人生、消去法
世捨て人のつぶやき




「卵掛けご飯 世界に広めて」

アホなニュースじゃ・・・
いや、卵掛けご飯は大好きですけどね。
世界的に言えば、そんな危ないもの食えるかっつー・・・。
衛生状態は日本が標準じゃないんですよー、と言いたい。
つーか、日本も危ないけどね

最優秀論文に選ばれた東京都新宿区の望月裕美さんは「摂食障害など医療介助が必要な人にとって卵かけご飯は適度な粘度と凝集性、弾性がありのみ込みやすい。世界に広めるべきだ」と主張。
 インターネットの企画で卵かけご飯を30日間食べ続けた松江市の男性は特別賞に選ばれ、「疲れが出始めた10日目はしょうゆに滋養強壮剤を混ぜ、最終日の30日目には喜びのあまりビールを混ぜた。卵かけご飯のおいしさは普遍的」とコメントした。


第一:摂食障害とかバカ言ってんじゃねーよ!食中毒で死んだらどーする!
第二:「疲れが出始めた10日目はしょうゆに滋養強壮剤を混ぜ」って疲れがとれなきゃ意味ネーじゃん!10日も食ったら栄養失調かよ、おめでてーな!バランスのいい食事しろ、バカちんが!
第三:「最終日の30日目には喜びのあまりビールを混ぜた」って、それは何の喜びだ?コンニャロ!もうイヤになってたんだろーが!正直にいえ!怒らないから!ほら、もう卵掛けご飯なんて食いたくないんだろ!

一部お聞き苦しい点があったことをお詫びします。

以上

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『下流社会』三浦展 著を読了しそうになったところにこのニュース。
国立大学推薦入試で「地元枠」導入拡大 来年は12大学
いわゆるシンクロにシティーってやつですかね(笑)

もとい、三浦氏は著書の最後の「終わりに」の部分で国立大学の一流校から学費をただにせよといい、さらに下流クラスの人間に対して試験で「下駄を履かせる」ようにせよと提言しておられる。
で、このニュースでは、
すべて教師や医師を養成する教育学部と医学部だ。背景には、急速に進む大都市近郊の教員や、過疎地を中心とする医師の不足がある。これまで受験機会の平等という原則をたてに事実上、実現しなかったが、法人化で地域重視の方針も実現しやすくなり、導入が加速した。

と書かれている。
つまり、三浦氏の危惧する「地方都市」の「ジモティー」がそのまま階層として固定化してしまうというのが、工場労働者や左官工などの職だけでなく、これでさらに教師や医者にまで拡大する恐れが出てきたということだ。
これでは、これまで上流とされてきた(教師が上流かどうかは微妙だが)階層にも、下流化の流れが及んできていると言えなくもない。

これで三浦氏が提言するような、東大京大クラスが現在のままの状態に置かれ続けるならば、確実に日本社会、特に地方はダメになるぞ。
だって、これまでだって医者や教師といったところでずいぶんとひどいのがいたわけだが、「地方枠」なんていうものに守られて、今まで以上にダメな人材が教師や医者になるとしたら、これはもう自分にとっても(=医者にかかる場合)自分の子ども(まだいないけどね)にとっても(=子どもが受ける教育)由々しき事態、っていうかそんなのんきなことは言ってられなくて、今以上に医者に殺されたり、教師に子どもを台無しにされたりすることが多くなるのではないだろうか?

三浦氏の時代には、国立大学は年間2万5千円とかだったそうだ。私も学生時代に京大出身の先生にそんな話を聞いたことがある。
「今の君たちは大変だよね~」とか言われたような。いや、いい先生だったんですがね。
それが今や50万円時代である。
これまでなら、経済的に恵まれない家庭であっても、子どもが頑張って勉強すれば一流校に行けるかもしれないという神話があった。良くも悪くもだが。
しかし、年間50万円を払えない世帯やバイトしてそれを捻出しようというくらいの意欲のないものは、そもそものはじめから大学に行こうなどとは思わなくなる、もしくは適当に努力せずに入れるところへ行っておけばいいだろうなどと考えるのではないだろうか?

いろいろよくわからない点もあるので、ためしに国立大学の学費について調べてみた。
大学の学費の伸び(共産党のページからだが許してくれ。他意はない)
こんな感じでのびているらしい。
なんか、1975年前後を境にして「国立大学にはもう行くな」という政策が始まったんじゃないか?
「猫もしゃくしも大学行きやがって、コンニャロ!」的なものを感じるのは私だけだろうか?(私だけですか。ああそうですか)
従来の中国の科挙制度に範をもつような体制ではなく、強者が強者を生むという体制へと変化してきているのではないか。
それはすなわち、「みんながみんな、そんなに頑張るんじゃねーよ」という・・・
で、一方では、「オラ、もっともっと頑張らねーと職なくすぞ。こら!」とか言われながら今の私たちは生きているわけです。
なんなんだこれは?

つまり、「頑張ったとは言っても、ただ勉強したってだけじゃあダメだ」
「頑張って、自力で生きていけるようになれよ、こら」ということだろうか・・・?

それって、そもそも「頑張る」方向が間違ってんじゃないのか?
社会が提示している「頑張る方向」自体がもう期限切れなんじゃないのか?
しかも、10年以上前から!

あ~あ、なんかやんなってきた。

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『結ぼれ』R.D.レイン

なんか不思議な作品なので説明が難しいのですが、戯曲でもない私小説でもない、非常に特殊な作品なんです。
でも、それは全然いい意味でそうなので、ご一読いただければと思います。
なんか泣けてきます。。。「関係」というものの難しさと滑稽さとそしていとしさと・・・

読んでいて思い浮かんだのは、「反転」とか「可逆」とかそういう単語。
メルロ=ポンティの語法にもなんか通じるかな、とか思ったり(多分違うんだろうが)。
すごい「わかるなぁ」と思わされるところがたくさんありました。

おすすめ。

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「また彼らは親密さにまつわる葛藤を抱えているために、無表情で冷淡に見えたり、質問に知性化で答えることもある」(p.240)
・・・知性化:知性化する人は感情がないかのごとき印象を聞き手に与えつつ、感情について話す。
確かにそれは結構あるかも。


「親密さと距離をめぐる葛藤が生じたとき、シゾイドの人たちはそれに伴う孤独にもかかわらず後者を選ぶ。というのも親密さは自己を有害な仕方で乗っ取られることと結びついているからである」(p.240)
・・・そう、つい最近もそうでした・・・

「素質的要因として、過度の敏感さとその結果生じる刺激の回避が考えられる」(p.240)
・・・「世話をされること」自体がなんか苦手なのは、赤ちゃんの時に刺激を避けたいと思ったからだろうか。母によると私ははいはいができるようになると自分でトイレに向かうようになったそうで、おむつ替えの苦労をほとんどしていないとのこと(それで、人並みの経験ができなかったと恨み節な訳ですが・・・)。

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「ロビンスと彼の同僚たちは創造的芸術療法に対して広範囲にわたる貢献をなし、そしてクライエントの精神分析的治療の美的次元について詳細に論じたが、これは治療においてシゾイドであるような人たちにとって特に有望な側面である」(p.237)
・・・これって結構重症の人に対するものなんじゃないのかな。普通にはあまり聞かないし。

(セラピストと患者が一種の情緒的な繭をつくということに関して)「患者はほとんど毎回の面接で豊かな洞察をあらわすにもかかわらず、社会的機能を得るにはいたらず、誰もデートに誘ったことがなく、性的関係も改善されず、創造的な計画に乗り出してもいないということにセラピストが気づくまでに、相当長い時間が過ぎ去ってしまっていることがある」(p.237)
・・・繭は作ってないように思うけど、「誰もデートに誘ったことがなく、性的関係も改善されず、創造的な計画に乗り出してもいない」ってのはあたってるなー(笑)。笑ってる場合じゃないんだが。ま、創造的計画自体はしてるんだけどいざとなると何もできなくなるという、悪循環で。どうなることやら。やれやれ(村上春樹風)

「シゾイドの人はしばしば自らを隔離して、自分のファンタジー生活における主要な問題について考え、さらに反芻しながら、非常に長い時間を過ごす」(p.240)
・・・これはまぁ、そうなんだろうな。考えずにはいられないというか。もう、ファンタジーの方がメインになっているということなのかも。

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「スーザン・デリはその人の現実感や内的な堅実さを強化するために、患者の発言をその人が使用した通りの言葉遣いやイメージで言いあらわすことの重要性を強調している」(p.235-236)
・・・なんかやりくちはセールストークと同じなんだな・・・ま、いいけど。

「たとえ明らかに高機能の人であっても、シゾイドの人の大部分は自分は根本的に異常で他人には理解されないのではないかと心配している」(p.236)
・・・うん、理解してもらえてないんだもん。

「そのシゾイドの人の内的世界は了解可能であると伝えるような仕方で振る舞うことによって、ほかの人のもつ指針への服従を求められることなく受容される経験をその人が内在化しうるようにセラピストは援助できる。ついには十分な自尊心が生じて、たとえ他人に理解されないときでも、それは自分の感覚の奇怪さに問題があるゆえではなく他の人の限界を反映しているのかもしれないということが、患者には理解できるようになる」(p.236)
・・・う~ん、結局他の人のせいにするのか?既にもうそれをしていて「なんでわかんねーんだ、このタコ」とか思ってる私は手のうちようがない、と?

「イメージの豊かさを病理としてではなく才能としてセラピストがリフレーミングすることにより、シゾイドの人たちは深く安心する。彼らはそれまですっと、自分より鈍感な人たちからの評によって自分の情緒的反応を認められなかったり軽視されてきたからである」(p.236)
・・・イメージが豊か、かなぁ?全然豊かではないんですけど、私の場合。

「シゾイドの患者に呑み込まれや軽視として経験されることなく承認を与える一つの方法は、患者の問題に対する理解を伝えるためのイメージの源泉として芸術や文学を利用することである」(p.236)
・・・ま、これはありそうですね。そういや村上春樹の話をしてしばらくしたときに、先生が「この前にお話にあったやつ、読みましたよ」って話題振ってくれたな。

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「共同体からの孤立があまりにつらくなってきたために、もしくはその孤立ゆえに目標を限定されてしまうために、たとえばデートすることや他の社会的活行動を行うことに対する制止を乗り越えたいと願って、彼らは治療を求めることがある」(p.233)
・・・はい、私がそうです(笑)。会社でもうまくやって行けないし、デートも誘えないし、いざ行ってみても楽しくない、という(涙)。創造的な才能もないことだしね・・・

「シゾイドの人が治療の諸段階で黙して語らず、自分を空っぽで忘れ去られたように感じていることはまれではない。患者が治療設定の安全を内在化する間、長い沈黙は耐えられなければならない」(p.233)
・・・確かにそうでしたね。はじめの頃は何をしゃべっていいのか分からないし、なにも浮かんでこない、まさに「空っぽ」という感じでした。耐えてくださりましたよ、先生は。ありがたいことです。最近はなんかちょっと引き気味な感じがするのが気になるのですが・・・

「予想されるように、彼らはしばしば自分の内的反応を敏感に感じ取り、そしてそれを表現しても警戒や軽蔑やあざけりを招かない場所をもっていることに感謝する」(p.233)
・・・そうですね、確かに感謝していますし、まだまだ必要としています。

「たとえその人の内的経験が他人にとっては奇異であっても、あたかもそれが理解される可能性を秘めた意味をもつかのように、そしてほかの人と脅威的にならないような親密さをもてる基礎をなす可能性があるかのように、患者は扱われる必要がある」(p.234)
・・・なんか、ほんとはぶっちゃけそんな可能性ないんじゃね?みたいな記述だなぁ。

「私の経験では、シゾイドの人の主観的なもろさはセラピストが頻回に感じる弱さあるいは無力さの感覚の中に映し出される」(p.234)
・・・主観的なもろさ、ねぇ・・・

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「シゾイド力動をもつ人にとって、自尊心はしばしば個人的な創造的活動によって維持されている。個人としての統合性と自己表現の問題が、彼らの自己評価についての関心の大部分を占める傾向にある」(p.232)
・・・子どもの頃は絵を描くこと、思春期には自己表現とかそういうことにこだわったよなー、確かに。

「シゾイドの人は自分の純粋な独創性、感受性、そして独自性の確証をほしがる。この確証は外的にではなく内的に与えられなければならない」(p.232)
・・・思春期の苦悩の大部分はこれだろう。

「また創造的努力に対して高い基準をもっているために、シゾイドの人たちはしばしば苛烈なほど自己批判的である」(p.232)
・・・これは確かにある気もするが、私の場合は両親からの否定的メッセージを内面化しているせいではないか、と思っている。

「彼らはどこまでも真実性を追求するので、実質上孤立と志気阻喪に至ることさえある」(p.232)
・・・なってますなー。ははは、は・・・(鬱)

「現代人の共同体感覚からの疎外は、20世紀の芸術、文学、人類学、哲学そして批評にみられる脱構築的な見方に反映されているが、それはシゾイドおよび統合失調症体験と不気味な類似性をもっている」(p.232)
・・・ここはちょっと分かってんのかなーというところですな(笑)。脱構築的な見方ってあんた、現代思想は全部脱構築かよ、という。特徴としては主観的体験からの離脱というふうにはいえるけど、それをまとめて「脱構築的見方」ってのは乱暴すぎ、と思いますですよ、はい。

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「シゾイド・パーソナリティをもつ人のもっとも印象的な側面の一つは、彼らが慣習的な社会の期待を考慮しないことである」(p.230)
・・・この季節だとお歳暮とかね。何なんだこれ?っていうのはあったなぁ。でも年賀状は律儀に手書きで一枚一枚違うイラスト描いて送ってたけど。あ、イラスト描くから続けてたのか。たいしたことないとはいえ、いちおう創造的行為ということで。描かなくなったら年賀状もやめちゃったし。そうか、年賀状が苦痛で仕方なくなったのは、一枚一枚違うイラスト描いたりしなくなったせいもあったんだな・・・。そうか・・・。

「こういった風変わりさや習慣の無視への意図的に見える好みを理解する一つの方法は、シゾイドの人は他人から規定される---つまり心理的に乗っ取られ抹消される---状況を絶え間なく振り払っているのだと推測してみることだ」(p.231)
・・・逆にいうと、そこになにがしか自分の個性のようなものを発揮できる余地があれば(上述の年賀状の場合のように)ひょっとするとできるのかもしれない。

「シゾイド性格構造を持つ人たちにとっては見捨てられる方が呑み込まれるよりまだましである」(p.231)
・・・その通り。見捨てられるも何も、自分から関係を切る!のだから。

「おそらく予測できるように、人間というものはしばしば自分と正反対のうらやむべき強さを備えた人に惹きつけられるので、シゾイドの人たちは、たとえばヒステリー性パーソナリティの人たちのように、暖かく表現力豊かで社交的な人たちを魅了する(そしてそれに魅了される)傾向にある」(p.231)
・・・中学の時の初恋は確かにそうでしたね。ものすごいフレンドリーな女の子でしたから。はじめはこんな子が妹で、家族にいたとしたら、きっと食事の時間も楽しい、違ったものになるだろうな、と思ったのがきっかけでしたし。

「つまり、非シゾイドのパートナーが絶え間なく近づくことによって対人間の緊張を解消しようとする一方で、シゾイドの人は呑み込まれを恐れてどんどん遠ざかっていくのである」(p.231)
・・・あー、あるね。というかパートナーになる前の段階だが。もうその前の段階で逃げちゃうから。好意を示されるだけで呑み込まれそうな感じがする。

「彼らはほかの人たちに非常に配慮することがあるが、しかしそれでもなお防護のための個人的空間の維持を必要としているのである」(p.231)
・・・そう、配慮しても、ここだけはちょっとどうしようもない、という部分があるわけですよ。

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「シゾイド的特徴をもった男性患者の治療にあたったことのある臨床家によってよく観察される家族背景のタイプは、誘惑的あるいは境界侵犯的な母親と、短期で批判的な父親である」(p.228-229)
・・・うちは違うなー。レアケースってこと?どっちかっていうと、この例とは反対のような気がする。

「親のかかわりの程度だけでなく内容(←「内容」に傍点あり(引用者注))も、シゾイドの超然とした態度と引きこもりのパターンの発達に関係している。(略:統合失調症患者の家族でのダブルバインドの問題似ついての記述)一般にこのようなパターンがシゾイド力動を育むということはありうることである」(p.229)
・・・ダブルバインドって否定されたんじゃなかったんだ。ふ~ん、確かに私もダブバインド的なことは言われてたよな・・・。でも、「ありうることである」ってことだから、あんまり確証はないんだろうね。確率的に言って、多分あるんじゃねーの、くらいのレベルか。

「二重拘束的で情緒的に不正直なメッセージを与えられながら育った子どもは、耐えられないほどの混乱と怒りから自己を守るために、容易に引きこもりに頼るようになる」(p.229)
・・・「耐えられないほどの混乱と怒り」か・・・分かる気はするな。耐えられないという意識はないけれども、シャットアウトしてたという感じはある。ほかの感覚とかと一緒に。これが引きこもりにあたるのか?

「またこういう子どもはひどく希望がないとも感じるものだが、これはシゾイドの患者にしばしば観察される態度である」(p.229)
・・・希望、なかったねー。今もないが・・・

「シゾイド的特徴の発達をめぐって親による侵襲理論とは明らかに対照的に、孤独と相対的な無視とが子ども時代の特徴であったようなひとたちについての報告もある」(p.229)
・・・うちはこっちかな。微妙だが。

「もし人が孤独で、剥奪にさらされており、しかも手に入る唯一の養育者は非共感的で侵入的なものであれば、切望的-回避的、親密さ-距離の葛藤は避けられないであろう」(p.229)
・・・私の場合は一人っ子だったこともあって、確かに孤独ではあったと思う。一方で、両親はともに私に対して否定的な態度で接した。ここでいう否定的態度とは、私のあるがままの姿を認めず、「普通の子はこういうものだ」というのを押し付けてくる、というものだった。これは私にとって「侵入的な」感覚があったように思う。これが「過度に熱心な類の養育」(p.228)に相当する可能性もある。

「マシュード・カーンによるシゾイド状態の研究では、現実的な母親の守りの失敗からくる「蓄積的外傷」と母親の激しい過剰同一化に固有の「強制的万能」との組み合わせが強調されている」(p.229)
・・・私の場合は前者は確実にあったように思うが、後者はどうだろうか・・・。むしろ、「お前は普通の子じゃない」という「強制的無能感」とも言うべきものに支配されていたように思う。

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「シゾイドの人のもっとも適応的で刺激的な能力は創造性である」(p.227)
・・・私の場合、創造性って・・・ないよな・・・う・・・

「より健康なシゾイドの人たちが自分の長所を芸術、科学的発見、理論的革新、あるいは霊的な求道といった仕事に振り向ける一方で、このカテゴリー内のより重い人たちは一人ぼっちの地獄に生きている」(p.227)
・・・うおっ!俺は後者か!orz

「自閉的な引きこもりを創造的な活動へと昇華させることがシゾイド患者の治療の第一の目標である」(p.227)
・・・できるんだろーか・・・

「シゾイドの人たちのおもな葛藤は親密さと距離、愛と恐怖に関するものである」(p.227)
・・・キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

「愛着にまつわる深いアンビバレンスが彼らの主観的生活を満たしている。彼らは親密さを渇望しているが、しかし常に他人に呑み込まれることの脅威も感じている。彼らは自分の安全と独立性を確保するために距離を取ろうとしながらも、疎外と孤独を嘆くことがある」(p.227)
・・・うー、まさしくこれです。これなんですよ。分かってはもらえないんですがね・・・

「ロビンスはこの力動を「一人ぼっちだから近くに来て、でも侵入されるのは怖いから離れていて」(p.398)というメッセージとして要約している」(p.228)
・・・山田君、ロビンズさんに座布団4枚やって!

「他者と親密になればなるほど、セックスが巻き込まれを意味する心配も大きくなる」(p.228)
・・・セックスどころか一緒にメシを食う時点で巻き込まれてますが、何か?思いっきりそこから逃避してますが、何か?でも、いちおう普通にエッチできるひともいるってことだよなー。頑張ろ(笑)

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「情動的には、シゾイド力動を持った高機能の人のもっとも驚くべき性質の一つは、彼らが一般的な防衛を欠いていることである」(p.225)[「欠いている」の部分は傍点あり]
・・・やっぱり。。。

「つらい人生の現実がこんなにも明らかであるのに、他の人たちはみなどうしてそんなにたやすく自分に嘘をつけるのだろうと、シゾイドの人はよくいぶかしむ」(p.226)
・・・はい、いぶかしんでます。笑えねーよ、おい。

「シゾイドの人たちは疎外に苦しめられるが、その一部は彼らが自分の情緒的、直観的、そして感覚的能力を認められてこなかった経験から来ている---なぜならほかの人たちには、シゾイドの人たちに見えていることがまったく見えていないからである」(p.226)
・・・そーか、見えてないんだったら仕方ねーよな。だからってこっちを否定すんなよ、ってな感じだが。

「圧倒されたと感じる時、彼らは隠れる---文字通り隠遁者の孤独に隠れるか、あるいは想像の中に退避して隠れるのである」(p.226)
・・・そうですねー、確かに・・・

「シゾイドの人は何にもまして、人間のありさまに対するアウトサイダーであり傍観者であり観察者である」(p.226)
・・・ア、アウトサイダーっすか・・・。けっこうきついな・・・

(シゾイド=分裂の意味について、二つの領域で指摘できる)「すなわち自己と外側の世界との間、そして経験されている自己と欲望との間である」(p.226)
・・・ここをもうちょっと詳しく論じていただきたいところですね。

「シゾイド・パーソナリティ構造に特徴的な防衛は、想像という内的世界への引きこもりである」(p.226)
・・・その通り。

「より「成熟した」防衛のうちでは、ほとんどのシゾイドの人たちは知性化を明らかに好んでいる。彼らは感情的情報や感覚的情報を覆い隠すような機制、例えば否認や抑圧などの機制にはめったに頼らない」(p.227)
・・・感情や感覚は「入ってくる」からどうしようもないんですよ。ここには脳の気質的な問題が絡んでいるのかな、と思ったりします。否認や抑圧を行う部位に障害があるとか・・・。

「ストレス下ではシゾイドの人は外的刺激から引きこもるのと同様に自分自身の情動からも引きこもり、反応が乏しく、生気がなく、また場にそぐわないように見えることがある」(p.227)
・・・確かにそうでしょうね。ドアを閉じちゃう感じでしょうか。

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「哲学的探求、精神的収容、理論科学、それに創造的芸術というような職業が天職としてこの種の性格を持つ人たちを引きつける」(p.223)
・・・私の場合は、哲学と音楽でしたね。いまは、会社員ですから、向いてねーっつーの!(笑)いや、笑ってる場合じゃないんですけどね・・・

「シゾイドになるのは気質的に過剰反応的で、容易に刺激を受けやすい人である」(p.224)
・・・やっぱり・・・

「大部分の幼児が温かい養育者の身体に寄り添い、しがみつき、そしてぴったりとひっつくのに対し、まるでその大人が自分の快適さと安全を侵害したとでもいうように、身体をこわばらせたり身を引いたりする新生児もいるという」(p.224)
・・・私もこうだったのではないか、とにらんでいますが確かなことは分かりません。ただ、大人になってからのことですが、抱きつかれるとかなりの違和感があり、そのとき「あぁ、こういうのって理解できないよなぁ」と感じたことを思い出します・・・。そういえば、子供の頃は、縫いぐるみに抱きついていました。いまでも毛布の手触りに安心感を覚えます。人肌には安心感を覚えません(もう機会自体ないですけどね、ハハハ)。これも何か関連があるのかも。

(上記の赤ん坊について)「特にもし彼らとおもな養育者との「相性が悪い」場合そうなのではないかと推測される」(p.224)
・・・ええ、相性悪かったっすよ。いまや絶縁状態だし。愛情を感じたことはほとんどない。特に母親のほう。

「とりわけ呑み込まれたり吸収されたりゆがめられたり乗っ取られたり食い尽くされたりする危険を避けることで頭がいっぱいである」(p.224)
・・・そうそう、そういう感じ。「入ってこられる感じ」というのが正確かも。

「引きこもって、ファンタジーの中に満足を求め、肉体的な世界を拒絶するという傾向」(p.225)
・・・あるある。ていうか、現実の世界では満足が与えられないからですよ。仕方なく、であって、拒絶したくて拒絶しているのではないっていう。

「たいていの分析的思想家は、シゾイドのクライエントたちは自分の空腹も攻撃性も防衛の分厚い覆いの下に葬り去っているのだと推論してきた」(p.225)
・・・ま、確かにそう見える部分はあるかなぁ、と。

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きのう、たまたま入った本屋で見つけ、シゾイド型人格障害についての記述があったので買って読んでみました。
第9章の『シゾイド・パーソナリティ』には、かなりいろいろ書かれていて、これまでシゾイドタイプの人格障害はあまり研究されていないのかな、という印象でしたが、何だ、結構研究されてるじゃん、とかなり変わりました(笑)。
いきなり第9章だけ読んだので、全体としての評論はできませんが、パラパラッと見た感じ、包括的に人格障害を扱った良い教科書ではないかという印象を持ったので紹介させていただきます。
『パーソナリティ障害の診断と治療』
アマゾンでもひとりの方ですが五つ星ですので、ご参考まで。

本の紹介ももちろんですが、シゾイド型の理解を進める上で魅力的な記述がたくさんあったので、引用してみます(次のエントリから)。ウザイでしょうが私の備忘録的コメントも付けてます。読み飛ばしてください。
(余談ですが、シゾイド型について的確に記述できる人って、その人がシゾイドの素質があるんじゃないかと思っていましたが、セラピストや研究者にシゾイド型を持った人がいる旨の記載があり、やっぱりな、と思った次第です)

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このトラックバック先、いろいろ勉強されていて私なんかより全然頭良いわけですが・・・

思うに、「能力」にもいろいろあるというところはしっかり切り分けて書くべきで、やはりそこは「対人スキル」とか「コミュニケーション能力」とかの問題になるのではないでしょうか。
その意味でいえば、ここで言われる「無能力」とは、実際にはかなり限定されたものになるわけです(もちろん、その欠けている「能力」こそが社会生活上でとても重要な能力であることは認めます)。

「無能力」であるが故に引きこもるというのは、確かに一般論としてはあるかもしれません。
しかし、私見では、「自らの無能力を認識できる」点においては、それすら認識できない人よりは「能力」はあるわけです。
ところが、悲しいかな、そのメタ認知能力を生かす場所に恵まれないということなのではないでしょうか・・・
世の中には、傍迷惑で無自覚なバカヤローどもがうじゃうじゃいますよ。
その意味では「バカになれない」ことがそもそもの困難なのかもしれません。
(瀬古浩爾氏ではありませんが私は「バカ」が大嫌いです。自分が馬鹿であることを認識できないという意味でのバカですが。ま、たまーに、無害な人もいるので先入観で見るのは禁物なのですが)

はっきり言って、この上山さん、もういっぱしのインテリですよ(いやみではなく)。ご本人は否定されるでしょうが。
このまま、どこかの大学の助教授くらいにはなられるのではないでしょうか。
少なくとも上山さん以下の大学講師なんて腐るほどいて、いま淘汰の対象になっているわけです(笑)

現在の問題ということで言えば、いわゆる引きこもり問題は<社会の中に居場所はない>のに<家庭の中にはある>ということにあるのではないか、と私は考えています。暴論だとは思いますが。
幸か不幸か、私は子供の頃から両親から常にダメ出しされながら生きてきました。それも、自分ではどうすることもできない事柄についてです(生まれ方、身体的特徴、普通の子供と少し違っていること、など。ご興味あれば「パーソナリティ障害」(岡田尊司)あたりをご覧ください。私はいわゆるシゾイド型人格障害ですが、養育環境も大きく作用していると考えています)。
そのため、私は社会に出ざるを得ませんでした。大学に行き家を離れた際どれだけ開放された感じがしたか・・・。そして、その結果として、自分が生きるための収入を自分で稼がざるを得ませんでした。
ですから、私は引きこもりでもニートでもありませんが、その実、まともな社会人には未だになれてはいません。

こんなことを言うと、まるで私が少しも親に頼っていないように聞こえるかもしれないので補足しますが、わたしは大学では何の特にもならない、むしろ就職には不適切な学部に進み、さらには不況で就職が困難だったのでモラトリアムで院に行きました。ですから、親のすねはかなりかじっています。

しかし、これも結果としてですが、さらに就職が困難になって、ろくでもない会社に就職して、来月から新しい会社に行きます。因果応報というやつでしょうか。
この先うまくやって行く自信は正直ありませんが、ある意味、腹はくくっているので、ダメならダメで突き通してやるよ、という気持ちはあります。

死のうという気持ちはありません。わたし個人の場合ですが、死んだって何も変わらないからです。確かにいま現在の苦しみは消えるかもしれない。でも、わたしが苦しんでいるのは「何故、私は存在してしまったか」ということであって、それは死んだところで消える保証がないからです。
これはもう大学に入ったくらいの頃から変わりません。
「今さら死んでも、もう遅い」

このように、私にとっては「生きる」ということは、良くも悪くも「死んだってどうしようもない」=「どうせなら、いまだかつて手に入れたことのない”本当の生”を手に入れなくちゃ」という色彩を帯びます。
それに対して、引きこもりの方の場合、「引きこもる」ということ以外に「本当の生」が存在しないように思える、つまり「引きこもること」がすなわち生きることになってしまう、という部分が問題なのではないでしょうか?

あぁ、だめだ。
考えがまとまらん。
すいません。

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