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人生、消去法
世捨て人のつぶやき




今日から6月。



早いものだ。



愛用のほぼ日手帳の6月1日の欄外には、谷川俊太郎の『詩人の気持ち。』という本からの引用が書いてある。



そこでふと、谷川俊太郎のことを思い返した。



谷川さんはかなり「わかりやすい」詩を書く人だ。



読者層も厚い。



谷川さんの言葉の伝わる力は大したものだ。



概して、現代詩人の現代詩人の書く言葉は「理解を拒絶する」ようなところがあり、読み手にかなりの負担をかける。



対して、谷川さんの書く詩は、驚くほどに読み手に負担をかけない。



スラスラ読めてしまうのだ。



それでいて、心を動かすものがある。



ときにそれは、読もうと思っていない人の心をも突き動かすほどのものだ。



ここで、ふと思った。



これは、ひとつの「暴力性」ではないだろうかと。



読み手の気持ちの如何に関わらず、読み手を巻き込んでしまうほどの言葉の強さ。



それが谷川さんの持つ「暴力性」だ。



私は良い読み手ではないので、高校くらいのときに文庫で(当時の)全集を読んだだけで、その後は新聞で取り上げられているのを時折目にするくらいで、著書は追っていない。



久しぶりに谷川さんの暴力性に巻き込まれてみたくなった。


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この本自体は高校生の頃、色々読みあさっていた中で、新潮の100冊に入っていたので知ってはいたが、何故か触手が伸びず、齢40になりようやく手にすることになった。正直期待はしていなかったが、いい意味で期待を裏切られた。読む前は漠然としたイメージで、フーテンの寅さん的な「自由気ままに生きてくぜ」的なものを想像していたのだが、実際は禅の師と弟子を思わせる哲学的対話が重きをなす、一種の思想小説なのだ。そして、そこにはある種の感動があり、自分でも驚いている。

禅の師と弟子のようだと書いたが、より正確には、上座部・原始仏教的なのだ。そのことを理解するには、五木寛之の解説にある批判が参考になる。この小説では巧妙に「食べる(ために飛ぶ)」ことと「雌(女性)」が忌避されている。これは、原始仏教において、「食べるための労働」=Productionと「生殖」=Reproductionが徹底して否定されていることに対応している。
(原始仏教におけるProductionとReproductionの否定については、今読んでいる『仏教思想のゼロポイント』(魚川祐司)(参照)に依った)

そして、共同体からの離脱(小説中ではカモメの群れからの「追放」)と「出家」が(受動・能動という決定的差異はあるものの)対応している。五木はこれに対し、食べることも異性を求めることも重要だと批判しているが、これは後に彼が親鸞に篤い共感を寄せ、著作を著すことにつながっている。

(蛇足だが、私はいままで個人的には五木寛之が生理的に受け付けられないでいた。彼の著作のタイトルを見るだけで「あぁ、これは違うな」と感じて避けていた。しかし、今回、この訳業と解説における批判的思考を見て考えを改め、今後、彼の作品も読もうと思うようになった)

また逆に、原始仏教と『かもめのジョナサン』の相違点を上げれば、前者におけるブッダが自らは進んで教えを広めようとはせず、梵天勧請を必要としたのに対し、後者においては自ら進んで後輩を教え導こうとする点がある。

全体は3部に別れているが、短い小説であるにもかかわらず、要約することは難しい。概略としては、第1部でジョナサンのいわば出家と修行、そして師に導かれた菩薩道(?)が描かれ、第2部でジョナサンが師となり弟子を教えると同時にさらなる自らの師匠を得ることで更に上位のステージに登り、第3部でジョナサンが完全に解脱し、彼からフレッチャーへと師資相承が行われる、という感じだろうか。

では、全体が完全に仏教的かと言われればそれも違う。個人(個カモメ?)の「自由」が強調されるし(ここは近代個人主義とともに、道教の影響を受けた禅宗の思想が入っていると思われる)、カモメ仲間たちへの「愛」という一見キリスト教的な側面もある。全体としては、五木の指摘する通り、ヒッピームーブメントの夢破れた当時(1970年ごろ)においては、もはやこの小説は寓話としてしか機能し得ないものだった。しかし、この小説には現代(!)においてもある種の「感動」を呼ぶ力がある。しかし、その力を分析することは今の私の手には余るようだ。時をおいて再読したいと思う。

かもめのジョナサン (新潮文庫 ハ 9-1)
クリエーター情報なし
新潮社


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90年代に入る頃からだろうか、純文学と大衆文学の差はないという意見が出てきた。
しかし、私個人としては、いまだに純文学と大衆文学には厳然とした差異があると思う。
それはなにか?

純文学 → 特殊から普遍を語る試み

大衆文学 → 普遍を普遍として語るだけのもの

こういう違いだと思う。

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ようやく読了。

何はともあれ圧巻のひとこと。
ま、わたしはSFもほとんど知らないしライトノベルとやらも読んだことないので、エンターテインメント的な部分は正直あまり自信をもって評価できないのであしからず。

しかし、この小説自体は村上春樹的パラレルワールドを使って、そのなかでまた村上春樹論を展開しつつ、その上でなお村上春樹批判ともなっている。

批判の肝はおそらく次の言葉だろう。
「ハードボイルドは正義ではない」
裏を返せば、村上春樹にとってはハードボイルドは正義なのだ。

しかし、この小説のなかでも触れられるように、初期の春樹の小説で主人公が泣くシーンがある。
つまり、そもそも春樹にとっての正義であるこの「ハードボイルド」は初めから無理があった。
その無理さを乗り越えるために春樹は「タフ」になった。少なくともなろうとした。
その努力は、ある種、生きながら死ぬような矛盾した欲動に根ざすもののようでもあった。

ところが、実際の村上春樹はもう還暦で、すでに35歳から四半世紀のときを生きている。
四半世紀という隔たりをもってかつての自分(春樹)を振り返るなら、おそらくそこにはあらたな人生の眺めがあるのではないだろうか。
「いったい、あれは何だったのか?」

「1Q84」は1984年つまり村上春樹が35歳のときを舞台にしつつ、一方でこれまでの主人公の「ぼく」を排して三人称で二人の主人公を導入した。
明らかに春樹はまだ「あのとき」に縛りつけられたままなのだ・・・

これについて「クォンタム・ファミリーズ」は次のステップへと進むことを促している。
つまり、35歳を過ぎて自分の「仮定法過去」の総量がどれほど多くなり、「世界が終わろうとして」いようとも、終わろうとする世界のなかでしか生きられないのだということ、そのことの倫理を示すことでしか35歳から自らを引き剥がすことはできないということ。
おそらく来年に予定される「1Q84」第3巻ではそういった意味での村上春樹の転回が期待されるし、東浩紀はまさに挑発的な仕方でそれを促しているのである。

ただし留保する点もある。
村上春樹はたしか子どもがいなかったはずだ。
東浩紀は子どもがいる。
この違いはおそらく重要で、根本的な感受性の違いがあらわになるのではないだろうか。



クォンタム・ファミリーズ
東 浩紀
新潮社

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「クォンタム・ファミリーズ」中盤にさしかかってるんだが
なんか村上春樹から村上龍っぽくなって来たぞ。

うーん、先が読めん(笑)

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さきほどエントリをアップしたばかりだが、東浩紀の「クォンタム・ファミリーズ」について引き続き。

この小説は「並行世界」の話なんだが、これって村上春樹の十八番だよな、と。
しかも、文体も似ている。

さらにどうも感触としては、村上春樹を超えるんじゃないか。
とくに「1Q84」に比べると。
「思想地図」最新刊にもあるように、村上春樹のなかで重要な位置を占めていると思われる「35歳」というのが出てくるところも明らかに意図的で、このあとどうこれを展開させるのか楽しみだ。

クォンタム・ファミリーズ
東 浩紀
新潮社

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先ほどから読み始めたのだけど、これはすごい。
なんか文体が村上春樹っぽいけど。

想像力が「突き抜けてる」感じ。
才能ってやつでしょうか。

クォンタム・ファミリーズ
東 浩紀
新潮社

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おそらく3回目だと思うが「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んでいる。
最初は大学の2回生か3回生のときだったように記憶している。
村上春樹作品は高校のときに短編を読んで、なんか面白くないと思ってしまったため、しばらく縁がなかった。
そして大学のときに、たまたま帰省する列車のなかで読もうと買った「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で、そのすごさに圧倒され、以来、村上春樹はすごい!と熱心な読者となった。

さて、そうはいうものの、こうやって読み返してみると、おそらく3回目にも関わらず、けっこう忘れている。
そして、かつての圧倒されるようなものが薄まっているおかげで、いろいろ小説としての仕掛けや、仕組みのようなものが見えて来て、これはこれでまた面白いものだ。

で、これはたまたま偶然なのだが、ハードボイルドワンダーランドのほうの主人公が35歳、恋人も友人もいない、というのがいまのわたしと同じで、なんというかシンクロニシティ・・・みたいな感慨を覚えた。
ま、この主人公はバツイチでわたしはずっと独身なのだから、そこは違うのだが。

改めてこの作品を読み返してみると、この前にあったイスラエルでの村上春樹の演説の内容と同じものが、すでにこの時代(1985年発売)からしっかりと刻み込まれていたことに気付く。

「組織(システム)」という言葉が出てくるし、システムの前に無力な存在としての個人というのも描かれている。
そして何よりも、村上春樹はあくまでその脆弱な個人の側に常に寄り添うという決意がすでに描かれている。

あともう少しで読み終わるが、改めて村上春樹の格の違いを感じているところである。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社

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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社

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仕事に追われているとどうしても実用的な本(ライフハックとか)や自己啓発的な本(勝間和代とか)ばかり読んでいた。
いまやうつ病で休職中にもかかわらず、仕事復帰への不安からか、この2週間ほどの間は引き続き『考える技術・書く技術』(板坂元)、『知のソフトウェア』(立花隆)なんかを読んでいた。
ちょっと大学に戻りたいという気持ちもあって、論文の書き方なんていう本も読もうかと考えたりした。

しかし、なんだかんだいってもうつ病でしばらくは静養するべきなのだし、余計に不安をかき立てたり緊張をしいるのは良くないなと思いたち、久しぶりに小説でも読んでみるかと川上未映子『ヘヴン』を購入した。
(久しぶりと言っても村上春樹の『1Q84』以来だが)

3日ほどで読了した。
彼女の作品ははじめて読んだが、なかなか筆力のあるひとだなというのが率直な感想だった。

内容としては、同書のオビにある「善悪の根源を問う」っていうのはちょっと違うんじゃないかと思った。
確かにそう読めないこともないのだが、むしろひとの強さと弱さ、そして偶然と必然、運命と意思、そういった一連の哲学的(にはオーソドックス)なテーマについて書かれているように思われた。

ざっくり言ってしまうと、ニーチェ的な話と独我論的みたいなところが交じった感じとでも言おうか。
(哲学者の永井均の門下生ですしね)

新聞広告に出ていた書店員の書評には、号泣とか書かれていたが、私はまったく泣かなかった。
確かにクライマックスの部分の迫力は圧倒的だったし、地の文と会話文が混乱していくような書き方(おそらく意図的)も効果的なのではないかと思われた。
ただ、最後の最後に描かれる世界のありありとしたリアリティと、弱さを積極的に選びとったもうひとりの主人公が消えてしまっている点が、なんとも哲学的孤独という感じで独我論的寂寥感とでも言うのでしょうか、わたしとしては感慨深かった。

それにしても、若くして小説と書けるだけの筆力のあるひとがうらやましい。
わたしには書く力もなければ、テーマやプロットを思いつくだけの創造力もない。

才能のある人たちにはがんばってもらいたいものだ。


ヘヴン
川上 未映子
講談社

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まだ読了していないが『1Q84』を読みながら(そろそろクライマックス)
「村上春樹は変わったけど変わらない」という印象を強く受けた。

村上春樹の小説にはつきもののモチーフ、そして言葉遣い(「やれやれ」など)、
そして、「性」のもつ重要性(「世界」への「錨」としての「性」)。
その一方で、いわゆる「デタッチメントからコミットメントへ」と言われる
この20年ほどのあいだの村上春樹の変化とがともによく出た作品だと言えよう。

かつて『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』や『海辺のカフカ』にあったような
二つのストーリーの並行とからまりのなかから、物語は紡がれてゆく。

そして印象的なのは、かつてまったく言及されることのなかった
(『海辺のカフカ』では少し出てきてはいたがイメージ的側面の強かった)
登場人物の「親」というものが具体性をもって描かれる。
(とはいっても、かなり普通ではないのだが)

そこで描き出されるのは、「傷つく」とか「トラウマを受ける」とかではなくて
「自らが無力であることを思い知らされ続けること」によって
未来永劫にわたって、ひとは損なわれ続ける、というひとつの「真実」である。

そして、おそらく村上春樹の小説のなかではじめて「愛」が語られる。
それは、いわゆるラブストーリーに出てくる「出来事としての愛(Love affair)」ではなく
この世界のなかで自分が自分であることの「しるし」としての愛だ。

「しるし」としての愛とはいえ、その愛は対象を必要とする。
対象すなわち「他者」を。
そして、村上春樹が示唆するのは、多かれ少なかれその他者というものは「自分の似姿である」ということだ。
(ユダヤ・キリスト教(イスラムもか)において神が自分に似せて人間を作ったというのは、この物語で宗教が扱われる点で、示唆的である)

そしてどうやら(まだ読了していないので推測だが)
「自分の似姿」と「ひとつになる」ことは
この世でもっとも難しいものの一つのようだ。

そしてさらに言えば、「自分の似姿ではないもの」とひとつになることでしか
この物語での1984年、すなわち現実世界を生きることはかなわないのではないか。

永遠に、そしてあらかじめ失われたものを巡って、悲劇は繰り返される。
悲劇にすら見えないような形でもって・・・

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前回のエントリでポール・オースターの『孤独の発明』を読み始めて、なかなかいいというのを書いた。
今日は前半の『見えない人間の肖像』を読了した。
(この本、実際には中編2編からなるのだが、二つ目は『記憶の書』という題で、結局書名の『孤独の発明』というタイトルの話はない。ま、いいんだが)

『自分の体のなかにひどく居心地悪く収まっている父。じっとしていられない。雑談というものができない。『くつろぐ』ということを知らない人。(P.93)


なんかまた、自分のことを言われたような気がする。

話は狂気の家系を描き出す(刺激的すぎるかな、この表現は)というか、著者が自らの家系を洗い出していくなかでそういう話になる。
著者はいわゆる天才と狂気を生み出す家系で、幸運にも天才の側に生まれついたのだろう。いや、あまり幸運でもないのかもしれないが。
余談だが、R.D.レインへの言及もある(『狂気と家族』早く読まなくっちゃ)。

しかし、他にもいろいろ私によく当てはまることが書かれているのだが、私の家系には狂気のひとはいないんだがなぁ・・・

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このところ、まったく小説を読むことがなかった。
多分、1年以上だと思う。
下手すると2年ぐらい読んでいなかったかもしれない。

ま、村上春樹の『ねじ巻き取りクロニクル』を再読しようとして、結局できなかったのも、そういやもっと前のことだったような気もする。

今日、久しぶりに文庫で小説を買った。Amazonじゃなく書店で。
3冊買ったが、むかし『車輪の下』を読んで衝撃を受けた(といっても中学のときだが)ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』(むかし買ったのは実家にあるので、再読のため再購入)と『知と愛』、そしてポール・オースターの『孤独の発明』がその3冊だ。

とりあえずというか、書店でパラパラッと見たときに気になったポール・オースターの『孤独の発明』を手に取って最初の数ページを読んだ。
いいね。これは。
というか、ま、以下略

以下、引用。

「物にも人にも理念にも、父はおよそ情熱というものをもたない人間だった。いかなる情況にあっても自分をさらすことができなかった。あるいはさらしたがらなかった。父は人生から一定の距離を保って生きていた。物事の核心に引き込まれることを避けて生きていた。」(P.12)

「依怙地な、かたくなな、あたかも世界に対し免疫でもあるかのような生き方。父は一定の空間を占めている人間のようには見えなかった。むしろ人間のかたちをした一塊の貫通不可能な空間という感じだった。」(P.12-13)


何か、自分がこの「父親」のような気がしてならない。
まるで黙示録のように。

しかし、私は結婚もしなければ子どもを作る気もない。
その意味では、この小説の話者のような子どもを作ることはないのだろうし、少しは(気の迷いのようなものだが)罪は少ないのかもしれない。

しれないのだが、まぁ、以下略・・・

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なんかタイトルに惹かれました。
芥川賞だからって理由で読んだことって今までないし。
あ、買ったのは単行本のほう。
短編が一つ追加されてる。

いっさい本屋では本を開かずに購入。
なので、1ページ目で「ダメだこりゃ」ってならないかちょっと心配でしたが
杞憂でしたね。

ま、私は結構初めのほうの文章の感触で
そこから後を読み続けられるかどうかが決まってしまうので
今回はセーフということで。

ま、なんとなく想像していたものに似ている内容でした。
既に広告に評が出ているが
確かになんか観念的で
それが、でも、暴力を介して
生々しい肉体性を宿すという感じは確かにある。

でも、ちょっとぎこちないというか
文章のリズムがどうも一定していない感じがして
あと、数カ所、表現としてこれは???というところがあった。
(私の日本語力がないだけかもしれんが)

全体としては、まだちょっとつたない感じは否めない。
なんというか、まだ自分の文体というものには至っていないというか。
個人的には、併録されている短編のほうがいい感じだった。

ま、芥川賞をウォッチしていないので何ともいえないけど
こんなもんなのか?というのが正直な感想・・・。
いえ、面白かったんですが、なんというんでしょうか
比較するのは酷かもしれませんが
村上春樹とかみたいに(彼は芥川賞、取ってませんよね)
読者の頭の中を一気に自分の文章リズムで支配する、みたいな迫力というか
なんなんだろーな、圧倒する力みたいなの
それがいまいち足りてない。

統一感はないわけじゃないはずなのに
なんかバラバラしている感じがして
なぜか分裂している印象を受ける。
途切れ途切れ、というか、そういう印象。

いろいろネガなことを言いましたが
そうはいっても
これから面白いものを書いてくれそうな感じはするので
期待していいいと思います。

こういう重くて暗いのは個人的に好きなので。

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3週間ほど前に読了した文庫版『海辺のカフカ』ですが
なんというか、いままでの村上春樹の長編小説の集大成的なものなのかな、と。
で、相変わらずと言うか
性は重要な役割を担っている。
どの著書だったか忘れたが、文筆家(?)の勢古浩爾氏は
これを評して「まだやってんのか」と批判していたが
私としては、この村上春樹の小説に出てくる
性を媒介とした身体性の表現はとても重要で
これなしでは彼の小説は成り立たないもののように思う。
(一応瀬古さんのファンなんですがね。ここだけはちょっと)

どういうことかというと
村上春樹の小説に出てくる人は
ほとんどみな他人との関係性が切れているような印象がある。
村上春樹自身が「デタッチメント」ということばで表現しているように
それは精神的に他人や世界とのつながりを失ってしまっているような状態なわけです。
で、村上春樹の小説はこの状態が何がしかの形で緩和されるという
(彼特有の「神話的」と言ってもいいような)
一連のプロセスを主題として作られているように思うのです。
そこで求められるのは、他人、あるいは世界との結びつきであり
世界から「デタッチ」してしまった主人公達を
もう一度世界に結びつける、その役割を「性」が担っているのです。

よく出てくるのは、主人公の意志に反して「勃起する」という場面です。
ただこれだけならば、いわゆる「下半身は別人格」というような(笑)
くだらない親父の無駄話に堕してしまいそうなわけですが
村上春樹の小説の場合、それは最後に残されたたったひとつの世界への碇のようなのです。
つまり、それがなければもう主人公はこの世から浮き上がってしまい
そもそもそこに「物語」が成立しなくなるのです。
「物語」が成立しなくなるとは、つまり、「死」です。
少し(いや、かなり?)飛躍してしまいますが
私たちが「生きる」ということには
その都度の「物語」を紡いでいくという部分があります。
その意味で、村上春樹の小説世界で、主人公が生きるためには
「性」という根源的な身体性を抜きにしては成立しないのではないでしょうか?

(また、続けます)

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