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人生、消去法
世捨て人のつぶやき




2chのメンヘル版の【健常以下】スキゾイド(分裂病質)4【メンヘル以上】にてNYTのこのような記事を知った。
Like a Fish Needs a Bicycle: For Some People, Intimacy Is Toxic

意訳すると「お断り!一部の人には親密さは毒になる」ってな感じか。
(Like a Fish Needs a Bicycleってフェミニズムから出た表現だそうで。http://www.usingenglish.com/reference/idioms/like+a+fish+needs+a+bicycle.html
フィミニズムへの当てこすりか、それとも・・・ま、いいや。

海外だとやはりこういう形で認知も進んでいるのだなぁと改めて感心。
天下のニューヨークタイムズだもんなー。朝日や読売にこんな記事が出るのはいつのことでしょうか・・・
興味深い記事なので、そのうち元記事が消えるだろうし、簡単に訳しておくかな、と(長いが)。


It is practically an article of faith among psychotherapists that an intimate human relationship is good for you. None other than Freud himself once famously said that health requires success in work and in love.

心理セラピストのあいだでは、親密な人間関係というものはひとにとって良いものだというのが事実上の信念のようになっている。誰よりもフロイト自身がかつて周知の通り、健康は仕事と愛での成功を必要とすると言ったのだ。

I’m not so sure. It seems that for some people, love and intimacy might not just be undesirable but downright toxic.

はたしてそうだろうか。一部の人にとっては、愛情や親密さは望まれないものであるばかりか、まったくの毒であるかもしれないのだ。

Not long ago, a man consulted me about his 35-year-old son, who had made a suicide attempt.

近頃、ある男性が、35歳の自殺未遂をした彼の息子の相談にやって来た。

“I was shocked, because he never seemed depressed or unhappy in his life,” the man said of his son. “He always preferred his own company, so we were relieved when he started to date.”

「ショックでした。なぜなら息子は日頃からまったく沈んでいるようにも不幸せそうにも見えなかったからです。」その男性は彼の息子についてこう語った。「息子はいつも友達付き合いを好んでいましたし、それで息子がデートを始めたときわれわれはほっとしたものです」

He went on to tell me that he and his wife had strongly encouraged their son to become engaged to a woman he was dating. “She was perfect for him,” he recalled. “Warm, intelligent and affectionate.”

その男性は続けて、彼とその妻は息子にデートしているその女性と結婚するように強く勧めたという。「彼女は息子にぴったりでした」彼は思い出しながら続けた。「あたたかく、知的で、愛情深い」

Everything seemed to be going well until, one day, the father got a call from his son’s girlfriend. She had not heard from the son for several days, so she went to his apartment and found him semiconscious in a pool of blood. He had taken an overdose of sleeping pills and slit his wrists.

すべては順調に進んでいるかのように見えた。ある日その父親に、彼の息子のガールフレンドからの電話があるまでは。彼女は数日間彼から連絡がないので彼のアパートへ行ったところ、意識を失いかけて血の海に横たわる彼を発見したのだった。彼は睡眠薬を過剰摂取し、手首を切っていた。

After a brief hospitalization, where he was treated for depression with medication, he returned home and broke off the relationship. Soon after, he moved to Europe to work but remained in frequent e-mail contact with his family. His messages were always pleasant, though businesslike, full of the day-to-day details of his life. The only thing missing, his father recalled, was any sense of feeling.

短期間の入院ののち、うつ病の投薬治療を受け、彼は家に戻り、恋人との関係を終わらせた。そのあとすぐ、彼はヨーロッパで仕事についたものの、家族とは頻繁にメールで連絡を取っている。彼のメッセージはいつも陽気に、ただしビジネスライクに、毎日の生活の詳細を綴っていた。彼の父親が思い出すただひとつの欠けているものと言えば、感情の手触りのようなものだった。

I got a taste of this void firsthand when his son came home for a family visit during the holidays. Sitting in my office, he made little direct eye contact but was pleasant and clearly very intelligent. He had lots of interests: computers, politics and biking. But after an hour of speaking with him, I suddenly realized that he had not mentioned a single personal relationship in his life.

彼の息子が休暇のあいだに家族に会いに家に戻ったときに、わたしはじかにその空虚さを味わった。彼はわたしのオフィスでいすに腰掛け、ほとんどアイコンタクトを交わさなかったが、しかし快活で明らかに知的に見えた。彼はたくさんの興味を持っていた。コンピュータ、政治、そしてサイクリング。しかし、彼と1時間にわたって話したあと、わたしは突然彼が彼の人生におけるただのひとつの個人的人間関係についても言及しなかったことに気付いた。

“Who is important to you in your life?” I asked.

「あなたの人生で大事なのは誰ですか?」とわたしは彼に尋ねた。

“Well, I have my family here in the States and some friends from work,” he said.

「そうですね、わたしにはここアメリカに家族と仕事で知り合った友人が数人います」と彼は言った。

“Do you ever feel lonely?”

「寂しく感じたことはありますか?」

“Why would I?” he replied.

「どうして(寂しく感じなくてはならないのか)?」と彼は答えた。

And then I suddenly understood. He wasn’t depressed or unhappy at all. He enjoyed his work as a software engineer immensely, and he was obviously successful at it. It was just that human relationships were not that important to him; in fact, he found them stressful.

そうして、わたしは突然理解した。彼はふさぎ込んでも不幸せでもなかった。彼はソフトウェアエンジニアとしての彼の仕事をとても楽しんでいたし、明らかにまったくうまくやっていた。それはただ、人間関係が彼にとっては重要ではないということだったのだ。実際、彼は人間関係をストレスフルなものだと見なしていた。

Just before he made his suicide attempt, he remembered, he had been feeling very uncomfortable with his girlfriend and the pressure from his parents. “I wanted everyone to go away,” he recalled.

彼が自殺未遂をする直前、彼は彼のガールフレンドと両親からのプレッシャーに対してとても居心地の悪い思いをしていたと彼は思い出した。「わたしはみんなどこかへ行って欲しいと思っていました」と彼は回想した。

Typical of schizoid patients, this man had a lifelong pattern of detachment from people, few friends and limited emotional expressiveness. His well-meaning parents always encouraged him to make friends and, later on, to date, even though he was basically uninterested in social activities.

統合失調質の患者に典型的なように、この男性は人生全般にわたって、人からのデタッチメントやわずかな友人そして限られた感情的表出というパターンを持っていた。彼の両親は善意からいつも彼を友人を作るよう励まし、その後にはデートをするようにと励ましたが、それにも関わらず、彼は基本的に社交的な活動には関心を持っていなかった。

“We thought he was just shy but had lots of feeling inside,” his father told me.

「私たちは息子がただシャイなだけで、内面にはたくさんの感情を持っていると思います」と彼の父親はわたしに話した。

That’s what his son’s therapist believed too. When I telephoned her, she explained that she had been pushing him over the four years of treatment to be more social, make friends and finally date. She attributed his failure to do this in any significant way to his underlying anxiety and low self-esteem. “With time,” she said confidently, “I expect he’ll make progress.”

それは彼の息子のセラピストが同じく信じていることだった。わたしが彼女(セラピスト)に電話したとき、彼女は4年以上にわたる治療期間中ずっと、かれをもっと社交的にし、友人を作り、最終的にはデートまでさせようとしてきたと説明した。彼女は彼の重要な局面でのこういうことにおける失敗は全て、彼の根底にある不安と低い自尊心に原因があるといった。「時間を掛ければ」と彼女は自信を持って言った。「彼はきっと進歩を見せるでしょう」

When I got off the phone, I wondered if we had been talking about the same patient. I found him calm, detached and self-confident about his abilities and work.

電話を切ったあと、わたしは同じ患者について話していたのだろうかと感じた。わたしは彼が落ち着いており、世間から遊離し、自らの能力と仕事に自信を持っていると見なしていた。

His therapist apparently believed that no one could genuinely prefer solitude and that there must be a psychological block preventing this patient from seeking intimacy.

彼のセラピストは明らかに、人は誰も純粋に孤独を好むことはなく、それゆえそこにはこの患者を親密さを求めることから遠ざける心理的な壁があるに違いないと信じていた。

But after four years of weekly therapy the patient had basically failed to reach any of these goals. You would think that for this reason a therapist would question whether the treatment was really the right type for the patient. After all, if your doctor gives you an antibiotic that doesn’t kill an infection, he or she should question the diagnosis, the treatment or both.

しかし、4年にわたる毎週のセラピーの結果、患者は基本的にいかなる成果にも辿り着かなかった。このため、セラピストはその患者にあった治療だったのか疑問に思うと考えられる。結局、医者が感染症を抑えられない抗生物質を出したのなら、彼・彼女はその診断あるいは治療法、あるいはその両方を疑問に付すだろう。

Granted, psychiatric illnesses are generally more difficult to treat than simple bacterial infections, but why should psychotherapy be any less self-critical and self-correcting than the rest of medicine?

なるほど、精神医学的な病気は一般的に単純な細菌性の感染症よりも治療が困難だろうが、かといってどうして心理セラピーはそれ以外の治療法に比べてより自己批判的でも、自己修正的でもないままであってよいのだろうか。

I had a hard time explaining all this to the patient’s father. Finally, I came up with an analogy that I had some hesitation about, but since I discovered that both of us were dog lovers, I gave it a try. I explained that some breeds, like Labradors, are extremely affiliative; other breeds are more aloof and will squirm if you try to hold them.

わたしは苦労してこれら全てのことを患者の父親に説明した。そしてついに、わたしはあるひとつの類比を思いついたのだが、それは少々口にするのがためらわれるものだった。しかし、わたしとその患者の父親はどちらも犬好きだと分かっていたので、わたしはその類比を話してみることにした。いくつかの品種、例えばラブラドール等はひじょうになつきやすいが、他の品種ではもっと無関心で抱きかかえようとすると身をよじらせるものもいると説明した。

“You mean my son is detached by nature,” he said. “I guess we all pushed him too hard to do something he couldn’t do and didn’t want.”

「つまり息子は生まれつき冷淡だと言うことですか?」と彼は言った。「なるほど私たちは彼ができもしないししたいとも思っていないことをあまりに無理にやらせようとしていたのですね」

Emotional intimacy, it seems, is not for everyone.

感情的な親密さはどうやらだれにとってもいいものではないらしいのである。


いかがだったでしょうか。誤訳等ありましたらご指摘ください。
繰り返しになりますが、欧米ではこういう認知が進んでおり
日本でも何がしか注目されるようになってほしいと思う今日この頃なのです。

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中学時代に読んであまりにも自分の未来を宣告する黙示録のように思えて恐ろしかった、ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」。
今ようやくその予言が実現しようとしている。

なんとかそうならないように努力してきたが、もはやこれまでか。

ハンス・ギーベンラート      おれ
(「車輪の下」主人公)

田舎でけっこう頭いいほうで将来を嘱望される
 ↓                 ↓
神学校              進学校
 ↓                 ↓
ドロップアウト          なんとか大学院出て就職するもうつ病で休職(←いまここ)
 ↓                 ↓
田舎に戻ってしがない労働者      ?
最期は川に落ちて溺死


やれやれ。

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昨日よりうつ病にて会社を休職することと相成りました。
多分、このまま退職すると思います。

やなんですよ、人間関係が疎ましくなるのは。

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直前のエントリでポエムチックなものを書いてしまったが
その最後の一節に
わたしはここにいない
わたしはここにいない

と書いたその内実はというと
結局のところ
「あなたはここにいるよ」
と言ってもらうということなく生きて来たのだな、ということだ。

誤解のないように言っておくけれど、
それは「ここにいてもいいんだよ」ではない。

「あなたはここにいるよ」
と言ってもらうということ
それはすなわち「承認」である。

もういちど言う。
これは「ここにいてもいいんだよ」ではない。

エヴァンゲリオンのシンジ君ではなくて、
つまり、「ここにいてもいいんだよ」を求めるのではなくて
「たしかにあなたはわたしにとって存在している」という
そういう根源的な確証のようなものを与えてもらうということ。
それがわたしには欠けていたのではないだろうか。

「透明人間」
かつてある少年犯罪者が書いた言葉だ。
今になって思う。
ある人間を(とくに子どもを親が)「透明人間」のように扱うということは
それ自体が犯罪的であり、かつ犯罪誘発的だと言えるのではないだろうか。

わたしも犯罪者になるかもしれない。
何度も頭のなかで繰り返したように
親を亡き者にするという形で。

わたしを亡き者にした親と
その親を亡き者にしようとするわたしと
いったいどちらが犯罪的なのだろうか。
倫理的に非難されるのであろうか。

わからない。



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わたしはひとにやさしくできない。
なにかがひっかかる。つっかえる。自然じゃない。

わたしはひとにやさしくできない。
なにかが動こうとする。でも、ぐっとそれをおさえつける。

わたしはひとにやさしくできない。
うそをつく前からもううそをついているような気分。

わたしはひとにやさしくできない。
そっとすがたをくらましてしまいたい。

わたしはひとにやさしくできない。

わたしはひとにやさしくできない。

わたしはひとにやさしくできない。

わたしはひとにやさしくできない。

わたしはひとにやさしくできない。
そして、ひとのやさしさをうけいれることができない。

わたしはここにいない。
わたしはここにいない。



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わたしは「つきあう」ということが「わからない」とこの前書いたが
翻って考えてみれば、結局のところ、親とすらわたしは「つきあわなかった」のだろう。
(現在は、ほぼ絶縁状態。5年ほど前から)

親との間でさえ、交流することができず
孤独を体の芯にまでしみ込ませて、それに慣れていくことよってしか
生き延びることができなかったのだろう。

もういいかげん、ラクになりたい・・・

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人生なんてそんなもの

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シゾイド型人格障害(統合失調質人格障害)のひとは
一般的に孤独で、性的にも不活発であると言われる。

わたし自身もその特徴を備えているが、
ではなぜ孤独で、性的にも不活発なのか?と考えてみるに
根本的には結局「つきあう」ということが「わからない」ということに尽きる気がした。

人付き合いが苦手というのはもちろんあるのだが
そもそもなぜ人付き合いをしなくてはならないのか
(それもこんなに苦しい目をしてまで)
その理由が自明なものではないという点に問題があるのだろう。

簡単に言ってしまえば、他人を必要としていないのである。

必要としていないから、孤独でも寂しくないし
セックスのパートナーがいないということも苦にならないのだ。

その原因はなんだろうか。

これはわたしの個人的な生育歴からの勝手な推測に過ぎないが
おそらくは養育者(親)とのあいだの交流の失敗にあるのではないかと思っている。

わたしは他人とコミュニケーションをとる際、
特に他人のほうから急に何かを言われたり、されたりしたときに
とっさに出そうになる自分の反応を、無意識のうちに
というか反射的にぐっと押さえ込んでしまい
ワンテンポ遅れて、反応をしてしまうことで
不自然な感じを出してしまっていることがよくある。

なにか自分の体が自然に反応することに不安があるというか
何かしら、そのまま反応してしまってはマズいという恐怖感のようなものがある。

その原因を永らく考えて来たのだが
これは、子供の頃(それもものごころつく前の幼少期)の
親との交流のなかで、自然な反応を示すことが不快な事態を引き起こすのを
何度も何度も経験したために、ほとんど生理的なレベルで
自分の「自然な反応」というものを「不適切なもの」と捉えるようになったのではないか、
と考えるようになるに到った。

この場合の「自分の「自然な反応」というものを「不適切なもの」と捉えるようになる」という状況は
一体どのようなものだったのかは今となっては分からないのだが、
その後の経験から逆算するようなかたちで推測することはできる。

わたしのようなくだらない男にも好意のようなものを抱いてくれる女性がまれに現れる。
その女性は、たまたまわたしと目が合ったりすると輝くような笑顔を見せる。
比喩的にではなく、まさに文字通り「輝く笑顔」であり
とびっきりの笑顔だと言うしかない、そんな笑顔だ。

そんな笑顔を目にしたわたしはもちろんパッと明るい気持ちになる。
そしてそれは振り返ってみると、中学のときの初恋がはじめてで
それ以前には、どうやってもさかのぼることができない。

しかし、同じ経験を何度か重ねるうちに、どうも世間の「普通の人たち」というのは
小さな頃からそういった経験を積んで来ているようだと気付くことになった。
それはとても「基本的なこと」なのだということがなんとなく分かった。

ここでの鍵はおそらく母親の笑顔なのではないか。
それも、子どもの全てを承認して受け入れる、そんな笑顔なのではないか。

そしてそこで交わされる親子の交流が自然であれば
子どもは自分の存在や感覚や反応について安心感を抱くことができ
その結果、その後の他人との交流においても不安感や不快感に苛まれずに
自然に交流できるのではないか。

これとは逆に、母親が子どもを受け入れておらず
子どもと目が合っても自然な承認の笑顔が出ないような場合
その子どもがシゾイド型人格障害になるリスクが高まるのではないだろうか。

もちろん、これ以外の可能性も考えられる。
シゾイド型人格障害と高機能自閉症の一部(アスペルガー障害)には類似点が多いと指摘されており
その場合は、子どもの遺伝的にもって生まれたリスクというのが考えられる。

可能性としては、遺伝的要因と環境的要因の双方がそろったときに
もっともリスクが高くなるのだろう。

で、話を戻すと、わたしは中学のときの初恋ではじめてそういう「承認してくれている笑顔」というものに出会った。
逆に言えば、わたしの母はそういう類の顔を見せたことがなかったということだ。
そして、「承認してくれている笑顔」に出合っても、もう中学段階まで来てしまってからでは、
手遅れだということでもある。

おそらくある年齢を過ぎてしまうと、もう可塑性が失われてしまい
脳などの基質に何も異常がなくとも、機能的に正常になることはないのだろう。

ちょうど、生まれてすぐ目隠しをされた猫が一定期間が経ってからその目隠しをはずされても
目が見えるようにならないという実験と同じように。

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Hiding behind the wall
And making a vague smile

He got no happiness
No place to be
neither nor you can see
He'd never be here again

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