以前通っていた散髪屋でのことだが
そこは夫婦で営業している店で
小学生の男の子が二人いる、にぎやかな店だった。
私が髪を刈ってもらっていると
子供の一人が帰ってくる。
店の奥にある住居スペースに引っ込んで
「なんか食べるものはー?」とか言う。
すると、親は「そこにバナナあるだろ」とか返すのだが
親の気持ちはそんなところにはない。
すぐに塾に行けだのスイミングスクールの時間だぞとか
いやはやなんとも子供ってこんなに忙しかったっけ?とか思ったものだ。
わたしはこれといって習い事もクラブとかもしていなかったので
のんびりテレビを見ているのが常であったが
これまでなら、この散髪屋のような状況はイヤな感じだったのが
なんかこう、いやこっちが正常でしょ、とか思うようになった。
子供を忙しくさせることで「余計なことを考えさせない」っていうのは
ある意味で、少しは必要なのではないか?ということだ。
勉強が、とか健康がとかいろいろあろうが
つまるところ今日のような希望の持ちにくい社会ならなおさらのこと
「深く考えずに動き続ける」というのは
一種の知恵ではないのか、と感じた。
ま、そういう次第。
なんというか、私の場合には、余計なことを考える時間があった。
そりゃあもう、腐るほどあった。
小さなときから、一人で遊んでばかりいたから
余計なことしか考えていなかったと言ってもよい。
ま、中にはこういう生活をしていて作家とか漫画家になる人がいたりするのだろうが
私の場合、そういう方面ではなく哲学とかに行ってしまった。
それもろくに理解できずに「入門書漁り」するのが関の山だったが・・・
自分の中にある自己否定感情について
「なんじゃあ、こりゃあ!」とか中学くらいで思って
それから高校くらいから小説読んだりとかいろいろしたが
今になって思えば、子供の頃から余計なことを考えすぎて
自己否定感情を頭で理解&解決しようとしたところが根本的に間違っていたのだろう。
もちろん、自己否定感情の根を探求する上で
私の親の持つ、ダブルバインド的な態度であるとか
優しさの皮をかぶった、私への否定であるとか
そういうものを暴き出すことはできたが
(これについてはまだブログでは開陳していないが、いづれそのうちに)
そういうのもやらずに済んでたらよかったのにね、とも思うようになってきた。
これも年のせいか、とも思う。
しかし、詰まるところ私の人生はこうでしかあり得なかったわけだから
引き受けてこれからも生きていくしかあるまい。
なぜ、生きる?
ーーーわからんよ、そんなもん。
わからんから生きるのだ。陳腐で済まんね。
さて、酒でも買ってくるか。
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