人生、消去法
世捨て人のつぶやき




前回のエントリでポール・オースターの『孤独の発明』を読み始めて、なかなかいいというのを書いた。
今日は前半の『見えない人間の肖像』を読了した。
(この本、実際には中編2編からなるのだが、二つ目は『記憶の書』という題で、結局書名の『孤独の発明』というタイトルの話はない。ま、いいんだが)

『自分の体のなかにひどく居心地悪く収まっている父。じっとしていられない。雑談というものができない。『くつろぐ』ということを知らない人。(P.93)


なんかまた、自分のことを言われたような気がする。

話は狂気の家系を描き出す(刺激的すぎるかな、この表現は)というか、著者が自らの家系を洗い出していくなかでそういう話になる。
著者はいわゆる天才と狂気を生み出す家系で、幸運にも天才の側に生まれついたのだろう。いや、あまり幸運でもないのかもしれないが。
余談だが、R.D.レインへの言及もある(『狂気と家族』早く読まなくっちゃ)。

しかし、他にもいろいろ私によく当てはまることが書かれているのだが、私の家系には狂気のひとはいないんだがなぁ・・・

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




このところ、まったく小説を読むことがなかった。
多分、1年以上だと思う。
下手すると2年ぐらい読んでいなかったかもしれない。

ま、村上春樹の『ねじ巻き取りクロニクル』を再読しようとして、結局できなかったのも、そういやもっと前のことだったような気もする。

今日、久しぶりに文庫で小説を買った。Amazonじゃなく書店で。
3冊買ったが、むかし『車輪の下』を読んで衝撃を受けた(といっても中学のときだが)ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』(むかし買ったのは実家にあるので、再読のため再購入)と『知と愛』、そしてポール・オースターの『孤独の発明』がその3冊だ。

とりあえずというか、書店でパラパラッと見たときに気になったポール・オースターの『孤独の発明』を手に取って最初の数ページを読んだ。
いいね。これは。
というか、ま、以下略

以下、引用。

「物にも人にも理念にも、父はおよそ情熱というものをもたない人間だった。いかなる情況にあっても自分をさらすことができなかった。あるいはさらしたがらなかった。父は人生から一定の距離を保って生きていた。物事の核心に引き込まれることを避けて生きていた。」(P.12)

「依怙地な、かたくなな、あたかも世界に対し免疫でもあるかのような生き方。父は一定の空間を占めている人間のようには見えなかった。むしろ人間のかたちをした一塊の貫通不可能な空間という感じだった。」(P.12-13)


何か、自分がこの「父親」のような気がしてならない。
まるで黙示録のように。

しかし、私は結婚もしなければ子どもを作る気もない。
その意味では、この小説の話者のような子どもを作ることはないのだろうし、少しは(気の迷いのようなものだが)罪は少ないのかもしれない。

しれないのだが、まぁ、以下略・・・

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする




大学院に入った年に作った歌。
鼻歌的な仮の詞はつけていた。当時7年ぶりに浮かんできた恋らしき気持ちを、ちょっとした詩人気取りで自分で自分に照れながら、なんとなく付けた詞だ。

しかし、自分がつけたその歌詞は、最初は漠然と、そしてやがてそれははっきりとした違和感をもたらすようになった。
そうしてしばらくたってから、ふと思い立って、一からメロディーに合わせて、自分にとってムリのない、自然に感じられる言葉を選び、歌詞を書き直してみることにした。

そうやってできたものは、自分でもびっくりするくらい自分らしいものだった。やっぱり自分はこうなのか、と。
何か、おなかの辺りから空気が漏れて、体全体がしぼんでいくような感じがして、思わず薄ら笑いをしてしまいそうになった。

それは、どうしようもない自己嫌悪と罪悪感にも似た後ろめたさと、そして必死に隠そうとはしているもののどうしても憐れみを求めてしまっているという無力感に満ちた詞だ。

新たな季節の到来を告げる恋の歌になるはずが、結局は昔ながらの絶望を復誦しているに過ぎなかった。
いまだにあらかじめ失われた「何か」のことを巡って、ぐるぐる回っているだけの僕の人生。

そんな歌にも積極的な面はあった。
なにせ、言葉にしたり歌にしたりできる「はずのなかった」ものが、いまこうやって歌うことができるようになったのだから。

こんな歌だ。
<無題>
なにも知らずにいれたら
ずっと笑っていられたのかな
子ども時代に描いたはずの夢はもう
思い出せないけど


あぁ、僕が僕であるということが
すべての元凶だとしたら
あぁ、僕がいくら謝ってみても
ここにはいられはしないはずさ

全部忘れられたら
ためらわずに笑えるのかな
遠い空の彼方へ消え行く
僕を呼ぶ白い手のひら

※(繰り返し)

だれもいなくなったら
はじめて僕は話せるのかな
ずっと平気な顔で隠し続けた
僕の弱音を

※(繰り返し)
※(繰り返し)

この歌は自分で作った歌であるにもかかわらず、歌うとなぜかいつも間違う箇所がある。2番の「遠い空の彼方へ消え行く」のところでなぜかいつも3番のほうの歌詞を歌おうとしてしまうのだ。
頭ではわかっているのにその部分に来ると必ず3番の「ずっと・・・」という部分を歌ってしまう。かなり意識的に間違わないようにすればもちろん正しく歌えるのだが、その際にもひじょうに明確な「抵抗感」があって、一体これはなんなんだろう?とよく思ったものだった。

その後、10年近くが経つにつれ、歌を口ずさむこと自体が減ったこともあって、およそこの強迫的な間違いにも衰えが見えるようになった(気がする)。しかし、それでもまだこの間違いが一体何を意味するのかについては、はっきりとしたことはわからない。
フロイトの精神分析を使えば何かわかるかもしれないと思い、何冊か読んでみたりもしたが、所詮自分ひとりで分析するなんてことはできないようだ(そもそも精神分析自体が、分析者と被分析者がいてはじめて成立するものだということをフロイト自身が主張している)。
また、だれか、このことを打ち明け、相談できるような知人友人の類も私はもたない。いや、より正確には私は他人というものを本質的な意味において必要としていないのだろう。そして、そのことはかなしいことなのだろうが、どうやら私にはそのかなしみを感じる感性が備わっていないらしい。
そして、私はその「感性」が備わっていないらしいことに、深く傷つく。それがどんなものかはわからないが、私は「それ」を「与えられていない」ようだということ、そのことが私の中で鈍い痛みを惹き起こす。

どうせなら、なにもわからなければいいのに。

だから私はずっと一人でいることを望み、そして選ぶ。他人とともに生きるということは、どうやら私にはその感性がない、ということに私を直面させずにはおかないからだ。それが私には耐えられない。

ずっとひとりで過ごし、たまにだけこうやって、ひとりで文章を書く。そんな生活は見ようによっては孤独で寂しいものかもしれない(どう見てもそう見えるかもしれないが)。
しかし、それでもなお、私はこの生活をもって私の人生として生きる。孤独を望む。人がいかにそれを非難しようとも、わたしは孤独であることを希求する。それはとりもなおさず心の、いや魂の平安のためである。
私は生きるために孤独を必要とする。それも大多数の人々が生きるために他人を必要とすることと同じ意味において。

ただし、これには留保がつく。
この私の選択が、私に近づこうとする人々を拒絶し、遠ざけるということにおいて、その人々をとても深くそして取り返しのつかない仕方で傷つけてしまう恐れがあるからだ。
いや、「恐れがある」などという言い方はすべきではないのだろう。確実に、そしてもう既に、傷つけてしまっているのだから。
そして、私によって傷つけられた人々は、おそらくは私がどうやっても知ることのできない仕方で傷ついているのであり、その意味で私は二重に疎外され、二重に罪を背負わなくてはならない。

救われない。
この上私はどうやって絶望を上塗りすればいいというのだろうか。

私はこの身を差し出すしかないような気がしている。
何に?
まだ、よくわからない。よくはわからないが、もう他に私にとれる道は残されていないような、そんな気がするのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする


   記事一覧画像一覧読者一覧フォトチャンネル一覧