人生、消去法
世捨て人のつぶやき




むかし神童、大人になったらただの人、って文句があります。
これって今まではすごいと言われていたひとが長じて平凡な人になることをバカにしているのだと思っとったんですが、どうもそうでもないのかな、と思うようになってきました。
つーのは、ただの人というか普通の人になるというのはとても難しいことなんじゃないのか、と最近思うようになったからです。

いや、端的に自分が世の中に適応できないという現実の前で、普通になるってのは大変なことだなぁ、と。
で、普通の「ただの人」になれるのはそれだけの才能というか能力がある人であって、私のような愚か者には到底望むべくもないようなものなのだろうな、という・・・

神童と呼ばれるくらいでないと、ただの人にもなれやしない、ということ。
はぁ・・・

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なんか人間を文系と理系にわけるのってやめていただけませんかね?
理系でも理系的思考ができないやつはいるでしょうし
文系でも理系的思考はできるやつはいるわけですよ
その反対に・・・ま、省略しますが。

理系的思考を優先して記述したのには理由があります。
今の世の中では、理系の方が重宝されているからです。
それも結局のところ大学の学部の分類によって判断されるのです!

そりゃねーだろーが、おい!

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いやいや育てるよりはいいような気がする・・・

中絶も同じでしょ。
結局のところ。

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人間というのは娯楽のためにセックスする唯一の動物なわけですが
(念のために書いておきますが、ピグミーチンパンジーは生殖のためではなく、かつ娯楽のためでもなく、コミュニケーションの一環として、セックスをします。ま、人間も近いですけど、やはり社会性という点でかなり違うかな、と。文化と言ってもいいですが、唯脳論的にいうとチンパンジーには人間並みの脳がなく、唯幻論的にいうと幻想をもっていないということなのかな・・・)
こんだけやりまくってて少子化、っていうのは不思議ですな。
それだけ、みんな避妊をしっかりしてるということか。
いや、その割にはできちゃった婚って多いよな、できちゃった婚はやっぱり結婚するきっかけのために作ったってことなのか・・・う~ん
(あえてこう書くが)交尾の回数に対して子どもができる確率という点では、人間がもっとも低いのではないか?

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やりたいことを仕事にするというが、やりたいことがさして何もないような人間はどうすればいいのだろうか?

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私の母は美容師で、私は小学4年生か5年生くらいまで母親に散髪をしてもらっていた。
*記憶というものは何度も思い出され、反復されていくなかで、少しずつ形を変え、その意味合いを、さらにはその具体的な相貌まで変化させてしまうともいわれる。
であるから、これから書くこの私の記憶は既に何ほどか「ほんとうではないもの」になっている可能性はある。
と、留保は付けてはみたものの、ホンネでは、この記憶は確かなものだと思っているんだが・・・念のため。

私の母親は私の髪を刈りながら、おそらく私があまり話さない子どもだったせいもあるのだろう、同じような話題を私に話しかけてきた。

いわく、
頭が歪んでいるので髪が切りにくい(実際確かに歪んでいる)
頭が歪んでいるのは生まれるときに機械を使って生まれたからかもしれない(出産時に羊水が先に出てしまい(破水というやつか)、具体的にどういうものかは聞かされなかったが、とにかく何やら機械を使って引っ張り出した、とのことだった。当時は赤ん坊がどうやって生まれるのかなんて知りもしなかったわけだが、イメージとしてはトイレ掃除用の吸盤(スッポンっ!!ってやつね)のようなものかな、と思っていた。で、その後、といっても最近になってからだが、1年前くらいにネットで調べて「鉗子分娩」というものがあることを知った。金属製の「へら」が二つ汲み合わさったような道具を使い、それを子宮に突っ込んで赤ん坊の頭を挟んで引っ張り出す、というものらしい)
寝かせ方にも注意したのに頭が歪んでしまった
ほんとうはもう一人女の子が欲しかったのに、お前ひとりしかできなかった
自分はほんとうは女の子の子どもが欲しかった

などなど

私の記憶のなかではこれらの話は複数回(実感としてはなんどもなんども)聞かされたもので、「またその話か」と思ったような記憶もある。
どこまで実話なのか自分でもはっきりしない感じがあるが、まったくのでたらめでないのは確かで、少なくとも1度はそういうことを言われているはずである。

今からこれらの発言を振り返ってみると、ひどい話だな、と思う。
頭が歪んでいるのは私のせいではないし、生まれ方だって私が選び取ったものではない。
何も好き好んで歪んだ頭や大変な生まれ方などするわけがないだろう。
腹の中に戻って生まれ直せ、とでもいいたかったのだろうか。
私の次に女の子をほしがっていたのにできなかった、というのも、私に何かできることがあっただろうか。
「お前しかできなかった」という言われ方に対して、私は謝罪するべきだったのだろうか。
それともオカマにでもなるべきだったのか(それはない)。
だいたい、母は私に対してそのようなこということで一体何を伝えたかったのか。
私は現在そこに母の私に対する恨みの感情しか認められないわけだが、そこには何がしかの愛情というものがあって、それを汲み取れない私はやはり冷酷で非情な人間だ、ということになってしまうのだろうか。

で、このような母親の発言に対して私は当時どう感じていたか。
特にどうとも感じていなかった、という気がする。というか、どう、もしくは、何を、感じればいいのかが分からなかった、と言った方が正確かもしれない。
「ふ~ん」というだけで、別段そこで深く傷ついたりというのは、意識の上ではなかったように思う。
そしてこの思い出は特に抑圧されて思い出せなくなったりすることなく、思春期以降折に触れて(というところがヘンなんだけどそれは後述)思い出された。

どうもフロイト流の抑圧の理論では説明できない。
ま、フロイトなんてそもそも・・・という議論はとりあえず措く。

しかし、最近になって改めて当時の感情というものを振り返ってみると、別の意味での抑圧が掛かっていたのではないか、と思うようになった。
それがこのエントリを書こうと思ったきっかけである。

当時私は別段上記のような母親の発言に対して何も感じていなかった。
そしてそれはある種の感覚を遮断するような状態を私にもたらしていたように思う。
その結果、その思い出の事実をあとになって何度も思い出しはするのだが、その「意味するところ」というものに対してずーっと長い間私は無知なままであった。
つまり、上記のような母親の発言を何度も思い出しているにもかかわらず、それが自分を真っ向から否定し去るような性格の発言であるということがまったく見えていなかった、ということである。

確かに、思春期以降、私は極度の自己嫌悪に苛まれ、なぜこんなに私は自分を蔑み貶めるのだろうか、と考えていた。
そして心理学、特に精神分析などを読むようになって、過去を根掘り葉掘り思い出して、どれがトラウマだったんだろうか、ということを考え続けた時期がある。
そうした時期にも、上記の思い出は何の苦労もなく思い出すことができ、どうやらこういった発言を私は内面化し、いわゆる超自我のようなものを作り上げてしまったようだ、というところまでは考えを進めることができた。
結果、親を責めるようなことを言うようになったし、それまでにも些細なことで親を責めるような発言をしていたが、そのそもそもの動機はこういった発言に対する無意識の反発・怒りではないか、と思うようになった。

ところが、意識のレベルにおいては怒りが前景化することがなく、その不自然さについて家族間の力関係や言葉にはされぬ掟やルールのようなものに縛られているために、素直に感情をを表出することができないのではないか、とかなんとか考えるようになったのだが、どうもすっきりしない、という感じが続いていた。

で、最近になって考えるようになったのは、いわゆるフロイト流の抑圧理論で行くと、嫌な記憶はそれを思い出すとそれが嫌な記憶だということが生々しく感じられてしまうが故に、その記憶をなかったものにするという経路をたどる。しかし、どうやら私の場合は、記憶を思い出せなくする替わりに、たとえ思い出してもそれが「嫌な記憶である」という認知をしないようにすることで「抑圧」の働きを代行していたのではないか。というもの。

ま、これもトンデモっちゃあトンデモなわけだが、自分でとにかくなんとか一貫性のある自我を再構築しようという努力ということでご容赦願いたい。
前よりは据わりが良くなったんだから、これでいいのだ。

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なんかこのひとは以前からイマイチ取っ付きにくいというか、手を出しにくい論者なんだよな・・・
何でも奥さんが元(以下略)

で、本題。

「ロリコン社会 犯罪の根源 幼い心の商品化 なぜ許す」と題された、いわゆる時事評論なのだが、細かいことだが題にある「幼い心の商品化」という語句が間違ってるだろ?商品化されてるのは「幼い身体」だろうが。細かいな。分かってますよ、細かいってことはね。でも、まぁいちおうということで。

で、中身についてだが、我が子を性的な視線にさらして金儲けしている親と、それを許容する社会への批判が言いたいことだろう。で、まぁそれ自体についてはまぁそうかな、と思う。正直、モー娘。とかまったく興味がないので(「もーむす」で変換したら一発で「モー娘。」って出たよ。今まで打ったことないのに。やるな、”ことえり”。つーか、その作者(笑)。だったらもっと使える変換辞書にしろよ!・・・というよりも、これがMacユーザーにとっての使える変換辞書なのか?だったら萎え~)、なんか今までは「子どもなのによく働くよなー。子どものうちくらい気楽に遊んどきゃいいのに・・・」くらいにしか考えてなかったが、ま、言われてみりゃ確かに「性的商品」だわな。しかし、だ。そんなこと言ったら昔のアイドルだってそうなんじゃね?極端に性的側面は抑圧されていたんだろうけど(アイドルはうんこしないとか(笑))、基本的な構図は同じような気がする。とは言っても確かに低年齢化が進んでいるというのはあるとは思うので、そこが問題なのかな、と。

で、こういう傾向って最近増えてんのかなって気がするんで調べてみた。で、こことか。
http://blog.livedoor.jp/kangaeru2001/
見てみたら、何だ、今の方が減ってんじゃネーのか、これ?
昔っから異常者ウヨウヨいるじゃん。
幼女だけでなく、家族を毒殺しようとした(もしくは実際に殺した)女もいるし。

翻って考えてみるに、こういう事件に対してプラグマティックな対策って何も打たれてきてないっぽい。
だってさ、明らかに「異常」でしょ、近所の幼女を切り刻むとかさ。
そんな人間が数年少年院で過ごしたら、また戻ってくる、と。

なんか、大阪であった姉妹殺害犯も再犯ですけど、一般的に言って、犯罪者の「更正」の具体的なプロセスって決まってるんでしょうか?決まってねーんだろうな。で、ま、最近はおとなしくしてるし、ダイジョーブなんじゃねーの?みたいな感覚で野放しにされる、と。アフターフォローも特にないままに、ね。確かに、大人の常習的犯罪者に比べれば、更正できる可能性ってのはあるのかもしれんが・・・

厳罰化とか議論するよりも、まずは徹底的に調べないと。
心理学的に、というのと、脳神経外科的に。

現状では、いわゆる「専門家」と言われるような人たちであっても、実際の対処についてははっきりしたことがいえないという状況がある。で、そうであればこそ、現状の犯罪者を現在の最高水準のレベルで分析する必要がある。と入っても、こんなこというと、犯罪者をモルモットにするのか、とかいうやつが出てくるんだろうな・・・

まず終身刑を導入して、再犯を防ぐ。その上で、収監した犯罪者を「検査&治療&調査」する。そして、有効な更正手段を編み出していく。こうするしかないんじゃないか。

社会においてリスクを避けるために終身刑という形でその犯罪者の人生の面倒を見るというコストを払う、そういう選択肢もあっていいのではないか。

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こんばんは(微笑)

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私は岸田秀のファンである。
読み出してからもうだいぶたったが、最近また新書を買い込んだ。
何でも初めての書き下ろしらしい。
なぜか出たときには買う気にはならなかったものだが
遅ればせながら何となく買ってみた。

大学のときに「フロイド読解」という本を読んだのが初めだと思う。
ま、何と言うか、鮮やかな手つきで精神分析的に自らを説明してみせ、感心するやら、まぁ、とにかく影響を受けた。

で、結構この「人間は本能が壊れてる」という意見には賛成かなと思っていたのだが
やはりというかなんというか、釈然としないものが残っていた。
で、なにがその釈然としないものの正体なのか、と思った次第。

そもそも、わたしがこの「人間は本能が壊れてる」説に共感したのは
自分自身がこの「本能が壊れた」人間だという気持ちがあったからだ。
それは基本的に今でも変わりはしない。

たとえば、私は他人と触れ合いたくない
コミュニケーションしたいという気持ちはあっても
いわゆる普通の人付き合いは苦手
親に対して過剰な義務感を抱いて子ども時代を過ごし
その反面で、特に母親に対してはとても強い憎しみを抱いてきた。
抱いてきたと言ってもそれは無意識にであって
意識化したのはほんのここ1年ちょっとの間のことであるが・・・

そんなこんなで(なんだかなぁ・・・)確かに私の本能は壊れているな、と。

しかし、である。
「完全に」壊れているなどということはいえるのだろうか?

確かに私は一般的な意味でのふれあいを好きになることができない。
身体的な接触、あるいは接近そのものを拒否してしまう。

しかし、その一方でなんとかコミュニケートしたいという気持ちもあるのだ。
それは結局のところ、このまま生きていても満たされることはないものなのかもしれないのだが・・・

ところが、その満たし方というのが皆目分からない。
ひとりでいたいし、一方で誰かを求めているし
結局その「誰か」なんてどこにもいないような気もするし・・・

このように中途半端に壊れてしまっていることが
諸悪の根源なのだと思いたい、今日この頃だったりするわけであります・・・

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最近も相変わらず新聞がその日のうちに読むことができず、週末にまとめて(しかも努力して)読むと言うことが続いている。
いろいろな意味でエネルギーが不足していると言うのは否めない。
かと言って、以前と比べれば、幾分かは回復もしてきている。
なのに日々の新聞すら読めない。
もちろん、読む必要などない。
読まなくたって死にはしないし、世の中だって回り続ける。

私は何を焦っているのか?

最近は幼い子どもが何人も異常者に殺されたり、母親殺しの少年だった男が保護観察処分が切れてすぐに姉妹を殺害したりという残酷な事件が続いている。
このような事件を見るにつけ、もっとプラグマティックに対策が打てないものかと思う。
ところがこういうことをまとめようとしたりするととたんに私の頭は機能不全に陥る。
いや、もとから機能不全だってことなんだろうが。

文明は進歩してきているはずだったじゃないか。
それは「嘘」だったのか?

批判するのはたやすい。
そしてそんな場所に自分をおいている私は卑怯者だということだろう。

もっと、ずっといい世界があっても良さそうなのに
なぜにこのような歪んだ世界になってしまっているのか。

結局のところ、私は馬鹿なのだ・・・

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自己正当化がうまいよね。
楽天の三木谷とかソフトバンクの孫とか、世の中をよくしたいとかなんとか、いや、よーするにお前が天下取りたいんだろ?
なんでそー、きれいごとを並べるかな。
その点、ホリエモンはふてぶてしいけど、まだマシかな、と思う。
ま、戦国時代の武将とかも、天下取りを目指して、でもそれを平和な世の中にするためだ、とか言ってたんだろうしね。おんなじか。

ま、見習うべきはその欲望の肯定するとこだろうな。
といっても100%見習ったら、アフォだけどさ。


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再犯もなくなるし犯罪者本人も欲から解放されるし、いいことずくめのような気がするのだが、なぜかあまり議論されないね。
出所後の個人情報開示なんかより、よっぽどまともな解決策だと思うのだが。
精子バンクみたいにあらかじめ残しておけば、結婚して子どもが欲しいって時にも大丈夫だろうし(有り得ねーって気がするけど)。
北欧では化学的に去勢するってのが実際行われているって新聞記事もあったし、もっと真剣に討議されてしかるべきじゃないかな。

司馬遷みたいなやつも現れたりしてな(ありえねー)。

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これまでは、というか、私が子どもの頃は「まじめ」であることはひとつの美徳だった。
美徳というのが大げさなら、まぁ、長所くらいにしておいてもいい。
とにかくまじめにやっていればとりあえず悪いことにはならないと考えられていた。
それがこの10年か15年くらいの間に大きく崩れてきたようだ。

まじめにやっていればそれなりに生きていけたのが
いまでは、まじめであることはひとつの不適応の印であるかのような扱いである。
替わりにひいきにされるのがコミュニケーション能力やら創造性やら個性やらである。
どれもまじめにやっていると獲得できないものばかりだ(笑)・・・と笑ってばかりもいられない。

ほんとうにまじめにしているやつは必要ないのだろうか?
「そんなことはない、今だってまじめなやつの行き場はいくらだってありますよ」
そう言う人もいるだろう。
しかし、それはどこだ?
結局公務員とかでしょ?
世間で公務員はどう思われてるか知ってますか?って話である。

コツコツまじめにやるのは報われない。
報われないだけならまだしも、ダメ人間のレッテルまで貼られてしまう。

まじめにする人はなぜまじめにするのか。
それは承認を得たいからであろう。
そうすることによって認めてもらいたいのだ。
ところが今や、行き着く先は「否認」である。

じゃあまじめにやるな、ということになるが
それが一体どうすればいいのかが分からない。
主体性がない?
そうかもしれない。

起業家がもてはやされる時代、仕方のないことなのかもしれない。
しかし、生きていることまで否定しに掛からなくたっていいのではないですか?

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最近は脳がどういう風に働いているのかかなりリアルタイムで詳しく見れるようになってきている。
言葉を話しているとき、ものを見ているとき、音楽を聴いているとき etc.
で、こんな酔狂な人はいないかもしれないが、やってみたら面白いのではないかというのがこれ。
「祈っている」ときの脳のモニタリング、である。
一体どの部位が活発に働くのだろうか。
そして、それは信心深い人と無宗教の人では違うのか。
修行を積んだ僧侶と一般人とでは違うのか。
キリスト教と仏教では違うのか。

私はいわゆる無宗教なのだが
中学生のはじめくらいまでは、なにかこう「祈る」と言うと大げさかもしれないが、
こうありたいとか、こうなりたいとかいう気持ちを心の中で念ずることがたびたびあったと思う。
しかし、思春期に入り、挫折や葛藤を経て、徹底して絶望したということもあり
それから今での間、ずーっとそういう気持ちを失ったまま生きてきた。
しかし、最近になってようやくというかなんというか、
叶わなくともそういう「祈り」を心の中にもちつつ生きるということが、なんか意味があるような気がしてきている。
ま、もう祈るしかない、てところまで来ちゃった、というだけのことかもしれんが・・・

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「受け入れよう、そのままの私、そのままの君」
はぁ?これがどうして人権と関係すんの?
個性を認めようって言ってんだよね?
個性は人権なの?
ちがうでしょ。
人権は「すべての人に平等に与えられているもの」でしょ。
一人一人が違っていても、その根底に「人間」としての基礎があって
その共通の基盤について述べたものが「人権」なわけで。

こんなアホな標語、誰が作ったんだよ。
責任者出てこい!

注:
ま、意を汲んでやるとして、
「差別されない」ことが人権の擁護につながると言いたいんだろうが
いくら何でもひどいと思う。

いかに「人権」という考え方が日本に定着していないかを示すものだと思う。

こんな標語広めてたら、ますます誤解してるやつばかり増えて
ホントに取り返しがつかなくなるよ。マジで。
政府とかが率先して国民をダメにしてどうするよ?
まったく・・・

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