してやってもいいように思うのだが・・・

だいたい、テレビとかでも見たが
こういう人たちの大部分は、いわゆる「ぎりぎり精神障害者未満」な人が多い。
バリバリ売り歩いて再起する人はそもそもエネルギーレベルが彼らとは違いすぎる。
同じにするのは酷ってもんだ。
精神障害者と認められれば、少ないとはいえ補助が出るし
そういった施設に入れる。
さらには授産施設で生産活動(志のある人によってはこういった組織もあるヤマト福祉財団)に携わることも可能であろう。
がしかし「や、あんたギリギリだけどさ、正常者だよ」ということになってしまった人は
健常者と同じ土俵で戦わなくてはならない。
そんなのはじめから負けが分かってるじゃないか・・・

こういうところは難しい問題で、いつでも「線引き」というのは難しい。
とはいえ、線を引いてしまったからといって
そこで諦める必要はない。
対策を打てばいいだけのことだ。

公園の維持管理が必要ないなら
それ以外で仕事を作り、割り当てるのだ。
町のゴミ拾いでもいいし、雑草刈りでもいい、
町中の資源ゴミは自主回収してい人たちがいるから
それ以外に、川の清掃だとか
山に不法投棄されたゴミの回収だとか
さらには、集められたごみの分別(資源回収)だとか・・・

ま、たしかに、底辺の仕事ではある。
しかし、何もしていない状態よりはいいのではないだろうか?
(反対意見を待つ)

新たな公共事業だ、これは。
しかし、これまでのように一部に金が集中することはない。
薄く、広く、底辺まで行き渡らせる。
それが重要だ。

土建屋の社長だけが潤い、その下っ端には少しのお裾分けがあるばかり
そんな時代はもう終わったのだ。

残る問題は、こういった底辺の仕事の安全性をいかに保つか、ということである。
アスベストの問題じゃないけど、こういった底辺の仕事には
なにがしかの危険が付き物だ。
それをいかにして防いでいくか。

う~ん・・・、そんなに難しいことじゃないと思うんだけどな~

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以前通っていた散髪屋でのことだが
そこは夫婦で営業している店で
小学生の男の子が二人いる、にぎやかな店だった。

私が髪を刈ってもらっていると
子供の一人が帰ってくる。
店の奥にある住居スペースに引っ込んで
「なんか食べるものはー?」とか言う。
すると、親は「そこにバナナあるだろ」とか返すのだが
親の気持ちはそんなところにはない。
すぐに塾に行けだのスイミングスクールの時間だぞとか
いやはやなんとも子供ってこんなに忙しかったっけ?とか思ったものだ。

わたしはこれといって習い事もクラブとかもしていなかったので
のんびりテレビを見ているのが常であったが
これまでなら、この散髪屋のような状況はイヤな感じだったのが
なんかこう、いやこっちが正常でしょ、とか思うようになった。

子供を忙しくさせることで「余計なことを考えさせない」っていうのは
ある意味で、少しは必要なのではないか?ということだ。

勉強が、とか健康がとかいろいろあろうが
つまるところ今日のような希望の持ちにくい社会ならなおさらのこと
「深く考えずに動き続ける」というのは
一種の知恵ではないのか、と感じた。
ま、そういう次第。

なんというか、私の場合には、余計なことを考える時間があった。
そりゃあもう、腐るほどあった。
小さなときから、一人で遊んでばかりいたから
余計なことしか考えていなかったと言ってもよい。

ま、中にはこういう生活をしていて作家とか漫画家になる人がいたりするのだろうが
私の場合、そういう方面ではなく哲学とかに行ってしまった。
それもろくに理解できずに「入門書漁り」するのが関の山だったが・・・

自分の中にある自己否定感情について
「なんじゃあ、こりゃあ!」とか中学くらいで思って
それから高校くらいから小説読んだりとかいろいろしたが
今になって思えば、子供の頃から余計なことを考えすぎて
自己否定感情を頭で理解&解決しようとしたところが根本的に間違っていたのだろう。

もちろん、自己否定感情の根を探求する上で
私の親の持つ、ダブルバインド的な態度であるとか
優しさの皮をかぶった、私への否定であるとか
そういうものを暴き出すことはできたが
(これについてはまだブログでは開陳していないが、いづれそのうちに)
そういうのもやらずに済んでたらよかったのにね、とも思うようになってきた。
これも年のせいか、とも思う。

しかし、詰まるところ私の人生はこうでしかあり得なかったわけだから
引き受けてこれからも生きていくしかあるまい。

なぜ、生きる?
ーーーわからんよ、そんなもん。
わからんから生きるのだ。陳腐で済まんね。

さて、酒でも買ってくるか。

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晴れろよ。てか、晴れてください。
気分が滅入るんだよー

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(追記)
※なんか酔っぱらっていたせいもあって
ちょっと異常なテンパリぶりですね・・・
以下の文面は、適当におあしらいください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こんなことを言うのはおこがましいですが
あなたは相当頭がいい方ですから(イヤミじゃないです。本当に)
まずは行動してみてはどうでしょう?
私だって人のことは言えた義理ではありません。
何もできずに日々を無駄に過ごしているつまらない人間です。
でも、何かできるかもしれないなら、
ためしに一緒に何かやってみませんか?

行動の方向性はいくらでもあるはずです。
いくつもの段階を踏まないと実現できそうにないから
やっぱ、意味ねーや、ではなく
「何でもいいからやったろーじゃねーか」くらいの
ある意味、無意味なまでの(笑)意気込みはいるかと思います。
ホワイトバンドだっていったところで
所詮はマーケティングの賜物です。
ここであえて「所詮はマーケティング」と言ったのは
つまるところ、そんなものは「小手先」で動くのです。
確かに「センス」は要りますがね(微笑)。

アフリカ諸国を助けるには、いろいろアイデアはあるはずです。
現在のアフリカ諸国は、おもに第一次生産品
つまり、鉱物・農産品・原油などがメインの経済体制です。
そしてそれが一部の利権者によって独占され
さらにはそれに付随した先進国の(あえて言いますが)悪しき意図によってコントロールされている、というのは大枠では間違いのないところでしょう。
であれば、この経済体制になにがしかの問題があると思うのは
ある意味当然です。
ならば、これまでとは違った経済の循環を
つまり、流通のルートを造ってやる、というのはどうでしょうか?

アフリカにはまだITのインフラも乏しく、アフリカから何かを発信するということは難しいと言うのは否定できません。
しかし、だからこそ今の私たちにできることってあるんじゃないですか?
こんな日本の状況の中で、ささやかだけれども「できること」。
上記のsantaroさんの二つ目のコメントのように
確かに私たち一人一人ができることは
海岸の一粒の砂粒に過ぎないのかもしれないですが
それを地球全体で、少なくとも数億人の規模で考えたとき
そこにはまだなにがしかの「希望」があると私は考えています。

偉そうなことを言いつつ、結局何も具体的なことは言えていませんね。
すいません。

私はジョン・レノンのイマジンが好きです。
「想像」することによって私たちは強くなれるし
行動に繋がる力を得ることができる。
でも、使い方を誤れば、それは悲観的な予測のうちに
何もかもを諦めてしまうことになる・・・。

今、かろうじて私たちは「よく」想像することができているのでしょう。
そして、願わくば、世界中のこういった思いが集約されて
Wisdom of crowdで、世界が今よりいいものになったら
きっと、心の底から、何のてらいもなく笑えるようになるのかもしれません。

・・・笑えるってことは偉大なことなんですね。

今はまだ笑えない状況ですが、お互い頑張りましょう。
これでも私たちには、苦しんでいる人たちよりも
なにがしかの多くのものが与えられているのですから。

うまくまとまらず、すいません。
今日はこの辺で。

このエントリは、下記のブログへのトラックバックです。↓
ニセモノの良心

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メモです。

>大切なのは、『自分と家族の生活を維持できる程度の必要な報酬と自身の能力や成果に見合った対価を得られているという認知』を日常生活の中で持てているか否かということなのである。

これは、非常に重要なんだと思う。
勢古 浩爾の著作にもありますが、この「承認」というのは
何か根本的な問題をはらんでいる。
おそらくはニートの特質の一つにこの「承認」の「断念」があるのではないだろうか。

>私たちの心理的動因を抜きにして支配的な振る舞いと従属的な振る舞いを考えるならば、社会的な生産性と効率性を最適度に高める為に多種多様な社会的属性(職業・地位)が分化し、それを役割分担する形で担うようになったと考えるのが自然である。しかし、自発的な服従傾向の根底にある心理の中核は、飽くまで『服従することによって得られる権威の分有や利益の分配』にあるだろう。

今回の選挙でも何となく感じたことだが
富の再分配に関して、何らかの変化が起こっている。
お上に服従していれば、富は分け与えられたこれまでと
ただ服従しているだけでは富は分け与えられない今の状況とは
やはり決定的に何か違う気がする。
いわゆる勝ち組・負け組の議論に回収されてしまうのかもしれないが
社会の階層化や分裂と言ってもいいようなことが進行しているんだろう。

しかし、「お上に服従」ということを考えるとニートというのは静かなる反逆ともいえるかも。
働かず、社会保障も受け取らず、社会から遊離している。
反逆というよりは、脱・社会的と言った方が適切かもしれない。

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しかし、この流れは当分は続きそうな気配である。
では、今後の展開としてはどのようなものが考えられるだろうか。

あぶれた労働者の増加は放置しておけば社会不安の増大を引き起こすし
何か対策をとるにしても、数が多ければそれだけコストがかかる。
結果的には、どこかにある均衡点を探しながら社会構造がどんどん組み替えられていくしかないだろう。
かつて、あぶれた労働者によって第2次産業革命が準備されたように
ひょっとすると今度も次の変化がやってくるのかもしれない。

しかし、状況としてはヨーロッパが日本の未来のようにも見えるのだが、
その「先の見えなさ」を考えると、10年や20年ではどうにもならないんだろうな、とは思わざるを得ない。
ま、第一次産業革命にしても、第二次産業革命にしても教科書とかだと
何かこうあっという間に起きたような錯覚に陥ってしまうが
年表などをちゃんと見れば数十年から百年単位が当たり前だったりする。
となると、予想を立てるということに対してのモチベーションが著しく低下する・・・orz
いかん。
う~ん、なんか希望を見いだそうとすると絶望しか見つからないというこの状況。

オフィスオートメーションが言われ出した70年代をおよそのスタートと考えると
だいたいIT革命は30年くらい経過していることになる。
過去の産業革命でいうとどの辺りなんだろうな・・・。
そもそもコンピュータの発明からと考えるとまた違ってくるしな。

ムーアの法則もまだもうちょっとは続くようだし
ネット家電とかが当たり前になって、すべてのものがネットワークに繋がるような
そんな社会が夢物語でなく実現しちゃいそうな勢い。
そうなっていくときに、労働者はどう変化するのか。

ま、当てずっぽうだが、いくつかモデルを考えてみた。
1.超初級プログラマ:
 それ用のツールが開発されて、これまでよりも専門知識のない人間が開発できるようになる。
 規模の大きな開発や高度な知識を要するものはインドや中国にアウトソースされ、
 そういったことができない中小企業や個人商店とかのニーズを満たすものとして、
 こういう職が出てきてもいいじゃないか。
2.Webで生計を立てる:
 希望的観測に過ぎないが、趣味の領域とかでニッチなニーズを捕えてそこそこに生活できるという人が増えるんじゃないか。
 ま、いまでも、雑誌とか「これ、誰が買うんだよ」的なのは結構あるわけで、
 あながちはずれてはいないんじゃないか、と思う。
 (「Web乞食」なんていう悪い冗談のようなのも思いついたけど、
  これもありえるかも・・・?
  ブログで自分の悲惨な生活を公開して募金を募る、みたいな)
3.・・・
ダメだ。ネタ切れ(はやっ)。

ま、ようは、ねちねち考えてないで走り出せ、っつーことだな。
結論:考えない。が一番!

あ、冗談ですよ。念のため。

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で、こういった「はじき出された人たち」はどうなって行くのか。
甘んじて不安定な雇用でもいいので、その仕事をして行く、というのが一つ。
もう一つは、仕事をしなくても生きて行けるのなら仕事をしない、という選択。
ニートですな。
食い扶持に困らなければニート、困ればフリーター、といったところか。
このような状況になれていない(逆に言うとこれまでは恵まれていた)中高年が
いざ失業し、職を探しても見つからないとなれば、
そりゃあ、自殺する人も出るでしょう。
プライド捨てなきゃ、40代50代でなかなかフリーター生活に適応というのは厳しい。
(これに対して明確なセーフティネットが全くと言っていいほど整備されていないのは国の怠慢だと思う)

初めからこのような労働環境の厳しさを目の当たりにしてきた若い世代は
そうそうにあきらめることを学ぶ。学ぶしかないから。
確かにIT長者になる可能性は誰にでも開かれているのかもしれない。
しかし、「何かをやりたい」という意欲がなかったら?
モチベーションのレベル格差がある場合、
当然モチベーションの高い人はチャンスを生かせる確率は高くなり
その逆に、モチベーションの低い人はチャンスが生かせなくなる。

そして、この「モチベーションの低さ」こそ、「自己責任」の名の下に
何の手当もされずに放置されているものなのだ。
そもそも生来的にエネルギーレベルの低い人(私のようなやつのことだ)というのも存在し
それなりに生きて行こうとしているのである。
贅沢は言ってないはずだよ。そういう人たちは。

そしてそもそも、環境要因でモチベーションが低くなってしまっている人の方が実際は多いのではないか、とも思う。
学歴社会で劣等感を抱えた人もいれば、人間関係でのちょっとした傷付きであるとかそういったもので
自信を喪失してしまった人もいる。
世間を見ると、確かに力のある人たちは活躍している。
だけど、あそこまで力がないと生きていけないのだろうか?
そんなにコミュニケーション力がないとやっていけないのだろうか?
だとしたら、自分には到底無理そうだな・・・と考えるのは無理もない話だと思う。

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