Kindleにて(Kindleでデジタル積読していたのだが、何故か現在Kindle版はなくなっている。絶版になったのか?)。
2016/3/28刊。
2018/11/29購入。
なんと3年以上積読だった・・・。
読むきっかけはYouTubeの公式養老孟司チャンネルで養老さんが落合氏について「デジタル・ネイチャー」という概念がすごいという趣旨の発言をしていて、これは読まねばとなった。
※動画内で言及されるのはこの本ではなく、『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』
内容は、若者向け自己啓発書といった感じで、IT時代の生き方指南。
齢四十七の私なぞには、まぶしいなぁといった感じの一冊(老害並感)。
養老さんが注目していたデジタル・ネイチャーとは、
「唯一の知的生命としての人間が世界を解き明かしていくような世界観から、物質、精神、身体、波動、あらゆるものをコンピュータの視座で統一的に記述していくような計算機的自然観がデジタル・ネイチャーです」
と説明される。
今となってはありきたりなシンギュラリティ論的な趣きもあるが、2016/3/28刊なので当時はまだ新しかったのだろう。
いわばデジタル一元論と言っても良さそう。
面白い指摘としては、
「あらゆる知識がインターネット上で探せる時代に、「出来の悪いウィキペディア」や「出来損ないの食べログ」を目指しても、その人に未来はありません。平均顔は美人を作りますが、平均知能人間はウィキペディアの劣化コピーにしかなりません。」
や
「コンピュータに負けないために持つべきなのは、根性やガッツではありません。コンピュータになくて人間にあるのは、「モチベーション」です。」
などがある。
また、
「一方で、いまの時代のIT企業は物理的なリソースが不要なので、親がお金持ちでも子は「能力的な」資本家にはなれません。必要な資本は「能力の高い人間」であって、これは世代間で継承されるのではなく、遺伝子演算と教育の結果で、比較的どこからともなくランダムに湧いてきます。つまり、「麦」を貯めなくても資本家階級になることができる。これによって、マルクスが考えた「階級闘争」の大前提が、ある部分で崩れ去りました。その意味で、IT革命は「革命」だったわけです。」
という指摘も興味深い(「遺伝子演算と教育の結果」はランダムではないと思うが・・・)。
さらに、落合氏は「システム」ということに言及する。
この世は個人としての人間が動かしていることを指摘しつつ、
「ところが多くの人々は、それを「お上の決めたことだから」と思い込んでいて、個々の人間ではなく、何か得体の知れない「システム」が世の中を動かしていると思い込んでいます。」
と批判。
そして、
「ところが世界が「システム」だと思い込んでいる人は、それを人間のせいだとは考えません。うまく稼働すれば「システムの優秀さ」、うまく稼働しなければ「システムの不都合や故障」のようなものだと受け止めている人は多いはずです。そしてひいては自分も社会の主体であるにもかかわらず、「社会のせい」にしていってしまいます。」
という視点を語りだす。
ここで私は、2009年のエルサレム賞受賞時の村上春樹のスピーチを連想せずにはおれなかった。
村上春樹は言う。
「私たちは皆、多かれ少なかれ、卵なのです。私たちはそれぞれ、壊れやすい殻の中に入った個性的でかけがえのない心を持っているのです。わたしもそうですし、皆さんもそうなのです。そして、私たちは皆、程度の差こそあれ、高く、堅固な壁に直面しています。その壁の名前は「システム」です。「システム」は私たちを守る存在と思われていますが、時に自己増殖し、私たちを殺し、さらに私たちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させ始めるのです。」
落合陽一氏は、この村上春樹の主張に異を唱えるもののように思う。
IT技術によって個人がエンパワメントされた時代にあって、そういう主張もたしかに可能なのかもなとは考えられる。
しかし、私の直感は村上春樹に寄り添う。
古い人間だと言われればそうなのかもしれない。
新しい時代が到来しつつあるのは事実だろう。
だからといって、村上が言うところの「システム」に当たる、社会の匿名的な暴力性というのはなくならないのではないか。
落合氏のオプティミスティックな論には、氷河期世代の人間として今ひとつという感慨を抱かざるを得なかった。