このトラックバック先、いろいろ勉強されていて私なんかより全然頭良いわけですが・・・
思うに、「能力」にもいろいろあるというところはしっかり切り分けて書くべきで、やはりそこは「対人スキル」とか「コミュニケーション能力」とかの問題になるのではないでしょうか。
その意味でいえば、ここで言われる「無能力」とは、実際にはかなり限定されたものになるわけです(もちろん、その欠けている「能力」こそが社会生活上でとても重要な能力であることは認めます)。
「無能力」であるが故に引きこもるというのは、確かに一般論としてはあるかもしれません。
しかし、私見では、「自らの無能力を認識できる」点においては、それすら認識できない人よりは「能力」はあるわけです。
ところが、悲しいかな、そのメタ認知能力を生かす場所に恵まれないということなのではないでしょうか・・・
世の中には、傍迷惑で無自覚なバカヤローどもがうじゃうじゃいますよ。
その意味では「バカになれない」ことがそもそもの困難なのかもしれません。
(瀬古浩爾氏ではありませんが私は「バカ」が大嫌いです。自分が馬鹿であることを認識できないという意味でのバカですが。ま、たまーに、無害な人もいるので先入観で見るのは禁物なのですが)
はっきり言って、この上山さん、もういっぱしのインテリですよ(いやみではなく)。ご本人は否定されるでしょうが。
このまま、どこかの大学の助教授くらいにはなられるのではないでしょうか。
少なくとも上山さん以下の大学講師なんて腐るほどいて、いま淘汰の対象になっているわけです(笑)
現在の問題ということで言えば、いわゆる引きこもり問題は<社会の中に居場所はない>のに<家庭の中にはある>ということにあるのではないか、と私は考えています。暴論だとは思いますが。
幸か不幸か、私は子供の頃から両親から常にダメ出しされながら生きてきました。それも、自分ではどうすることもできない事柄についてです(生まれ方、身体的特徴、普通の子供と少し違っていること、など。ご興味あれば「パーソナリティ障害」(岡田尊司)あたりをご覧ください。私はいわゆるシゾイド型人格障害ですが、養育環境も大きく作用していると考えています)。
そのため、私は社会に出ざるを得ませんでした。大学に行き家を離れた際どれだけ開放された感じがしたか・・・。そして、その結果として、自分が生きるための収入を自分で稼がざるを得ませんでした。
ですから、私は引きこもりでもニートでもありませんが、その実、まともな社会人には未だになれてはいません。
こんなことを言うと、まるで私が少しも親に頼っていないように聞こえるかもしれないので補足しますが、わたしは大学では何の特にもならない、むしろ就職には不適切な学部に進み、さらには不況で就職が困難だったのでモラトリアムで院に行きました。ですから、親のすねはかなりかじっています。
しかし、これも結果としてですが、さらに就職が困難になって、ろくでもない会社に就職して、来月から新しい会社に行きます。因果応報というやつでしょうか。
この先うまくやって行く自信は正直ありませんが、ある意味、腹はくくっているので、ダメならダメで突き通してやるよ、という気持ちはあります。
死のうという気持ちはありません。わたし個人の場合ですが、死んだって何も変わらないからです。確かにいま現在の苦しみは消えるかもしれない。でも、わたしが苦しんでいるのは「何故、私は存在してしまったか」ということであって、それは死んだところで消える保証がないからです。
これはもう大学に入ったくらいの頃から変わりません。
「今さら死んでも、もう遅い」
このように、私にとっては「生きる」ということは、良くも悪くも「死んだってどうしようもない」=「どうせなら、いまだかつて手に入れたことのない”本当の生”を手に入れなくちゃ」という色彩を帯びます。
それに対して、引きこもりの方の場合、「引きこもる」ということ以外に「本当の生」が存在しないように思える、つまり「引きこもること」がすなわち生きることになってしまう、という部分が問題なのではないでしょうか?
あぁ、だめだ。
考えがまとまらん。
すいません。
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